11.女の武器

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11.女の武器

11.女の武器  5年ぶりになるだろうか、宗冬はあの白糸の滝にやって来ていた。  滝壺では、蒼星が気持ちよさそうに水を飲んでいた。 「宗冬」  懐かしい滝壺近くに蒼雲を進めると、杣小屋のある高台から、碤三が崖を飛び降りるようにして河原に降り立ち、蒼雲の背中から眠ったままの葛を受け取った。 「来てくれたのか、蒼星と」 「恋女房の一大事だからな」  大柄な碤三が抱き上げるとするりと覆っていた被衣が落ちた。露わになった葛の裸体はまるで白蛇そのものである。華奢な体つきが強調され、流れる黒髪が隠す胸元には、本当に乳房があるのではと惑わされる。 「南蛮の薬を嗅がされているそうだ」  蒼雲から降りた宗冬が、そっと被衣で裸体を包み、顔にかかる黒髪を掻き分けた。苦痛に満ちた顔からは険が消え、いつも通りの穏やかな美しさに戻っていた。 「碤三の腕の中だと分かるのだな。安心したような顔をしている」 「葛には俺がついている。おまえ、近江八幡に行きたいんだろ」 「ああ。宗良と小牧の母を懇ろに供養したい」 「行ってこい。こいつは俺が看ているから」  頷いて、宗冬は滝壺を見た。あの頃と全く変わらない、穏やかな水の糸が岩肌から流れ落ちている。ところどころ凍ってはいるが、今日の穏やかな陽光に照らされ、水面はキラキラと輝いている。  ここでの四人の暮らしの記憶は、これまでもずっと宗冬の心を温め続けて来た。ここでのあの幸せな時間があったからこそ、ここまで生きてこられたのだ。 「気をつけて行けよ」 「ああ。何か精のつくものを贖って戻る」  再び宗冬は蒼雲に跨り、白糸の滝を後にした。  杣小屋で火を起こし、碤三は葛の体に幾重にも毛皮を被せてやった。 「逞しくなりやがったな、あの小僧」  碤三は幼い頃に戦で焼け出され、市蔵に拾われて散々に戦働きをして手を汚し、修羅場でしか呼吸をしたことがない程に血に塗れていた。同じ頃に拾われてきた葛の美しさは、そんな汚れた毎日の中に見出した光明であった。市蔵に穢されていると知った後も、葛の美しさや神々しさに陰りはなかった。いつでも眩しくて、憧れるほどに強かった。葛を守れる男になることこそが、若き頃の碤三の生きる目的になっていた。  ここで紘や宗冬と家族のように暮らし、葛とは真実、夫婦になった。こうしてここで息を吸うだけで、あの頃感じた温かな空気を体に満たすことができる。 「もう、離れたりしねぇよ」  隻眼の不利を克服する為の修行に明け暮れる間に、大事な宝玉が傷つけられてしまった。  眠ったままの葛の頰を撫でながら、碤三は離れていたことを何度も詫びたのだった。  蒼雲を休め、蒼星を飛ばして、宗冬は近江に戻った。関ヶ原あたりの雪道を物ともせず、巨体を身軽に風に同化させて、蒼星はよく走った。 近江八幡の城下は、近江商人達が街を形成し、大層賑わっていた。少し離れた農村部でも、冬でありながら田畑の手入れが行き届き、山の木々の枝打ちも丁寧に施されている。  戦では余り役に立つことのなかった宗良だったが、治政には力を発揮していたことが伺える。父・宗近は、正にこうした文官を求めていた筈だったのだ。何という皮肉か。  夕刻に近江八幡城に着くと、数頭の馬が大手門に繋がれていた。少し離れた林の中に蒼星を待たせ、宗冬は注意深く大手門に近づいた。  宗良の首が晒されていた練塀はまだ血の跡が残り、すぐ下の矢狭間まで錆色に染まっていた。  葛が連れ去られた事を知り焦っていた宗冬には、晒されている宗良と小牧の方の首を先ずは下ろし、中庭に放置されていた遺骸と共に大広間に安置することしかできなかった。  人の声がした。それも聞き慣れた胴間声である。 「宗冬様! 」  すると、本丸曲輪の築山に穴を掘っていた若者が、泥だらけの顔を綻ばせて手を振って来た。御殿の中庭を抜けて築山へと向かうと、他に本戸勝重や酒匂清重の姿もあった。 「政虎殿」  屈託無く出迎えたのは、喜井政虎(きいまさとら)である。宗冬より幾つか年下のこの若者は、戦場では常に羨望の眼差しで宗冬の姿を追いかけていた。高田攻めの頃よりも一回り体つきが逞しくなったようにも見えた。 「皆様、弟達の為に……一騎当千の強者にこのような事をして頂き、感謝の言葉もございませぬ」  一同に向け、宗冬は一心に頭を下げた。  宗良ら城主家族は、既に城下の寺に遺体が運ばれ、懇ろに葬られたという。今彼らが埋葬しているのは、城内で惨殺された家臣達の遺体であった。  築山に向かって膝を折り、宗冬は数珠を握りしめて経を唱えた。 「殿の命でな。武蔵へ向かう前にここへ寄れと言われたのだ」  経を唱え終えた宗冬に、同じく手を合わせていた本戸が、胴間声で種明かしをした。 「然様でございましたか。心より御礼申し上げます」 「で、その、葛殿は」  その名を遠慮気味に口にした勝重を、政虎がからかうように肘で突いた。 「無事です。岐阜の秀貞様がお助けくださり、今は夫の元におります」 「え、夫、夫って……じゃ、やはり葛殿はその、女、いや、そんな筈は……」  宗冬の話に混乱する勝重の様子に、むしろ宗冬の方が困惑した。 「ちょっと本戸様、あんな綺麗な人ですよ、夫の一人や二人、いたって可笑しくはないですって。宗冬様、あの人でしょ、新所城で助けに入った隻眼の色男」 「色男というより大男だけど……ええ、まぁ」 「ほら、諦めたほうがいいですよ。あの二人はお似合いですもん」 「だけど、要は、男と男で……」  槍の名手、三河の虎とまで言われた男には、理解の埒外であった。 「葛と碤三は、幼い頃から深い絆で繋がっております。平時は頭目と小頭ですが、一度刀を置くと、心配性の女房と、女房にベタ惚れの世話好きな夫なのでございます」 「へえ、本当に愛し合っているんですねぇ、戦国のこの時代に羨ましい限りです」 「私はあの二人に守られ、育てられました。掛け替えのない兄姉であり、親のようでもあります。二人がいつも想い合って共に居られるのなら、こんなに幸せなことはありません」  三人の三河武士が、爽やかに吹き抜ける寒風に暫し身を預けて瞑目した。 「皆様の、将康様のおかげで、大切な姉を失わずに済みました」  泥だらけの髭面を汗と涙で濡らし、勝重がおいおいと泣いた。  政虎達と別れた後、城下の圓滿寺の住職が二つ返事で弔いを引き受けたと聞いていた宗冬は、何某かの金子を手に蒼星と訪れた。  身分を明かして丁重に礼を述べる宗冬の前に、住職は真新しい位牌を並べた。 「御家族ご一緒に、荼毘に付しました」 「御礼の言葉もございませぬ」  宗冬は、宗良の位牌を押し抱いた。  力丸と名乗り、あの白糸の滝に突如として現れた頼りなげな弟。初めて会ったというのに、血が繋がっているというだけで愛しさが込み上げたあの瞬間を、今でも思い出す。 「宗良様は、それはもう領民に慕われておりました」 「では、一揆の噂というのは」 「とんでもないことにございます。検地や刀狩とて、宗良様は決して苛烈なことはなさらず、農民達の苦衷にもよう耳を傾けてくださった。用水路を整備し、城下を整備し、商人も農民も楽しく己の分を発揮できるよう、常に心を砕いて下された。お父君は何をされるのにも独断で苛烈なお方だったようだが、宗良様は違った」 「そうでしたか。弟をそのように……忝のうございます」  5歳ほどの小僧が危うい手元で茶を捧げ持ち、宗冬の膝元に置いた。有難うと礼を言うと、照れたように頬を染めて俯いた。その姿が可愛らしく、宗冬は名を訪ねた。 「可宗と申します」  かそう、そう反芻する宗冬に、住職は得たりと頷いた。 「下がっておれ」  そして小僧を下がらせると、住職は一口茶を啜り、大きく息を吐いた。 「宗良様の御次男にございます。御長男とは双子にて、本当のお名は可良様と」 「よしなが……我が甥でしたか」 「しかしながら当人はそのことを覚えておりませぬ。ただ一人だけでも無事に織田島の血脈を受け継いで欲しいと、かつて宗良様は3歳にもならぬあの子を拙僧に託されました」  宗冬は黙って頷いた。そして、腰の千子正重を膝の前に置いた。 「御住職、あの子を宜しくお願いいたします。これは亡き父より拝領の千子正重の一振り。あの子の行く末に金子が生じることがありましたら、これを金に変えてもよし、何某かにお役立てください」 「いや、そのような貴重な品を……」 「祖父から孫への贈り物と、思し召しくだされ」 「宜しいのですか」 「決しておまえは一人ではないと、伝えたいのです」  住職は刀を捧げ持ち、深々と頭を下げた。  後にこの可良の子孫は、高家として織田島の名を後世に残していくこととなる。  夜になっても、近江八幡の城下は活気に溢れていた。正重の一振りが無くなったことで腰が軽くなったのは良いが、どうにも落ち着かない。訪ね歩いて街の者に教えてもらった研ぎ師の家で、宗冬の目にも見事な刀を購った。和泉守兼定の一振りである。 「研ぎに預かっていたが、預け主は五年も取りに来ぬ。しかしおまえさんは刀架にある何十もの刀の中から迷いもなくこいつを見つけなすった。持っていけ」 「有難うございます。今まで腰に落としていた千子正重との縁を感じます」 「ほう、正重を使っていたか。確かに、二代目ノ定は村正とも交流があったと聞く。村正の門人といえば千子正重。そうかい、それはよくよく縁をお持ちだ」  ノ定と呼ばれる二代目和泉守兼定作は二尺ほどで、腰に落とし込んで見ると、宗冬の体格にもよく馴染んだ。腰を沈めて居抜きに抜ききると、波紋が光線となって明かりに反射した。その美しさに、宗冬はたちまち魅了された。  更に古着商に寄り、葛が好みそうな柄の小袖と綿入れを贖い、干し肉やら山菜やらもどっさりと買い込んで蒼星(そうせい)の背に積んだ。 「少し買いすぎたかのう」  蒼星が呆れたように鼻を鳴らすが、巨体だけに、荷に加えて宗冬が跨ったところで、足が鈍ることはなかった。  幸い、新たに雪が積もった様子はなく、荷車の轍を辿るようにしながら難なく岐阜までたどり着いた。晴天が続いたこともあり、城下には雪も残っていなかった。  しかし異様に静まり返っている。とうに夜は明けており、朝市で賑わう通りでは炊きの煙が立ち上っていてもおかしくない時分である。  蒼星がふと歩みを止めた。その勘に従うように蒼星を辻裏に誘い、宗冬は降り立ってそっと辺りを伺った。すると城の方角から西へと向かう軍列の姿が飛び込んできた。  建物の陰から注意深く陣容を観察していると、背後に人の気配を感じた。刀を抜きざまに振り向くと、近江八幡で別れた筈の三河武士三人衆が身を屈めていた。静かに、と唇に指を立てた酒匂清重(さこうきよしげ)が、無言のまま列を見ろと目線を動かした。  清重が目を向けた方向を見て、思わず宗冬は声を上げそうになった。軍の旗印は瓢箪、間違いなく豊海の軍勢である。指揮をする武将はまだ若いが、兵の統制の取れた動きを見る限り、軍略に長けた有能な武将であろうことは容易に察することができる。 「岩佐龍成(いわさたつなり)。近江の寺小姓上がりで、秀敏の秘蔵っ子です。あの岩佐と福島正敏(ふくしままさとし)加藤清隆(かとうきよたか)といった豊海家の若手武将は、子供のいない秀敏の正室・寧子様が幼い頃から手元で養育された、言わば子飼中の子飼。忠誠心厚く、秀嗣より遥かに出来が良い」  清重の解説を聞きながら注意深く軍列を見送っていると、やがて粗末な唐丸駕籠が見えてきた。中に乗っている人物を見て、宗冬は息を呑んだ。 「秀嗣殿」  白の帷子姿で後ろ手に縛られ、罪人の如く駕籠に乗せられているのは、紛れもなく秀嗣であった。憔悴しきった表情に最早生への執着はなく、焦点の合わぬ目で己の行き先をただ見つめているだけである。 「奥羽への出征を拒み、叔父の秀貞の元に転がり込んでいるところを秀敏に知られ、軍律違反で連行されるのだそうだ」 「奴らは透波を使うからな。葛さんならおそらく知っているでしょう、忍崩れの野盗上がりで、金次第でどこにでも忍び込むんですよ。蛭みたいな連中です」  勝重と政虎の説明を聞きながら、宗冬の手は既に刀の柄に置かれていた。  唐丸駕籠に続き、馬が二頭、それぞれ豪華な衣装に身を包んだ女を乗せていた。しかしながら彼女達も後ろ手に縛られており、年嵩のふくよかな女の方は身も世もなく泣き喚いていた。 「秀嗣に付き従っていた側室達でしょう。豊海家への服従と媚びへつらいの証として、秀嗣に差し出された姫達ですよ」 「あの、凛と顔を上げて堂々としておられる姫は。まだ15にも満たぬようだが」 「多分、最上の姫、鞠姫でしょうね」  その名を聞いた途端、宗冬は刀を抜いて飛び出していた。  路地から飛び出すなり、宗冬は馬上に飛び上がって鞠姫の縄を断ち、抱きかかえて反対側の路地へと転がった。  小柄な鞠姫をしっかり抱えたまま身を反転させると素早く起き上がり、奥へ奥へと走り抜けていった。 「ちょっと、ええっ、まずいって」  狼狽えたのは政虎達である。瞬時に居なくなった姫の周りだけが為す術もなく立ち竦んでいるが、列の先頭は気がつく様子もなく進み続けている。すると、無人になった馬も大人しく列後をついて歩み出し、周りの兵達も何もなかったように歩き出した。 「な、なんだありゃ」  勝重が間抜けな声をあげるのも無理からぬことだが、列は粛々と進んでいった。 「勝重、政虎、行くぞ」  列の最後尾が通り過ぎるのを待ち、3人は宗冬が走り抜けていった路地へと駆け出した。 「おいっ」  すると三人を追い越すようにして蒼星が宗冬の後を追うように駆け出していった。 「あいつを見失うな」  途中、伝馬宿につないであった3頭の馬に飛び乗り、3人は蒼星を追いかけた。  蒼星は城下外れの神社の境内に駆け込み、斜面を一気に駆け上った。社の本殿の前で、息を整える宗冬に漸く追いつき、安心したかのように鼻を鳴らした。 「すまんな蒼星、よくついてきてくれた」  宗冬は、腕の中で何が起きたのかまだよく分かっていない(まり)姫を本殿前に下ろした。 「あなたを助けるだけで精一杯でした。もう一人の姫は、お気の毒ですが……」 「何故、私を」  発せられた声は、まだ幼く、まるで子供であった。怖がらせぬように、宗冬はゆっくりと自分の名を名乗り、岐阜の城で葛が手当てを受けた礼を述べた。 「背中の傷は、あなた様のお手当てのお陰で膿むこともなく、治癒に向かっております」 「それはようございました。私ね、あのような美しい方、最上でも京でもお目にかかったことがございません。お身体をお拭きするまで、女の方だとばかり思っていたほどです」  この状況が分かっているのか、余程度胸が据わっているのか、鞠姫は屈託無く笑った。 「葛の命をお助けいただき、心から御礼申し上げます」 「あの方は、あなた様の大切なお方なのですね」 「ええ、大切な姉です」  ふと首を傾げて考え込む仕草も、頑是ない少女のようで愛らしい。このような愛らしい姫を秀嗣の大勢いる側室の一人として差し出さねばならない最上家は、断腸の思いであっただろうと、宗冬はその苦衷を思った。 「その姉君は、どうしておられますか」 「夫の元で、無事に静養しております」 「ようございました。あなた様も、あの美しい方の弟君と仰るだけに、とてもお美しい。あ、殿方には失礼なのかしら。でも、とても凛々しくお美しい。あの秀嗣などには微塵もない、気品と心映えをお持ちにございます」  まるで人生の後半に差し掛かった者のように、鞠姫が真摯な表情でそう言い切った。 「子供がこんなことを、と驚いていらっしゃるかしら」 「いえ、そんな……」 「こう見えて、私もう30になります」  ええっ、と宗冬が仰け反る勢いで素っ頓狂な声を上げると、鞠姫はケラケラと笑った。 「嘘です、12です。でも……先年漸く弟が生まれるまでは私が唯一の後継でしたので、政を担うべく文武共に精進してまいりました。豊海につくか奥羽の覇者となるか、割れる家中の駆け引きに身を細らせる日々もございました」 「そうでしたか。色々ご経験されておられるのですね」  そうこうするうちに、三河の三人が口々に文句を言いながら合流をした。 「宗冬殿、一体どうされたんです、腰を抜かしましたよ」  真っ先に馬から降りて駆け寄った政虎が、どうも、と鞠姫に頭を下げた。 「囚われていた葛を、手厚く看護してくださった鞠姫様です。この方のお陰で、葛は無事に戻ることができました」 「それでこの方を。ていうか、どうするつもりなんですか」 「そのことなのですが……」  と宗冬は上目遣いに三人を見た。葛ほどではないが、中々に殺傷力のある表情に、あっ、と三人が同時に顔に手を当てて視線から逃れた。 「ダメですよ、ダメですって。そんな可愛い顔してお強請(ねだ)りしても無理ですから」 「政虎殿、私はまだ何も……」 「鞠姫を最上まで届けて欲しいと言いたいのだろうが」  思わず結論を口にした勝重に、清重と政虎が同時に頭を叩いた。 「いえ、江戸までで良いのです。江戸で春を待たれ、最上家からのお迎えを待たれれば良いのです。将康様の羽の下にさえいれば、何人たりとも手出しはできませぬ」 「それはいかかでしょうか」  三河の三人とは別の、記憶に新しい声に、宗冬は咄嗟に鞠姫を背中に庇い刀の柄に手をかけた。  悠々と斜面を上がってきたのは、岐阜の城代・秀貞であった。背後には銃を構えた兵を30ほど従えていた。 「何という真似をなさいましたか」 「鞠姫様は葛の恩人、しかも一国の姫であり縄目の恥辱を受ける謂れはござらぬ」  三河衆はそっと馬の轡を引き寄せながら、宗冬と秀貞のやり取りを聞いている。 「兄秀敏に男児が誕生し、無事に百日を超えたようです。元々、ここのところの甥の行いを苦々しく思っていた兄です、ここぞとばかりに甥から全ての権限を取り上げるでしょう」 「ならば何故、姫達まで」 「女達の腹に子があれば何とします。将来、兄の子に報復せぬとも限らぬ。負けた大名の妻子が悉く討ち取られるは戦国の習い。ご存知でしょう」 「この方はまだ、清いままです」  鞠姫が驚いた様子で宗冬の背を見上げた。 「側室として側に置かれている以上、関係ない。兄の甥への怒りは凄まじく、生まれた子への愛着も凄まじい。そこのお三方は少なくとも、兄の怖さをご存知の筈だ」  宗冬は背後の鞠姫の体をくるりと反転させるなり、背中に流れる黒髪を元結ごと断ち切った。更に打掛を剥がし、落とした一房の黒髪と共に秀貞の足元へと投げつけた。 「行かれよ! 」  その言葉に弾かれたように、体の大きな勝重が鞠姫を担ぎ、先に馬に乗った清重が鞠姫を馬へと引き上げた。そして政虎を殿にして、瞬く間に本殿の奥に続く山道へと逃れていった。  鉄砲隊が膝をついて射撃の体勢を取るより早く、蒼星が暴れて鉄砲隊を蹴散らした。 「秀貞殿、鞠姫は強盗に殺された。そう申し開きをされよ」  すると然程の執着を見せる様子はなく、秀貞はくくっと含み笑いを返した。 「敵いませぬな。良いでしょう。私も死を目の前にして頑是ない姫を連座の憂き目に合わせるなど、末期が悪いと気が塞いでいたところです」 「では、軍列が私達を追いかけてこなかったのは……」 「何が起きても構わずにひたすら京を目指せと龍成には厳命いたしました。何せ京に戻れば大名達への見せしめに、秀嗣は死罪、妻妾も同様です」 「酷すぎる……」 「宗近様も酷いお人だったが、まだやり方に美学と哲学がおありでした。兄は違う。兄を動かしているのは、欲。ひたすらに、欲のみなのです」  秀貞はゆったりとした動作で鞠姫の髪と打掛とを拾い上げた。 「宗冬殿、あなたはまた修羅の日々を送ることとなりましょう」 「愛しい者の為とあらば、是非に及ばず」  秀貞の厚意に深く礼を尽くし、宗冬は蒼星に跨った。巨馬に蹴散らされた兵は恐怖に慄き、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。 「是非に及ばず、とは。やはり上様のお子じゃ」  晴天にも関わらず、ひらひらと雪が舞い降りた。                      年が改まり、大阪では、男児誕生に城中が沸き返っていた。  生母である莉里(りり)姫は、明野が最初の夫である明智廉造(あけちれんぞう)との間に設けた長女である。とはいえまだ十八になったばかり。秀敏は本能寺の変以来、笹尾丸に織田島家督を継がせることに汲々としていた明野(あけの)を手元に置いて贅沢に浸しただけではなく、美濃守護の名門・土岐(とき)家の血筋を継いだ莉里姫を、力ずくで側室にしたのであった。  とはいえ、20人以上いる側室の誰もがこれまで全く孕まなかったのである。最も訝ったのは、糟糠の妻である寧子(ねいこ)であった。 「お方様、殿下はこの北の御殿に莉里姫と若君を住まわせるおつもりのようです」  北の館と呼ばれる本丸の奥御殿の離れで、寧子は若き頃から付き従っていた侍女の話を苦々しい思いで聞いていた。 「真に、殿下の胤か」  秀敏は新たに内大臣となり、臣下に『殿下』と呼ばせるようになっていた。だから成り上がりの田舎者と謗られるのだと、いくら諭しても聞く耳を持たなかった。 「確かに、殿下はここ一年は莉里姫様に御執心、それはもう……ただ、お生まれになった和子様は、恐れながらその……」 「整っておったか、猿面ではなく」  ずばりと言い当てて、寧子は笑った。先年四十を超えてから太りだし、すっかり秀敏からは女扱いされなくなってしまった。だが、手塩にかけて育てた子供たちは立派な武将に育ち、『おかか様』と慕って何くれとなく気にかけてくれる。 「この手で育てたあの子たちこそ、我が子であるというのに……血の繋がりばかりに囚われて、実を見失うておられる」 「然様にございます」 「とにかく調べよ。秀嗣を廃嫡にして和子を立てるというのなら、真実殿下のお胤でのうてはならぬ」 「明野様はそれはもう、莉里姫様の御身辺に厳しく目を光らせておいでとか。迂闊には近寄れませぬ」 「城中の莉里姫に、正面切って「お胤ですか」などと尋ねる阿呆はおるまいよ。あの子は和子が無事に百日を過ぎるまで、殿下にも誕生を知らせずに人知れず城の外で過ごして参ったのじゃぞ。必ず産所となった隠れ場所がある筈じゃ、探せ。何としても秀嗣と妻妾らを助けてやらねばならぬ」  秀嗣は大坂に連行されても直ぐには処罰されなかった。赤子がまだどれほど健康に育つかも解らぬため、一応、生かされているのだった。京での英嗣の屋敷である充楽邸に押し込めとなり、妻妾一同、厳しい監視下に置かれていた。 「出入りの商人、医者、全て洗い出すのじゃ。それと、直獅郎様にお茶のお招きをな」  寧子は京の伏見に小さな庵を結んでいた。この大阪からも程近く、今や政所などと大仰な身分になってしまった自分が纏う重たい鎧を、誰に遠慮することもなく脱ぎ捨てることのできる場所であった。  伏見の小高い丘の中腹に、その小さな庵はあった。伏見稲荷の縁日ともなれば、子供達の嬌声が響き渡る。子供に恵まれなかった寧子だが、子供の明るい声に包まれるのは嫌いではなかった。 「お待たせを致しました」  質素な躙り口から、女房姿の直獅郎(なおしろう)が手をついて茶室に入った。 「船が時化で遅れまして、斯様に遅参を致しました。お許しを」  とはいえ、ここで待たされたのは、せいぜい三日というところである。 「そのような女姿の貴女様を見るのは久しぶりにございますね」 「甥の政虎にも妻子ができまして、全てを任せることができました。やっと、獅尾(しお)の姿に戻ることができました」 「獅尾さま、ようお戻りになられました」  直獅郎いや獅尾とは、秀敏が武将の嗜みとして茶を覚えるようになった時、堺で出会ったのであった。まだその頃は男装であり、堺の商人に足元を見られていた秀敏に茶の手ほどきをしたのが、当時直獅郎を名乗っていた獅尾であった。女同士とわかり、寧子は秀敏の悪い虫が起きぬよう、堺に行く時は可能な限り付き添って睨みを効かせたのであった。  寧子が主人となり、獅尾に茶を点てた。大らかで温かみのある寧子の所作を、獅尾は堪能していた。 「貴女様のような方をお大切になされば、要らぬ圧力で埋み火を広げることもありますまいに」  「やはり、世間の広い獅尾様は見通されておいでですね。ここだけの話ですが、豊海に先はないと存じます。夫は性急に過ぎました。ここのところの大名への苛烈な仕置は、後継への焦りの現れ。哲学も美学も持たぬ欲尽くめの貧乏上がりが権力の頂点に座すと、本当にろくなことはございませんね。長浜の城持ち大名だった頃が一番幸せでした」 「いっそ貴女様が大坂城の天守に座られては」 「まぁ、それ楽しそうね」 「男共を顎で扱き使ってやりましょうよ」 「それ良いわ。それ、そこのおまえ、馬におなり」 「あら、跨ってしまうの、やだそれ最高! 」 「どうせなら水も滴る男前がいいわぁ。猿面はもう沢山よ」 「それ言い過ぎ! 」  けらけらと、二人は屈託なく笑った。何のわだかまりとてない、腹の底を知り合う者同士ならではの、底抜けに明るい笑いであった。  ふと、躙り口が開き、細面の男が手をついて入ってきた。笑いを止めた寧子が表情を固め、獅尾に目顔で問うた。 「元は伊勢の地侍だったそうですが、食い詰めて京の街をふらついていましたところ、やんごとなき姫君の御一行に拾われたのだそうです」 「何のお話でしょうか」 「その姫様というのが、殿下の閨から逃れたいがために病気と称して京の妙顕寺(みょうけんじ)城に御籠もりになっていた莉里姫、と申したら」 「まさか」  寧子は察しの悪い女ではない。獅尾が何を言おうとしているか、直ぐに察した。何より、端で平伏している男の容姿である。うっかり手を伸ばしたくなるような端正な顔立ちで、ほっそりとした体格ながら所作は柔らかくそつがない。何より、その細くしなやかな長い指が、色気を湛えて妙に柔らかな動きをするのである。頽廃、その一言だけで男のまとう雰囲気を表現するに十分である。 「殿下のお渡りもあったそうですから、必ずとは言えませぬが」 「その方、名は」  寧子は男に問うた。男は顔を上げると少し翳を感じさせるように微笑み、ゆったりと唇を動かした。 「理一郎、とお呼びくださいまし」  りいちろう、そう繰り返す寧子に、理一郎と名乗った男は嬉しそうに笑った。 「獅尾様、この者を何故私に」 「この者の存在が知られれば、明野様も殿下も必ず口を封じようとなされます。何故なら莉里姫はこの男の事を明野様にも話されておりません。隙を見て私の知り合いの元に逃げ込んできましたものを、寧子様の誼に縋って連れて参りました。豊海は寧子様が殿下と手を取り合い、苦労に苦労を重ねて築き上げて参られたお家。後から来た女にかき回され、足元を掬われるようなことになってはなりませぬ。秀嗣様をお救いする切り札にもなりましょう。寧子様ならば、必ずやこの者を活かしてくださると信じます」  獅尾はいつでも遠くを見ている。いつの間にか堺で力をつけ、貿易商として外界へ乗り出した獅尾の感覚は、女のそれを、いや、こんな小さな国で刀を振り回してちょろちょろ動き回っている男共の了見をも、遥かに凌駕している。決して短くはない付き合いの中で、さんざんに獅尾に目を開かれてきた寧子である。獅尾が、ただ自分を助けるためにこんな男娼まがいの男を連れてきたわけではないことくらいは察しがつく。伊達に貧乏所帯からここまでになったわけではない。ここは夫と喧嘩をしてみるか……寧子は頷いた。 「分かりました、お預かりいたしましょう。とはいえ大阪に連れて帰るわけにはいきませぬ。私の里である浅山家の弟が、この度近江八幡に入封することとなりました。添え状を書きます故、直ぐに行きなされ」  理一郎は深々と平伏した。 「私からも御礼申し上げます、寧子様」 「礼を申すは私の方。お心遣いに感謝申し上げますよ、獅尾姫様」 「御武運を。あなた様ならきっと御勝ちになられます」  まるで確信したかのように、獅尾は男を置いたまま出て行ってしまった。  添え状を書く間、理一郎は膝がつく程の距離に座り、いつの間にか寧子の膝に手を置いていた。男日照りの40女は簡単に落とせるとでも思っているのかと、腹立たしい気持ちを抑え、寧子は出来上がった添え状を理一郎に手渡すと、礼も聞かぬうちに立ち去った。 「ふん、ババァが。男日照りのくせに」  やせ我慢をしやがってと毒づき、理一郎は書状を袂に仕舞った。    
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