episode03. 「暮合、片心にノック」

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「おい、ハナちゃんは俺のお気に入りだから見んなお前らは」 「うわ……っ!」  先輩が躊躇いなく私の腕を引っ張って、あっさり身体が前へと傾く。そのまま肩を抱かれるようなかたちになって、より一層強くムスクが香る。  LINEが勝手に知られてから、何度か食事の誘いがあったのはきちんとお断りをした。そういえば二日前にも来ていて、それにはまだ既読を付けていなかった。いつか諦めてくれるだろうと思っていたけれど、こうして大学が一緒だと、どうしても顔を合わせる機会は存在する。 「『うわ』って。驚いてんのも可愛い〜」 「別にまだお前の彼女じゃねえんだろ」 「いやいや、でも俺のだから」  その度にこんな距離感で、――こんな風に所有物のように触られるのは、流石に少し、怖いかもしれない。  抵抗して離れようとしても全くびくともしない先輩に、あの日と同じく力の差を見せつけられてじわりじわりと変な汗が滲む。 「ハナちゃん、今日は逃がさないよ?」 「――あー、居た居た」  ぐっとまた腕を掴む手の力が強まったと思った瞬間、抑揚の無い低い声が耳に届く。自然と顔を向ければ、私達の直ぐそばで何故か傍観者のように怠そうに立つ長身の男が居る。 「え、誰」  男は、そう尋ねる先輩には見向きもしない。腰の位置の高さがよく分かるハイウエストのパンツのポケットから、チャリ、と金属の重なる音をさせながら取り出したものを真っ直ぐ私に見せつけてきた。片方の口端をくいと上げて愉しそうに笑った男の手の中にあるのは恐らく、たまに詩月さんの部屋で見かける社用車の鍵だ。 「迎えに来たけど、どーする由芽チャン」  どーするって、何なの。  私の答えなんて絶対分かりきっているのに、なんでこういう時に限って「こっち来い」とか俺様全開じゃなくて質問形式なの。  男を睨んでやろうとしたのに、両方の瞳の表面に張る膜がどんどん分厚くなって上手くいかない。慌てて瞬きをしながら視線を逸らすまでの過程の全てを見ていた男がまた、腹立たしく少しだけ笑った気がした。  
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