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王妃様!
僕は驚いて立ち上がった。
その拍子にテーブルが揺れ、僕の前にあったグラスが倒れた。半分ほど残っていたジュースがテーブルクロスに沁みを作る。
僕が慌ててグラスを起こそうとしたら、横から伸びてきた手がグラスをパっと立てて、お皿や他の食器を濡れていない場所に手早く非難させた。
「あらあらまぁまぁ」
いつの間にかエミール様と僕の間に王妃様が陣取っていて、王妃様自らが後始末をしてくれている。
僕はあまりのことに真っ青になって、エミール様へとたすけを求めた。
僕の視線に気づいたエミール様が、王妃様の肩越しに僕へと微笑みかけてくる。
「大丈夫ですよ、リヒト。怖いひとじゃありません。ただやっかいなだけです」
「まぁ、それは私のこと? いつからそんな意地悪になったのかしら。あら、でもエミールは最初から私に意地悪だったわ。ブスとは口をきかない、だなんて私に言ったのはあなたが初めて」
ねぇ、と王妃様が僕に向かって小首を傾げてくる。
しゃべりながらも王妃様の手はずっと動いていて、いつのまにか僕のこぼしたジュースの上は台拭きできれい拭われていた。
「あ、あの、ご、ごめんなさい……」
王妃様にテーブルを拭かせてしまうなんて、本当はすごく失礼なことだったんじゃないかな。
なんで僕はこんなにどんくさいんだろう、としょんぼりしながら謝罪をしたら、王妃様が「まぁ!」と口に手を当てた。
「まぁ! まぁまぁ! なんて可愛いの! ユーリは意地悪ね。こんな可愛い子を独り占めしてただなんて!」
王妃様がぐいと僕に顔を近づけてくる。
その距離があんまり近くて、僕は思わず肩を後ろに引いた。
僕よりも王妃様の方がすこし背が高い。その高さの分身を屈めて、王妃様が僕をじっと見つめてくる。
女のひとをこんなにも近くで見たのは初めてだった。
なんというか……ユーリ様やエミール様とは全然違う、ふっくらとしたやさしさがある。
お鼻から頬の辺りに、模様のように広がる仄赤いものがあって、それが王妃様の髪の色と同じで、とっても可愛かった。
僕がそこを見ていたことがわかったのだろう。王妃様がご自分の鼻の頭を指先で撫でて、
「白粉を塗っても隠れないの。嫌になっちゃうわ、このそばかす」
と仰った。
そばかす。この模様みたいなのがそばかすっていうのかな。可愛いのに、隠したいと思うのが不思議だった。
「アマーリエ様、リヒトにあんまり近づくと、ユーリ様が怒りますよ」
王妃様の背後からエミール様が肩を掴んで、僕から引き離す。
王妃様がまた「まぁ!」と言った。
「なんて他人行儀なの! エル、あなたにそんな呼ばれ方をしたら、鳥肌が立ちそう」
「アマーリエ様、リヒトの前ですからオレもそれなりにしますよ。あと、エルと呼ばないでください。クラウス様に怒られますよ」
エミール様が、なんだかとっても素っ気ない声で返事をする。
僕に話しかけてくださるときとは高さもスピードも全然違う話し方だ。
僕がポカンとしていたら、エミール様が僕へと、
「リヒト、大丈夫ですから座りましょう」
そう言って僕のところまでわざわざ回り込んできて、僕を椅子に座らせてくれた。
クッションの上にポスっと腰を下ろして、でも王妃様が立ちっぱなしだから落ち着かずに僕がもう一度立ち上がろうとしたら、その前にエミール様がご自分の椅子を王妃様へと譲った。
「王妃はあちらへどうぞ」
「あなたの椅子はどうするの?」
「オレはリヒトの隣に椅子を持ってきますので」
「まぁずるい。私もユーリの妖精さんの隣に座りたいわ」
「ひとの屋敷に勝手に忍び込んできたひとに、座る椅子があるだけありがたいと思ってください」
「失礼ね。忍び込んでなんてないわよ。正面から来ました!」
「どうせオレと約束してるとか嘘をついたんでしょう。うちの使用人があなたに逆らえないと思って!」
お二人の会話は、お花畑の蝶々よりも速く動くから、僕は、ユーリ様の妖精さんと呼ばれたことにもしばらくの間気づくことができなかった。
エミール様が使用人のひとに持って来てもらった椅子を、僕の椅子の横にぴたりとつけてから座った。そのエミール様越しに王妃様が、
「なんて意地悪なエルなの! ねぇ、ユーリの妖精さん」
と話しかけてきて……それで僕はようやく、自分のことだと知ることができた。
「あの、僕、リヒトです」
テオさんは、不思議ちゃん。
エミール様は、天使。
そして王妃様は、妖精さん。
僕の名前って、そんなに覚えにくいのかな。みんなよく間違えている。
「妖精さんじゃなくて、リヒトです」
せっかくユーリ様がつけてくださった名前だから、ちゃんと覚えてほしくて、僕は王妃様にしっかりと名乗ってから、ぴょこんと頭を下げた。
王妃様がにっこりと笑って、
「アマーリエよ。アマルと呼んでね」
と仰った。
アマル様。ユーリ様の、お兄さんのつがい。ということはアマル様もオメガなのだ。
アマル様の首にも、エミール様と同じ噛み痕があるのだろうか。
フリルのついた襟に覆われたアマル様の首筋へと、視線がつい引き寄せられる。
エミール様も、アマル様も首輪はしていない。首輪をしているオメガは、ここでは僕だけだった。
僕は首輪に嵌められている、金色の石に触れた。ユーリ様の髪と同じ色の宝石。ユーリ様は、リヒトの目の色だよと言っていた。きらきらの、金色。
ふと僕の手が握られた。
見ればエミール様が、すこし眉を寄せて僕の方を見つめていた。
「リヒト、さっきの話ですが」
「エルが完璧なオメガ、ってやつね。なんの冗談かしら。笑えないわ」
アマル様が笑えない、と言いつつも鈴のような音で笑った。
「アマルは黙ってろってば」
エミール様が肘でアマル様を押しのけた。アマル様は負けじと肘を張り返し、僕の方へと身を乗り出してくる。
「リヒト。あなたの言う完璧なオメガって、なにかしら」
そう問いかけてくるお声は、凛と響いて。
不思議な厳しさで僕の耳を打った。
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