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『お母さん。今、泣いてるでしょ』
『な、泣いてないよ』
『嘘だ。この前、鞍馬もこうやって抱き締めるのがお母さんの手法だって言ってたじゃない』
『……大人は狡いもんなの』
『私だってもう大人だよ?』
『年齢なんて関係ないよ。貴女は永遠に、私の可愛い娘です』
狡い母の理論に易々と言い負かされてしまった。絶句していると、母が楽しそうに笑い声を上げる。
『……さ、そろそろ東京駅向かわないとね』
『お母さん。まだ、一緒に居たい』
暫く経ってから私を解放し、腕時計を確認する彼女に勇気を振り絞った。困らせてしまうかもと思うと声は最後になるにつれてスピーカーのつまみを絞るように小さくなっていった。
『珍しいね、由芽がそんなこと言うの』
『……ごめん』
『なんで謝るの。由芽は昔からホントに我儘言わない子だったからなあ。たまには言って良いんだよ?』
『そういうもの?』
強く頷く彼女は、また愛らしい唇を開く。
『……私ね。広島での暮らしは凄く楽しい。でも、ふとした時。「あの洋服は由芽に似合いそうだな」とか「この綺麗な秋刀魚食べたら鞍馬君喜ぶだろうな」とか、日常のありとあらゆる場面でどうしても貴方達を思い出すの。だから、家に荷物は、増やせなかった』
初めて触れる母の気持ちを自分の中で噛みしめながら、物の少ないどこか寂しい彼女の今のマンションを思い出す。
『だから……私。“この街”に、いずれは戻ってきていいかなあ』
涙の痕をきらきらと月明かりに反射させて、母は微笑む。「格好つけて出て行って、申し訳ないけど」と気まずそうな彼女にもう一度かばっと抱き着いた。驚いたように身体を揺らして、でもちゃんと抱き留めてくれる。
「当たり前でしょう……!お母さんが好きな場所で過ごして良いんだよ。誰の許可が要るの」
「そっか。ありがと」
恥ずかしそうにはにかむ彼女に、私も笑顔で応えた。
「今日は、どうする? 私の部屋に来る?」
「ううん。今日はやっぱり帰るよ」
「え……どうして」
てっきり、私の我儘も受け入れてくれたのかと思った。自分でも途端に不安げな表情になったのが分かる。母は「そんな子犬みたいな顔しないでよ」と笑いながら私の頬をつまんだ。
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