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踏み出した男
「あれ、北原くん。うちに来るなんて珍しい」
「どうも。お邪魔してます、江口さん」
鷹西は営業に着くと、すぐにパソコンに向かいデータを見始めた。待っていると声を掛けてきたのは、江口という男性で二年前に営業に配属された中途社員だ。前職での経験から若手の相談役として、サポートに回ることが多い人で、何かと尖りがちな営業部の中で他部署の人でも接しやすいと評判だ。
「今日は何しに? ……あぁ、鷹西か。付き添い?」
江口さんに気付いた鷹西が軽く挨拶すると、何をしに来たのか察したようだ。
「まぁ、そんなところです」
南条との関係を聞き出すチャンスと思ってついてきたとは当然言えないので、笑って誤魔化す。
「どうぞごゆっくり、と言いたいところだけど。うちの部長が帰ってこないうちに戻ったほうがいいかもよ」
江口さんは、部屋の奥にあるデスクを見る。姿が見えないと思っていたが席を外していたのは有難い。というのも――。
「あー、まだ怒ってます? あの人」
「まぁ、ただでさえ開発と営業は部長同士が仲悪いからねぇ。そこに、鷹西という大エースを持っていかれちゃ、そうなるよ」
「持っていかれたって言われてもなぁ……」
鷹西の今回の異動は、本人の希望だ。理由は、この会社で一番仕事ができる部署で勉強したいから、というもので、俺のチームが名指しされた。人事部からこの話を聞いたとき、企画としては断る理由もないし優秀な人間なら歓迎するくらいの気持ちでいたが、南条との関係を知った今となっては色々と思うところはある。
鷹西が企画に、それも、うちのチームに来たかった本当の理由。
(まさかなぁ……)
「あれ、江口さんて、鷹西がうちに来た理由ご存知でしたっけ」
「ああ、知ってる。部長以外だと俺だけだな。辞令理由なんて公表されないから、みんなは会社の方針だって思ってるよ」
「まぁ、一個人の希望なんて、組織にいればそうそう通るもんじゃないですからね」
「そうそう。俺らはサラリーマンだからな。でも、鷹西は優秀だったし、人事は会社全体として見た時の利益の方が大きくなると見込んで通したって聞いてるけど」
「まぁ……、そんなんだから余計におたくの部長は怒ってるんでしょうね。自分が育てたのにって」
「そりゃそうだ。それこそ、北原くんでいう南条さんみたいなものだったからね。南条さんから同じこと言われたら、北原くんどうする?」
想像もしなかったことを聞かれて驚く。そうか、そういうこともあり得るのかと一瞬想像するが。
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