【序章】

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【序章】

 藍色。  目の前に、藍色があった。    のっぺりとした深い藍色が―――吸い込まれそうなほどの黒い色が目の前にあって、背中は危ういほどに頼りなかった。  背後からの強くぶつかる激しい風に煽られ頬を叩くのは、胸元まで伸ばしている髪。  ―――違う。  (あや)は気付く。  唐突に身震いが起きた。  後ろから風が吹きつけているのではない。  いま自分は背中を下にして仰向けになっていて、 (わたし)  仰向けになっていて、そうして。  背中の頼りのなさを凌ぐ、耳元で激しく逆巻く音と浮遊感。そして猛烈な勢いでぶつかってくるなにか―――空気の塊。 (わたし)  落ちている。  どこを? (―――まって)  何故、視界は闇ばかりなのか。  朝だったのに。  強くまぶたを閉じ、意思の力でもって強く開く。何度も何度も繰り返す。  目を閉じての闇ではない。  大きく目を開いて眼球を左右に動かしても、深い藍色一色で、他の色が見当たらない。  いまいたはずの朝の光景がまばたき一瞬の後に闇に転じていた。 (なんで)  眼裏(まなうら)に残っている街の姿がどこにもない。  他の色を探そうと首を動かすと、下からぶつかってきた空気の塊に身体がバランスを崩し、揉まれるように翻弄された。 「―――!」  悲鳴すら持っていかれる。腕も、脚も全身が言うことを聞いてくれない。 (―――は)  赤いものが、目まぐるしく回転する視界を横切った―――気がする。  深い藍以外で始めて見た色だ。闇にあって輝く赤い色を懸命に目で追いかけ、そこに飛び込んできた光景に射抜かれた。  禍々しくも巨大な赤い満月が、そこにあった。見覚えのある満月よりも、何倍も何倍も大きい。  これは―――ここは夜空?  赤い月のすぐそばに、一本の白い帯が流れていた。  天の川ではないだろうそれは、果てしなく高いところに架けられた白い橋のようにも見え、不気味に闇に映えていた。  赤い月と白い帯。  こんな光景、知らない。見たことがない。  視界をまたも掠める赤い色。  月はあんなにも大きく真っ赤なはずがない。けれど別物とするには、浮かぶ模様は綾の知るものと酷似していた。  それ以前に、どうして〝夜〟なのか。  綾は記憶をひっくり返し、懸命に思い出しながら時間を辿(たど)る。  いつもより早い時間だけれど、普段どおり学校へ向かっていた。  電車で通う高校は、駅前の通りを抜け、五差路を右からふたつ目に入ったところにある。入学当初は道に迷うこともあったが、2年も通い続ければ足は勝手に道を選ぶ。授業が始まる1時間以上前にこの道を通るのも、もう毎度のこと。自分の他に生徒の姿がなくても、最初の頃のような不安感はなくなっていた。  いつものように駅から歩くと必ず引っかかる信号が青に変わって一歩を踏みだした―――その地面が、消失していた。 (ああ)  足が宙をかいて、そのままこの夜闇を墜落したのだ。  綾の中にある記憶と記憶が繋がりはしたのだが。  わけが判らない。  一歩を踏み出した瞬間まではいつもと同じだったのに。一瞬で状況が変わってしまうなど。  こんなことがありえるのか? (なにが起こったの)  地面が割れて落ちたにしても、地球ごと割れない限りそこが空というのはありえない。いきなり夜になっていて、出てもいない満月が――しかも血の滴るような赤だ――浮かんでいるのもおかしすぎる。  疑問に答えてくれる者などいなかった。まわりを見ても、月光で見える範囲では綾しかいない。  そしてようやく、顔の前にやった自分の手が白く見えることに気付いた。  着ているのは、制服。冬服に替わったばかりのそれが、月明かりを受けて下からの風に容赦なくはためいている。鞄は見当たらない。靴も脱げてしまった。  制服を着ているということは、やはりあの朝からいきなりここに落とされた、ということなのか。 (なんで。どうして)  理由なんて、思いつけるわけがない。  激しい勢いでぶつかる空気の塊に、理由や原因はどうでもよく、とにかく助かることが先決だった。  もてあそばれながらも懸命に手掛かりを探してあがくが、どこにもなにも、摑めるどころか手に触れるものすらない。  果てしない闇の底へと、ただひたすらに落ちてゆくだけ。  そしてその底が、どこにあるのかも判らない。すぐそこかもしれないと思うだけで、絶望的な恐怖に思考が泡立った。  まだ夢の中、電車で居眠りしているだけかもしれない。 (早く覚めて! 起きて!)  風を切る轟音と、身体にぶつかる空気の痛み。  夢がこんなにもリアルなわけがない。いいかげん場面転換するか、座席から落ちて目が覚めてもいい頃だ。  落下は、いっこうに止まらない。いまだ容赦なく落ち続けている。  冗談でもなんでもなく、命がかかっている。夢だろうが現実だろうが、いまこの瞬間、死の危機に瀕していることに変わりはない。  墜落死という単語が脳裏をよぎって、芯からぞっと身震いが起きた。 「たす助けて、って、誰かあああッ!」  口から音は出たものの、悲鳴は掠れるだけで声になってくれない。逆に、口にしたことで、いっそう恐ろしさが増してしまった。 「おおお落ちてるんですけどぉわたしッ! 助けてって! ねえッ!」  力を込めて鳥のように腕を動かしてみたが、まったく効果はない。頭では判っていたが、せずにはいられない。 「お願い、やだ、ねえ、神さま仏さま誰でもいいからああッ! ぽん太あああッ!!」  藁にもすがる思いで5年前に死んだ犬の名を叫ぶ。当然ながらぽん太はやってはきてくれない。  冷たい恐怖が喉を凍らせ、背中を粟立たせた。  落下が止まらない。地面に激突してしまう。  嘘だ。  死んでしまう。このままでは、死んでしまう―――!  止めなければ、絶対に。絶対に!  でも、どうやって!?  そんな方法、知らない。学校でも習わなかったし、ネットでも見たことがない。もがいて悲鳴をあげる以外、できることはなにもなかった。なにをどうすればいいのかなんて判るわけない。 「いやだああッ! 死にたくないッ、助けて! お母ぁさあああんッ! やだやだ早く起こしてえええッ!!」  夢であって! 夢であって! 夢であって!!  涙はこぼれたそばから風に持っていかれる。泣いて悲鳴を上げてを繰り返していると、 「!?」  闇の中、別のなにかを見た気がした。 (なに!?)  なにか、小さなものが動いている。  落ちてゆく先―――ということは、下。  綾は風に抗いながら身体を反転させた。  遥か下方で、うごめくモノが―――ある。  見間違いではない。  確かに、なにかがある。  地面が迫っているのかと、凄まじい風圧の中、希望と絶望に目を凝らす。  月の光に照らされたソレは、すぐに形を露わにさせた。 (う、そ……)  捉えた形に、血の気が引いた。  地面ではないが、歓迎できないモノ。  恐竜、だった。 (なんで)  身体の半分以上が首になっている、翼のある恐竜だった。恐竜に翼があるものなのかは綾には判らないが、恐竜にしか見えないものが、待ちうけているのか2頭、中空を悠然と浮遊していた。 (食べられちゃうってこと? やだ、やだやだ、やだよそんなの、ちょっとッ!)  墜落死も嫌だが、恐竜に食べられるのはもっとごめんだ。  空気をかいて逃げようとするも、もたもたしているうちに恐竜との距離は見る間になくなってゆく。 「ぃやだああああ! こないでええええッ……えぇ?」  近付くにつれ見えてきたモノ。  恐竜の丸い背に、騎乗するひと影が見えた。  ―――ひと。  人間が、いる。  食べられるのではなく、恐竜は助けてくれるためにいるのかもしれない。 「お願い、助けてッ、ここッ! 助けてええッ!」  懸命に手を振って合図を送る綾。  恐竜は―――それぞれ恐竜を操る人物は、落ちてくる綾を待ち構えているのか、こちらをじっと見上げている。  彼らとの距離は一瞬を経るごとに縮まり、面頬をしている様子も見えた。  助かった。  ふたりもいるから大丈夫、絶対に助かる。  しかし彼らの間をすり抜ける瞬間、乗り手たちはなにをするでもなく、腕を懸命に伸ばす彼女が落ちゆくのを見ているだけだった。  伸ばした手を、どちらも摑もうとしない。 「ええええッ、ちょ、うそ、助けてってばッ!」  綾の怒鳴り声が届いたのかどうか。  2頭の恐竜は、ひらりと身を翻してこちらに向かってきた。  さきほどとはうって変わって、色めき立って追いかけてくる恐竜たち。競い合っているのか互いに牽制をし、ぶつかり合いながら追いかけてくる。  一瞬のことではっきりしなかったが、あの恐竜は生き物ではなかった。恐竜型の、立って騎乗する飛行機のような乗り物に見えた。  見たこともない乗り物だったが、いまの綾にはあれが唯一の助かる手段である。  恐竜の―――機体のひとつが猛然と近付いてきた。騎乗者の腕が伸び、必死に伸ばした綾の腕が強く摑まれた。ぐいと引き寄せられ、胸に抱きとめられた。  途端にかかる強烈な重力。綾は全体重をその人物に預けて凄まじい重力に()えた。 (助かった……)  足元のしっかりとした感触。自分を強く抱き締めてくれる力強い腕。  なにがなんだか判らないが、とにかく助かった。  安堵の吐息がこぼれ、 「なんだったの、これって」  思わず恨み事が漏れたときだった。  綾を抱き締める人物が、着けていた面頬を剥がし取った。現れたのは、月明かりを受ける男の顔。彫が深い。日本人の顔ではなかった。綾よりも、ずっと年上の男性だ。  状況を受け入れ切れていない綾の首元に、彼は顔を近付けてきた。  口元にきらめく、鋭く長い歯。  ―――牙? (え、え咬まれる!?)  綾は思わず腕を突っ張った。瞬間、凄まじい轟音と衝撃に襲われた。  彼女を抱き締めていた男性の姿が消え去り、まわる視界は再び夜空へと暗転する。  弧を描いて空に放りだされた綾。  綾を捕らえていた男の乗った機械恐竜が、一気に天へと飛び退ってゆく。  きりもみしながら再び落下する綾の目に映ったのは、月に照らされた広大な大森林の木々の波。  すぐそこにまで、地面は近付いていた。 「やだ」  機械恐竜の姿を探す。なんとしてでもあれに拾い上げてもらって、咬みつかれようがなんだろうが地上に降ろしてもらわねば。  機械恐竜を探して後ろを振り返った目の前に、まさにそれは降りてきた。 「!」  視界が機械恐竜でいっぱいになる中、奪われるように乱暴な力で綾は腕をとられ、機体へと引き上げられた。腕がちぎれるかと思ったが、くれてやる。これを拒絶すると今度こそ地面に激突してしまう。  綾の身体をしっかりと抱きとめた機体の人物が、面頬を取る。  さきほどとは違う青年だった。  長い金の髪がこぼれ、風を受けて揺れている。月の光を受けた彼は、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。黄金比は彼のためにあるのだと言っていいほどの美しさだった。  礼も忘れて見惚れる綾の首に、青年は前触れもなくいきなり咬みついた。 「ッ!?」  重たい痛みが、全身を突き抜ける。  それだけではない。  血が吸われているのか、首筋に押し当てられた青年の唇が艶めかしく脈動している。 (やだ、なにこれ、気持ち悪……ッ)  絞られるような痛みが首筋から全身に走った。抵抗を試みても、彼はびくともしない。貧血なのかめまいで視界が暗くなる。この吸血鬼、血をすべて吸いつくすつもりなのかもしれない。  墜落死ではなく、失血死なのか。 (わたし……やっぱり死んじゃうんだ……)  意識が薄くなってゆく。 (なんで。なにしたっていうの……)  吸い取られる血とともに、すべての感覚が消える。  綾は青年の腕の中で、かくりと気を失った。
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