何も言わない女

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 十分後、声もなくぼたぼたと流した涙を無理矢理ふき取り、さすがに仕事中だからと、北原さんから貰った薬をごくりと飲み干し、早足でデスクへと戻る。北原さんにはきっと引かれているだろう。北原さんとの会話で私が黙り込むなんて、初めてのことだ。絶対に変に思われている。加えて、心配してくれたことに対して、何も言えていない。これ以上、上司の印象を悪くしない為にも、仕事に集中しようと頭を切り替えるためよしっと気合を入れる。  それにしたって、いくら何でも心を乱され過ぎじゃないか。北原さんに気付かれただけでこの様だ。正直、鷹西さんが企画に来るあの日まで、こんなに引き摺ってるなんて、思いもしなかった。別れた当時はかなりの落ち込みを抱えて体調も崩していたりはしたけど、上司に気付かれて職場で泣くレベルだったとは。そこで、ふと思う。 (……私、引き摺ってる……? 鷹西さんとのこと)  いや、そんなことはない筈。鷹西さんと接していて感じる胸の痛みは、未練からくるもの、ではない筈、だ。さっきのは鷹西さんと話した後で気が荒ぶっていたところに、北原さんからの不意打ちだった。だから、取り乱したんだ。そうだ、そうに違いない。  違いない!  人間、思い込むことは時として大切なことである。 「北原さん、お返しします」  その後、四十分ほど残っていた就業時間を物凄い集中力で乗り切った私は、定時になった途端に帰り支度を始め、つい返しそびれた北原さんの胃痛薬を北原さんにお返しした。箱の上に、私の分の一錠を乗せて。  それを見た北原さんは、くすりと笑った。 「別にいいのに」  箱と一錠を受け取った北原さんは、それをすっと鞄にしまう。持ち歩いている、んだろうか。この人も大変なんだなぁ、普段そんな素振り見せないのに。そんなことを思いながら、私は深く頭を下げた。 「さっきはすみませんでした。あと、……ありがとうございます」  数秒ほど頭を下げた後、私は北原さんの反応を待たずにその場を去る。  謝罪はした。御礼も言った。今日の北原さんとの一件は、これでチャラだ。  ………多分。
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