リヒト⑭

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 叱られた、というわけじゃないのだろうけど、アマル様のお声の強さに、僕は無意識にふるりと肩を震わせていた。 「アマル。リヒトはきみのところの悪ガキじゃないんだから、そんな怖い声を出さないで」  エミール様が僕を庇うようにアマル様のお顔を押し返して、そう言った。  まぁ、とアマル様が目を丸くする。 「うちの子を悪ガキなんて言うのは、あなたかユーリのところのロンバードぐらいだわ。いまのは怒って当然でしょう。わたくしの友人を傷つける言葉を口にしたのだから」  アマル様がそばかすの浮いた鼻筋にしわを作って赤みがかった瞳でチラと僕の方を見た。  僕はドキリとして、エミール様を仰ぐ。  わたくしの友人、というのがエミール様のことだったら、僕がなにかエミール様にいけないことを言ったということになる。 「きみが『わたくし』というときは怖いんだよ、もう……」  エミール様が髪をぐしゃりとかき混ぜて、ふぅ、と息を吐いた。 「エミール様、あの……」 「リヒト」  僕の声に、エミール様がいつものやさしいトーンで僕の名前を呼んでくださる。 「先に言っておきますが、あなたはなにも知らなかったんですから、気に病まないでくださいね」 「知らないからと言ってなにを言ってもいいってことにはならないでしょう」 「これから説明するんだから、ちょっと黙っててくれないかな、アマル」 「まぁ! 冷たい友人だこと!」  アマル様が不貞腐れたようにそっぽを向いて頬杖をついた。  放っておいていいですよ、とエミール様が笑って、それから僕の手をそっと握ってきた。 「リヒト。アマルも言っていましたが、完璧なオメガというのはあなたの中で、どういう存在なのでしょう?」      エミール様の質問に、僕はすこし考えてから答える。 「……僕の勉強部屋に、絵本があります」  僕が文字の勉強を始めたのが、一年とすこし前。そのときにユーリ様がたくさん教本を取り寄せてくれた。  本棚に並ぶそれらを、僕はまだ半分も読めていない。簡単な言葉や単語程度ならある程度読めるようになったのだけれど、ユーリ様が読んでいるような新聞や専門書に書かれているような難しい文章は、ほとんど理解できないままだった。  僕はやっぱり頭が悪いのかしらと心配になってシモンさんに相談したら、文字の勉強というのはふつう、幼い頃からするものなのだと教えてくれた。  体と同じで、子どもの脳はどんどんと成長していくから、物事の吸収も早いんだって。  リヒト様はもう二十一歳。脳の発達もすでに止まっております。そこから新しいものを覚えてゆくのは、誰であっても困難なことでありましょうなぁ。ですがあなた様は頑張っておられる。その証拠に、とてもきれいに名前を書くことができております。あなた様の努力は、このシモンは元より、誰よりもユーリ様がきちんと見ておりますぞ。  シモンさんにそう慰められて、僕は絵本と、ユーリ様からいただいた宝物のお手紙で文字の勉強を続けていた。  最近は前よりも文字数の多い絵本が読めるようになってきていて、僕は、アルファとオメガの物語を本棚から探してはそれに一生懸命目を通した。 「物語の中のオメガは、みんな、アルファとつがいになってます。運命のつがいです。匂いで、運命のつがいを探して、うなじを噛んでもらうんです」  僕の言葉に、エミール様が苦い笑みをほろりとこぼして、首を傾げた。 「では運命のつがいに出会って、うなじを噛んでもらえばそれが、完璧なオメガですか?」 「……発情期(ヒート)が、あります。僕にはまだそれがありません」 「う~ん……。リヒトは、なぜオメガに発情(ヒート)があるのか、理由を知っていますか?」 「……赤ちゃんが……できます」  ポツリ、と僕は答えた。  発情(ヒート)になれば、オメガには赤ちゃんができる。  ユーリ様のお屋敷に居る、もう一人のオメガ。そのひとはユーリ様の子どもを授かったのだ。  ユーリ様はどこかで哺乳瓶を買われたのだろうか。 「リヒト」  泣きそうになった僕の手の甲を、エミール様がやわらかく叩いてくる。  ハッとしてエミール様を見ると、エミール様は苦笑いのままで首を横に動かした。 「それではオレは完璧なオメガじゃありませんね」 「……え?」 「だってオレには、子どもができませんから」 「…………え?」  僕はバカみたいに口を開けたまま、茫然となった。  エミール様がご自分のお腹の下を軽くさすって、本当ですよ、と言った。 「赤ちゃんを産むことがオメガの条件なら、オレは落第です。あなたの言う、完璧なオメガにはなれない。それでもクラウス様は、このオレでいいと言ってくださいますよ」  エミール様のお声はどこまでもやさしかった。  僕は、自分の吐き出した言葉を取り消す方法がわからなくて、あまりのことにブルブルと震えた。  どうしよう。どうしよう。エミール様を傷つけてしまった。  震えながら両手で口を覆う。  ごめんなさい、と言おうとしたら、うぇぇと泣き声がこぼれた。泣き声と一緒に涙もぼろぼろと溢れた。  僕は最低だ。最低の人間だ。恥ずかしくて、消えてしまいたかった。 「リヒト。リヒト、大丈夫ですから泣かないで。オレがユーリ様に叱られてしまいます」 「……うぇ……でも、僕、ぼく、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい」 「リヒト。最初に言ったでしょう。あなたは知らなかった。それだけのことです。そしてオレももう気持ちの整理がついてる。あなたがそんなに泣くことはないんです。リヒト、ほら泣きやんで」  エミール様がハンカチで僕の目を押さえてくれた。僕ははふはふと息をしながら鼻を啜った。  涙の味はいつも熱くて塩辛い。ユーリ様は僕が泣くと目元にキスをして、しょっぱいねって笑われるけど、僕はこの味が好きではないからユーリ様みたいに笑顔になれない。 「それで言うとわたくしも完璧なオメガじゃないわね」  凛とした声が割り込んできた。 「アマル。ややこしくなるから入って来るなって」 「なにを言うの。子どもの教育は親の仕事よ」 「リヒトはきみの子どもじゃないだろ」 「あら。ユーリのつがいならわたくしの身内も同然。弟も子どもも大差はなくてよ」  優雅に笑ったアマル様は、泣いている僕を覗き込んで、ふっくらとした唇を動かした。 「ユーリの妖精さん。あなたは根本から間違えているようね。わたくしが特別授業をしてあげましょう」 「……え?」 「アルファとオメガのお話よ。うちの子にもする話だわ」     うちの子……アマル様には子どもがたくさん居るって、前にユーリ様からお聞きした気がする。  僕はハンカチで目をごしごしと拭って、姿勢を正した。  アマル様が満足そうに頷いて、エミール様に紙とペンを持ってくるように告げた。  エミール様は空を仰いで頭を抱え、それからため息交じりに使用人のひとを呼んで、アマル様の希望したものを揃えた。   
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