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日中、お屋敷の中はたくさんの匂いが溢れている。
ユーリ様とシモンさんのお陰で治った嗅覚に慣れてくると、僕は色んな匂いの嗅ぎ分けができるようになった。
面白いのは、ユーリ様の香り(アルファの誘発香と呼ばれてるみたい)が、ほかの匂いに比べるとくっきりと浮かび上がっていて、まるで目に見えるかのように区別できることだ。
僕の嗅覚がまだ安定していないのか、感じることのできる誘発香の強さは日によってまちまちだったけど、どれだけ微かな香りでも僕は、ユーリ様の匂いだ、ということがわかった。
廊下を歩いていて、ここはさっきユーリ様が通ったんだな、ということもわかるぐらい、ユーリ様の香りだけは本当に特別だった。
目が見えるようになってからも、お屋敷の中での僕の行動範囲はあまり広がっていなかったし、僕がうろちょろしたら使用人のひとたちの邪魔になってしまうから、決まった場所以外は行ったことがなかったのだけれど、ユーリ様の誘発香を嗅ぎ分けるのはなんだか楽しくて、僕はテオさんに、
「今日はお屋敷を探検してもいいですか」
と尋ねた。
テオさんは、いまさら? というように目を丸くしたけれど、
「ユーリ様からは、危ない場所に入らなければ好きにするようにと言われています」
そう言って、僕に付き合ってくれた。
僕は部屋を出て、廊下を歩いた。これまでの癖で廊下を歩くときは、壁際の手すりに近い場所をつい歩いてしまう僕だけれど、今日はユーリ様の匂いを追って、真ん中を歩く。
お屋敷の中には部屋がたくさんあるけれど、ユーリ様の匂いが一番濃いのは、僕と一緒に過ごすお部屋だ。その次が、ユーリ様の執務室。ここはユーリ様のお仕事部屋だから入るのはやめておいた。
お風呂場は、水で匂いが流れてしまうからか、ユーリ様の香りはあまり残っていない。
次に立ち寄ったトイレでくんくんと鼻を鳴らしていたら、テオさんがなんだかとっても変な顔で僕を見てきた。
「さっきからなにしてるんですか?」
テオさんに質問されて、僕は、ユーリ様の匂いを辿っているのだと答えた。
そしたらテオさんが「へぇ」と目を丸くして、
「ユーリ様がここを通ったとか、そんなのもわかるんですか。すごいもんですね、アルファとオメガってのは」
と感心したように頷いたので、僕は首を傾げてテオさんに質問を返した。
「テオさんはベータのひとですか?」
「俺はベータ中のベータですよ」
「ユーリ様の匂いはぜんぜんしませんか?」
「殿下は元々いい匂い……っと、えっと違いますからねっ! べつに殿下の体臭が好きとかじゃないですからねっ!」
テオさんが早口でそう言って、手をぶんぶんと振り回した。
僕がポカンとそれを見ていたら、テオさんがごほんと咳ばらいをして、口を開いた。
「一般的な嗅覚はどのバース性も変わりないです。リヒト様がカップケーキの焼ける匂いを嗅いで、いい匂いだなぁと思うとの一緒です。でも、アルファとオメガはそういう一般的な匂い以外の、フェロモン香と言われるものも嗅ぎ分けます。その辺が俺たちと違うところですね」
「えっと、じゃあ……」
「つまり、このトイレはトイレの匂いしかしない、ということです。リヒト様、早く出ませんか」
促されて、僕は慌ててトイレから出た。
その後はお屋敷のどこにユーリ様の匂いがあって、どこにない、というのを調べた。
ユーリ様の匂いがぜんぜんないのは、使用人のひとたちがお仕事をされるような場所だ。
テオさん曰く、
「当然です」
である。
お屋敷の下働きのひとたちは、基本的に主人の目に触れない場所で仕事をするのがふつうなのだとテオさんは教えてくれた。
ユーリ様は身分がすごく高いお方なので、本当はもっとたくさんのひとを雇っていないとおかしいみたい。
でもこのお屋敷は少数精鋭(ってテオさんは言ってた)でそろえられていて、ふつうよりもずっと数が少ないのだそうだ。
だからこうして廊下を歩いていても、誰とも遭遇しない。でもひとの気配はあちこちでしているから、みんな僕に気を遣って隠れているのかしら。
「リヒト様の目がお悪いときは、ユーリ様の命でわりと近くで控えていたんですけどね。いまは皆通常業務に戻っております」
「そうだったんですね……」
知らなかった。
僕はテオさんを振り仰いで、聞いてみた。
「あの、お礼を言ってはいけませんか?」
「はい?」
「僕、たくさんご迷惑をおかけしたし、これからもおかけするかもしれません。お仕事をしてるひとたちに、お礼を言ってはいけませんか?」
僕の質問に、テオさんがうぐっと変な声を出して、両手で顔を覆ってしまった。
おかしなことを言ってしまったかな、と僕がすこし不安になったら、テオさんが。
「いけないってことはないと思いますが……殿下が、どう仰られるか……」
ごにょごにょと言葉の最後を濁しながらそう言った。
「僕、味と匂いがわかるようになって、お食事が楽しくなりました。でもその前から、人参がお花の形になってたり、玉子がかわいい鳥の形になってたりしました。お料理を作ってくれた方は、目でも僕を楽しませようとしてくれたんだと思います。あと、お洗濯をしてくれる方は、いつもすごくきれいに汚れを落としてくれてます。洗い立てのシーツはとってもいい匂いがしてます。僕のこのシャツもいい匂いがしてます。あと、それから……」
「わかりました!」
テオさんが僕の言葉を遮って、ドン、と足を鳴らした。
「わかりましたから! すこしだけですよ!」
「あ、ありがとうございます!」
僕がお礼を言ったら、テオさんが、
「すこしっていうのは、ひと言ふた言ぐらいのことですからね!」
と、念を押してきた。
あんまり真剣なお顔で言われたので、僕はこくこくと頷いた。
そうだよね、僕が話しかけることでお仕事の邪魔になってしまうかもしれない。それをテオさんは先に教えてくれたのだ。
「はい。お邪魔にならないように気をつけます」
僕はしっかりそう約束したのに、テオさんは、なぜか頭を抱えてため息をついていた。
「あ~、やべぇ。ひと言ぐらい大丈夫だよな? 俺、クビになったりしないよな? ユリウス様もそこまでこころが狭くないよな?」
テオさんがぶつぶつと呟きながら僕の前に立って歩き出したので、僕は慌ててその背中を追いかけた。
使用人のひとたちはみんな、とてもやさしかった。
お料理や掃除の手を止めて僕の前に来てくれて、目が見えるようになって良かったですね、とか、お耳が聞こえるようになって良かったですね、とか、たくさんお声をかけてくれた。
僕は彼らひとりひとりに、
「いつもありがとうございます」
と言って回った。
大騒ぎだったのはテオさんだ。
テオさんは僕が使用人のひとたちが居る場所に入る前に中に誰が居るかを確認し、おまえはダメだ、おまえは離れておけ、とか色々指示を飛ばしていた。
もしかしたら、僕のことが嫌いなひとが使用人の中にも居るのかもしれない。そういうひとと僕が合わなくて済むようにしてくれたのだろうか?
よくわからなかったけど、僕は最後にテオさんにも、
「テオさん、ありがとうございます。大好きです」
とお礼を言って頭を下げたら、その途端にテオさんが、
「もぉおおおっ! この不思議ちゃんがっ!」
と叫んでジタバタと足を動かしたから僕はびっくりしてしまった。
「……不思議ちゃんって僕のことですか?」
首を傾げて問いかけると、テオさんはピタっと動きを止めて、スッと真面目な顔になって首を横に振った。
「いいえ。そんなこと言ってませんけど」
「……」
「言ってません」
そうか。僕はまた聞き間違えをしてしまったみたい。聴力はしっかり治ったと思ってたけど、そうじゃないのかしら。
自分の耳に疑いを持ち始めた僕に、
「リヒト様、そろそろお部屋へ戻りましょう。お茶の時間ですよ」
テオさんが促してきた。
僕は言われるままに自分の部屋へと戻るため、廊下を歩いた。
部屋が近づいてくると、ユーリ様の匂いも濃くなってくる。
ユーリ様がこのお屋敷の中で過ごす時間が一番長いのが、ユーリ様と僕のお部屋だということがわかって、僕はじわりと嬉しくなった。
けれど、部屋のドアの開けようとしたところで、ふと、意識が横に流れた。
くんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
部屋を出るときは気づかなかったけれど、ユーリ様の匂いが濃い場所が、向こう側にあった。
僕は部屋を通り過ぎ、その匂いを辿った。
二つ隣の、扉。そこにべったりとユーリ様の誘発香がついている。
僕はこくりと喉を鳴らし、ドアノブを握ろうとした。
「リヒト様、そこはダメですよ」
テオさんの声が降ってきた。
ドアノブと僕の手の間に、テオさんの手が割り込んできた。
「ここにはユリウス殿下の宝物が置かれているようで、ユーリ様以外、絶対に誰も入ってはいけない部屋なんです」
「……宝物」
僕はテオさんの言葉を口の中で呟きながら、ドアを見つめた。
ぴたりと閉じているドアにも、ほんのすこしの隙間があるのだろう。
そこから二つの匂いが漏れていた。
ひとつは、ユーリ様の匂い。
もうひとつは……夜中にベッドを抜け出したユーリ様の体に、くっついている、あの匂い。
この部屋だ、と僕は思った。
この部屋に、もうひとりのオメガが居る。
そしてそのオメガのひとは……。
ユーリ様の、宝物なのだ。
誰にも見せたくないほど大切な、宝物なのだ……。
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