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『お前な、そんな自分の肩書の話、態々言わねえだろ』
『……もういい。あんたは禿げれば良い』
『なんてこと言うんだお前は』
『あー、もうちょっと! 目離したら直ぐ喧嘩するんだから~~』
「変わんないなあ」と微笑む詩月さんを見て、ふと我に返る。恥ずかしい。折角久しぶりに会えたのに至極くだらない自分の感情を剥き出しにしたりして。こほんと咳払いをして、おずおずと鞍馬に続くように名刺を差し出した。
『……由芽ちゃんの、名刺?』
『はい。私は今、「まほろば出版」で編集者をしています』
両手で大切に受け取った彼女は、数秒間じっとそれを凝視した。そしてふと顔を上げて「ほんとに?」と掠れた声を出す。こくりと頷けば、彼女の丸っこい瞳がきらきらと幼い子供のように無垢に輝いた。
『よかった、よかったあ』
「おめでとう」と満面の笑みで伝えてくれる詩月さんから、どうにも伝染してしまう。私も口角をきゅっと持ち上げて「ありがとうございます」と大切に言葉を紡ぐ。
『ほんとに、編集者になったんだねえ。凄い由芽ちゃん』
しみじみ言う彼女は、いつから私が閉じ込めてきた想いに気付いてくれていたのだろう。この人を欺くのは実はとても至難の業な気がする。
『俺はぜひ、先生の新作を弊社で出版していただきたいと考えてます。ただ、隣の羽奈さんも先生の作品には並々ならぬ鬱陶しいくらい熱い想いをお持ちなようなので』
だれが鬱陶しいくらい、だ。余計な言葉を挟む鞍馬をこっそり肘で小突く。
『なるほど。それで二人して急に固い雰囲気になったのね』
ふふ、と微笑みつつ恥ずかし気にずれた眼鏡を直す詩月さんは、ぴんと背筋を正した。
『……この、「オートグラフに口付けを」は、やっぱりずっと待って下さっていた鞍馬さんにお願いしたいと考えています』
それは、勿論そうだろう。詩月さんからの回答は、残念だけれど筋が通っていて納得も出来る。諦めも、つく。
『でも、私はこの作品から新たに創作を始めたいと思っている、ただの新人です。ぜひ、いろんな方とお仕事をさせていただく機会があるのなら、逃したくない』
『……え、』
『一度、「まほろば出版」さんがどんな作品を取り扱われていて、どんなお会社さんなのか見学することは出来ませんか?』
彼女からの提案は全く予想の範疇を超えていた。数秒フリーズしてから、慌てて「はい!喜んで!」と大きな声で返事をした。
『居酒屋かお前は』
『いちいち煩い』
『あーはいはい!もう分かったから。さ、夜遅いし二人ともお風呂順番に入って』
『え、俺はカプセルホテルにでも行きます』
『あるわけないでしょ? 田舎をなめるんじゃないよ鞍馬青』
「まじか」と呆然とする鞍馬と、悪戯に笑う詩月さんと。結局三人でなんてことない話をしながら、まるで原稿の締め切り間近の時のように、雑魚寝に近い形で、いつの間にか夜は更けていった。
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