リヒト⑫

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リヒト⑫

「なんどだって言うよ。きみは被害者だ。きみはなにも悪くない。なんの罪もないんだよ、僕のオメガ」  ユーリ様のお声が、言葉が、僕の爪先まで満ちて、僕は胸がいっぱいになった。    信者のひとたちが苦しんでいたのは、僕のせいじゃなかった。  僕のお祈りのせいじゃなかった。  僕はハーゼの生まれ変わりじゃなかった。  僕にはなんの罪もないのだと、ユーリ様が断言してくれた。  世界がぐるりと回って、僕の気持ちもぐるりと回ったみたい。  ハーゼのことを打ち明けたときはあんなに苦しかったのに、いまはなんだかふわふわしていて。  ユーリ様は本当は、魔法使いじゃないのかなと思った。  僕に、しあわせになる魔法をかけてくれる、魔法使いじゃないのかな。  僕がそう言ったら、ユーリ様が「ええ?」と笑って。  それから僕に、 「僕に魔法が使えたら、きみの味覚と嗅覚も治してあげるのに」  不思議に甘く響く声でそう言って、愛の言葉と一緒にキスをくれた。  僕の味覚と嗅覚。 (あなた様はもう治っております)  シモンさんの声が聞こえた気がした。  僕はもう治っている。  ハーゼの枷は、いま、ユーリ様が外してくださったから。  ベルトを巻かれたクッションが、すぐに元の形に戻ったのと同じように。  僕も。  僕の感覚も、もう、自由なのだ……。  なぜだか急に、本当に急に、そんな思いが僕の中にストンと落ちてきて。  僕は泣きながらユーリ様にしがみついた。  今日はずっと泣いているから、瞼が熱い。熱くて、重い。  それでも涙は止まらない。  涙と一緒に鼻水まで出てきて、僕はスンと鼻を啜った。  そのとき。  なにかがすごい勢いで、僕の内側に入ってきた。  到底抗うことなんてできない、途方もない奔流だった。  それは鼻腔から流れ込み、一瞬で僕の脳にまで達していた。  なんだろう。意識が揺れている。  リヒト、リヒト! と僕を呼ぶユーリ様の声が聞こえたけれど、返事をすることができない。  僕はどうしてしまったんだろうか。   「大丈夫。脈拍はちと早いですが、呼吸も正常です。気を失っただけですなぁ」 「なにもないのに急に意識がなくなったんだ! 大丈夫なものか! リヒト、リヒト!」 「殿下、揺らしてはなりません。横にしましょう」    視界は真っ暗だったけど、耳はきちんと聞こえていた。  だから、ユーリ様がものすごく心配そうに僕を呼んでいるのもわかった。  そのユーリ様をシモンさんが宥めていて、そのうち僕はふわふわと浮かび上がって、どこかに寝かされたようだった。  ユーリ様が僕の手を握っている。  ああ……なんだろう、なんだかすごくユーリ様を近くに感じる。  いままでとは全然違っている。  僕が。僕の感覚が、全然違っている。 「だいたいなんだ、シモン、どういうつもりでハーゼの話を持ち出したんだ!」  ユーリ様の厳しい声がぴしゃりと響いた。  ふだん僕に対するのとは全然違う声で、僕はびっくりしてしまう。  けれどシモンさんは「ほっほ」と穏やかに笑っただけだった。 「私が持ち出したわけではありませんぞ、殿下。リヒトさまがご自身で、ユリウス殿下に話すと決めなさったんです」 「なぜ急にそうなったのかを僕は訊いている。リヒトと二人でなにを話した」 「殿下。リヒト様は残り二つの感覚を……取り分け嗅覚を治したいと思っておられるように、このシモンめには感じられました」 「……嗅覚」 「はいな。あなた様の匂いが、わかるようになりたかったのでしょうなぁ」 「……それがどうして、ハーゼに繋がるんだ」  ユーリ様が低く、問いかけた。  ひりり、とした感覚が僕の皮膚に伝わってきた。  ……?  僕の皮膚に? ああ、違う。これは……これは……。 「きっかけが必要だと思いましてなぁ」 「きっかけ?」 「はいな。リヒト様は丸二年、薬を飲み続けてこられた。その甲斐あって視覚と聴覚と触覚は戻りました。殿下、悪くないものを治療する、というのは困難なことです。ですが、三つの感覚は戻ったのですから、残り二つが戻らない道理もございませんでしょう。ただ、治すべき病自体がない状態では、リヒト様ご自身も、なにをどうして良いかわからなかったのでしょうなぁ。停滞した治療を先へ進めるためには、いまのままでは難しい。それゆえ、きっかけが必要と考えた次第でございます」 「それがハーゼか?」 「いいえ。なんでもようございました。私はただリヒト様に、ご自分が良くならない原因はこれだ、というものを見つけていただきたかっただけにございます。原因がわかれば、それを取り除ける。取り除いてやれば、それが即ち治療となりますなぁ」  二人の会話が、僕の上で交わされている。  僕はその話の内容よりも、いま自分が掴みかけている感覚のほうに気を取られていた。  僕に突き刺さっていた、ひりりと尖ったものがなくなった。かと思ったら、なんだかとても温かくて、熱くて、しずかで、激しいような感情が、僕を包み込んだ。 「ハーゼだったことが、この子の傷になってたんだ。リヒト、僕のオメガ。早く目を開けて、僕に魔法を使わせてよ。僕がきみをしあわせにするから」  ひたいに、ユーリ様の唇が押し付けられた。  ちゅ、と小さな音を立てて、それが離れてゆく。  ユーリ様。  ユーリ様。  ユーリ様。  いま、僕が感じているこの感覚。  もうわかった。  わかっていた。  これが。  この、どうしようもなく惹きつけられてしまう、これが。  これが、ユーリ様の匂いだって。  一気に流れ込んできたユーリ様の匂いに耐え切れず、僕は意識を失ってしまったのだ。  でももうわかる。  もう大丈夫。  もう誰とも間違えない。  唯一無二のユーリ様の匂い。  それを僕の鼻が、ちゃんと感じ取ることができているから。  目が開かない。  早くユーリ様の顔が見たいのに。  僕はもがくように両手を動かして、手探りでユーリ様を探した。 「リヒトっ!」  すぐにユーリ様が手を握ってくれる。 「リヒト、大丈夫? 具合が悪い? 吐きそうかい?」  一生懸命僕の心配をしてくれるそのお声を聞いてたら、また涙が溢れてきて。  僕は泣きながら、なんとか目を開けた。 「ゆ、ゆぅりさまぁぁ」  動かしにくい口を頑張って動かして、僕は、ユーリ様に具合が悪いわけじゃないことを訴えた。 「ユーリ様が、あんまりいい匂いだったから、僕、びっくりして、気を失ってしまいました……」  僕の背に手を入れて、僕が起き上がるのを手伝ってくれていたユーリ様が、僕の話すのを聞いて。  その、きれいな新緑色の瞳を、テオさんのくれる飴玉みたいに大きく真ん丸に膨らませた。   
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