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かなしみの匂い②
不可解だ。
ものすごく、不可解だ。
ユリウスは眉間にしわを寄せながら、香り高い紅茶を口に運ぶ。
屋敷ではテオバルドの給仕もそれなりにはなってきているが、やはり王城の執事は格が違う。紅茶ひとつでそれがわかるのだから、国王も良い人材を揃えているものだ。
文句なしに美味い茶を嚥下したユリウスだったが、その眉間から憂いは晴れなかった。
「どうした、えらく不機嫌だな、ユーリ」
ユリウスの向かいに座るマリウス……サーリーク王国国王が眉をひょいと上げ、唇の端で笑った。
「おまえのオメガの五感がすべて治癒したと聞いたから、祝いのひとつでもと思ったんだが」
「それはどうもありがとうございます」
ユリウスが礼を述べると、マリウスが大仰に頭を抱え、隣に座る次兄へと訴えた。
「おいクラウス。俺たちの弟がなぜか随分と素っ気ないのだが」
「兄上。私は言いましたよ。ユーリはめでたく五感が治癒したリヒトと蜜月中なので、呼び出すのは控えた方が良い、と」
「ずるいぞ。自分だけ逃げようとするのは」
「いいえ。マリウス兄上ひとりの咎です」
クラウスが長兄をバッサリと断罪した。
ユリウスは半眼になり、二人の兄を交互に見つめて言った。
「僕を呼び出したのはお二人の連名でしたので、僕にしてみればマリウス兄上もクラウス兄上も同罪ということになりますけどね」
つけつけとしたユリウスの声に二人は震えあがったが、マリウスがふと表情を改めて問うてきた。
「機嫌が悪いというよりは、悩みごとがありそうな顔だな。なんだなんだ。この兄が聞いてやろう」
「…………」
「兄上に言いにくいようなら私が聞くが」
マリウスの横でクラウスが、さぁ話していいぞとばかりに身を乗り出す。それをマリウスが片手で牽制し、
「ずるいぞクラウス。俺が先に言ったんだ。さぁユーリ、俺に話すといい」
そう言ってクラウスよりも前のめりになった。しかしすかさずクラウスが兄の腕を躱し、椅子ごと前進してくる。
「兄上。ユーリが黙ってしまったではないですか。ユーリ。私の方が話しやすいと思うが、どうだ」
「抜け駆けはやめろ、クラウス」
「どこが抜け駆けですか。ユーリが兄上では話しにくいようだから、」
「なにを言うか! この兄に話せないことなどあるものか!」
威厳ある国王陛下と騎士団長が、互いによく通る声を張り上げるものだから、うるさくて仕方ない。
ユリウスは耳を塞ぎ、
「……しょうもないことで争わないでください」
呆れ声で二人の兄をたしなめた。
「「しかしユーリっ!」」
二人の声が被った。完全なるユニゾンだ。
ユリウスはひたいを押さえ、腹の底からため息を吐き出す。
「わかった。わかりました。言います。お二人に相談させてください」
ひらひらと両手を動かしてクラウスとマリウスを落ち着かせると、ユリウスの「相談させてください」に満足したのか、二人は即座に笑みを浮かべ、テーブルに肘を置いてずいとユリウスの方へ上体を傾ける。
「よし、いいぞ、話せ」
マリウスがニコニコと促してきた。本当に子どものまま大人になったような兄だな、とユリウスは内心で思った。これでよく国王が務まる。
しかしマリウスは不思議と城内でも国内でも人気があるのだ。それはひとえに彼のこの飾らなさが故であろうと予想がついた。
隣のクラウスをチラと見ると、次兄は満面の笑みこそ浮かべてはいなかったが、鋭い双眸がキラキラと輝いている。彼にこんな表情をさせることができるのは、世界広しといえどもエミールと自分ぐらいではないか、とユリウスはなんとも言えぬ気持になった。
「そんな期待に満ち満ちた顔で聞いてもらうような話ではないですよ?」
ユリウスが嘆息混じりにそう前置きし、
「実は……」
と切り出した。
ユリウスは毎晩、不可解な現象に悩まされている。
それは最愛のオメガ、リヒトに関することだ。
シモンが機転を利かせてリヒトの洗脳の『かけ直し』を行ったことで、半月前にめでたく残り二つの五感……味覚と嗅覚を取り戻すことができた。
紛れもない奇跡だ、とユリウスは思う。
教皇ヨハネスによって奪われた五感を、リヒトがおのれの力で手繰り寄せ、再び自分のものとしたのだ。
治療を開始してから実に二年。どれほどの道程だっただろうか。
健気に薬を飲み続けたリヒト。そして、ハーゼのことまであんなに震えながらも告解したリヒト。
あの頑張りが報われて良かった、とユリウスは心底安堵した。
そして、自分にしがみついて一生懸命匂いを確かめてくるリヒトの可愛さに、悶え転がりそうであった。
食事のたびに、
「ユーリ様、これは甘くてとても美味しいです」
「ユーリ様、これは少し舌がピリピリします」
「ユーリ様、これはとっても酸っぱいです」
とひとつひとつ教えてくれる姿が可愛くて可愛くて可愛くて、食堂に他の人間の立ち入りを禁止していて良かったとユリウスは過去のおのれの所業に感謝した。
もしもここにロンバードやテオバルド、グレタや執事などが居たら、彼ら全員に目隠しを強要したかもしれない。
おのれのオメガは誰にも見せたくないし見られなくない。自分だけのものにしておきたい。そんな欲求が果てもなく腹の奥底から湧いてくるのだから、そんな自分を自分でも持て余してしまいそうになる。
味がわかるようになって、リヒトは食事のときの笑顔が増えた。
ユリウスがかねてより想像していた通り、リヒトは甘いものが好きなようで、プチケーキやチョコレート、飴細工や焼き菓子を食べているときのしあわせそうな顔ときたら、肖像画に残して肌身離さず持ち歩きたいほどだった。
この肖像画については、実はこれまでにも幾度も検討をしてきた。
リヒトの可愛さを絵に残したい。
しかし肖像画を作成するには、画家に来てもらわなければならない。それはつまり、画家に、リヒトをじっくり眺められてしまうということとイコールだ。
画家というものはとかく服を脱がせたがる。
ユリウスもこれまでの人生で幾度も肖像画を作成された。王家にはお抱えの絵師が幾人も居り、ほんの子どものころからユリウスは引っ張りだこで、「王子の絵を描かせてください」「ユリウス王子、次はこのポーズでお願いします」「殿下、その上着を脱いだところを一枚」「殿下、その均整のとれたお体を布で隠してしまうのは大層もったいのうございます」等々と言われ続けてきたのだ。
それをおのれのオメガにされるのかと思うと、リヒトの絵姿を残したいという欲求以上に、自分以外の者の目に触れさせてなるものかという使命感が込み上げてくるのだった。
話が逸れてしまったが、とにかくユリウスのオメガは可愛い。
味覚と嗅覚を取り戻してからは、その可愛さがとどまるところを知らない。
最初の六日は、リヒトが熱を出したこともあり、仕事量をセーブしながらユリウスは持てる時間のすべてをリヒトとともに過ごした。
これまでと同様、抑制剤は用量をまもりながら服用し、それでもなおおのれのオメガの匂いで理性が危ういときは、溜まった熱を発散させるための場所へと籠もった。
そして七日目以降は王城勤務を平常通りにこなしつつ、夜はまたリヒトをべったり構い倒した。
匂い、というものにだいぶ慣れてきたリヒトは、
「ユーリ様の匂いが一番好きです」
とものすごい殺し文句を無邪気な顔で言って、うふふと笑う。
その笑顔にユリウスのこころの深い部分が揺さぶられ、どうしようもないような衝動と理性がおのれの中でせめぎあうのだった。
しかし、である。
しかし、そんな可愛い可愛いユリウスのオメガから、かなしみの匂いが消えない。
消えないどころか、ここ数日ではなぜかそれがどんどんと強くなってきているのだから、ユリウスにしてみれば不可解のひと言に尽きた。
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