カッターナイフ

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 亜紀は南校舎に面する窓を閉めた。風に乱れた髪を、手櫛で梳く。暖かな日差しが教室に満ち満ちている。  「まぶし、」  ぽつりと呟く。  川から引きあげられた亜紀は、何日か病院で過ごしたのち、あっさりと退院した。落ちるところを何人にも見られていたので救助が早く、大して水も飲まずに、怪我も軽い打撲で済んだ。  「ふざけていたら、間違って落ちてしまった。死ぬ気なんてまるでなかった」  亜紀が緊張感のない、けろりとした顔でそう言うものだから、大人たちもそれ以上の追及はしなかった。  この出来事でショックを受けたのは、落ちた方よりもむしろ、亜紀の落下をすぐ目の前で見てしまったくるみの方だった。くるみの繊細な心は、目撃したことに深く傷ついたらしい。カウンセリングに通い、家族や友人に付き添われ、只でさえ華奢な身体が、さらにか細くなってしまっている。  まるで、病に臥せるお姫様のように、弱く儚い。  亜紀は謝ろうとしたが、くるみの忠実な友人たちに阻まれた。悪い影響を与えるだけだから、くるみにもう関わるなと、険しい顔で釘を刺される始末だ。くるみ本人も、亜紀と目が合うと即座に逸らし、立ち去ってしまう。    避けられている。  それ以来、亜紀も極力、くるみに近づかないようにした。  亜紀が鉄橋から落ちたせいで痩せ衰えてしまった彼女を、申し訳なくて見るに忍びなかったのも、多分にある。正直、気まずかった。  こんな形で離れることになるとは思わなかったが、そもそも、亜紀とくるみは仲が良いわけではない。似たような秘密を持っている、ただ、それだけ。  その秘密すらも、無くなろうとしている。  ポケットに手を入れる。取り出したのは、カッターナイフ。三年間、何度も使ったそれは、よく手に馴染む。  亜紀の心は今、凪のように穏やかだ。あんなに何もかも壊したくて仕方がなかったはずのに。まるで全てが嘘だったかのように、重たい気持ちが消え去っている。  凍える川に、心を乱暴にぬぐい去られたのか。それとも死を間近に感じたからか。寒い冬が過ぎたから――もしかしたら、高校生活がようやく終わってくれたからかもしれない。亜紀の内ではっきりと、何かしらの一区切りがついた。  もう、カッターナイフは必要ない。  亜紀は一度だけ、教室をぐるりと見回した。この狭苦しい教室とも、これでお別れである。清々した気分だ。  カッターナイフを自分の机に置き去りにして、亜紀は一人、弾んだ足取りで出て行った。
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