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何も言わない女
「……そっか、分かった」
言われたことにそう同意を示すと、向かいに座った男は大きく溜息を吐いた。賛同したのに何故溜息を吐かれたんだろう。何も言わずに待っていると、初めて聞くような震えた声で、彼はこう言った。
「……それだけ?」
無音の部屋にその言葉がぽつりと浮く。それだけと言われても、それ以外に何を言えと言うのだろうか。
「それだけって……、だって別れたいんでしょ?」
「そうじゃなくてっ! 俺が言いたいのはっ……!」
「言いたいのは?」
彼が感情を露にするのは珍しい。付き合って二年になるけど、これが二回目だ。あの時も何で怒ってるのか分からないままで、とにかく私は冷静でいようとしていた。暫くして落ち着いたから、今回もその選択で大丈夫だろう。そうして、感情的にならないように聞き返すと、彼はより一層深く息を吐いた。そのまま黙り込んで、下を向く。
「……樹?」
反応がないままなのは流石に怖くて、声を掛ける。それでも動かない彼にどうしようかと迷っていたら、帰るわ、と小さく吐いて立ち上がった。
彼は後ろに置いてあった自分の荷物を取ると、玄関へと歩いていく。その後ろ姿を見て、漸く私は彼に別れを告げられたことを自覚した。
見慣れた彼の私服は、私が好きだと言ったシャツ。そういえば、よく着てくれていた。袖を捲ったスタイルが好きで、勝手に袖を捲っていたのを、何も言わずにそのままにしてくれて、そのうちに私がしなくてもするようになっていた。今年の夏は焼きたくないと、私の日焼け止めをよく塗っていた腕は白くて、私の方が焼けたとついこの間笑って話したっけ。細身の割にしっかりとある肩幅が好きで、隣に居ればよく首を預けていた。普段あまり近付いてこないのにと、そういう時はいつも回した手で頭を撫でてくれていた。そんな彼との出来事が、走馬灯のように頭を巡る。
そうして彼が靴を履き終えたとき、彼は振り返ってこう言った。
「お前さ……、本当に俺のこと、好きだった?」
それだけ言って、私の答えを待たずに玄関を開けて出て行った。
がちゃりと重たい扉が閉じて、まるで外の空気から全て遮断されたかのように部屋の空気も重くなる。
あ、そうか。終わったんだ。
待ってとも、嫌だとも、何も動かなかった私の唇に、生温くてしょっぱい滴が、すっと入り込んだ。
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