カッターナイフ

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 錆びついた橋の欄干に、亜紀の足がかかる。焦げ茶色のローファー靴には、たくさんの微細な氷の欠片がこびりついていた。  「ふり、って、どうするの?」  くるみはどこか幼い表情で、川を見据えている。  「そうだなあ。……よっと、」  冷たい手すりに迷うことなく両手をつき、亜紀は上体を持ちあげた。足を引っかけてよじ登り、橋の欄干の上に立つ。真っ直ぐに背筋を伸ばし、両手を広げる。  「危ないよっ」  くるみが言う。  「危なくないなら、意味ないって。んー、」  亜紀は思案気に上を向く。暫くすると、すらすら話を始めた。  「私はここから飛び降りて、溺死した。水は冷たいし、苦しかっただろうな。死体は底に沈んだまま、二度と浮かんでこない。きっと無惨だよ。身体が水を吸って、何倍にも膨らんでる。ナメクジみたいにぶよぶよで、原形を留めてないね。親ですら私だって判別できないくらい、ぶよぶよ。髪の毛がヘドロみたいに広がって。今頃、魚にでも啄まれてるかも。まあ、そんな感じで、私と一緒に破壊衝動も死ぬ。世界の平和は守られた。おしまい。めでたしめでたし」  「じゃあ、今いるあきちゃんは、誰なの?」  作り話に乗ったくるみが尋ねる。  「私は……別世界のわたし。この世界に私の空きが出来たから、意気揚々と成りすましに来たんだ。別世界のわたしは、何も壊す気がないし、皆ともそこそこ上手くやっていきたいと思ってる。カッターも持ってない」  亜紀は口の片端だけで、軽く笑った。  「どう。面白い?」  「えぇー、あんまり。だって死体が怖すぎるよ」  「実際、水死体ってそんな感じらしいじゃん」  その時川の方から、強い風が鉄橋に向かって吹き付けた。くるみはあまりの寒さに身を縮ませた。欄干に立つ亜紀は、凍える風をもっとまともに受けてしまったはずだ。  くるみは隣りを見上げて――大きな瞳が唖然と見開く。  亜紀は心底不快そうに、顔をしかめていた。手入れのされていない太い眉が、きゅっと眉間に皺を寄せる。風に流れる重たげな黒髪。  学校指定のコートは、腰までしか長さがない。亜紀のプリーツスカートが、紺色の旗のようにひらりと舞った。  亜紀の足が、顕になる。  普段、膝下丈のスカートと、黒のハイソックスをヨレひとつなく引き上げて、隙間なく覆われている亜紀の足。  翻ったスカートから、隠されていた白い足が垣間見えた。膝から上、大腿部の側面にびっしりと、赤い線が幾重にも乱雑に走っている。  くるみには初め、それがクモの巣のような、赤い網目模様に見えた。  薄く盛り上がった赤い線。まるで火傷のような、傷痕?  亜紀がいつも持っているカッターナイフ。一体何処を切っているのかは、教えてもらえなかった……。  「あきちゃ、」  「そこで何してる!」  くるみの掠れた声は、突然の怒声に掻き消された。歩道の端から数人の大人たちが、雪を踏み散らしてやってくる。  大声に驚いた亜紀の足が、びくっとよろめく。湿った手すりの上で、氷の欠片が付着しているローファー靴が滑った。身体が、糸の切れた人形のように容易く、川の方へと傾く。  がむしゃらに伸ばしたくるみの両手は、亜紀のどこも掴めずに空を切る。  高い水しぶきがあがる。  鉄橋から落ちた亜紀は、黒々とした冬の暗い川に飲みこまれた。      
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