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そんな気はないが、まるで逃げ込む様に休憩室へと辿り着く。定時まで後一時間。今日は残業なさそうだし、明日は休みだし。ここを乗り切ればゆっくり休める。そうして、ウォーターサーバーの前まで着いて思い出した。
「……薬忘れた」
席から立ち上がる時、薬も持ったつもりだったが。どうやら私の頭は、鷹西さんに資料を渡すことで頭がいっぱいだったらしい。本当に情けない。自分で思ったより引き摺っている事実が、重くのしかかる。これは本格的に気合を入れないとまずそうだ。
仕方ない、もう薬は諦めてあと一時間耐えよう。よしっと息を吐いて、デスクに戻ろうとしたときだった。
「飲むか?」
「…………!?」
突如目の前に現れたのは、私の常備薬と同じ外箱。驚いて視線を流すと、箱をぶら下げているのは私の上司だった。
「北原、さん」
「飲みたかったんだろ?」
そうして、目の前でぷらんぷらんと箱を揺らす。二重の意味で驚きだ。
「ど、どうして分かったんですか? というかそれ、もしかして――」
「俺の、だ。お前のじゃねぇよ」
疑いの言葉を言い終える前に、北原さんは遮った。そして、はいと私の手に薬を乗せると、紙コップを取りウォーターサーバーで水を注いだ。そして、近くの机にそれを置くとよっこらせと親父臭く腰掛けた。
「それ」
「……はい?」
「それ、俺も飲んでるの。中間管理職だから、手放せねぇんだ」
北原さんは既に自分の薬を出していたようで、一錠を口に含むとガッと飲み干した。
「飲まねぇの?」
ぼうっとしたままの私に北原さんは不満そうに問い掛ける。折角上司がくれてやったのに、とでも言いたげだ。今日は飲むのを諦めようと思っていたから、有難いお申し出ではあるのだが。何故この上司は私が薬を欲していると分かったのだ。そのことが気になって、どうにもその場から動けない。眉間に皺を寄せて北原さんをじっと見る。
「……すごい目。俺、上司だよ、一応」
「……最近の上司は、部下の薬まで把握してるんですか」
話題にしたこともないのに常備薬を把握されているのは、ちょっと嫌だ。そんな気持ちから、更に眉間に皺を寄せると、北原さんは立ち上がってこっちに向かってきた。
「普段元気な部下が、今月に入って顔を顰めては席を立つことがまぁ多い多い。それに、あることが起きると、決まって引き出しから薬を取り出してどっかに行ってるのを何度も見てりゃ、隣に座ってる上司としては心配でしょうよ」
「………あ」
「変な誤解は解けたかなー、南条くん」
北原さんの言うことは真っ当だった。確かに北原さんは位置的には隣の席だし、部下の動きをよく見ていることでも慕われている人だ。そんな人が私の行動から今言われたことを見抜くのは、なんてことないだろう。変な誤解をしそうになって、私は思わず頭を下げた。
「す、すみません」
返答内容によっては、気持ち悪いと言い出しかねなかっただけに、余計に自分の誤解が恥ずかしかった。ただ北原さんは、上司として心配してくれただけだというのに。
「いいよ、別に。俺も薬飲みたかったし。ついでだ、ついで」
そう言って北原さんは笑うと、私の横を抜けて休憩室から出て行く。とりあえず、折角いただいた薬を飲もうかと、私も水を取りに行った。そのとき、ふと気づいた。
待て、待て待て。
今月の私の様子から、薬を定期的に飲んでいることを推察できたまでは納得した。だが、何故今、薬を飲みたくてここに来たと、北原さんは分かったのだろうか。そう疑問に思い、思わず北原さんを呼び止めた。
「北原さん!」
既に休憩室から出ていた北原さんは、ん、と顔だけ出した。
「私、席を外しただけです。なのに、なんで薬を飲みたかったって分かったんですか?」
別に変に疑うわけではないが、単純に疑問なのだ。席を立つたびに薬を飲んでいたわけではない。なのに、何故今飲みたいと分かったのか。すると北原さんは、あぁと言って、また休憩室に入って来た。そこで答えてくれるのかと思いきや、すたすたと近付いてくる。と、思ったより近い距離まで詰められた。北原さんとこんなに距離がつまることは別に初めてでもないのに、迫ってくる上司に思わず後退るが、北原さんの動きの方が早かった。
「言っただろ。”あることが起きると、決まって引き出しから薬を取り出してる”ってさ」
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