【一】 忙中有閑

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【一】 忙中有閑

 宮田誠人(みやた まこと)が血相を変えて事務所に飛び込んできたのは、暖かい春の陽射しが眠気を誘う昼下がりの午後のことであった。  事務所内には紺色のカーディガンを肩で羽織った女性社員がひとり。  彼女はデスクの椅子で長い黒髪をだらりと垂れ下げ、背もたれに身体を深く預けるようにして物憂げに視線を泳がせている。  開口一番に「大変です!」と告げる誠人の声は、直後にかかってきた電話の着信音にかき消される形になってしまった。  一つ目のコール音が鳴り止まぬ内に素早く受話器を取り上げた女性社員は、誠人の異様に焦った様子を察しながらも、彼に向けて突き出した左手と目線で(「ちょっと待て」)の合図を送る。 「――お電話ありがとうございます。瀬古葬祭店(せこそうさいてん)でございます」  背もたれからガバっと身体を起こした彼女は、居住まいを正すと同時に穏やかな透き通る声で話し始めた。  かしこまった態度に反して、ゆるゆるのリボンタイがブラウスの胸元でだらしなく揺れている様は何ともで滑稽だ。 「はい。はい。本日お通夜の田中家様へのご供花でございますね。ご注文ありがとうございます。お花の種類は洋花で統一させて頂いておりますが、よろしいでしょうか。では、こちらからご注文用紙を――」  ドアを背にして所在なさげに立つ誠人を尻目に、彼女は淀みなく電話口での応対を済ませた。  通話相手が切るのを無言で数拍待ち、受話器をコトリと置いたのを見計らって(せき)を切ったように誠人が声を上げる。 「音喜多(おときた)さん、大変です!」
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