「ハーイ」

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 父は読書家ではなかったが、父の世代の「教養ある家庭」のポーズとして書斎の本棚には世界文学全集と日本文学全集があった。全集はどれもほこりをかぶっていて、一ミリも動かされることなく決まった場所に収まっていた。僕が書斎に忍び込む理由も全集ではなくて、本棚の前に横にして積まれている雑誌宝島のバックナンバーを読むのためだ。  バックナンバーの宝島は、80年代当時のファッションや音楽、そういうカルチャーがみっしりと詰まっていて、カルチャーの濃度が濃すぎてほんの十数年前に刊行されているというのに何が書かれているのか分からないくらいだった。そこがよかった。そこに父の使ってきた異次元の言葉があり、今の僕と父の言葉がすれ違うのが、僕と父の問題ではなく年代の問題に回収できるのがよかった。  夕食時のことだ。「あなた」という曲を、昭和のヒットソングを特集したテレビ番組で知った。当時の僕の至高はハイロウズでありブランキージェットシティであり、ミッシェルガンエレファントであった。それらからするとあまりに速度が遅すぎ、歌詞もつまらないと思いながら見たのを覚えている。70年代、父が子供の頃の曲だ。  青年時代に雑誌宝島を読んでいた父だってきっと「あなた」はつまらないと思っているだろうと向かいの席の父を盗み見ると、箸を止めてゆれたりなどしている。「いい歌詞だな」と言った。僕はそうは思わなかったので黙ってニラレバに夢中のふりをした。  つまらないはずの歌詞だが、夕食後の入浴時にも、眠る時も、翌朝の通学バスでも「あなた」の歌詞は頭のなかで繰り返し流れ続けた。どれだけの回数再生され、点検したろうか。昼休みには僕は疲れ切っていた。点検しても点検しても歌詞にいいところは見つけられなかった。  内容に反発しているわけではなく、当たり前すぎてひっかかりがない。小さな家、大きな窓、子犬がいて、犬の横には「あなた」。僕のなかで子犬のイメージは白だった。おそらく、その直前の歌詞に出てくる花の色が白だから引っ張られているのだろう。 「ヤマセンのノート提出今日だっけ」  正面に座る安達がカップめんの残り汁におにぎりを沈めながらたずねてきた。 「そうだよ。写したいんなら最初からそう言えよ」 「ごめんて。午後一発目に現国は無理だよ、寝る」  安達は月一のノート提出時に、居眠りしていてとりのがした板書を写させてもらおうとする。僕が化学のノートを写させてもらうこともあるし、数学を教わることもあるので別にノートを写させることに文句はない。  ヤマセンの授業は僕にとっては面白かった。確かに低く響く声による淡々とした語りは眠りを誘う。だが、雑談が多くて、とりわけ文豪の変人話や自殺エピソードになると熱が入るのがおかしくて嫌いじゃなかった。  川端康成のガス管自殺の真似なんか、よく怒られないものだと思う。まあ、興味のないやつは寝ているか内職をしているし、そういうのが好きな奴しか話を聞いていないから問題ないのかもしれない。  前回の授業では芥川龍之介について、「白い犬が黒くなるような話書いてたらそりゃ自殺もしたくなる」と言っていた。それで該当の話を図書館で探して読んでみたら(父の書斎の全集は「本」という気がしないのでそこで探そうとは思わなかったのだ)、別にふつうの教訓話のような気もした。
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