リヒト⑭

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 鼻の奥の涙がまだすっきりと払えずべそべそとしている僕の前に、アマル様が真っ白い紙を置いた。 「さぁどうぞ」  きれいなガラス細工のついたペンを差しだされて、反射的に受け取る。  アマル様は紙の端にコトリと音を立てて、インク壺も並べた。  いったいなにが始まるのかと、空いている左手で目をごしごし拭ってから、僕はアマル様とエミール様を見比べた。エミール様も困惑顔だ。 「アマル、いったいなにを」 「授業だと言ったでしょう。わたくしが先生、リヒト、あなたが生徒よ」 「……せんせぇ」  新鮮な言葉だった。  この国の子どもはみんな、学舎というものに通っている。それは絵本にも出てきたし、僕に文字を教えてくれるユーリ様やエミール様からも聞いたことがあった。  同い年の子どもが一緒に勉強をするところ。  僕は通ったことがないけれど、先生と生徒、というアマル様のお言葉に僕は、ぼんやりと学舎を想像して目を瞬かせた。 「まぁまぁ可愛らしいこと。もう一度呼んでくれる?」  アマル様がなぜかウキウキと身を乗り出してくる。  僕は小首を傾げて、 「先生」  とアマル様を呼んだ。  まぁ、とアマル様が両手を組み合わせてエミール様を振り向いた。 「エル、聞いた?」 「エルと呼ぶなってば。アマル、変態くさいですよ」 「だってこんなに可愛い『先生』、わたくし初めて聞いたわ」 「そうです。リヒトは可愛いんです。だからいじめたりしないように」 「ユーリの妖精さんをわたくしがいじめるわけないじゃない。信用のないこと!」 「きみは無邪気にひとを傷つけるんだってば! いい加減自覚、」 「あ~~~、聞こえません!」  アマル様が耳を塞いで大きな声を出された。  エミール様がひたいを押さえてため息をつかれ、僕は突然の大声に驚いて目を丸くした。 「リヒト、すみません。いい歳して子どものようなひとなんです」 「まぁ。同い年のくせにいい歳だなんて!」 「おいくつなんですか?」  失礼かな、と思いつつ僕はお二人の会話に割って入った。  お顔から年齢を当てるのは、あまりたくさんのひとと関わったことのない僕には難しくて、僕はまじまじとお二人を見つめた。  そういえば僕はテオさんの年齢も知らない。知っているのは自分とユーリ様の歳ぐらいかしら。  僕が二十一歳で、ユーリ様が三十一歳。  ユーリ様は、お兄さんたちとは歳がいっぱい離れてるって言ってたから、マリウス様もクラウス様も四十は超えているのだろう。  とするとエミール様もアマル様もそれぐらいなのかな?  そう考えながら質問したのだけれど、アマル様がなぜかスッと真顔になって、 「いいこと、リヒト」  と僕にひとさし指を突きつけてきた。 「女性はね、歳を若く見繕っても多く見繕っても傷つくことがあるの」 「……?」  少なくても多くてもダメってこと?  よくわからなくて首を傾げたら、エミール様が半眼になって教えてくれた。 「つまり女性には、歳の話はするなってことですよ」 「おいくつか尋ねてはいけないということですか?」 「その方が無難、ということです」 「わかりました」  本当はよくわかってなかったけど、しない方がいい話題ならやめておこう。  僕が素直に頷いたら、エミール様がこっそりと、 「オレもアマルも四十一歳です」  と囁いて、シーといたずらっぽくひとさし指を口の前で立てられた。  四十一歳。僕とは二十も違う。  僕はたぶん、誰にもそうとは指摘されたことがないけれど、同い年のひとと比べると頭が悪い分、きっと子どもっぽいのだと思う。  だって、僕を拾ってくれたときのユーリ様は、いまの僕よりも若かったのだから。それなのにとてもしっかりされていたし、僕が同じように痩せっぽちの子どもを拾ったとしても、ユーリ様のようにはできないだろう。  そんな僕から見るとエミール様もアマル様も、大人そのもので。  僕がお二人と同じ年齢になる頃には僕もすこしはしっかりしているかしらと不安になってきた。 「年齢の話はもうよろしくて?」  アマル様がツンとしたお声でそう言って、テーブルの上の紙をトンと叩いた。 「名前を書いてちょうだい」 「え?」 「リヒト、あなたの名前をここに」  僕はこくりと唾を飲み込んだ。  名前はもう書けるようになっている。けれどユーリ様やエミール様以外のひとの前で書くのは初めてて、緊張して指がガチガチになってしまった。  エミール様がなにかをアマル様に言おうとしている。それを慌てて止めてから、僕はペンの先をインクに潜らせた。  リヒト。ユーリ様のつけてくれた、僕の名前。  頭の中には、『僕のリヒトへ』と流れるように綴られたユーリ様のきれいな文字がある。  それをイメージしながら丁寧に名前を書いた。  アマル様が「あらまぁ」と口元を押さえた。 「随分と震えた線だこと」 「アマル! リヒトはいま文字を勉強してる最中だから!」 「大きな声を出さないでちょうだい。震えた線だと言っただけじゃないの。へたくそだとはひと言も言ってませんわ」  へたくそ、という言葉がぐさりと僕の胸に刺さった。でも本当のことだから仕方ない。  けれどアマル様は、 「丁寧に書くのもいいけれど、ゆっくり書けば書くほど線は震えるものですわ。勢いも大事なの。ねぇ、ユーリの妖精さん。もう一度書いてごらんなさい」  と、僕にアドバイスをくれた。  僕はもう一度唾を飲み込んで、今度はさっきよりも早く手を動かしてみた。  線は相変わらずふにゃふにゃだったけど、最初のものよりはきれいに書けた気がする。アマル様がうんうんと頷いて、僕の名前の隣を示された。 「ここにエミールの名前を。その下にわたくしの名前を書いてごらんなさい」  なんのためにそうするのか、という説明はなかった。けれど僕は僕の名前の隣に、エミール様の名前を書いた。アマル様の綴りはわからなかったから、教えてもらいながらペンを走らせる。  アマル様は僕たち三人の名前を、丸でぐるっと囲うように告げてきた。  僕は不格好な丸で、三人の名前を囲った。  アマル様は次に、すこし離れた場所にユーリ様の名前を書くように指示してきた。これまでに幾度も書いてきたユーリ様のお名前。それを丁寧に、でもゆっくりすぎないスピードで綴ると、 「自分の名前よりもユーリの名前の方が上手だわ」  とアマル様が笑った。  僕は嬉しいような恥ずかしいような気分になって、もぞもぞと足を動かした。 「じゃあ今度はユーリの下にマリウスとクラウスの名前を書いて」  アマル様の言葉に頷いて、今度も綴りを教えてもらいながらユーリ様のお兄さんたちの名前を書く。  そうしたらアマル様が、さっきと同じようにユーリ様たち三人の名前をぐるっと囲うように言ってきた。  僕はぐるりとユーリ様たちの名前を丸で囲った。 「あとは……そうねぇ、あなたの周りの人間は……」 「ロンバード親子が居るよ」  アマル様のお考えがわかったのだろうか、エミール様がそう言って、 「リヒト、ここにロンバードとテオバルドの名前を」  用紙の空いている場所を指で示して、ロンバードさんとテオさんの綴りを教えてくれた。 「ああ、シモンも居ましたね。リヒト、シモンも入れてあげましょう」  エミール様に促されて、シモンさんの名前も追加する。  それから三人の名前をまたぐるっと丸で囲った。  アマル様が僕の手元を見て、歪んだ僕の三つの丸を、ひとつずつ指先でなぞってゆく。 「リヒト、わたくしたち三人に共通するのはなにかしら」  アマル様と、エミール様と、僕。 「……オメガです」  僕がそう答えると、アマル様が頷いて、 「ここにそう書いてちょうだい」  と僕たち三人の名前を囲う円の淵をトンと叩いた。  僕はそこにオメガと書いた。 「じゃあユーリたちの丸はなにかしら?」 「……アルファです」 「そうね」  アマル様がやさしく頷く。僕は言われる前にユーリ様たちの丸にアルファと書き込んだ。          
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