カッターナイフ

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 3月。亜紀は誰もいない教室で、ただ一人、席に座っている。開いた窓から吹きこむ春の風が、ひんやりと冷たい。  白く、薄いカーテンが細やかに翻る。  卒業式の今日、クラスメートは体育館での式典に参加している。  亜紀のように卒業生で参加しないのは、少数派だろう。多くの人が自分の手に直接、卒業証書を受けとりたいはずだ。亜紀もそう思っている。しかし、どうしても行動に移せなかった。  だって、あの子がいるから。  亜紀は薄く目を伏せた。  あの子――吉川くるみの、天使のようにふわふわといた長い、栗色の髪。大きくつぶらな瞳に、柔らかく華奢な身体。可愛い女子の典型、といった少女。  あきちゃん。  軽く鼻にかかる、甘えたような、くるみの声。耳に染みこんだあの声を、もう二度と聞くことはないのだと思うと、感慨深くさえある。  この三年間、亜紀の心はひどく殺伐としていた。全て壊して、めちゃくちゃにしてやりたい。そんな破壊衝動を抱えて、日々を過ごしていた。全部、全部消えて失くなればいいのに。  理由はわからない。ただ、学校も、世界も、そして自分自身も、とにかく大嫌いだった。  そんな気持ちが限界に達すると、亜紀の手にはカッターナイフが握られた。工作用の細いカッターナイフ。いかにも汎用らしい、クリーム色のフレームだ。  親指をスライダーに当て、くっと力を入れながら刃を押し出すと、キチ、キチ、しっかりとした音が鳴る。  とは言っても、手首は切らない。手首は一目に触れるから。  亜紀が、制服のポケットに常時携帯するカッターナイフを、くるみは興味深々に、微かに怯えた目で眺めていた。  くるみの場合は薬だった。特定の成分が入った薬を、一度に何錠も飲む。  いつも友達や彼氏に囲まれて、朗らかに過ごしている彼女が、夜は全く眠ることが出来ずに、薬の過剰摂取を繰り返す。  亜紀とくるみは、そんな、人には言えない秘密でつながっていた。    
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