カッターナイフ

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 「ねえ、教頭先生泣いてたの、みた?」  「あとで写真撮ろ!」  「もう、制服着られないんだ」  卒業式を終えた生徒たちが、教室に戻って来る。生徒たちの表情は晴れやかで、この日を迎えることができた喜びと、少しの寂しさに溢れている。今日だけはくるみのやつれた顔にも、淡い明るさが浮かんでいた。  でも、あの子は来なかった。  くるみは亜紀の席に視線を移した。そこだけ誰も寄りつかない、空っぽの席。しかし、朝にはなかったはずのものが、机の上に置かれている。    カッターナイフ。  亜紀が肌身離さず持ち歩いていた愛用の品が、無造作に放り出されている。  くるみの仄白い頬が、すうっと青ざめた。何気なさを装ってカッターナイフを拾い、袖の中に隠す。  「くるみ、大丈夫?」  友人が心配そうに訊ねてくる。  「うん、平気」  くるみは力なく笑った。  「そっか。辛くなったら、すぐに言うんだよ」  「わかった。ありがとう」  袖の中のカッターナイフを、お守りのようにきゅっと握りしめる。  高校最後のホームルーム。担任が感動的な話をしているらしく、数ヵ所で誰かの涙ぐむ音がする。くるみは上の空で、自分の席に座っている。  私は……別世界のわたし。この世界に私の空きが出来たから、意気揚々と成りすましに来たんだ。  鉄橋の手すりに立った亜紀が、言っていた言葉を思い出す。  やっぱり、本物のあきちゃんは溺死したんだ。あきちゃんは死んでしまった。  恐ろしい喪失感が、くるみの胸を押し潰す。息苦しさに、くるみは額をおさえて堪えた。  川から出てきたのは、偽物。偽物だってすぐに判った。いつもトゲついた目付きで、他人を拒絶する孤独な雰囲気をまとっていたあきちゃん。私はそれが憧れだった。  いつも誰かと一緒じゃないと不安で、安心できない弱い私とは、大違いだから。それなのに。  偽物の目は、吐き気を覚えるほど穏やかで、親しみやすささえ感じられた。くるみは何よりもあの目に耐えられなかった。許せなかった。だから避けて、離れた。  あんなの、私のあきちゃんじゃない。  大事なカッターナイフを、こんな適当に放置しているのが、偽物である何よりの証拠だ。偽物の足にはきっと、傷痕ひとつないのだろう。  くるみは依然として、薬が手放せないというのに。  冷たく黒い川の底、亜紀は天女のように両手を広げて、水中に沈む。固く閉じた瞼、陶器のように透き通った肌、放射線状に柔らかく広がる黒髪。  揺れるスカートから覗く形の良い足には、たくさんの赤い傷が刻まれている。  暗い、暗い水に漂う、赤いクモの巣模様に包まれた、亜紀の足。  あり得るはずもない、夢のように美しい水死体の亜紀を、くるみはぼんやりと幻視した。        
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