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『腹は?』
『え?』
『空いてんの』
『す、いてます』
『じゃあ早く来い。タンカレーで良いのか』
『……練吾、』
後ろを向いているから、当然練吾さんの表情は見えない。だけど、詩月さんの声に身体を止めた。そして「なあ」と紡ぎ出す。
『さっき由芽が言ってたけど。俺はちゃんと今、幸せだ。…………詩月、お前は?』
彼の淡々とした声からは、いつもあまり感情が読めない。それでも、今日はいつもより柔らかく響いた気がする。
問われた詩月さんの綺麗な瞳が、時間差で一層滲んでいく。形の良い小さな唇が震えていた。
『……たしも。私も、凄く幸せだよ。やっと、そう、言えるようになった』
『そうか、頑張ったな』
無骨な声で彼から労われた瞬間、彼女の横顔に涙が静かに走る。
『れんご、』
『お前、昔俺に言ったろ。「真直を幸せにする」って』
『……うん』
『俺はあの時、お前と約束なんかしてないからな』
『ええ?』
肩越しに振り返る練吾さんは、柔く一重の切れ上がった双眸を細めた。
『ゆびきりげんまん、ってお前が差し出してきて、俺は跳ね除けた。お前、覚えてないの』
『な、なんとなく覚えてるよ。あれって練吾が恥ずかしがり屋さんだからじゃないの』
『誰がだ、違う』
『じゃあ何?』
『……真直は、お前に一回も「幸せにしてほしい」なんて思ったことない。俺も、思ってねえよ』
『え?』
『――――“二人で一緒に”幸せになって欲しかった。あの時、本当はそれを言いたかった』
――“お前、分かってるよな”
――“分かってる。私が真直を幸せにする”
――“お前が「幸せにする」なんか百万年早いんだよ。自惚れんな”
――“あのね練ちゃん、可愛げのない男はモテないよ!?”
「詩月。交わしてもない約束に、罪悪感を持つのはもうやめろ」
私は、どれほどの悲しさや苦しみを二人が味わってきたのかは分からない。
だけど、きっと二人にしか分からない優しい時間もある。
そっと記憶を辿った詩月さんは、顔を覆っても隠せないほどの涙を零しながら俯いた。
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