誘惑

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誘惑

 線路を挟んで向かい側 その奥にただ座る山波は 暗い夜空の下にも緑を放つ  悠然たる海をも思わせるその姿 私の持たない時間すら包括する  現を憂いてはただ釈然としないまま 私の時計の進む様はただ平坦  波も立たぬままでは、泡も立たず ただ平坦  その一線を超えた先に見るは 誘蛾灯さえただ美しく 私の中の憂鬱も煮えたぎる  たかだか十歩ほどのその先 遥か遠くにも感じられるその先  泳ぎ方に対する無知や 時計の針の音が発する快楽  そんなもののために 私は靴紐の蝶を眺め続ける  蝶は私 固く完結し 持て余すことのない不自由だけを貪る  少しの油断が その尾の先へと私を導けば 到達し得る世界のなんと美しいことか  蝶の自由なんぞを理由に 自我のほつれなんぞを理由に ただあの山波を泳げたら ただあの海を飛べたら 私は本当の蝶になれるだろうか 私は本当の私になれるだろうか  遂に退屈を乗せたあの四角がやって来て 私はそれに攫われてしまう 蝶は籠に収まってしまう  額縁に飾られたあの山波は 更なる輝きを持って 依然私を誘惑し続ける
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