Lost and find

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 勤とジョルジュと飲み屋で別れた後、酔い覚ましにすこし街中を散歩してからオレは水煙草屋へと向かった。今日は終電よりも早い電車だ。  どうしようもなく店長が恋しい。接客で愛想よくしてくれているだけだとわかっていても、あの声が聞きたかった。  いつも通りに店のドアを開けると、カウンター越しに店長がにこりと笑って声を掛けてくる。 「イツキさんいらっしゃい。 待ってましたよ」  あれ? なんだかいつもと雰囲気が違う。でも、どう違うのかがわからない。  店長に今日のおすすめを聞いて、それを注文して、白地に青い刺繍が入ったクッションの置かれたいつもの席に着く。  運ばれてきた水煙草を吸うと、甘い香りがする。今日のフレーバーはキャラメルだ。これならマカダミアナッツのフレーバーのコーヒーを合わせたいのでそれを注文する。コーヒーの注文を取った後、今までなら店長はそのままカウンターの中に入ってしまうのに、今日は途中で一回だけ、オレの方を振り返った。その時に目が合って、店長がいつもとは違う顔で笑って、思わず動揺した。  なんだろう、いつもと違うのにどう違うのかわからないし、なんで違うのかもわからない。  ドキドキしながら水煙草をふかして、今夜も他の客がいなくなるまで店にいる。やっぱり、今日はなんだか店長と目が合う回数が多い気がする。  でも、いつもと変わらないところもあった。始発が動きはじめる時間になると、やっぱり店長は誰かを待つように、寂しそうな顔で入り口を見る。  その仕草に安心するような、苦しくなるような感覚がした。  ふと、ジョルジュの言葉を思い出す。オレの身に奇跡が起こるように祈っていると言っていたっけ。  奇跡は待ってても起こるはずがない。なにかきっかけを作らないといけないんだ。  だから、俺は思いきって店長に訊ねた。 「店長、だれかが来るのを待ってるんですか?」  すると、店長はすがるような目でオレの方を見る。こんな顔ははじめてだ。  店長は今にも泣きそうな声で、オレの問いに答える。 「僕の人生を助けてくれた恩人が来るのを待ってるんだ」  人生を助けてくれた恩人? 一体どんな人なのだろう。それに、店長はその人にどんなふうに助けられたのだろう。気になったけれども、そのことに触れると店長のことを疵付けてしまうと直感的に思い口を噤む。  どんなふうに返事を返したらいいのかわからずにオレが黙り込んでいると、店長は店内に他の客がいないのを確認してから、オレの隣の席に座る。 「その人、前はたまにこのお店に来てくれてたんだよ。 来たときはいつも、その席に座って」  オレが座っている椅子の肘掛けを店長が撫でる。心なしか手が震えているように見えた。  なんて言えばいいんだろう。なんて声を掛ければいいんだろう。  もうなにもわからなくなって、思いついたことをそのまま口にしてしまう。 「その人、最近来ないんですか?」  すると、店長はぐっと口を結ぶ。  訊いちゃいけないことだったか。迂闊なことを訊いたと後悔していると、店長がオレの袖を控えめに引いてこう言った。 「僕の話、聞いてくれる?」  オレは黙って頷く。  水煙草のパイプも膝の上に置いて、じっと店長の目を見る。覚悟を決めて聴かないといけない気がしたのだ。 「あの人、もうだいぶ前に行方不明になったんだ」  店長の言葉に思わず体が固まる。  だいぶ前というのはどれくらい前のことだろう。少なくとも、ここ二~三年では、このあたりで行方不明者のニュースは見かけていない。それとも、ネットやテレビで流れていないだけで、捜索自体はされているのだろうか。 「行方不明になったって気づいてから、警察にも届けたし、探偵にも依頼して調べてもらったんだよ。 でも、いまだに見つからなくて……」  店長の声色がどんどん沈んで震えてくる。  恩人だという人がいなくなってから、店長はどれだけ寂しくて心細い思いをしたんだろう。その期間が長くても短くても、そのつらさは計り知れないものだろう。 「……どれくらい、経ったんです?」  行方不明になってから経っている年数によっては、もう捜索は打ち切られているかもしれない。そう思って訊ねると、店長は華奢な手で指折り数えて答える。 「もう、七年かな。この店に来なくなって」  店長の言葉に頭を殴られたような感覚がした。  そんなに長い間、店長が寂しさと心細さを抱えていたこと、それでも客には笑顔を振りまいていたこと、ずっとその人を待っていたこと。そんな色々なことが衝撃になって襲いかかってきたような気がした。  それに、きっとこれは言っちゃいけないことなんだ。  行方不明になって七年見つからなかったら、その人はもう、法的には死んだものになってしまっている。捜索は完全に打ち切られているだろうし、きっともう、見つかることはない。  仕事柄、そういった事実を人に伝えることもあるし、普段はそのことにためらうこともない。けれども、店長にだけはそのことを言えそうになかった。  オレがなにも言えずに黙り込んでいると、店長はオレの袖をぎゅっと握って、自分に言い聞かせるようにこう続ける。 「でも、あの人は僕にひみつにしてることばかりだったから、きっと今も僕にひみつでどこかで生きてるんだ。 きっとどこかで今まで通りに生活してるんだよ。 きっとそうだ」  否定も同意もできなかった。  その人のことをなにも知らないオレが、軽々しく消息について言及してはいけないと思った。  店長はオレの袖を掴んだまま何度も、あの人は忙しいから来られないだけだと言葉を換えて言い続ける。  それをどれくらい繰り返しただろう。ついには店長は長い睫毛を濡らして泣き出してしまった。 「ねぇ、あの人が生きてるなら、それなのにここに来ないなら、僕はあの人に見捨てられたのかな」  咄嗟に、店長の頬を伝う涙を親指で拭う。店長の頬を包むように両手を当てて、何度涙を拭っても、店長の頬は乾かなかった。  店長の恩人というのは、本当に生きているのだろうか。もし生きているなら、せめてそのことだけでも店長に伝えて欲しいと思った。来られない理由を伝えて欲しいと思った。  けれども、でも、行方不明になって七年だ。それだときっと、生きていても連絡することは難しいだろう。  店長がオレの手の中で泣きながら零す。 「生まれてはじめて、僕のことを大切だと言ってくれたあの人に会いたいのに」  ああやっぱり。思わず胸が痛んだ。  店長は、恩人だというその人のことが好きなんだ。  そうだよ、七年もずっとここで待ち続けるくらい、店長はその人が好きなんだ。そんな相手にオレがいまさら勝てるわけがないし、代わりになれるわけもない。絶対に。  いや、今こうやって泣いて弱ってるところに、やさしい言葉なり甘い言葉なりかければ、店長はオレのことを少なくとも頼ってくれるようにはなるかもしれない。  でも、そんなことはしたくない。人の弱みにつけ込むようなことはしたくなかった。  失って、ただ美化されるだけの相手になんて勝ち目がないという思いと、目の前で店長が泣いているという事実で胸が潰れそうになる。  店長の涙を拭い続けながら、どうしたらいいかわからなくなっているうちに、視界が滲んできた。瞬きをすると、涙が零れる感覚がした。  泣きながら、それでも睨むようにオレを見た店長が言う。 「どうして泣いてるの? 安っぽい同情ならいらないんだけど」  これは同情なのだろうか。よくわからない。  しばらくお互い泣きながら黙り込む。その間に、オレはどうして自分が泣いてるのかを考えた。  店長が泣いているのは悲しい。これは事実だし、もしかしたら同情かもしれない。  でも、なんで店長が泣いてると悲しい? 店長に睨まれながらそれを考えて、なんとか理由に辿り着く。  いったん大きく息を吐いて、しゃくり上げながら店長の言葉に返す。 「オレ、店長の役に立てないのがくやしくて」  その言葉をきっかけに、店長の頬に触れている手から、店長の中の禍々しいものが揺れる感触が伝わってきた。ざわついて、オレの手に絡みついてくるようだ。  多分、今、オレならこの禍々しいものを暴力的とも言えるような方法で消し去ることができるんだと思う。  でも、そんなことをしてなんになる?  この禍々しいものも含めて、オレの好きな店長だし、これが消えるときがあるとするならば、それは店長が自力で乗り越えたときでないといけないんだ。  ああ、本当に。 「オレのできることなんて、本当に、今の店長の役には立たないんだよ……」  しゃくり上げながらオレがそう言うと、店長は少しだけ目を伏せて、頬を包んでいるオレの手の甲にひんやりとしたてのひらを重ねる。 「……イツキさんが一緒に泣いてくれるなら、それだけでいいよ」  店長の声色がすこしだけ柔らかくなる。それと同時に、禍々しいもののうごめきがすこしだけ大人しくなった。  オレが店長の涙を拭っていると、店長もオレの顔に手を伸ばしてきて指で涙を拭う。  お互いしばらくそんなことをしていて、手で拭っても意味がないほどに濡れそぼって、涙が手首を伝った。  ふと、店長がオレの頬から手を外して、オレの手に指を絡めて笑った。 「なんでこんなことしてるんだろ。 自分の涙は自分でなんとかすればいいのにね」  たしかに、言われてみればそれもそうだ。  オレの手はもちろん、店長の手も濡れていて、絡め合った指がひんやりした。  なんだかおかしくなってオレも笑いそうになった瞬間、こんなにしっかりと店長の手に触れているんだということに気がついて顔が熱くなる。 「あの、その、あの、なんかすいません……」  手を引っ込めることもできず、ぎこちない声でそう言うと、店長はくすくすと笑って立ち上がる。もう涙は零れていなかった。 「僕の話を聞いてくれたお礼に、一服奢りますよ」 「えっ? あ、ありがたく」  店長が客に一服奢るなんてところ、はじめてかもしれない。そう思いながらパイプの吸い口を握って店長を見てると、いったんカウンターの中に入ってから、煙草の葉が入った紙箱を持ってきた。 「それ、どんなフレーバーですか?」  慣れた手つきで水煙草の瓶の上部に煙草を入れて火を付ける店長にそう訊ねると、店長はまたオレの隣の席に座ってこう答える。 「あの人がお気に入りだったやつ」  一体、どんな気持ちでこれをオレに奢ったのだろう。そう思いながら吸い口を吸うと瓶の中の水を通った煙が口の中に広がる。いつも店長が勧めてくるような、甘かったり華やかだったりするフレーバーが一切着いていない、苦くて癖になる味だ。  オレが斜め上に煙を吹かすと、店長が訊ねてきた。 「どう?」  すこし身を乗り出して、オレの顔を下から見上げるように覗き込んでくる店長の仕草にドキドキしながら、オレはもう一回煙を吹かす。  この煙草の味は、なんていえばいいんだろう。正直言えば、オレはもっと甘いフレーバーの方が好きだ。でも、このいがらっぽくて苦くて、でも鼻を抜けるときに清々しくなるこの煙草も新鮮だ。  好きかどうかはまだわからない。だからこう返した。 「とてもいい」  もうすこし、詳しく味の感想を言ったほうがよかっただろうか。せっかく、店長が思い入れのある一服を奢ってくれたのだから。  でも、これ以外の言葉が出てこなかった。  オレの言葉に店長はどんな反応をするだろうかと思ってちらりと見てみると、驚いたような顔をして店長が笑った。 「あの人と同じこと言うんだね」  目が離せなくなった。まさか、こんな顔で笑うなんて想像したこともなかった。こんな、春の日差しの中で咲いているハルジオンみたいな……  笑顔のままじっと見つめてくるものだから、つい見つめ返して見とれていると、店長がくすくすと笑う。 「他のお客さんがその煙草吸うと、みんな難しい蘊蓄言うんだよ。 けっこう、希少な銘柄のやつだから」 「お、おう」  たしかに、蘊蓄をたれたくなるような味ではあった。そんな煙草だとわかってて、『とてもいい』のひとことで済ませていた店長の恩人は、なかなかいいものがわかる人だったのだろう。  ただならぬ煙草だということを知ってしまって、なかなか三口目をつけられないでいると、店長がそっと頭をオレに肩にもたれかけてきた。  店長は、手は冷たいのに、もたれかかっている頬と腕はあたたかくて、そのぬくもりに思わずドキドキする。顔もまた熱くなってきて、それを誤魔化すように、なんとか吸い口に口を付けて吸う。  店長がひどく穏やかな声で言う。 「なんか、あの人が帰ってきたみたいだ」  それを聞いて胸が痛む。そうだ、やっぱり店長が好きなのはその人なんだ。  わかった上で、オレはあえて店長にこう訊ねた。 「オレに、その人の代わりになって欲しいですか?」  すると、店長はオレの腕を一度掴んでから、体を起こして出入り口の方を見る。その表情は、先程の心細そうで寂しそうなものとはすこしだけ違った。  もし店長が、オレに恩人の代わりになって欲しいと言うのであれば、なってもいいと思った。  成り代わりたいわけではなく、店長の心の隙間がすこしでも埋まるなら、自分を殺してでも支えたいと思ったのだ。  出入り口を見る店長を見ながらゆっくりと煙を口に含んでいると、店長がオレの方を振り向いて、じっと目を見てこう言った。 「代わりにならないままで好きにならせて」  予想外の言葉に、思わず煙でむせてしまった。 「て、店長、今なんて……?」  驚いて煙でむせて苦しいし、だいぶみっともないところを見せてしまって恥ずかしい。  でも、それ以上に店長の言葉でオレの気持ちは浮ついてしまった。  だって、店長がオレのことを好きになりたいなんて、そんなこと言うなんて思ってなかった。  さっきまでの話を聞く限りでだってそうだ。店長は恩人のことが好きで、この店にもう七年も来てないのに待ち続けてて、そう、そんなに好きな人がいるのに、オレのことを好きになりたいなんて。  思わず動揺してむせ続けるオレの背中をさすりながら、店長がくすくすと笑う。 「僕、イツキさんのことが好きかどうか、まだわからないけど」  それはそうだ。さっきまで恩人のことをあんなに恋しがってたんだから。  店長が背中をさすってくれるのを感じながら、大きく息を吸う。呼吸を整えて、店長の方に向き直って、はっきりとした声で言う。 「あの、オレはもう、店長のこと好きだから!」  言ってしまった。  ふと頭を過ぎる。起こるのだろうか、奇跡が。  いや、多分もう起こってるんだと思う。  口から出た言葉はもう取り返せない。店長の表情が一瞬固まって、それからまたぽろぽろと泣きはじめてしまった。けれどもさっきのような悲壮な表情ではなく、泣きながらヒメジョオンのように笑っている。 「そんな気はしてたけど、そんなこと言うなんて思ってなかった」 「う、うん」  そんな気はしてたんだ。どうしてバレたんだろう。 「あの、なんでそんな気はしてたんです?」  オレが率直な疑問を投げかけると、店長は自分で涙を拭いながらくすくすと笑う。 「逆に、なんでわからないと思ったんですか? あんなにわかりやすい態度してたのに」 「はい」  そんなにわかりやすい態度してただろうか。してたとしたら、一歩間違ったら相当厄介な客だったな……  気づかないうちにしてしまっていた自分のやらかしに苦笑いしながら吸い口に口を付ける。ゆっくりと煙を吸って味わい、斜め上に吹きだして一息つくと、店長がすっと片手を差し出してきた。 「イツキさん、よかったらそれ貸してくれます?」 「え?」  それって、この吸い口だろうか。  今まさにオレが吸ってたやつを借りたいの? 突然のことに頭がぐるぐるする。震える手で店長に吸い口を渡すと、店長はためらうようすもなく吸い口に口を付けて煙を吸っている。  ゆっくりと、少しずつ時間をかけて煙を含んで、またゆっくりと煙を吹き出す。その煙の匂いは、吸い口から直接吸うものとはすこしだけ違うように感じた。  店長が、また少しだけにじんだ涙を指で拭ってから、にっこりと笑ってオレに吸い口を返してくる。 「はい、ありがと」 「お、おう」  どうしよう。店長が吸ったこの吸い口を吸うのか? いいのかそれは? 許されるやつなのか?  顔がまた熱くなるのを感じながら、渡された吸い口をじっと見てると、店長がまたオレにもたれかかってきて、耳元でこうささやいた。 「今度、この前みたいに花束を持ってきて、さっきと同じことを言ってほしいな」  それは、その場の勢いじゃなくて、あらためて告白しろということだろうか。  たしかに、さっきのはその場の勢いがあったから言えたのもあるし、勢いだけの言葉で済ませるのもなんだか悪い気がする。  でも花束。花束を持って、好きだって言うなんて。  花束を持って店長に改めて告白するところを想像するとクラクラする。  でも、ここで逃げたらだめだ。 「うん。今度また花束持ってくる。 この前よりも、もっといいやつをさ」 「ふふふ、あまり無理はしないで。 あれよりおおきな花束なんて、お店に飾りきれないんだから」  告白の証を店内に飾られるのかと思うと、すでに恥ずかしさで爆発しそうだ。  でも、約束したからには二言はないからなと、気持ちを落ち着けるように吸い口に口を付けて思い出す。  この吸い口、さっき店長が吸ってたよな……  今更ながらにそのことを思い出して、でも、ここで煙を吸いもせずに口を離すのも不自然な気がして、ぎこちなく煙を吸う。  すごくドキドキする。すごく緊張する。  水の中を通った煙を口に含むと、店長が吸う前とちょっとだけ味が違うように感じた。  いつもみたいに煙を吹かすつもりが、緊張のせいか深く吸い込んでしまう。こんなふうに吸うのは慣れていないので、またむせてしまった。 「イツキさん、大丈夫?」  店長が心配そうにそう言って背中をさする。その表情をちらりと窺い見ると、にこにこと笑っていた。  その顔を見てふと思う。オレは店長が素直で一途な人だと思っていたけれど、もしかしたらとんでもない小悪魔かもしれない。  でも、それでもいいかという気になった。オレがたまたまそのことを知らなかっただけで店長は店長だし、気を許してくれたからそういった側面を見せてくれたんだろう。  それになにより、背中をさすってくれる手つきはとてもやさしい。それだけでも十分な気がした。  しばらく店長に背中をさすられて、落ち着いてきたところで、これは絶対に訊かないといけないということを店長に訊ねる。 「そういえば、店長の名前ってなんていうんです?」  すると、店長はいたずらっぽく笑ってこう答えた。 「他のお客さんには言わないでね。 僕の名前は……」
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