序章

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 ゾウガメのくしゃみ、えごま油、亜鉛、猫の左頬の髭、生姜、なまずのヌルヌル、れんこんエキス、青カビ。その他二十四種類。  これが今回参考にした、古代ギリシャの医神アスクレピオスの調合だ。  三角フラスコを軽く振る。匂いを嗅いでみるとピリッとしたスパイシーな香りがした。しばらくすると灰色の液体の底に沈殿物が溜まった。 「やっぱり猫の左頬の髭はもっと細かくしないとダメだな」  僕は猫の額ほどの狭い空間で独り呟いた。  裏庭の木にブルーシートをくくりつけ作った僕専用のラボ。冬場は激寒、夏は蒸し風呂。ただ夏でも夜のこの時間帯は比較的快適だ。  木の枝にぶら下げた腕時計の針は、あと五分で両針が重なる。時計を持って外に出ると、白い満月に見下ろされる。  猫の左頬の髭に問題があるが、これで勝負だ。  時計の両針は今にもピッタリお互いが重なろうとしていた。三角フラスコを木箱の上に置きシャーレで蓋をする。  一晩満月の光を浴びさせた後は……。  例の物が必要になる。いくらくらいで買えるのだろう? 高いだろうか?  今回の成分で一番高くついたのはゾウガメのくしゃみだった。半年間、動物園に通い詰めたその入園料は馬鹿にならない。ゾウガメのくしゃみより安くあがればいいのだが。  僕は月明かりを浴びる灰色の液体を眺めた。  前回のベニクラゲの時はピンク色だった。成熟と衰弱を繰り返し生き続けるベニクラゲ。ベニクラゲの遺伝子構造を研究した論文を読み漁り、和歌山県のベニクラゲ研究所にも足を運んだ。  期待が大きかっただけに失敗した時の失望は大きかった。ピンク色の液体を与えたカイワレ大根は成長をとげると枯れてしまった。  前回が現代的手法で攻めたので、今回は古代的手法でいくことにした。エジプトのギザのピラミッドや日本の縄文時代の土器は、現代テクノロジーを駆使しても同じものは作れないという。  現代科学的根拠だけに頼るのは、あまりにも視野が狭く思慮が浅いというものだ。実際に僕の一族の術だって、科学的に全く証明されてないのだから。  しばらく三角フラスコと満月を交互に眺め、ブルーシートの中に戻る。  さてと、後は例の物を手に入れなければ。この調合を完成させるのに必要な最後の成分。そして一番重要な成分でもある。  スマホ、スマホと……。  僕はスマホを母屋の自分の部屋に置いて来たことを思い出した。  そうだった。スマホの電磁波が月の波動の邪魔をするから持って来なかったんだっけ。  裏庭を抜けて母家に行く途中で蔵の前を通った。  江戸時代初期に建てられたという今はもう白くない白壁が月明かりでぼんやりと浮かび上がっている。扉には大きな南京錠がかかっていて、父にはこの蔵には入ってはいけないと言われている。  なんでも呪われた蔵なのだそうだ。  僕は早足で蔵の前を通り過ぎた。  母家が見えてきた。古い日本家屋のそれは僕にはとても威圧的に見える。その大きさも、その歴史も、まるで一族の僕への期待と失望のように思えてならない。  忍足で自分の部屋に戻り、スマホを持つと布団の中に潜り込んだ。  満月の光を浴びせ終わったら、最後に例の物を加えて完成だ。医神アスクレピオスは一番重要な成分だと記している例の物……、 “若い血”  布団に寝転がりながらスマホをいじる。検索欄に、“血液 販売”と入力してみた。  出てきたのは血液型別に分類された医療向けの血液と、研究用の動物の血液だった。とてもじゃないが僕が買える金額ではいし、僕が欲しいのは“若い血”だ。  そもそも若いってなんだろう。何歳をもって若いと言うのだろう。  二十代? それとも十代?  僕は跳ね起きた。  そうだ! なぜこんなことに気づかなかったのだろう。僕は大馬鹿だ。  若い血を買う必要なんてないじゃないか。買わなくとも無料で手に入るではないか。  夜の窓ガラスにうっすらと僕自身の姿が映っている。  自分の血を使えばいいんだ。  だって僕はまだ十四歳なんだから。  僕は想像した。  いつも僕に風当たりの強い一族の前で誇らしげな僕。その手には完成した液体の入った三角フラスコが握られている。  七百年以上の歴史をもつ天羽一族の悲願。それをこの僕、天羽桃李(あもう とうり)がついに完成させたのだ。  一族には忘れがたい屈辱と、血生臭い犠牲を強いられた過去がある。その根源ともなったもの、二度と一族に同じ悲劇が起きないためにも必要なもの。 “不老不死の秘薬”  それをこの僕が作るのだ。  一族の皆に僕のことをもう“できそこない”なんて言わせない。僕は正真正銘、お父さんの子どもだ。絶対に絶対にお父さんの子どもだ。  興奮してなかなか寝つけなかった。蔵の方からいつものあれが聞こえてきたような気がして、僕は布団に潜り込んだ。
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