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⑧世界は何事もなくて
鳥の声が聞こえる。
ふかふかの羽毛布団を下に敷いて体を投げ出してベッドにうつ伏せで転がっている。
クーラーがよく効いていて朝になってもカーテンを開ける人がいない。
僕にとっては天国のようなマンション。
家主は上田麻友。
大学の友達。お父さんが起業家で家にはお金がたくさんあって、麻友は大学生になってすぐに一人暮らしのマンションを手に入れた。
「夕陽、ねえ、夕陽」
うつ伏せで寝ている僕を仰向けにして無理やり唇に唇を重ねて舌を入れてくる。
麻友は恋人じゃないけど。
「ねえ、起きてよ。」
「う…。」
泊まり歩いているうちの1人。
「久しぶりに来たんだからさ、しようよ。」
セックスが好きで、経験人数は両手に収まらない。
「良いけど…眠い。」
「麻友、夕陽来るの待ってたんだよ。」
そんなことを言いながら横に寝転がる。
「なんか、そういうお店みたいだね。」
女の子の体は嫌いじゃない。
麻友を抱き寄せると柔らかいし、すべすべしている。
胸を触れば小さく息を漏らすし、口に含むとピクッと体が跳ねる。
でも、僕の手は汚い。洗ったけど。シャワーも浴びたけど、気持ちが悪い。こんな手で、人に触って良いんだろうか。
「もっと触って。たくさん。」
下着の中に手を入れて、顔を見ると照れているような切ない顔を見せてくる。
麻友の下着を下げて、僕も裸になる。
なんか、大輔さんに悪いような、胸の奥が痛いような気分だ。
麻友と大輔さんは同じ人間で何が違うんだろう。
僕と麻友は、ただのせフレだから。
好きな時に好きに交わって、恋も愛もなくて。
「欲しい、夕陽の。」
僕が良いよって言うのは、知ってるのにありきたりのことを言う。
大輔さんは、いつも何も言わない。ただゆっくり僕と向き合って抱き合うだけだ。
「麻友、後ろ向いて。僕、正常位だと感じない。」
「え」
「お願い」
嘘だけど。今日は、麻友の顔を見たくないと思った。僕の汚い手で、体のあらゆる場所を触った後、顔を見ながらすることができない。
僕に起こった全てのことは麻友に全く関係ない。
麻友の中に指を入れる。粘膜が指に絡みつく。僕の汚い指に。できるだけ優しくするけど、何も考えないこの行為に意味を見出せない。
「挿れるね。我慢して。」
「え」
無価値。欲を満たすだけの価値のない時間。
麻友は僕が腰を動かすたびに、甲高い声を出すけど、現実味がなくて、僕はもともとそんなに長くできる方じゃないけど、ずっとずっと早く終わらせてしまいたくて乱暴に扱った。
なんの意味もない。
好きでもない。
大切でもない。
麻友にとって、僕はそういう相手。
「ゴム、させなくてごめんね。」
「大丈夫なの?本当に。」
「生理、終わったばっかりだから」
「じゃあ、もし、できたら結婚して。」
「私、ちゃんと付き合ってる人いるから。夕陽とは遊びなんだよ。ちゃんと付き合えるのは夕陽じゃないの。」
「……知ってる。」
大学で出会った麻友の顔が好きだった。性格も。初めはちゃんと麻友に恋してた。付き合っている人がいると知って、僕は好きな気持ちを取り下げようとしたけど、麻友はセフレならなって欲しいと僕を受け入れた。
麻友が付き合ってる人は年上で、麻友の父親の会社の人。僕はよく、この部屋でその彼氏に会う。会社では図面を引いていて、若いのに、優秀だとか。優しそうに見えるけど、目の奥に何か嫌なものを感じる。
「彼氏とはいつ会うの?」
「もうすぐ来る。」
「僕、帰るね。」
「セックスはやっぱり、夕陽の方が上手だよ。」
「嬉しくない。適当だし。」
「ちゃんと付き合ってあげられなくてごめんね。」
「うるさい。」
「またね。」
僕は麻友の家に勝手に来たのに、勝手に嫌な気分になって、なんて自分勝手なんだろうって。
麻友の部屋を出て、麻友の彼氏とすれ違う。相変わらず、目の奥が死んでいて気持ちが悪い。
「久しぶり。杉崎くん。」
「おはようございます。江藤さん。」
「ありがとう、麻友の子守り。」
「え?」
「なんか君、臭いね。エタノールの匂い。と、血の匂い?かな。」
「……生理、終わったばっかりみたいで。」
「そ。」
「嫌じゃないの?彼女、僕としたんだよ。」
「別に。
君のおかげで、あの赤ちゃんとしなくて助かる。
じゃあね。おチビちゃん。」
僕は、江藤というこの男が世界で一番大嫌いだ。
田舎の駅は無人駅が多い。
切符を買ってホームで電車を待つ。
今村くんが死にそうでも、亜島さんが大怪我を負ったまま2年も貯水槽の管理室に身を潜めていても世間は何事もなくて、水面下の事件には誰も気づいていない。
駅のホームに風が吹く。
電車が来るとアナウンスがなる。
人が少しずつ集まり始める。
鳥の声が聞こえる。
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