「ハーイ」

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 白い犬の白さは偶然性のうえにあって、それが永遠に保たれるとは限らない、というのは何となく分かるが、そこにしっかり因果が書き込まれている以上怖くはないというか、足元のぐらぐらする感じからは遠いと感じた。ぐらぐらする感じが「死にたい」だというのは姉が言っていたから。  白い犬。  それは「あなた」のイメージであり、時代のなかで(当然、芥川の時代ではなく「あなた」の時代であり父の子供時代だ)幸福な家庭の象徴だったのかもしれない。それが父が長じるにつれ、文学全集のある書斎が理想の家庭イメージになり、しかし同時に青年のころのカルチャー雑誌も捨てられない父。  そう考えると僕にとっての「あなた」にあたるノスタルジーは何だろう。理想の家……免震、耐火、ヘーベルハウス、ハーイ。頭を開く家の顔が浮かんで、それが僕だった。空の頭を開いて、ハーイ。 「ハーイ」  ヘーベルハウスのCMの物まねをすると、カップの汁ご飯をすすっていた安達は吹き出しそうになり、むせた。 「いきなりやめろよ」 「ヘーベルハウ~ス」 「ちげえよ『ヘーベルハ~ウス』だよ」 「そうだっけ」  また頭をぱかっとやったら安達が鼻水を吹いたので、汚ね、と返した。  ついでに川端康成のガス管自殺の真似もしてみたが、それはヤマセンの授業で眠っていた安達には伝わらなかった。芥川は薬物自殺だったので、ヤマセンの物真似はなかった。「唯ぼんやりとした不安」とだけ残して死んだと聞いた。  たとえば書斎の文学全集、たとえばあなたの隣の犬、たとえばヘーベルハウス。そんなアイコンをそろえた家に住めればその不安は解消されるのだろうか。姉の言うぐらぐらとする足元は安定するのだろうか。今の家は姉にとって姉のヘーベルハウスではない。  姉の部屋には入るのを許されていないけれど、姉がたくさん本を読んでいるのは知っている。そのなかにベストセラーの『完全自殺マニュアル』があるのも知っている。置物ではなく、戸の隙間から覗くたびに場所の移動している本。  場所は変わっても、それはいつでも目につくところにこれ見よがしに置かれている。姉の形にへこんだ座椅子の上に、読みかけのまま伏せられてかもめの飛ぶ形で床の上に、ドアの横に積まれたコミックスの上に。コミックスは『多重人格探偵サイコ』で、カバーにある脳からつながる目がいつもこちらを見ている。  ガス管自殺はやめて欲しいな、と思いながら僕はまたヘーベルハウスのポーズをとった。 「しつこいって」  安達があきれたように言った。 「ハーイ」  むき出しの脳の気分でそう言って僕は笑った。
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