4人が本棚に入れています
本棚に追加
短い恋の話
私のスマートフォンに届いた、一通のメッセージ。このメッセージが起こすひと騒動。
誰にも見向きもされない、私のつまらない人生に、彩りを添えてくれた短い恋の物語に、そっとお立ち寄りくださると嬉しいです。
SNSに何語かわからないメッセージが届いたのを見たとき、思わず
「こわっ」
と独り言が漏れた。
URLをクリックしなければ大丈夫、なはず。見たところ、URLはない。
翻訳アプリを駆使したところ、それがイタリア語なのだとわかった。
イタリア。ヨーロッパの南のほうの、あのイタリアだよね?行ったことないけど。知り合いもいないけど。ピザがおいしくて、物価が高くて、オードリー・ヘップバーンがジェラートを食べた、あのイタリアだよね?
私がSNSにつけたハッシュタグ
『おひとりさま』
が検索に引っかかったところから、つながったようだ。
『あなたは一人じゃない。今までがんばってきた。あなたは素晴らしい』
それが初めてのメッセージだった。
私は一度、SNSに愚痴を書いてしまったことがあった。それを読んでくれたのだろう。
父が病気で要介護になったとき、私は大学生だった。奨学金とバイトでお金をなんとか工面し、勉強と介護にほとんどの時間を取られ、楽しいことなんて一つもなかった。
バイトをしなければ学費が払えないのに、バイトで帰りが遅いと、母に叱られた。
「なにやってたのよ!早くお父さんのおむつ替えて!」
ヘトヘトに疲れて、まだレポートの課題もあるのに。
母は介護のストレスを私に当たることで紛らわした。
母一人での介護には限界があるとわかっていたが、あまりにもアテにされるので辛かった。
父が亡くなり、私は遅い就活をして、無事、就職した。
奨学金という借金の返済はあるものの、仕事に邁進できる生活は楽しかった。努力すると確実に自分に返ってきた。良い評価を得られたりすると、承認欲求が満たされて、心が潤った。
なのに。
幸せな時間は長く続かなかった。
母が認知症を患ったのだ。
『親の介護のために仕事をやめるという選択は、絶対にしてはいけない』
書店の平台に積まれている雑誌の表紙に、大きく見出しが載っていた。
そんなの、読まなくてもわかってる。キャリアを捨てるな、二度と手に入らないって書いてあるに決まってる。そして、親が亡くなったとき、あなたは無職、収入ゼロ、年齢も上がって雇ってくれる会社もない、と。
わかってる。すべてわかってる。
しかしどうしようもなかった。母は他人の助けを嫌い、ヒステリーを起こしたので、ヘルパーさんから断られてしまった。父の病気にお金がかかったので、有料老人ホームに母を入れる大金もない。
仕方なく、私は会社をやめた。
父の遺族年金、母の障害者年金など、公的な支援にすがっても、それぞれ金額が少なく、結局私の貯金を切り崩し、長い年月を介護に費やした。
母が高齢で亡くなったとき、私は五十代前半。貯金ゼロ。
以前、書店の平台にあった雑誌の通りになったなあ、とぼんやり思った。
生きていくために、近所のスーパーでパートを始めた。
ボロボロの一軒家でも、あるだけマシだと思いながら、休日、庭に布団を干した。
縁側にゴロンと寝そべり、陽にあたっている、気持ち良さそうな布団を眺めた。
あー、五十代、友達なし、恋人なし、おつきあいの経験もなし。幸せはふかふかの布団に寝ること。たしかにそれは幸せだけど。
寂しい。
とっくに諦めた気持ちだったのに。
友達と買い物に出かける。一緒にランチを楽しむ。パンケーキを食べるために並ぶ。恋人と温泉に泊まる、浴衣姿を、似合うね、と言われる、ちょっと強引に抱きしめられる。
すべて、夢にさえ思うこともない、違う世界の、キラキラした話。私が関わることは決してない話。
気まぐれにSNSに、今までの苦労と、一人になった寂しさを書いてしまったのは、なぜだろう。干した布団だけが私の人生最大の幸せなんて、それはいくらなんでも……と気づいてしまったからだろうか。
『あなたは一人じゃない。今までがんばってきた。あなたは素晴らしい』
おそらく外国人の、縁もゆかりもない誰かだけが、私の人生を肯定してくれた。そして陽のあたらない場所でがんばってきた私の人生を、素晴らしい、と褒めてくれた。
私にも価値がある……そう思っていいの?
『私は一人じゃない?それはあなたがいてくれるということですか?』
その日のうちに、私はメッセージを返してしまっていた。
『わたしの心はあなたのそばにいます』
翌朝、まずスマートフォンをつかんだ。
返事を読んで、気絶しそうになった。
読めないイタリア語が美しく見える。
『私は女性で、性的にはマジョリティーで、日本人です。それでもあなたの心は私のそばにいますか?』
私は浮かれていた。
相手が男性だったら、私は既に恋をしていると思ったし、女性だったら、心の支えになる友人ができたと思った。
『わたしは男です。イタリア人です。あなたは自身の人生を両親の介護に捧げた、尊い精神を持っている人です。わたしはあなたに惹かれました。あなたは美しい』
翻訳アプリ、壊れてないよね?
イタリア人の男性が、こんなくたびれた、なんの魅力もない私を、美しいって。
私は走って洗面台に向かった。
鏡の前に立ち、前のめりになって凝視する。老眼のせいでよく見えない。鏡に近づいたり離れたりして、ようやくピントの合う距離を見つける。
シミも皺も目立つ。頭頂部の分け目の白髪が光に反射する。
美しくない……。
握りしめていたスマホを再度覗く。
彼の言葉一つ一つが私の心を揺さぶる。
心が満たされていくのがわかる。
血流が良くなったのか、末端冷え性の辛さも感じない。
私は恋をしている、たぶん。
顔も知らない男性に、恋をしている。
ネットで知り合う人と恋愛をすることに抵抗がある世代の私が、ネットで知り合った、言葉も通じない外国人を好きになっている。
私、時代の波に乗っている?
少しずつ若返っていくような気さえする。
それからも頻繁に彼からメッセージが届いた。
彼は名前をアドリアーノと名乗った。三十代だと知り、歳の差に驚いたが、アドリアーノは年齢差は関係ないと、心強いメッセージをくれた。
『かなえ、あなたが愛おしい。わたしは日本語を覚えたい。かなえと直接話がしたい。会いたい』
『私はきれいではないのです。アドリアーノに見られたくない』
『いいえ、かなえには崇高な精神が宿っている。もっと自信を持って。わたしはあなたに幻滅したりしない』
『私を褒めてくれる人はアドリアーノだけです』
『日本人はかなえの魅力に気づかない。でもわたしはかなえが魅力的な女性だということを知っている』
アドリアーノからもらうメッセージは、いつしか私のすべてになっていた。心も、体も、すべてアドリアーノのために使いたいと思った。
誰かを好きだと思う気持ちは、奇跡そのものだと、私はやっと知った。なんて貴重なことなんだろう。生きているうちに、どんなに輝く宝石よりずっと美しい心の有り様を経験できるなんて!
「かなえさん、最近、いつもニコニコしてる
ね」
パート先のスーパーで一緒に品出しをしている由美子さんが、ダンボールをたたみながら、笑った。
「最初はずいぶん暗い人が入ったなあ、って思ってたけど。歳が近いのに、話しかけることもできなかったのよ?でも最近は明るくなったね。一緒に仕事していて楽しいよ」
由美子さんが嬉しそうに、勢いをつけてダンボールをたたむ。
由美子さんには旦那さんと高校生の息子さんがいる。
私からしたら、由美子さんは憧れの対象だ。私は劣等感でいっぱいで、いつも目を合わせず、俯いてばかりいた。でも今は違う。
「好きな人がいてね、相手も私を好きだと言ってくれてるからかな」
もう話したくて話したくて、どうしようもなかった。
「えっ、そうなの?素敵!いいなあ、恋愛」
私が手に入れられなかった幸せを、当たり前のように手に入れている由美子さんに、今、私は羨ましがられている。なんていい気分なんだろう。
「デートとか、どこに行くの?」
由美子さんに訊かれて、私は答えられなかった。
「あ、デート……ね」
「あっ、いい、いい。言わなくていいっ」
由美子さんは言い澱む私の態度から勘違いしたようで、慌てて話を打ち切った。
『かなえ、わたしはかなえに会いたい。日本に行きたい。許されるならかなえと結婚して、これから先の人生をかなえと過ごしたい。かなえの白百合のような心に触れていたい』
アドリアーノがくれるメッセージは日に日に情熱的になり、私を欲してくれるようになった。
イタリア人て、なんてロマンチストなの。
『私もアドリアーノと一緒に暮らしたい』
『かなえ、わたしはとても悲しい話をしなければならない』
『アドリアーノ、どうしたの?』
『かなえはイタリアの失業率がどのくらいか知っているかい?』
私は急いでインターネットでイタリアの失業率を調べた。そして愕然とした。ここ十年、ずっと十パーセント前後で推移している。日本がひどい時で五パーセント。ここ数年は三パーセントまでいかないくらい。
『アドリアーノ、もしかして、仕事ないの?』
『うん。だからかなえに会いたいけど、渡航費用が用意できないんだ』
『いくら必要なの?私、振り込むから、もし私を信用できるなら、振込先を教えて』
『かなえ、あなたは本当に優しい。その高貴な精神にわたしは惹かれている。しかしお金は要らない。わたしたちの関係が壊れてしまう』
ああ、翻訳アプリがもどかしい。私がイタリア語を読めたら、もっと細かいニュアンスまで理解できるのに。
『私達の関係は壊れない。振込先を教えて。いくら必要?』
『必要なのは渡航費用だけではない。家族全員失業していて、もう生活費がない。まずは暮らしを立て直して、それからかなえに会いに行きたい』
家族?アドリアーノは独身ではないの?
『家族って?』
『父、母、祖母、姉、姉の子供が二人、わたし。七人家族』
……結構な大家族。
それでもアドリアーノが独身であることにホッとした。
察するに、お姉さんは離婚して戻ってきているのだろう。
七人の当面の生活費とアドリアーノの渡航費用。合わせていくら必要?
私にはほとんど貯金がない。
……たしか、母の認知症が発覚してすぐ、私になにかあった時に母が困らないように、と入った保険があった気がする。あれ、満期、いつだろう。まとまった金額が入るとしたら、保険くらい。
翌日、パート帰りに由美子さんが我が家に寄った。
私がアドリアーノの話をしたら、急に、話がしたい、と深刻そうに言ってきたのだ。
お茶を出そうとすると、由美子さんは、要らない、とにかく座って、と私を急かした。
居間のテーブルを挟み、向かい合って座ると、由美子さんは深呼吸してから、ゆっくり話した。
「かなえさん、私、今からかなえさんを傷つけることを言うかもしれない。でもかなえさんは私の同僚で、友達だから、言うね」
由美子さんの目力が強すぎて、私はたじろいだ。
「……な……に……」
「国際ロマンス詐欺って知ってる?」
「は?」
「国際、ロマンス、詐欺」
由美子さんは一単語ずつ切って、ゆっくりとその言葉を発した。
「かなえさんのイタリア人の恋人は、つまりね……詐欺師、だと思う」
ローテーブルの上で、由美子さんは両手を固く握りしめた。言ってしまった、という気持ちが伝わってきた。
「……アドリアーノは私を好きって……」
「うん」
「……結婚したい、って……」
「うん」
だんだん声が震えてくる。心臓の音が大きすぎて、うるさい。
由美子さんは恋愛している私のことを、いいなあ、と言った。羨ましがっていたじゃないか。だから詐欺だなんて嘘を言って、私の恋をぶち壊そうと……
……しない。
由美子さんはそんなことをする人ではないし、それ以前に、そんなに羨ましがっていなかった。目の前の由美子さんを見ればわかる。私を傷つけることを言わなければならないことが辛くてたまらないのだろう。固く握られた拳。ギュッと閉じた両目。噛みしめた唇から血が出そうだ。
「……今までのアドリアーノとのやりとり、見てもらえる?」
「うん……。保険の解約、とりあえず留まってくれる?」
「わかった」
私はスマホを由美子さんに渡した。
一時間近くかけて、膨大な会話を全部読んだ由美子さんは、はあっ、とため息をつくと、天井を見上げた。
涙が耳の方に流れた。
「かなえさんがアドリアーノを好きになるの、わかるよ。でもアドリアーノはやっぱり詐欺師だと思う。送金させるための演技だと思うよ」
「演技……」
「ごめんね、キツいこと言って……でもね、ちょっと演じれば出来ちゃうんだよ、ネットでの詐欺なんて」
演じてた……。演じてたんだ……。
由美子さんに、送金だけはするな、と強く言われ、私は約束した。
その夜、私はアドリアーノにメッセージを送った。
『アドリアーノ、ごめんなさい。送金はできません。私はとても貧乏で、両親から受け継いだ財産もないし、保険金もないのです』
アドリアーノからはすぐ返信があった。
『かなえ、きみの愛情はそんなものだったの?』
ショックだった。私の好きなアドリアーノはそんな言葉を私に投げつけたりはしない。
やはりお金なのか。
私は思いきったメッセージを送った。
『アドリアーノ、国際ロマンス詐欺って知ってる?』
あれから三ヶ月が経った。
あのメッセージを最後に、アドリアーノとは連絡が取れなくなった。
あのメッセージを送って、アドリアーノから返事がなかったので、翌日私からアドリアーノに再度メッセージを送ると、Error、の文字が出た。
エラー。
その赤い文字を見つめて、思った。
短い恋が終わったのだと。
演技だったとしても……。
私の精神を崇高だと言ってくれた。
私の心を美しいと言ってくれた。
私に会いたいと言ってくれた。
それだけで充分。私のつまらない人生にも、奇跡の時間があったのだと、いつか永遠に眠る直前に、思い出したい。
平凡で、明るいことはなにもない、一人の女の、短い時間の恋の話は終わります。
立ち止まってくださった方、もしいらっしゃいましたら、どうもありがとうございます。
詐欺にはお気をつけて。
最初のコメントを投稿しよう!