【一章】 一

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【一章】 一

 頬の痛みで、目が覚めた。  ぼんやりした視界の正面に、知らない女性がいた。西洋の顔立ちをしている。  綾が目を開けたと同時、女性の手がひらめき、ぺちんという音とともに再び頬が痛んだ。 「あら。お目覚めになられた」  目の前の女性に頬を打たれていた。さきほどの痛みも、彼女によるものだろう。平然とした表情でとぼけたことを言う女性に、綾はむっとなった。 「なんなんですか」 「お許しを。これ以上のお休みはできかねましたので、失礼ながら強硬手段を取らせていただきました」  小さく頭を下げた女性は口早にそう言う。 (強硬手段をって、―――ん?)  耳から入ってきた言葉が、引っかかった。  音が、違う、気がする。  彼女の言葉は、日本語ではなかったような。  気のせい、だろうか?  怪訝に戸惑っていると、 「さ、ダーシュさま。お召し替えを。お急ぎください」  女性は勝手にそうせかす。  口の中で揺らめく舌の間を空気が通る音の並びにも聞こえ、同時に語尾を強く切り立てるような、けれどどれも日本語では聞かない音ばかりだった。  日本語ではない。けれど、言っている意味が判る。頭の中で、音の並びが意味となって文章を組み上げてゆく。 (……知らない言葉。なんで判るの? わたし)  綾が話すのはもちろん日本語である。女性の言葉は何語か判らないが、きっと英語ではない外国語の響きだった。それぞれが違う言葉なのに、どうしてだか話す内容がお互いに通じている。  そうして思いだす。  赤い満月の闇の中を墜落し、機械恐竜に乗った美しい青年に血を吸われたことを。  よみがえった恐怖に、ぞっとなった。  寝台で寝ていたということは、助かった―――のだろう。  けれど目の前の知らない女性、知らない部屋、通じている知らない言葉。これはなにを意味しているのだろう。まだ、夢の世界にいるのだろうか。  わけが判らない。ただそれだけが判る。 「ダーシュさま。早くこちらにおいでくださいまし」  女性は、綾のことをずっと『ダーシュ』と呼んでいる。 「わたし、そんな名前じゃないんですけど」 「さようでございますか。さ、とにかく、早くお召し替えを」  どうでもいいことのように女性は綾の手を引っ張り、寝台から無理やり降ろした。  命令されるがまま、引きずるほど裾の長いドレスに着替えさせられる。襟が大きく開いており、なめらかな生地は肌にくすぐったい。ひとの手によると思われる刺繍は細かく刺されていて、手間と時間をかけて作られたものだと綾でも判った。  着替えの最中、自分は高校に行く途中で、授業前の追試を受けなければならないのだと何度も説明をしたのだが、女性はいっこうに聞く耳を持たない。  いそいそと着替えさせられた綾は、部屋の外でいかつい男ふたりに引き渡された。きらびやかな装飾が彫り込まれた金属製の鎧をつけていたから、映画やドラマで見た衛兵のようなひとたちだろうか。 「あの、だから高校に行く途中でって、ッ!」  ぐいと廊下へと押しだされた隙に逃げようとしたが、両側から男たちに強く腕を摑まれた。容赦のない力だった。 (やだ。これやばいかも……)  ひと言も話さない男たちに連行される綾。まるで犯罪者だ。  なにをしたつもりもないし、どちらかといえば被害者である。それなのに、男たちはむすっと黙ったままで速い歩調を変えようともしない。こちらは事情も知らされず、慣れない裾の長いドレスに苦労しているのだから、少しは配慮してほしい。  連れられた先にあったのは、凜とした空気に満ちた小ぢんまりとした静謐な空間―――礼拝堂だった。高い天井と白を基調にした内装は豪華で目に眩しいが、焦げ茶色の長椅子とその先にある黄金色の祭壇が、全体を落ち着いた雰囲気にしていた。  祭壇の前に3人、少し離れた脇に男女ふたりの外国人の姿があった。  綾を連れた衛兵たちも外国人。  ここがどこかなんて見当もつかない。ただ、日本ではない気がした。 (パスポート、家に置いたままなのに……)  なにがどうなって外国にいるのだろう。あの空を落ちるときに、どこかの国に連れ去られていたのだろうか。朝だったのに? 高校に向かっていたのに?  あの機械恐竜と血を吸ってきた男のひとはどう説明すれば?  どこからが夢?  綾は混乱したまま、立ち尽くすしかなかった。  衛兵は扉よりこちらには入らず、後ろ足に数歩下がっていった。  入口にぽつんと置いていかれた綾に、正面の祭壇から鋭い声が飛ぶ。 「なにをしている。早く来い」  苛々と睨むのは、胸元までの金の髪の人物だ。 (金髪……、もしかして血を吸ったひと?)  あの痛みと不快感が思いだされ、つい睨み返してしまう綾。 「ダーシュ!」  また『ダーシュ』だ。勝手におかしな呼び名で呼んで、言うことなど聞くものかと腹が立ったが、どうしてだかあの青年のもとに行かねばならないと思えた。  渋々、綾は長椅子に挟まれた通路を進む。  祭壇の前にいるのは、重厚で直線的な服をまとった、聖職者と思われる初老の男性とふたりの男性。  ひとりは綾を呼んだ金髪の青年。白いシャツと同色の布で襟元を飾っていて、裾が膝まである青色の上着を着ている。上着の色は、瞳に合わせたのかもしれない。鮮やかな青い色の瞳に白い肌、金の髪。ぞっとするほど整った顔立ち。大仰で派手な衣装が気味が悪いほどに似合っている。  綾の血を吸ったのは、この男だ。  もうひとりの人物も、じっと綾を見つめていた。褐色の短く刈り込んだ髪。瞳は淡い茶色。吸血男と同じような格好をしていて、彼も眼の色に合わせているのか服の色はくすんだ茶色を基調としている。細身ではあるが、金髪よりもがっしりしていて背が高かった。 「確認させていただこう」  言って、中央に立つ初老の聖職者が首に手を伸ばしてきた。避ける暇もなかった。聖職者は身をすくませる綾の首筋に指を這わせ、金髪男に咬みつかれた痕を確認する。 「デュンヴァルト卿」  聖職者は綾を解放すると、短髪の男性に顔を向ける。デュンヴァルト卿と呼ばれた彼はひとつ頷き、懐からなにかを包んだ布を手渡した。  恭しく押し戴くようにしたあと布を広げる聖職者。中には、牙のようなものが2本入っていた。それを金髪男に見せ、脇に控えていた男女に見せる。この男性も、デュンヴァルト卿と同じくらいの年齢、30過ぎに見える。黄色のドレスに身を包んだ女性のほうは、綾と同じか少し年上だろうか。  男女がふたりとも頷いたのを見た聖職者は、その牙を透明な小箱に丁寧に収め、祭壇に置いた。 「ではリァーカムさま。主の御前で、どうぞ審判を」  緊張をはらんだ重々しい聖職者の言葉に、リァーカムと呼ばれた金髪男が綾に向き直る。  首筋に注がれる眼差し。  悪い予感がした。  一歩後退(あとずさ)ったところで、さっと伸びた手にきつく腕を摑まれた。 (やだ)  腕を摑む力は強く、振り払おうにもびくともしない。さきほどの衛兵は力を加減してくれていたのだ。  近付くリァーカムの顔。薄く開かれた唇から、2本の牙が現れる。  襲われる。  血を、吸われる。  意識も思考も、目の前の2本の牙から離れられない。 「やだ……いや、やめて助けて」  懇願が聞き入れられることはなかった。  誰もその場を動かず、興味深げにただこちらを見つめるばかり。  どこか熱を帯びたその、異様な眼差し。  ずぶりと音がした。 「ッ!!」  首筋から全身に走った絞られる痛み。身体が硬直する。生ぬるいリァーカムの唇はねっとりと首に吸いつき、牙を立てたそこから血が吸い上げられる。 (やだ……ぁ……)  意識が、吸い取られてゆく―――。  ―――力の抜け落ちた綾の身体が、どさりと音を立てて床に崩れた。 「主の答えは」  リァーカムは、そのさまを表情も変えずに見、冷たい声で尋ねる。  聖職者は倒れた綾の咬み痕と、口を開いたリァーカムの牙を確認する。そうして、恭しく頭を垂らした。 「新王リァーカム・バルツァーさまに幸いあれ」  しわがれた聖職者の声が、朗々と礼拝堂に響き渡った。
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