リヒト⑭

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リヒト⑭

 エミール様にお会いしたいです、とユーリ様にお願いをしたら、 「エミール殿から、リヒトの五感がすべて治ったお祝いにぜひランチをと、返事が来たよ」  エミール様から届いたカードを読んだユーリ様が、僕にそう教えてくれた。  僕はエミール様からのお誘いをありがたく受けて、昼前にテオさんと一緒にお屋敷を出た。  馬車の中でテオさんが、僕が膝に抱えた大きなバスケットを見てくんと鼻を鳴らす。 「ずいぶんといい匂いがしてますね」  テオさんの感想に、僕もつられて匂いを嗅いで、頷いた。 「はい。エミール様になにかお土産を持っていけないか相談したら、焼き菓子がいいだろうって」 「ユーリ様がですか?」 「あ、いいえ。ユーリ様じゃなくて、サデスさんです」  サデスさんというのは、いつも僕のための美味しいお料理を作ってくれる料理長さんだ。  味覚がわかるようになって、僕は食べることが楽しくなった。だから前よりはたくさん食事をしていると思うのだけれど、僕はまだ小さくて細いからって、サデスさんは栄養満点のドリンクを作り続けてくれている。  前にお屋敷で働くひとたちにお礼を言って回ったときから僕は、ちょこちょこと厨房を訪れてはサデスさんや他の料理人のひとたちに、料理の感想とお礼と伝えるようにしていた。  だから今日の朝食の後も、王城へ行かれたユーリ様をお見送りしてからサデスさんたちのところへ行き、今日のパンもすごく美味しかったですとお話をしていたら、僕が昼にお出かけをすることを知っていたサデスさんに、手土産は要らないのかって聞かれて。考えもしない指摘に僕はとっても慌ててしまった。  これまで、僕はいつも手ぶらでエミール様とお会いしていたのだ。  僕はあわあわしながらサデスさんに、 「お土産って、なにを持っていくのがいいですか?」  と尋ねた。サデスさんは筋肉がたくさんついた腕(まるでロンバードさんの腕みたい)を組んで、「う~ん」と唸ると、ちょっと待ってろと僕に声を掛けて、それから数人を集めて、このバスケットにたくさんの焼き菓子を盛り付けてくれたのだった。  テオさんに今朝の出来事をお話しながら、 「果物と、食べられるお花がとってもきれいに飾られているんですよ! お花畑みたいですごいんです! 見ますか?」  と、ウキウキとバスケットのフタに手を掛けたらテオさんが、 「エミール様へのお土産なんですから、最初に見るのはエミール様がいいでしょう。俺は遠慮しておきます」  両手をぶんぶんと振ってそう返事をして、なぜかそのまま頭を抱えてしまった。 「いつの間にサデスと仲良くなってんだよこの不思議ちゃんめ……あ~、また殿下に叱られる」  ぶつぶつとテオさんが口の中で呟いている。  馬車の車輪がガタガタと鳴る音に被って、僕の耳にはよく聞こえなかった。  なんだろう、とテオさんの方へ身を乗り出そうとしたら、膝の上のバスケットが滑った。 「わっ」 「危ねっ!」  僕とテオさんが同時にバスケットを押さえる。  ふぅ、と息を吐いたら、テオさんが。 「リヒト様。あなたの仕事は馬車が停まるまでその籠を死守することです。動かずじっとしといてください!」  茶色い目で僕をじろりと睨んで、そう言った。  落ち着きのなさを叱られて、僕は大人しく両手でしっかりとバスケットを抱え、エミール様へのお土産を死守した。  やがて馬車はエミール様のお屋敷の門を潜り、玄関ポーチでゆっくりと停まった。  テオさんが先に出て、足台を置いてくれる。ついでに僕の手からバスケットを預かってくれたので、僕は危なげなく馬車を降りることができた。  もうだいぶ体の動かし方に慣れてきたと思う。バランスもしっかりとれるようになったし、聞こえてくる物音や視界を横切るものに注意をとられることも減ったはずだ。  それでもテオさんやユーリ様からすると、僕の動きはまだまだ危なっかしいみたい。  ユーリ様なんてただ歩いているだけですごく優雅で、華やかなのに。  僕があんなふうに歩けるようになるのは、いったいいつになるんだろうか。  テオさんの手を借りて段差を降りたら、エミール様が両手を広げて僕を出迎えてくれていた。 「リヒト! 嗅覚と味覚が治ったと聞きました。本当におめでとうございます!」  なんだか久しぶりのように思えるエミール様のきれいな笑顔。  そのお顔を見たら、喉の辺りがきゅうっとなって。  気づけば僕はエミール様に抱きついていた。  エミール様の細い両手が、僕の背中に回される。  ユーリ様とは全然違う、エミール様のほっそりとした体。僕は背伸びをして、エミール様の首筋に鼻先を埋めた。 「エミール様」 「はい」 「エミール様の匂いがします」  涙声でそう言って、すんと鼻を啜ったら、エミール様がなんども頷いて。 「リヒト、良かった! 良かったですね!」  やさしく、僕の髪を撫でてくれた。  エミール様の飴色の目が潤んでいる。僕のために泣いてくれるこのひとは、やっぱりとてもきれいで。  そんなエミール様に触れることで僕も、完璧なオメガにちょっとでも近づくことができないかな、と考えて。  僕の胸はしくしくと痛んだ。  エミール様に、相談したい。  匂いがわかるようになったのに、僕にまだ発情期が来ないことを。  ユーリ様のお屋敷に……もうひとりのオメガが居ることを。  エミール様に、相談したかった。  なんて切り出そうか、と迷いながら僕が口を開く前に、横からゴホンゴホンと咳払いする声が聞こえてきた。 「ちょっとマジで俺が殺される未来しかないのでいい加減離れてくれませんかね?」  テオさんが息継ぎも挟まず、ものすごい早口で話しかけてきた。  あんまり早かったから僕は最後の「かね?」ぐらいしかちゃんと聞き取れなかったのだけど、エミール様はしっかり理解できたようで、形の良い眉をくっと寄せると、 「テオバルドは本当に口うるさいですねぇ」  と、僕にひそひそと囁いてきた。  僕はことんと首を傾げて、テオさんを見る。  テオさんはお腹の上辺りを押さえていた。……お腹が空いたのかしら? 「エミール様、お昼ご飯は、テオさんの分もありますか?」  焼き菓子はたくさん持ってきたから、テオさんにも食べてもらえるだろうけど、食事はどうだろう。  僕の質問に、エミール様の目が真ん丸になって。  それから「あははっ」と明るい笑い声を上げられた。 「もちろん、テオの分もあります。テオバルド、一緒に食べますか?」 「なっ……! 食べれるわけないでしょうがっ! なに言い出すんだこの不思議ちゃんはっ!」 「テオバルド、言葉遣い!」 「ぐっ……ごほ、ゴホン! 申し訳ありません……ってなんですか、そんな目で俺を見ないでください」  僕がじっとテオさんを見つめていると、テオさんがじりっと後退った。  そんな目ってどんな目だろう。  リヒトの瞳は満月みたいだね、とユーリ様は仰ってくれるけど、テオさんが見るなっていうぐらいだから、僕ってもしかして目つきが悪いのかな。   俄かに心配になりながら、僕はテオさんからエミール様へと視線を移した。 「あの、テオさんが僕をたまに、不思議ちゃんって呼び間違えるんです」  不思議ちゃんってなんでしょうか、とエミールへ尋ねてみたら、エミール様がなぜだか口元を押さえて、ニヤニヤと笑いだす。 「へぇ……いいことを聞きました」 「い、言ってません!」 「テオ、あなたリヒトのことをそんなふうに」 「言ってません!」 「ユーリ様にバラしても?」 「ぐぅ……それだけはご勘弁を……」  テオさんがガクリと膝を折った。  抱えたバスケットに振動がいかないよう、ちゃんと捧げ持ったままだったけれど、僕はびっくりしてしまった。 「えっ、あの、なにかダメなことだったのでしょうか?」  僕がいけないことを言ってしまったのかと焦りながらエミール様に問いかけたら、エミール様はきれいに微笑まれたまま、いいえと首を横に振った。 「なにもダメなことはないですよ。ところでリヒト、オレになにか話があるのでしょう? 食事をしながら聞きましょう」 「あ、はい」 「テオバルド、二人で食事をしますので」  エミール様が、二人で、を強調してテオさんへと話かける。  テオさんがハッと顔を上げて、 「いやそれは」  と言いかけるのを止めて、エミール様が囁いた。 「不思議ちゃんの件、いいんですか?」  テオさんが唸った。  エミール様が僕の頭を撫で、 「リヒト、行きましょう」  と促してくる。 「でも、あの」 「大丈夫。テオバルドの食事も別室に用意しています。今日はオレたち二人、水入らずということで」  にこりと笑いかけられ、僕はきれいなお顔に見とれながら、頷いた。  ユーリ様には内緒のお話がしたかったから、とてもありがたい申し出だった。 「リヒト様!」  エミール様と一緒に歩き出そうとした僕を、テオさんが呼んだ。  やっぱり二人きりはダメなのかなと思ったら、テオさんが。 「忘れ物です」  そう言ってバスケットを差し出してきた。  僕は慌ててそれを受け取り、両手でしっかりと持った。 「なんですか、それは」  エミール様がバスケットを見て、くんと鼻を鳴らした。 「いい匂いがしますね」 「焼き菓子です。エミール様へのお土産に」 「ありがとうございます! 部屋で開けましょう」 「はい! あの、ほとんどサデスさんがやってくれたんですけど、僕もほんのちょっとお手伝いしたんです!」 「リヒトが?」 「はい。お花を入れるのを、すこしだけ。とってもきれいなんですよ! ピンク色のお花が、僕が入れたところなんです」  お話しながらうふふと笑ったら、エミール様が突然ガバっと僕に抱きついてきて。 「天使っ!」      と小さく叫ばれた。  テオさんも僕を呼び間違えるけど、エミール様もたまに間違えている。  でもエミール様の腕の中は、なんだかとっても暖かくて。  ユーリ様とは全然違う匂いだけれど、僕がバスケットに入れたあのお花のようにとってもいい匂いがするから、僕は「間違えてますよ」と指摘することはしなかった。  
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