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当然だけど私が必死に生きていたように、会わなかった時間、彼女は彼女で誰も知り合いの居ないこの土地で、頑張っていたのだ。
『もう先にね。いいやって開き直って「私、皆さんの顔が上手く分かんないんです」って言ったの。最初は驚かれたけど、「じゃあどうしようか」って一緒に考えてくれた。嬉しかった。今まで私が交流を広げればその分、迷惑をかける人達が増えるって考えしか無かったから。頼ることはいつも「悪」じゃないって、思わせてもらえたの』
そしてちゃんと、今の大切な居場所もある。
『ごめんね私ばっかりペラペラ話しちゃって。今日来てくれたのは、』
『原稿、お預かりしました』
先程までのリラックス具合はどこへやら、鞍馬は突然仕事モードになって切り出す。深くお辞儀をして「大事に、拝読しました」と重い口調で続けた男に「ホントこの人、こういうとこちゃんと真面目になるから嫌だ」と詩月さんが揶揄うように笑った。
『どうでしたか? 随分構想段階から時間もかかっちゃって不安も大きいですが、』
『最高でした。早く打ち合わせさせてください』
鞍馬の即答に、詩月さんはふにゃっと笑いつつ、ほっと胸を撫でおろした。
『そうだ、俺の名刺を先に渡しておきます』
『ん? 前に貰ったのあるよ』
『いえ、ちょっと変更もあるんで』
胸ポケットから名刺ケースを取り出して彼女に差し出すまで、あまりにも滑らかで隣でぼうっと見つめることしか出来ない。男は突然私を振り返って「お前は?」と急かす。
『え?』
『なにボケっとしてんの。此処、今商談の場だけど』
『あんた急に切り替わるのやめてよ』
そう言われて、私も自分のバッグから慌てて名刺を取り出そうとした。
『――副編集長!?』
高い声が部屋に響き渡る。丸眼鏡のレンズ越しに、大きなくりっとした瞳がぱたぱたと動いた。
『君、いつの間にそんな出世したのだね……』
『出世なんすかね。新座に一層こき使われるポジションになったとも言います』
『あー……ね? でも凄い、おめでとう鞍馬君』
繰り広げられる会話に、ぽつんと一人置いてけぼりだ。だって私。
『由芽? ほらお前も名刺』
『いつ、なってたの?』
『あ?』
『私、そんな話、全然知らない、』
まるで子供みたいな主張だ。自覚している。だけどそんな大事なこと、流石に教えて欲しい。そしたらなんか、分かんないけど。
一緒にお祝いとか、私だって、考えたのに。
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