かなしみの匂い②

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 なるほど、ユリウスに用事があるのはマリウスの方か、とそちらへ一歩足を踏み出したら、先ほどのユリウスを真似るかのようにマリウスがジリジリと後退した。 「ユーリ、あのな、怒らずに聞いてくれ」 「内容によります」 「ユーリ、兄上にもっとやさしく」 「内容によります」  ユリウスが同じ返事を繰り返すと、その冷ややかさに押されて二人の兄が顔を見合わせた。  おまえが説明しろ、とマリウスの目が語り、それは兄上の仕事でしょうとクラウスが無言の抗議を上げる。  やがて諦めの吐息をついた次兄が、 「ユーリ」  と口を開いた。 「おまえのオメガが今日、エミールと会っているだろう」  クラウスの言葉に、ユリウスは頷いた。  エミールに会いたい、と言い出したのはリヒト本人だ。 「エミール様のお屋敷へ行ってもいいですか」  と乞うてきたリヒトを、ユリウスは、本当は全力で引き止めたかった。  だって、エミールの屋敷へ行くということは、クラウスの住まいへ行くということと同義なのである。  これまでの、嗅覚を阻害されていたリヒトがそこへ行くのとはわけが違う。  ユリウス以外のアルファの匂いが沁みつく屋敷へ行き、クラウスの匂いをリヒトが嗅いでしまうということなのだ!  クラウス様の匂いはいい匂いです、とおのれのオメガが言い出したらどうしよう、というのがユリウスの最大の懸念だった。  そんな言葉、おのれのオメガの口から絶対に聞きたくない。きっとユリウスだけでなく、この国(サーリーク)のアルファが聞きたくない言葉第一位がそれだろう。自分以外の、べつのアルファの匂いを、ほんのわずかでも「いい匂い」だと認識してほしくない。  しかしユリウスは、リヒトの願いをすべて叶えてやりたい。リヒトがエミールに会いたいと言うなら「もちろんいいよ」と言ってあげたかった。  ここしばらく、ずっとかなしみの匂いを纏っているリヒト。この子がすこしでも楽しい時間が過ごせるなら、エミールを招待してもいい。  そうだ、リヒトが行くのではなく、エミールに来てもらえばいいのだ。  ユリウスはおのれの思い付きに膝を打ち、リヒトへとそう提案したのだが。 「僕が、エミール様のお屋敷へ行ってはいけませんか?」  と。リヒトが金色の瞳をうるうるとさせてそう尋ねてきたから。  ユリウスは仕方なく、本当に仕方なく、可愛いオメガのささやかな願いを聞き入れるべく、クラウスの下へと、明日リヒトが尋ねてゆくと使いを出したのだった。  ついでに使いには手紙以外にも消臭効果のあるハーブをたくさん持たせ、リヒトが立ち入るかもしれない部屋に必ず置くように、と指示も書きつけた。  そんな昨日のやりとりを思い出しながら、ユリウスは、 「ええ。リヒトの訪問を快諾いただきありがとうございます」  次兄に礼を述べた。  けれどクラウスは唇の端をひくりと動かし、次の瞬間、 「すまん!」  とユリウスに向って深々と頭を下げたのだった。     突然の兄の謝罪にわけがわからず、ユリウスは目を丸くする。 「ど、どうしたんですか兄上」  国王以外に低頭することなどない騎士団長の、金髪のつむじが見えて、さすがにユリウスはたじろいだ。  なにに対して謝られたのかまったくわからない。  疑問符を散らせるユリウスの目の横で、今度はマリウスがクラウスに倣えとばかりに腰を直角に折った。 「すまん、ユーリ!」 「なっ……マリウス兄上までなんなんですかっ」  ユリウスは慌てて二人の顔を上げさせようとしたが、彼らは絨毯を見つめたままでぼそぼそと口を開いた。 「ユーリ、今日リヒトが私の屋敷へ来ることを、私はうっかりマリウス兄上へと告げてしまったのだ」 「うむ。俺は聞いてしまった。リヒトが今日、エミールと会うという話を」 「……それがどうした……んです……か……」  言いかけたユリウスはそこで、ある可能性に行き当たり、ハッと目を瞠った。 「ちょっと待ってください。ものすごく嫌な予感がしますが」 「うむ。おまえのその予感は恐らく当たりだ」  国王が、頭を下げた状態であるにも関わらず、なぜか威厳溢れる声で告げてきた。 「俺がアマルにうっかり話してしまったのだ」  それを聞いた瞬間ユリウスは、頭が真っ白になって目の前が真っ暗になったかのような感覚に襲われた。   くらり、と揺れた視界を一度てのひらで塞ぎ、兄の言葉を反芻する。  マリウスの妻、アマーリエに。  本日リヒトがエミールに会うという情報が、漏れた。漏れたというか、マリウスが口を滑らせたのか。 「そ、それで、アマル殿は……」 「……クラウスの屋敷なら勝手知ったる場所だから、おまえのオメガを盗み見してくると言って……昼前に出かけてしまった」  果たしてユリウスの嫌な予感は見事に的中した。 「すまん」  男らしい眉を情けなく下げて、マリウスが謝罪を繰り返す。 「俺にアマルは止められん」 「私にも無理だった。ユーリ、すまない」  マリウスに続いてクラウスも詫びてきたが、そんな言葉、いまはなんの意味もなかった。  ユリウスは思い切り冷ややかな視線を兄たちに浴びせ、喉奥から低い声を吐き出した。 「リヒトになにかあったら、兄上たちとは一生口を利きませんからね。それでは僕はこれで失礼します」  一礼もなく踵を返したユリウスの肩を、左右から二人の兄が掴んで追いすがってくる。 「まっ、待て、ユーリっ!」 「ユーリ、落ち着け」 「放してください」 「ユーリ! 俺の妻がおまえのオメガになにかするはずないだろうが」 「兄上。相手はアマル殿ですよ? あのアマル殿相手に、繊細な僕のオメガが太刀打ちできると思いますか?」  ユリウスの質問に、マリウスがぐぅっとおかしな声を漏らして黙った。    サーリーク王国の王妃・アマーリエ。  彼女はマリウスが妻にと選んだだけあって、決して悪い人間ではない。  しかし生粋のお嬢様育ちの彼女は、よく言えばおおらか、悪く言えば無神経なところがあり、度々トラブルを勃発させるのだった。  アマーリエが十代の頃、マリウスに嫁いで自由がなくなる前に市井の民の暮らしを一度経験してみたい、と言い出したことがあった。  そこで学舎でできた友人の家へと泊まりに行ったのだが、部屋に通された彼女はなんと、 「いつになったらわたくしは中へ入れてもらえるのかしら」  と聞いたらしい。  そしてここが居間であると知るや、 「まぁ! わたくし、てっきりお玄関かと思ってましたわ! あら~、これがお部屋なのね。ずいぶんと小さいこと」  そう言って無邪気に笑ったのだそうだ。  ユリウスがまだ幼いころのことだったので、伝聞ではあるが、マリウスが否定しなかったので事実は事実なのだろう。  断っておくがアマーリエに悪気はない。  悪気はないからなにを言ってもいい、というわけではもちろんないが、アマーリエに悪気はないのだ。  そんなアマーリエだから、周囲は彼女を憎めない。  ユリウスも無論、この兄嫁が嫌いではない。いつまでも無邪気で若々しい笑顔も好ましく目に映る。  しかし、である。  思ったことをなんでも口にしてしまう彼女が、ユリウスの掌中の珠、誰よりも大事なオメガにいったいどんな失言をするのか、想像するだけでも恐ろしい。  アマーリエがリヒトを傷つけることなどないとは思うが、彼女の無神経はわりと群を抜いている。  王族のユリウスをして、世間知らずと言いたくなるアマーリエが、箱入りのリヒトと初の顔合わせを、ユリウスの居ない場所で行おうとしているのだ。  それを看過できるはずなどなかった。  急いでリヒトの下へと向かうべく、ユリウスは二人の兄を振り切った。 「ユーリ! アマルからはおまえを足止めしておくよう言われているんだ。俺たちがおまえを止めようとした、という事実はおまえの口からちゃんと伝えてくれ!」  背中でマリウスがわめいている。  まったく、我が兄ながらつがいに甘すぎる! なんでもつがいの好きにさせるな! ちゃんと手綱を握っておけ!  振り向いてそう言い返そうとしたが、立ち止まっている時間が勿体なくて、ユリウスは腹の中で怒鳴るに留めてカツカツと早足に廊下を歩いた。  すぐ後ろから、クラウスの靴音もついてきている。 「クラウス兄上がしっかり止めてくれたら良かったのに!」  ほとんど嘆く口調でそう言うと、隣に並んだクラウスが真顔で首を横に振った。 「兄上でも無理なのに、この私の言うことをアマルが聞くわけないだろう」 「威張って言うことじゃないでしょう」 「私も私のつがいが心配なんだ。ユーリ、痛み分けだ」 「はぁ?」  ユリウスは横目で次兄を睨んだ。 「エミール殿はアマル殿に慣れているけど、僕のリヒトは初対面なんですよ。痛み分けなはずないでしょう。リヒトになにかあればきっちり責任をとっていただきますからね!」  言い捨てて、ユリウスは歩調を早めた。  頭の中は、おのれのオメガのことでいっぱいになっていた。    
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