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いつもより抑えられた声色に、思わずびくっと肩が揺れる。私が知ってる”上司の声”じゃない気がした。でもそれはきっと、声だけのせいじゃない。意味ありげに言われた言葉のせいだ。何となく嫌な予感がするが、条件反射のように私の口は勝手に開いた。
「……あることっ、て」
北原さんは上からじっと私を見る。その目はすっと細められている。まるで、こちらの反応をじっくりと観察するとでも予告された気分だ。北原さんに見られるのは何でもないことのはずなのに、その目が少しだけ、少しだけ怖い。だけどもっと怖いのは、その後に続いた言葉だった。
「鷹西と、話した後」
「………!」
気付かれていた。何も悪いことをしていたわけではないが、誰にも指摘されたことがなかった鷹西さんとの関係を知られ、思わず顔が引き攣り、さっと北原さんから目を逸らした。いつだ。いつから気付かれていた。私の態度はそんなに分かりやすく出てしまっていたのか。それよりも、会社の中でもトップクラスに仕事に厳しいと言われている北原さんのことだ。仕事に私情を持ち込んで薬頼りになっているなんて知られたら、きっと怒られる。いや、もしや、呆れられているのではないか。
私の中に駆け巡る焦りと恐れ。顔から血の気が引いていくのが分かる。そして何も答えられないでいると、頭上に感じていた北原さんの影が離れるのを感じる。そして、少しだけ穏やかな声が私の耳に入って来た。
「……悪い、別に詮索するつもりはねぇよ。ただ、さっきも言ったが、いつもは元気なお前が今月に入ってこの調子なんでな。……上司として、心配なのは本当だ」
まるで、叱った後にフォローされたときの感覚。北原さんは怒ってない、らしい。それでも私は、顔を向けられないままだった。
鷹西さんが来てからの色々が、北原さんに気付かれたというたったその一言でぐるぐると色んな感情を引き出してくる。感情の抑制ができない。ここ最近ずっとそうだったのが更に酷くなる感覚が、体中にぎしぎしと嫌な音を立てて広がっていく。次第に、目頭が勝手に熱くなってきた。
「……話して楽になるなら、俺でよけりゃ聞くけど」
「………!」
優しい声と共に頭に乗せられた、北原さんの大きな手。それが合図だったかのように、堰を切ったように目頭の熱が溢れ出す。咄嗟に更に俯いて、それを隠した。この人の前で泣いたことはない。仕事でどんなに怒られても泣いたことはない。異性とのトラブルで泣く奴だと思われたくない。そうして私は、北原さんが向けてくれる優しさに何も反応できないまま、顔を背け続けた。その間もぽんぽんと頭に感じる優しい手の感触。北原さんは怒ってもいなければ呆れてもいない、んだろう。心配してくれているんだ。そんな人に対して、取る態度じゃないことは分かっている。だけど、心のざわめきが増すばかりで、どうにも動けない。
「南条」
北原さんに呼ばれた私の体は、びくりと震えて一歩後退る。北原さんの声は、いつもよりずっと優しいのに。私は怯えるように距離を取ることしかできない。
「………。……落ち着いたら戻ってこい。急がなくていいから」
何も話そうとしない私に、北原さんはそれ以上何も言わないからというように、最後にぽんと小さく頭を叩いた。そして、静かな足音で休憩室を出て行く。北原さんの気配が完全に消えるまで、時間はそうかからなかった。
一人残された休憩室で、私は情けなく項垂れる。
すみませんも、ありがとうございますも、何も言えず。
私は俯いたまま、ただ立っていることしか出来なかった。
そして、靴先にぼたっと落ちた涙を、誰か別の人のものかのように、ぼうっとした頭で見ていた。
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