依姫の滝が忘れられてる件

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依姫の滝が忘れられてる件

熊本県の西原村の河原地区に「白糸の滝」と呼ばれる滝がありますが、元々は「依姫の滝」と呼ばれる処でした。 今ではすっかり観光地化して、依姫のことも忘れ去られた様なので、ここに書いてみようと思います。 白糸の滝は、落差が20m近くあり、周りは鬱蒼とした森になっております。 滝壺もそれなりに大きく、水量もあり、川にはヤマメが豊富で、避暑地らしい趣でした。 今でこそ観光地として整備されておりますが、昔は、周囲の苔むした岩肌も、鬱蒼と茂る森も手付かずで、小さな祠があるだけで、昼なお暗いといった雰囲気の、一種恐ろしい場所でした。 お話の舞台は、隣接する益城町木山に、まだお城があった頃と言うから、戦国時代の終わり頃、今から500年ばかり前のことでしょうね。 勇猛果敢で鳴る薩摩が、音もなく広がる野火のように北上する少し前のこと、木山のお城の木山弾正に仕える者の中に、宮園兵部という若者がおりました。 兵部は、当年とって23、両親は既に無く、殿様から与えられた小さな屋敷に、老僕と二人、気儘なやもめ暮らしを楽しんでおりました。 その年の夏、兵部は、背中におできが出来て、なかなか治らず、痛い思いをしておりました。 さて、そんな折り。 朋輩の辻村某が、河原村にある滝とその横の神社は、たいそう霊験あらたかだそうだと、どっかから聞き及んできまして、兵部に勧めてくれました。 暑い時期でもあり、また、背中の違和感もあり、兵部は早速行ってみることにしました。 翌朝早く、老僕に大きな握り飯を三つ、竹皮で包んでもらって、兵部は屋敷を出ました。 尋ね求めして、滝へは一時(2時間)あまりで到着し、小さな神社に参ったり、兵子帯一つで滝壺を泳いだり、ヤマメを釣ったりしました。 昼どきになり、近くの芭蕉の木の下で、兵部が持参した弁当を使っていると、いつの間にやら、滝壺の側で、たいそう美しい娘が洗濯をしていました。 兵部は、一目で見とれてしまいました。 娘があまりに美しかったのです。 『卒辞ながら…』 兵部は、ヤマメを差し出しながら話しかけた。 『この近くに住まいする方であろうか?我は木山弾正の手の者で宮園兵部と申す者。差し支え無くば魚を進呈したいが…』 これが、兵部と依姫の出逢いでした。 若い二人が親しくなるのに、さほど時は要しませんでした。 聞けば、依姫は、両親も身内も無く、滝の近くの集落に一人暮らしとのこと。 兵部に嫁ぐに、何の支障もありません。 そんなある日、木山神宮の祭礼がありました。 市が立ち、縁日が幾つも出て、兵部は依姫に、新しい水屋を買ってあげました。 兵部の背中の腫れ物も、神社の霊験か、すっかり良くなりました。 三月もしない内に、依姫は兵部の嫁に来ることになりました。 ちょうどその頃、妙なうわさが囁かれる様になったのです。 すなわち、残業した侍が帰っていたら東の空を飛ぶ様にやって来た娘が宮園屋敷に消えたとか、誰も見ていない時に宮園屋敷の庭先で鍋釜が踊っており、後仕舞い前の依姫がそれを楽し気に見ていたとか、極め付きは、河原の矢野某が、新しい水屋を背負った依姫が光りながら音もなく滝の中腹の洞窟に消えるのを見たとのことでした。 兵部は、矢野某に会って、事実かどうか確かめてみました。 玄関先に出て来た矢野某は、 『確かと思うがなぁ』 と、自信無さそうに答えたのでした。 『こうなると、自分で確かめるしかないか…』 兵部は思い悩んだのでした。 帰ろうした兵部の背中に、矢野某の言葉が突き刺さりました。 『ありゃあ物の化じゃ…』 数日後、兵部は囲炉裏端に座っていました。 つい先ほどの、老僕の言葉が耳にこだましていたのです。 老僕は、 『奥さまがこの世ならざる物との噂があって…』 と、切り出し、 『確かめるには、刃物で斬りつけてみることです。まことに物の化ならば、刃が立ちませんから。』 と、言ったのです。 兵部は迷いました。 そこへ依姫がやって来たのです。 兵部は可愛さ余って憎さ百倍、 『よくも今までワシをたばかったな!』 と、叫ぶや、太刀を抜いて斬りつけました。 『あぁ、兵部さま!』 肩口から袈裟に斬られた依姫は、一声、ひときわ高く残すと、忽然と消えて行きました。 後には、血刀を下げて呆然とした兵部が、立ち尽くすだけでした。 地面には、滝の方角へ向かって、血の雫が転々と続いていました。 次の日、朝早く、兵部は滝に行ってみました。 中腹に洞窟なんてありゃしません。 『依姫よ、ワシが間違っていた。許してくれ!』 兵部はひどく後悔しましたが、もう後の祭りです。 兵部は、滝壺に向かって、手をついて謝りましたが、依姫は二度と現れませんでした。 兵部は、世を儚んで、直ぐに出家してしまいました。 依姫が物の化だったかどうかは分かりません。 ですが、今でも、時おり、滝の落ちる音に混じって、 『兵部さまー!』 と、依姫の悲しげな声が聞こえるとか、聞こえないとか。 さて、あなたは、どう思いますか? これが、古い民話に残る、依姫の物語です。 幸せ薄い一人の娘と、古の若者に想いを馳せながら、滝を訪れてみるのも一興です。 滝は今も変わらず、西原村にあります。 #小説3
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