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新入社員風の彼と顔を合わせるのは午前7時15分の丸の内線、通勤ラッシュで混む電車内、第6号車、東京駅までの約10分間。
喋ったこともなければ顔見知りでもない。同じ会社ということもなく、正真正銘赤の他人。
それなのに彼とはほぼ毎回目が合うから不思議だった。チラチラと視線を感じて振り向いた先、必ず彼がこちらを見ているのだ。目元を少し赤くさせて、すぐに視線は逸らされるのだが。
(なんだかその反応、まるで……)
よぎった考えに、いや、まさか、そんな、と内心苦笑に尽きない。
彼は色素の薄い柔らかそうな髪をきれいにセットしていて、清潔感があった。顔立ちが柔和だからどこか小動物を思わせる。かといってなよなよしているわけではなく、しゃきっと背を伸ばして立つ姿は好印象だった。同性が好きな自分からすれば、はっきり言って好みだ。
でもまさかなぁと思う。見るからに向こうは新入社員風、というかほぼ百パーセント入社したてのやる気みなぎる新人で、自分より二回り近くは年下なはず。かたやこちらはオッサン。大事なことだからもう一度言う、こちらは枯れきったオッサンだ。
前途有望な若者がこんなくたびれた男を見て頬を赤らめるなど、一体何事かと驚いてしまう。橋本環奈に似ていない自覚ならある。
ほら、窓に映る冴えないサラリーマンを見てくれ。楽だからという理由で定着したアップバングの頭には白髪が見えるようになったし、こだわることもなくなったスーツはぜい肉を隠すのに精いっぱい。眠たそうな垂れ目もぼやっとこちらを見返しているだけ。
塚本雅則という名前はあれど、それは何億という同種の人間から一人を識別するための記号にすぎない。権力もなければ高給取りでもない。野心などとっくに捨てた。今はただ毎日を、納税するためだけに生きているようなものだ。嗚呼、なんと立派な日本国民。
やはり何度考えても彼の反応は変だという結論に行きつく。女性からひっきりなしに声がかかりそうな容姿の青年が、こんなオッサンに頬を赤らめるなんて世も末だ。彼のことが少し心配になってきた。
*******
そんな世も末の青年を初めて見かけたのは約半年前の春で、それから毎朝同じ車両に乗り合わせた。彼はよく、モデルのように小さく形のいい頭を傾け、社用であろうタブレット画面をのぞき込んでいた。時折難しい顔をするのが可愛らしくて、思わず応援したい気持ちになった。ここ最近は悩ましげに画面を睨んでいるから、仕事が大変なんだろうと予想がつく。
今朝もまた車内に乗り込んできた彼は荷物を棚に置いて一息つくと、タブレットを操作し始めた。いつもと違うのはどこか緊張した面持ちですぐ隣に並んだことだ。ここまで接近したのは初めてのことだった。柑橘系の匂いがかすかに香る。あぁいいな。予期せず気分が上がる。
だが彼にとって悲劇と呼ぶにふさわしい出来事はそこで起こった。
2、3のスワイプののち軽く画面タップをした青年は、「うわっ」と盛大に肩をビクつかせた。何事かと目をやれば、視界に飛び込んできたのはチカチカするほどのピンク、肌色、ピンク、肌色、肌色、肌色……。
それは朝の殺伐とした雰囲気には似合わぬまるで18禁エロ漫画のような――いや、実際そうだろうとしか思えない――幼い少女が淫らな姿にひん剥かれてイタズラをされているフルカラーの特大ひとコマだった。幼女はたどたどしく「お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ」と連呼し、頬を真っ赤にして泣いている。
(……まじかよ)
雷が落ちたような衝撃だった。
もしかしたら声に出ていたかもしれない。
すると、隣に立っていた青年が悲鳴にも似た短い声を上げてタブレットをかき抱いた。付属ペンがひゅんと宙を舞う。そして青年はプルプルと震えながら、はくはくと口を開閉させ、ギギギッと顔を上げ……、
バッチリ目が合った。
みるみるうちに眉間にしわがより、青年の顔色が真っ赤になる。次には真っ青に変わり、最終的には血の気を失った蒼白な顔でわかりやすく絶望していた。眼のふちがどんどん湿っていくのが見える。
「あ、あ、ああ、あ……っ」
都合のいいタイミングだったのだろう、スピードを落とした電車が停車駅に到着してドアが開くと、回れ右をした青年は一目散にホームへと転がり出た。乗車時に棚の上に置いた通勤カバンや手提げをまるまると残して。
(いや、いやいやいや、ダメでしょ、社用タブレットでエロ漫画読むのも十分ヤバいけど、どんな人間がいるともわからない場所にこんな色々置き去りにするほうが何倍もヤバいって!)
気付いた時には荷台から荷物を取り、床のペンを拾い、自分もまた電車を降りていた。
「ねぇきみ! 待って!」
「う、うわぁぁぁ……」
半乱狂にうずくまる背中を見つける。いぶかしげな通勤客たちの間を縫って、怯える青年へと歩を進めた。
「大丈夫……?」
「よりにもよって、なんであなたが……っ」
「え」
言われていることの意味がわからなかったし、次の瞬間にはもっとわからなくなった。青年はこちらを見上げたまま眉頭に力を入れ、そしてもう耐えられないというようにぶわりと涙を溢れさせる。嗚咽が続いた。
「うぅっ……違うんです……僕じゃない……僕じゃ……。開いたらっ、いきなり画面にさっきのが映って、それで……っ」
「さ、災難だったね」
「誤解しないでくださいぃぃ」
「いや、まぁ、でも」
俺も若い頃は、そういうの普通に見てたし、わかるよ。
フォローのつもりでそう続けた。実際彼くらいの年代ならお盛んだろう。社用で見るのはやめたほうがいいというのは、まぁ黙っておくとして。
「ほんと違うんです、好きであんなの見たんじゃない! 信じてください!」
「信じるよ、信じる」
「うぅっ……ほんとうに違うのに」
青年は何かに納得がいかないようだ。次には勢いよくとんでもないことを言ってのけた。
「僕は幼女になんてキョーミない! そもそも女性にだってキョーミが持てないのにっ!」
「…………おお」
ボタボタと涙が伝っていく。彼はうなだれきって、やがて動かなくなってしまった。周囲の視線が刺さる。衝撃的なことの連続だったが、この時強烈に浮かんできたものはこの青年をどうにかしてあげたいという純粋な気持ちだった。
*******
「それで、要するに、同僚が面白がってエロ漫画をメールで送ってきたと」
「はい」
「ハァ~~~~」
青年の勤め先はフレックスタイム制らしく絶対に顔を出さなくてはならない時間までにはいくらか余裕があったから、襟までびしゃびしゃに濡れた彼を連れてカフェに入った。
聞けば、「今まで女性と付き合ったことがない」ということを同僚との飲み会でうっかり零してしまってからというもの、ことあるごとにそれをいじられているという。同僚は「性に淡白だと一生春は来ないぞ、もしかしてお前、特殊性癖でもあるのか」と言って初級者向けから上級者向けまで、ありとあらゆるコンテンツを送りつけては反応を楽しんでいるのだそうだ。最初はプライベートのスマートフォンが被害に遭っていたが、思い切ってブロックをかけた次の日――まぁそれが今日ということだが――、信じられないことに社用タブレットが標的に選ばれたらしいのだった。
思わず頭を抱えた。
「今どきはこんなに非常識な社会人がいるのか」
「すみません……」
「きみのことじゃない。その同僚だ。完全にアウトだろ。それ、上司には報告した?」
「……言うべきだとは、わかっているんですけど」
「勇気が出ない?」
「勇気の問題というか……その同僚も、悪い人じゃないし」
「……は?」
心の底からの「は?」だ。意味がわからない。こんなことされておいて、悪い人じゃないから咎めるのに気が引けるとでも言うのか。
「きみはお人よしすぎるみたいだけど、こういうのを放っておくのはよくないと思うよ。会社、続けていくんでしょう? それともすぐ辞めるの?」
「辞めるわけありません」
「だったらなおさら、その同僚とも気持ちよく仕事ができるように、きちんと言うべきだと思う。上司への報告が嫌なら、少なくとも、本人に……あ、そもそも本人にはやめろって言ってるか。言ってるんだよね?」
「……」
「嘘だろ」
なんなんだ、この子は。一気に印象が変わった。こんなに危なげな子だったのか。びっくりして口があんぐり開いた。
その後いかに今の状態が今後によくない影響を及ぼすか、考えつく限りの言葉を尽くして彼に説明した。わかってくれたのか、彼は小声ながら「本人に言います」と決心を口にした。
ブロックしたことで個人的に連絡を取る手段がないというから、スマートフォンを貸してやる。相手は知らない携帯番号にも臆しないタイプなのか――まぁ他人の社用タブレットにとんでもないものを送りつけてくる神経なのだから当然とも言えるが――3コール目には「はい、どちら様?」と電話を取った。話は5分ほどで終わった。
「……あぁ、緊張したぁ」
「お疲れ様。わかってくれたみたい?」
「多分、ですけど。言いたいことは言えました」
「そっか。よかったね」
震える手からスマートフォンを受け取り、労いの意味で微笑みかけた。もしひどくなるようだったらその時は絶対に上司に相談するように、と添えて。彼はしばらくこちらをじっと見つめ耳を傾けたあと「わかりました」と頷いて、そして何故か、顔を赤らめパッと視線を外す。いや、いやいやいやいや……。
「そ、それじゃあ俺はそろそろ出勤しようかな」
咳払いをして暇を告げる。それを青年が引き留めた。
「お名前……聞いてもいいですか?」
「な、名前?」
「教えてください。お願いします。あなたは僕の恩人だから……その、よければ、ぜひ」
「あー……、塚本だよ。塚本雅則。……きみは?」
パッと目が輝いた。彼は「塚本さん、塚本さん……」と呟いたあと、少し恥ずかしそうに「僕は藤宮です」と名乗った。
「藤宮くんね」
「はいっ、あぁ、どうしよう……塚本さん、思った通りの人だった」
「思った通りって?」
「あ、えぇっと」
青年藤宮は悪戯がバレた子どものような顔をして「塚本さんのこと、前からお見かけしてて、知っていたから」と白状する。
「あぁ、まあ確かに、よく目が合ったもんね」
「うそっ……気付いてたんですか」
「気付くでしょ」
肩をすくめて笑って見せる。すると藤宮は上目遣いでおずおずと聞いてくる。
「あの、つ、塚本さんは」
「ん?」
「……引かなかったんです、か?」
「なにが」
「僕が……女性に興味を持てないこと。だ、男性が……好きなこと」
「あぁ――」
そういえばそんなこと言ってたっけ、と思う。緊張した面持ちで拳をきゅっと握る青年を見ていると隠すのもなんだかなぁと思えてきて、はっきりと答えた。
「引かないさ」
「どうして」
「俺も同じだから」
「……お、なじ?」
「じゃ、悪いけど、俺ほんとにそろそろ出社しないと。また、どこかで会えた時には良い知らせを待ってるよ、同僚の件」
「あっ、えっ、えぇっ、待ってくださ――」
少し強引だったかな。そう思いつつ店を出る。会社まで徒歩で行けなくない距離だったから、駅とは別の方向に歩いた。なんとなくそうするのが正しく思えた。
だってだめだろう、深入りしたら。相手は自分の子どもでもおかしくない年齢だ。若い彼の目の前には選択肢がたくさんある。
じゃあ俺はどうだ? 恋愛イベントなんて長らく起きてない。十中八九、好意を見せられたらコロッといってしまう。そしてずぶずぶに愛してしまう。
枯れきったオジサンに新しい恋なんぞ要らない。
なぜならもう次にそれを失った時、耐えうる力なんて残っていないから。
だから、力強くアスファルトを蹴って会社に向かうしかないのだ。
振り返らずに。
*******
電車の時間をずらされたか、車両を変えられたか。とにかく毎朝藤宮と顔を合わせていた日々は唐突に終わりを迎えた。
ぼうっとした人生において、一瞬だけ交わった春風のようだった。日常はすぐさま元の形に戻り、色褪せ、納税だけが生きる理由となる。
身にこたえないわけではなかった。会ってしまえば危険信号が鳴るのに、会わないなら会わないで心臓が絞めつけられる。藤宮の顔を見るというささやかな楽しみさえ失ってしまった今、なんだか前よりもみじめな気分になった。
孤独だ。自分は誰とも一緒になれない。生涯。寂しい。
(……年甲斐もなく嘆いたりして、なにやってんだか)
そのうち朝早くに目が覚めることが増えた。ハッと意識が浮上するとそこから眠れなくなってしまう。二度寝をするのも疲れる。
そしてこの日は早々に諦めて家を出ると、ふと思い立ってあのカフェに行った。涙に濡れた青年を連れて行った、ある意味思い出の場所だ。
「ホットコーヒー、一つ。砂糖ミルクは要りません」
ずいぶん寒くなってきたものだ、と熱いコーヒーを受け取った時、近くから息をのむ声が聞こえた。
「つ、塚本さんっ」
「……藤宮くん」
数秒、互いに見つめ合っていた。我に返ったように彼が「お久しぶりです」と頭を下げる。流れるまま矢継ぎ早に、あのあと同僚とは改めて話し合いの場を持ち、もう迷惑行為はしないと約束してもらったのだと報告をもらった。
「そうか。頑張ったんだね。すごいことだよ」
「ありがとうございます。塚本さんのおかげです、僕――」
藤宮が言葉を切った。せっかくだからとカウンターに隣同士腰かけ、話に耳を傾けている途中だった。彼は赤い顔でうつむいたあと、意を決したような瞳を向けてくる。
「塚本さんにまた会えたらお礼を言おうと思ってて。……でも同じ車両に乗るのは気が引けて」
「なに、俺ってやっぱり避けられてた?」
「っ……、僕はただ……」
冗談めかして言ったつもりが曖昧な沈黙に取って代わられてしまった。藤宮は逡巡したあと、不貞腐れたように唇を突き出して言葉をひねり出す。当初抱いていたしゃきっとしたイメージとは違う少しあどけない仕草に、あぁこれがこの子の本当の顔か、なんて思う。
「好みだなと憧れていた人が、優しい人だとわかって、同じ性的指向を持っているとわかって、でもどうせ手の届かない人だともわかっている時……塚本さんだったらどうしますか?」
「え……」
赤みの差した目元がじっとこちらを見据えた。
「戦いますか? 逃げますか?」
「い、いったいなんの話……」
問いには答えず、藤宮はそっと「僕は逃げちゃいましたが」と苦笑した。
「でも、ここに来ればもしかしたら会えるかもって……すみません。結局こんなストーカーみたいなことを。気持ち悪いですよね」
「なに、それ。ちょっと待って。なぁ、それってまるで」
――好みだなと憧れていた人が、優しい人だとわかって、同じ性的指向を持っているとわかって、でもどうせ手の届かない人だともわかっている時。
――僕は逃げちゃいましたが。
――でも、ここに来ればもしかしたら会えるかもって。
(嘘だろう?)
焦る。もしかしたら彼は、まさかあるわけないよなと何度も否定してきたことを、こんなオジサンに対して本当に抱いているとでも言うのか。
(……本当に?)
得体の知れない感情が急速に胸を満たしていく。バクバクと心臓が騒ぎ始めた。
「あの、塚本さんっ! 僕、僕、あの、僕、塚本さん、実はっ」
「ストップ、藤宮く――」
「塚本さんのことが好きですっ!」
「っ」
ぐっと言葉に詰まった。びっくりしすぎて相手を凝視してしまう。やがて青年は肩から力を抜くと眉を下げて笑った。
「そんな顔、しないでください。大丈夫ですよ、言いたかっただけですから。塚本さん、結婚されてますよね。素敵だもの」
「え、えぇ、ちょ……うそだろ、困る」
「困る……?」
一瞬、青年はひどく切なげな表情をした。
「ははっ。困るだなんて、ひどい人だなぁ。……いいじゃないですか、最後くらい僕のせいで困ってくれても。僕はずっと、どうしていいかわからなくて困ってたんだから」
心臓をぎゅっと掴まれたような心地がした。とっくの昔に、もしこの子から好意を向けられたら自分は簡単に陥落してしまうだろうと気付いていた。そしてどうにかしてそれを避けたいとも思っていた。もう新たな恋なんて始める気はさらさらなかった。
なのに。それなのに。
最後くらい、だって?
僕のせいで困ってくれ、だって?
僕はずっと困ってたんだから、だって?
あぁもう、その無理やり作った笑顔を向けないでくれ!
「藤宮くん」
まずい。よくない。やめたほうがいい。年上の自分からきっぱりと、断るべきだ。
腹に力を込めて口を開いた。だが出てきたものは、
「別に俺、結婚してないよ」
「え」
全く意図しないものだった。一度言葉が出て来てしまうと、後続はするすると喉を通っていく。
「結婚、してない。ほら、指輪も何もつけてないだろ?」
目の前でひらひらと手を振って見せる。
「結婚したいと思っていた人がいた。でもね、死んじゃったんだ。昔の話だけど、長い恋だった。それからずっと誰とも付き合ってないし、多分ずっとこのままだと思う」
「そんな……」
しょげたように「ハードル、もっと上がっちゃった」と藤宮が呟いた。
多分ずっとこのままだ、と自分で言ったものの、愛が不滅かと聞かれると正直わからない。あの頃はこの世界の何よりも相手が大事だと信じて疑わなかったし、そういう愛し方をした。今、同じように愛してるかと言われれば答えはノーだ。だけれどもあの時の喪失は、もう二度と経験したくないものだった。
「でも、じゃあ塚本さん、昔の話というのなら」
「だめだよ」
「っ」
「だめだよ、藤宮くん」
「言わせてもくれないんですか」
かろうじて残る理性を総動員して、隣に座る青年の未来を思った。この子のために、何ができるだろう?
「俺なんかを好きと言ってくれてありがとう。でも考えてみてくれ。きみは若い」
「年齢差なんて気にしません!」
「気にしろ。きみは俺の何倍も可能性がある。何十年も長く生きていく。こんなオジサンにハマるより、同世代に素敵な恋人を作って一緒に歳を重ねていきなさいよ」
「やだ……っ」
「やだって」
「やだ、やだ、やだやだやだやだ、やだですっ!」
や、やだです?
「塚本さんそれって別に、僕が嫌いってことじゃないんですね?! だったら僕にもまだチャンスありますよね?!」
ガタンッ!
大きな音と共に立ち上がった藤宮はぐっと拳を握った。店内の注目をも集めだして、にわかに悪い予感がしてくる。
「あのね、藤宮くん、いいかい? 確かにきみがどうとかではないよ。だけど、俺はもう、ぜんっぜん若くない。恋愛する体力なんてこれっぽっちも残ってないよ」
「だったらプラトニックでも構いません!」
「…………はぁっ?」
「週に2、3日、いえ3、4日、いえ……5日くらい、ほんの少し手をお貸しいただければそれで済むと思うので!」
「大きな声できみはいったい何を言っているんだ」
恥ずかしすぎて手をむんずと掴む。勢いよく店内から出た。逸る気持ちとは裏腹に、冷えた空気をまとう日本の冬景色が憎らしいほど澄んでいる。湖面のような空からはまっすぐな陽光が降り注いでいた。
「じゃあ塚本さん! 僕と付き合えない理由、100コ言ってください! 納得できるやつ! ここで! 今すぐ!」
「100!?」
「もう決めましたから! 僕のことが嫌いじゃないなら、納得できるまで引き下がりません。いっそ元恋人さんのことも好きなままでいいです。バッチ来いですよ、受けて立ちます! 誰かを内包している塚本さんごと、僕が愛してみせますっ!」
両手を肩に置かれ、真剣な眼差しで迫られた。途端に言葉を失ってしまう。失ってしまうと、雑踏の中から何やらパチパチと乾いた音がさざ波のように押し寄せてくるのがわかった。
「すごい……感動的!」
「勇気あるねぇ、若ぇーの」
「素敵な愛の告白でした」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
拍手だ。それはやがて大きな波となった。
ぽかんとして周囲を見渡せば、知らぬ間に人垣ができていたようだ。ニコニコしている人や驚いている人、眉を上げてほほうと唸っている人や腕組をして何度も頷いている人。
(……ま、待ってくれ、まるでイエスと返事をしたかのようじゃないか!)
「ふ、藤宮くん」
「塚本さん、腹、決まりました?」
「決まんねぇよ……勘弁してくれよ……」
「大丈夫、あなたのことは絶対幸せにします」
「なんかイメージ激変なんだけど……」
藤宮はおかしそうに肩をすくめ、上機嫌にころころ笑った。どこからか誰かが「誓いのキスを~」なんて要らないことを言ってくる。マジで勘弁してほしい。何度も言うけど、こちとらオッサンなんだって。誰がオッサンと若い子のキスなんて見たいんだよ面白がってんじゃねぇよこっちは羞恥で死んじま――
「んぅ……」
その瞬間、どっと歓声が沸いた。
唇に弾力を感じる。熱を感じる。ゆっくりと顔が離されると、藤宮がまっすぐ言い放つ。
「愛してます、塚本さん。僕と付き合って。付き合ってくれなきゃここでまたキスする。今度はもっと深いやつ」
*******
半年後、当時の話をつまみに酒をくみかわす二人は同じマンションに身を寄せる仲になっていた。
塚本は憎たらしげに「同僚からエロ漫画送りつけられてピーピー泣いてたくせに!」と叫ぶ。藤宮は「あれは塚本さんに見られて人生終わったと思ったからです。愛ですよ、愛」なんて笑って飄々としている。
「あーもー助けなきゃよかった」
「何歳ですか。子どもっぽいこと言いますね」
「うるせぇ男はみーんな少年だ」
「はいはい。もう機嫌治して」
「ふん。……あ、そーだ恵介。今日こそアレ教えてくれよ」
「アレ? あぁ、雅則さんのこと好きになったきっかけ?」
「そう。お前もったいぶりすぎ。早く教えろ!」
「ふふっ」
どうしよっかなぁ、と藤宮が楽しげに笑う。彼は続けて、「まぁ雅則さんが上手におねだりできたらね? ここで、淫らに、とびきり可愛く」と言って布団をぽんぽん叩いた。
「……えっ」
にわかに塚本が赤面する。後ろ手に上体を逸らして、次にはぷいと視線を外した。
「あ、雅則さん想像したでしょ。やらしい顔してる」
「し、してない」
「素直じゃないなぁ。そういうところも可愛くて好きだけど」
「っ……なぁ、せめて風呂に」
「ダメ。今日はもうこのまましたい。待てない」
力関係が逆転したのはいつからだろう? プラトニックどうこうに至っては発言そのものがうやむやになった。
「け、恵介……待っ、ん」
そう。塚本はベッドの中、夜な夜な若い恋人に突っ込まれてはあんあん泣かされているのだった。
めでたし。めでたし。
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