目覚めのとき

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 それからさらに季節が一巡した。  ユリウスは十九歳になった。  第三王子の誕生日を祝おうと、朝から城内が騒がしい。  ユリウスはあらかじめ準備されていた服に袖を通しながら(余談だが、子どもを拾って以降身の周りのことを自分でするようになった第三王子に、着替えを手伝う機会がなくなってしまったという侍女たちの苦情が、なぜかロンバードへ届けられた)、いつものように眠り続けている子どもの頬へキスを落した。 「今日は僕の十九歳の誕生日だよ。きみが起きたらきみの誕生日も教えてほしいなぁ。きみはきっと冬生まれだね。そんな気がするよ。僕は一日留守にするけど、また夜に戻ってくるからね。いい子でおやすみ、僕のオメガ」  反応のない相手に話しかけることにも慣れ、よしよしと小さな頭を撫でてから離れようとした、そのときだった。  子どもの瞼が、震えた。  手が動いたり瞼が動いたりはたまに見せる動作だったので、ユリウスは特に気にしなかった。  しかし。  いままで、ずっと閉じていた目が。  ほんの少し……ほんの少しだけ持ち上がったではないか! 「っ!!!」  ユリウスは息を飲んだ。  限界まで見開いた双眸で、声もなく、その子を凝視する。  子どもの眉が苦しげに寄せられた。  布団の中でもがくように手が動いている。衣擦れの音でそれを悟り、ユリウスは咄嗟に掛布団をめくった。  上にあった重さがなくなったことでようやく持ち上がった手が、うすく開いている両目を塞ぐように覆った。 『……め、……いたい』  かすれた声が、ささやかに空気を揺らす。  異国の言葉だ。意味はよくわからない。しかしユリウスは子どもの様子から、反射的に窓辺に駆け寄り、分厚い帷幕(カーテン)を三分の二ほど閉めた。そうすることで部屋は適度な暗さになる。 「まぶしい? 大丈夫?」  寝台の傍へと素早く戻り、囁くように問いかける。  しかし子どもはユリウスの声には反応を見せずに、目を抑えたままで静止していた。固唾を飲んでその様子を見まもっていると、やがてその胸の辺りが規則正しく上下し始めた。  眠りに落ちたのだ。  ユリウスは震える手で、細い手首をそっと握り、子どもの手を元の位置へと戻した。  布団をかぶせてから、まじまじと寝顔を見つめた。  いま、目が開いた。  声も出した。  夢じゃない。  ユリウスの願望が見せた幻ではなくて。    現実に、ちゃんと起きたのだ!  叫び出したいような衝動が全身を駆け抜けた。  しかしユリウスはおのれの口を押えて、歓喜の悲鳴を飲み込む。  本当は叫びたかった。叫んで、もう一度起きてと子どもを揺さぶりたかった。  けれど死神の腕からすんでのところで逃れたこの子には、睡眠が必要なのだとわかっていたから。  ユリウスは必死に自分を律して、子どもの目元へとキスを落した。 「ありがとう。僕の誕生日に合わせて起きてくれるなんて、最高の贈り物だよ」  こころの底からのお礼を述べて、ユリウスは弾む足取りへ部屋を出た。  後ろ手に扉を閉めた途端に嬉しさが弾け、廊下で控えていたロンバードに大声で命じた。 「ロンバード! 侍医だ! 侍医を呼べ! 僕のオメガが起きてしゃべった! 目を開けたんだっ!」  まくしたてたユリウスをポカンと見たロンバードが、遅ればせながら言葉の意味を理解して、飛びあがって走り出した。  そして、驚異の速さで医師を抱えて戻ってくる。  ろくな説明もなく引っ張ってこられた侍医は、治療の甲斐なく子どもが死んだとでも思ったのだろう、真っ青な顔をしていたが、興奮に頬を紅潮させたユリウスの表情に、これは良い意味で招集されたのだと悟り、安堵に目が回ってその場で倒れそうになっていた。  医師は丁寧に子どもを診察したが、この日、子どもの目はもう開かなかった。  しかし翌日以降、ユリウスがおはようのキスをするときに、子どもの瞼は少し持ち上がるようになった。 「おはよう、僕のオメガ。今日も可愛いね」  ユリウスはすっかり習慣となった挨拶を口にして、子どもの頬にキスを落す。  そして、 「僕はユリウス。ユ、リ、ウ、ス、だよ」  と自分を指さして名乗った。  子どもはたいてい、言葉の途中で目を閉じてしまう。  けれど日を追うごとに徐々に、金色の瞳がしっかりと焦点を結ぶようになっていることに、ユリウスは気づいていた。  だから幾度も幾度も、毎朝子どもへ向けて名乗り続けた。 「僕はユリウス、ユリウスだよ」  そして、ユリウスの誕生日からひと月が経過しようとした頃。 「おはよう、僕のオメガ」    いつものように朝の訪れを告げると、それを待っていたかのように子どもの瞼が持ち上がった。  すこしの丸みを宿す頬をひと撫でし、 「今日も可愛いね」  と微笑んで、ユリウスはおのれの顔を指さした。 「僕は」 「ゆ、……す」 「っ!!」  子どもの唇が動いた。  声は掻き消えそうなほどにか細かったけれど、確かにユリウスの名を象った。  ユリウスは逸る鼓動を抑えきれずに、ベッドの上に半身を乗り出し、もう一度自分を指さした。 「僕は?」 「ゆ、ぃ、い、す」  子どもの金色の双眸が、ハッキリとユリウスの姿を映している。  ユリウスは感動に全身を震わせた。  なんて愛らしい声。なんて愛らしい目だ、と脳髄が揺さぶられるほどに刺激される。 「そう、ユリウス。ユリウスだよ。言いにくい? ユーリでもいいよ。身内はみんな僕をそう呼ぶ」  興奮のままに早口で告げ、それから我に返り、ゆっくりと言い直した。 「ユーリ。ユ、ウ、リ」 「……?」  戸惑うように子どもがまばたきをする。  ユリウスは声の音量を少し上げて、もう一度、一音ずつを区切りながら伝えた。 「ユ、ウ、リ」  ふっくらとした唇が、可愛らしく(とが)って。 「ゆ、ぅ、い」  ユリウスの言葉を真似て、たどたどしく発音される。  その仕草が驚異的に可愛すぎて、ユリウスはその場に転がって暴れまわりたくなった。  やばい。可愛い。おかしくなるぐらい可愛い。    しかし突然床に倒れ込んでジタバタと悶えるなんて奇行を、この子の前で晒すわけにはいかない。  ユリウスは必死に理性を繋ぎ留めながら、やさしい声で問いかけた。 「僕は、ユーリ。きみの名前は?」  おのれを指さして改めて名乗り、続けて子どもを指さす。  子どもの視線はユリウスの指の動きを追って流れ、ぼんやりと静止した。 「きみの、名前は?」  重ねてゆっくりと問うと、子どもの唇が動き……なにかを言おうとした唇から、コン、と咳が出た。  コン、コン。  乾いた咳が小さく空気を震わせる。    おっといけない、とユリウスは慌てて寝台の横の卓上から哺乳瓶を取り上げた。    水分はこまめにあげなければならないと医師から言われていたため、いついかなるときもここには飲み物が用意されているのだった。  中身はハチミツを溶かし込んだ果実水(ジュース)だ。 「喉が渇いてる? 今日は林檎水だよ。林檎は好き? 甘くて美味しいよ。ゆっくり起こすからね、いい?」    片手に哺乳瓶を持ったユリウスは、いつものように子どもの背を抱き起し、自身は背後に回り込んで座ると、子どもを自分にもたれかからせて、口元へと吸い口を近づけた。 「口を開けて」  やわからな唇の端を指の腹で軽く押して、吸い口を隙間に潜り込ませると、子どもがもごりと口を動かしてそれを吸った。  こく、こく、と喉の鳴る速度が、眠っていたころよりも速い。それが嬉しくてユリウスは、喜びを噛み締めながらおのれのオメガが果実水を飲む様をつぶさに見つめた。    やがて動きがにぶくなり、ふさふさの睫毛が重そうに閉じてくる。    寝てしまう、とユリウスが思うと同時に、子どもの瞼が完全に閉じてしまった。  吸い口から離れた唇は、少し開いたままで。  安心しきったようにユリウスに体重を預けて眠る子どもの頬に、ユリウスは神の国に召されるのではないかと思う程満たされた気持ちで、そっとキスをした。 「またあとでお話しようね、僕のオメガ」  そのときは名前が聞けるといいなと願いながら、小さな体を横たえて、ユリウスは鼻歌混じりにロンバードを呼び、自分のオメガがどれほど可愛かったかを滾々と語り聞かせたのだった。      
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