12.出立

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12.出立

 12. 出立 白糸の滝を見下ろす林道をぐるりと回り、宗冬は小さな庵に蒼星(そうせい)を止め、荷を下ろした。  庵の中には火の気もなく、葛が寝ている筈の床も片付けられていた。起きられるようになったのだと、弾かれたように滝壺が見える斜面に駆け出た。  さらさらと柔らかな水音に包まれる中、河原には燦々と日差しが降り注いでいた。冬にしては暖かな日で、葛と碤三が焚き火の側にいるのが見えた。声を掛けようと息を吸ったが、あまりに美しい情景に、宗冬は言葉を呑み込んだ。  大きな流木に腰を下ろす葛は、碤三の鈍色の着流しに身を包み、熱心に何かを縫っている。その背中に立つ碤三は、丹念に葛の髪を梳き、時折手元の縫物を覗き込んだ。揺らすなとでも言われたのか、ちょっと膨らませた葛の頰に碤三も頰をすり寄せた。自然に、二人の唇が重なる。何度も何度も啄ばむように唇を吸って、穏やかな笑顔を交わす……。  見つめる宗冬の頰には、いつしか幾筋もの涙が伝っていた。  あのような平穏な暮らしを、二人はこれまでただの一刻とて過ごしたことはなく、ひたすら修羅の中に身を置いて戦い続けてきたのだ。自分と関わらなければ、あの二人はこれからも、あのような美しい時間を過ごす事ができるのだ。  もう、発たなくてはならない。己の道は己一人で歩まねばならない。二度と、愛し合う二人からあの美しい時間を奪ってはならない。葛の幸せを、奪ってはならない。 「葛……刀を置いてくれ。私はもう、行くから」  碤三の腕の中で、これからの人生を穏やかに、葛自身の為だけに過ごして欲しい。 「ありがとう、ありがとう……許してくれ」  感謝と詫びとを繰り返しながら、宗冬は蹲って泣いた。二人に悟られないように、声を殺し、歯を食いしばり、泣いた。  そんな宗冬を気にかけるように、どこからともなく蒼雲が側にやってきて、震えている宗冬の背中を鼻で突いた。その鼻先を抱きしめてひとしきり泣くと、その背にひらりと飛び乗り、宗冬は手綱を握った。 「折角蒼星と会えたというのに、すまぬな、蒼雲」  名残にもう一度二人の姿を、と河原を見下ろすと、そこに二人の姿はなかった。  蒼雲に乗って出立しようとする宗冬の後ろ姿に、葛が縋るように手を伸ばした。  宗冬が帰ってきたのが分かり、二人して庵に駆け上がってみれば、宗冬は荷下ろしだけしてさっさと蒼雲に跨ってしまった。名残惜しそうに河原を見下ろす宗冬の背中は、泣いているのか、小刻みに震えていた。行くつもりなのだと二人は瞬時に悟った。咄嗟に追い縋ろうと踏み出す葛を、碤三が背中から抱き止めたのであった。 「もう行かせてやれ。ちゃあんと巣立できる男に、おまえは立派に育てたんだよ」 「でも、若は紘も宗良様も失ったのだ。たったお一人でこの乱世の渦の中に送り出すなど、私にはできぬ」 「あの伝説の織田島宗冬だぞ、大丈夫だ。第一、あいつは人に愛される」 「碤三」  抱きとめていた碤三の両腕からするりと零れ落ちるように、葛は力なく座り込んだ。  南蛮薬の後遺症か、まだ身体中が思うように動かない。少しずつ細々としたことはできるようになってきているが、とても刀を振り回して敵と戦うなどという荒技ができる状態ではない。今自分が動いても、碤三に手数をかけ、宗冬の足を引っ張ることしかできぬであろうことは、葛自身が一番よく解っていた。 「行かせることしか、できぬのか」 「藤森の連中がいつでも陰ながら守っている。変わった事があれば繋ぎもつく。どうにも危ねぇって時は、俺が行く」  葛は激しく頭を振った。 「……生まれる前からお世話申し上げてきたのだ」 「そうだな」 「若の為なら、何でもして差し上げたい。まだ、まだして差し上げたいのに」 「そうだな」 「手離すなど、嫌だ、離れるのは、嫌だ! 」  わぁ、と声を張り上げて、葛は子供のように泣いた。常に己を律し、宗冬を最優先に考え、己の心を押し殺してきた葛が、地面に両手をついて全てを吐き出すように泣いた。 「よしよし、泣け泣け。俺しか聞いちゃいねぇから」  うわぁと泣き叫ぶ葛の背中を優しく摩りながら、碤三は、小さくなる宗冬の背中に幸あれと拳を叩きつける思いで見送った。  蒼雲(そううん)の走りに任せ、宗冬は幼い頃から側に居続けてくれた葛の、あの美しい姿ばかりを思い起こしていた。血に染まって戦う姿ではない。困った時には必ず傍にいて助けてくれた、あの観音様のような微笑みを、である。そして剣を、乗馬を、学問を、作法を、全てをこの身に授けてくれた。だからこそ人質として盥回しにされながらも、己を見失うことなく誇りを蹂躙されることもなく、戦さ場で手柄を立てて居場所を得る事ができたのだ。  いつしか蒼雲の足はゆるりと、遠江の街道を流していた。道から見渡せる山々の美しき景色を見せて、宗冬を力付けようとでも言うのか。その気遣いが愛しく、宗冬は蒼雲の首を優しく撫でた。  こんな風に馬と心を通わせる事ができるのも、葛が馬との付き合い方を教えてくれたからだ。道具ではなく、信頼する相棒と思え、と。手綱の握り方一つ、鐙のつけ方一つ、全て、葛が愛情を持って仕込んでくれた。 「これ程の深い愛を、私は知らない」  それを授けてくれた時の、あの美しく優しい仕草一つ一つを辿り、宗冬は堪らず蒼雲から飛び降りた。そして居住まいを正して山々に向かって平伏をした。  感謝という感謝、礼という礼を、そして家族としての限りない愛を、葛に……。  遠江の街道も城下が近くなるにつけ物々しくなっていた。時折、稲川の旗印をつけた兵が数人単位で通り過ぎていく。だが、粗末な小袖と裁着袴で旅塵にまみれた宗冬を見咎める者はなかった。 「そう言えば、稲川家は駿府を取られ、遠江一国に国替えとなったと言っていたな」  駿府は、武蔵に転封した将康への牽制に、豊海の子飼である加藤清隆が入封していた。  一旦は家中を収めたものの、一五八四年に秀敏が南条を総攻めにする際に駿河城を前衛基地として差し出さなかった事で怒りを買っていた。これは頼素生母である多喜が、草履取り上がりと蔑み一向に首を縦に振らず、領内の支城を含め開城が遅れたためである。止む無く秀敏は小田原城の眼前に新たに一夜城を築かねばならない羽目になった。秀敏につくか南条につくかで大名達の動向を図っていた時だけに、秀敏の稲川への評価は地に落ちた。焦った多喜が実家の四津寺家に泣きつき、京での秀敏の業務場所として妙顕寺城を提供し、甥の秀嗣の為にも御所近くの土地を提供して充楽邸を建設できるよう、九条家を通して御所に働きかけた事で、翌年には何とか遠江一国を堅持して今に至っている。 「そうだ、喜井谷へ参ろう。無沙汰を詫びなくてはならぬ」  将康の母方の実家・水山家の領地となった三河岡崎の山岳地帯から、浜松方面へ街道を南下し、引佐の街から東へ脇往還に入り、喜井谷を目指した。    喜井谷に着くと、丁度直獅郎が堺から戻ったばかりだという事で、すぐに館に通してもらう事ができた。  座敷で座して待っていると、艶やかな女物の小袖に身を包んだ直獅郎(なおしろう)が笑顔で現れるなり、宗冬の手を取って再会を喜んだ。 「お久しゅうござります、ようご無事で。皆様息災ですか」 「はい、将康様の伊賀越えの折は、何かとお手数をおかけいたしました。直獅郎様にお世話になりながら長のご無沙汰、どうぞお許しくださりませ」 「いいえいいえ。よう訪ねてくださいました。あ、今は獅尾(しお)でございます。どうぞ獅尾と」  幾分、声も艶やかになったように感じていると、獅尾が頭を下げたままの宗冬の顔を下から覗き込んできた。 「泣きましたね」 「え」 「解っております。私、こう見えても喜井谷の主ですよ。喜井にも情報をもたらす忍のような者達がおりますから、粗方は、掴んでおります。そうだ、茶を進ぜましょう」  獅尾は宗冬の手を引いて奥の間に引き連れた。  かつて、伏兵を潜ませていたあの背中越しの奥の間は、今は炉が切られ、茶の湯を楽しめるような長閑な作りに変わっていた。 「政虎が将康様から城をひとつ頂戴いたしましてね。喜井の主だった者はあちらに行き、ここは私の私領、言わば私の大好きな趣味に囲まれた場所になりました。刀やら鉄砲やら、物騒なものも見当たりませんでしょう」 「どことのう長閑に思えたのは、そういうことでしたか」  そうこうするうちに、獅尾は鮮やかな手並みで茶を点て、宗冬に差し出した。 「こうして心安く頂くのは初めてです」 「いつもは駆け引き事で気が張り詰め、茶の味もわからなかったでしょう」 「はい……美味にございます」  作法通りに喫して茶碗を置き、宗冬は礼を述べた。 「葛様のお仕込み、雅な所作です。あの方は本当に、底知れぬ方ですね。全てを兼ね備えておられて、ええ、あの神がかった美しさも。玉に瑕と申せば、子離れできないところ」  子とは自分のことだろうと、宗冬は苦笑いをした。 「でも、なさったのね。それで良いと存じますよ。あの方はもう、ご自分の幸せの中だけでお過ごしになれば良い。それも大威張りで」 「はい、仰る通りです」 「ご立派なご子息を持たれて、幸せなお方です」 「子息……あのう、せめて弟でお願いします。三十路と連呼しただけで、三河の本戸様は本気で殺されそうになったと慄いておられましたから」  あらやだ、と獅尾は声を上げて屈託無く笑った。女らしくなったと宗冬が眩しそうに見つめていると、獅尾はちょっと恥ずかし気に口元を手で隠した。 「嫌ですね、大口開けたりして。私も、こう見えて愛しい人と巡り会いました。海で死に別れましたけど、愛し愛された時間は、失われるものではありません。私という人間の一部として、こうして生きておりますから」  葛からの深い愛も色褪せることは決してないと言われたようで、宗冬は心が温まるのを感じた。両手を胸元に添え、何度でも心の中で葛の名を呼んだ。 「そうそう、私、茶々屋の四郎兵衛(しろべえ)様とは懇意にさせて頂いております」 「宗……四郎兵衛様とですか」 「ええ、そして、将康様も、です」 「それが、何か」 「聞きました。岐阜で鞠姫様をお助けになられたとか。無事に江戸にお入りになられ、最上家にも密かに知らせが届き、いたく感謝されたとのこと。奥羽の大大名である最上家が奥川についたことで、奥羽の混乱は加速度的に収まるでしょう。大館家の姫と奥川家若君との婚儀もまとまりつつあります。将康様は着々と奥羽諸侯と手を結ばれておられます」 「それはようございました」  手元で獅尾が棗を弄び、暫し言葉を選ぶように押し黙った。顔を上げた獅尾の瞳は、かつての直獅郎の果断さを以って宗冬を真っ直ぐに捉えた。 「今すぐ江戸へ行かれませ。将康様がお待ちです」  江戸、と宗冬は小さく呟いた。行こうと思いながら、どこかに躊躇いもあったのだ。 「豊海の政権は長くは続きません、やり方が下品に過ぎたのです。既に水面下では色々な策が動き始めておりますが、それもこれも、秀敏が権力を極めてからというもの、耄碌したかのように力にしがみつき、後継選びの為に多くの無辜の血を流そうとしているからです。戦さ場ではなく、無辜の民の血を欲し始めたら、もう終いです」  あと少しで、本当の戦のない世が訪れるのではないか……将康がその頂に立つ日が近いのではとの己の勘に後生を託すように、宗冬は心を決めた。 「今なら、何のために戦うか、わかります。葛が穏やかに夫と過ごせるために、私は今一度、将康様の元で戦いとうございます」 「よう申されました。やはりあなた様は孝行息子です」 「いや、ですから……」  弟でしたね、と言い直し、獅尾はころころと明るく笑ったのであった。                  喜井谷から江戸へ向かう街道に出たところで、宗冬は稲川の兵に行く手を阻まれた。  名乗りもせずに睨み合っていると、兵をかき分けるようにして、記憶にある武将が姿を見せた。27歳になっていた稲川頼素(いながわよりもと)である。 「一別以来だな」  駿府で、いや、あの白糸の滝で出会った頃はまだ底の浅い若者といった印象であったが、家督を継ぎ、父を失い、家中の粛清を経験し、所作にもその印象にも重厚さが増していた。 「ずっとお前を探していた。そのような形であったから、部下はお前を見過ごしてしまったらしい。すまぬが高天神まで同道してもらおう」 「高天神。そうですか、今は高天神に」 「否やは言わせぬ」  頼素が合図をすると、兵が宗冬を取り囲んだ。蒼雲が静かに呼吸を整えている。いつでも宗冬に従うという意思表示である。  手綱を引き、宗冬が馬首を巡らせると同時に蒼雲が後ろ足を振り上げて土煙を巻き上げた。兵たちが思わず顔を塞ぐ間に蒼雲は走り出した。が、直ぐに飛来した縄に体を拘束され、進むことができなくなった。急停止した蒼雲から振り落とされた宗冬は、受け身を取って起き上がるなり、兼定を抜いた。 「傷をつけるな。捉えよ」  刺股で体を四方八方から押さえつけられ、宗冬はうつ伏せのまま頼素を睨みつけた。 「お前を殿下に差し出せば、再び駿河は稲川の手に戻る。悪く思うな」  感情の動きを一切感じさせない事務的な物言いで、頼素は宗冬の連行を兵に命じた。  後ろ手に縄をかけられた屈辱的な姿のまま、稲川家臣団が居並ぶ高天神城の大広間に引き出された。上座に座る頼素の両隣には、女がそれぞれ座していた。一人は頼素と同年代と見えるため妻であろうことはわかる。今一人は頼素の母か。京風の袿に厚化粧を施し、この場において自分の存在を誇示せずにはおれぬ気性の激しさが滲み出ていた。 「そもじが織田島宗冬か」  当主である頼素を差し置き、口を開いたのは頼素生母・多喜(たき)であった。 「然様、織田島宗冬にござる」  頭をきっと上げたまま、宗冬はにっこりと微笑んだ。 「おお、おお、やはり公家の血は争えぬ。見や、何という雅な佇まい、美しさ。殿下がお心を奪われるもむべなるかな」  歌うような高音でゆらゆらと公家風に話す多喜の声は、どうにも人を苛立たせる。宗冬は背後で家臣たちが溜息をついてうんざりしているような様子を感じ、苦笑した。 「卒爾ながら、そちらの女性は(より)姫様とお見受けいたしますが」  名指しされた女は、驚いたように目を見開くと、すぐに多喜の顔色を伺うように目を泳がせた。 「ほう、この若武者を見知っておるのか、依子」  多喜に睨まれ、依姫は微かに頷いた。 「御母堂、私はかつて油井家にて人質として暮らしたことがありましたので、懐かしくなったまでのこと、唐突に無礼を申しました」 「その方ら、二人きりで会うたことはあったのか」 「当時はほんの七歳を過ぎたばかりの子供。美しい姫君の姿に憧れを抱いたに過ぎませぬ」  こんな無為なやりとりの間、頼素は瞑目して黙ったままであった。 「この依子はのう、頼素より四歳も年上での。再嫁して参った時は既に二十五を過ぎた大年増じゃ。子も産めぬし、死んだ秋斎もとんだ遺産を残したものじゃ」  妻が貶められていても、頼素は何も言わない。これが常であるかのように、うんざりとした顔のまま、じっと瞑目し続けていた。 「して、私を、どうなさるおつもりか」 「無論、そもじを所望の殿下に引き渡し、駿河を安堵して頂くのじゃ」 「私は目の前のご当主にお尋ね致しておる」  大音声を上げて真っ直ぐに問いかける宗冬に、頼素の目が漸く開かれた。 「無礼な、わらわはこの頼素が母ぞ! 」  多喜は顔を真っ赤にしてて金切り声を上げるなり、扇を振り上げて立ち上がった。 「お黙りめされいっ! 私は頼素殿にお尋ね申している」  一度閉じられた瞳を、宗冬は多喜に向けてカッと見開いた。その眼力に、多喜が思わず尻餅をついて後退り、何やらもごもごと口を動かした。 「宗近じゃ、あの、宗近めが……」  頼素が小姓に目顔で合図をし、多喜は数人がかりで大広間から連れ去られていった。 「母が、無礼を致した」 「いえ、何のこともございませぬ」  それきり、二人はお互いを見据えたまま言葉を交わさなかった。家臣が固唾を呑んで見守る中、依姫がつと進み出るなり宗冬の戒めを懐剣を抜いて断ち切った。 「かたじけのうございます」 「いえ、あなた様は罪人ではございませぬ。高貴なお方に縄目の恥辱とは、当家の無知と無教養を笑われます……ご立派におなりですね、澪丸様」 「何と、覚えていてくださいましたか」 「無論です。油井の家で人質として参られたあなたは堂々としてらっしゃった。初めて会った時に披露して下さった見事な笛の音、まだ心に残っております」 「子供の拙い芸、恥ずかしうございます。宜しければ、このお礼にお聞かせ致しましょう」 「まぁ、ここで」 「ええ、ここで」  懐から、茶色に変色した笛袋を取り出し、呆気にとられたままの家臣団の前で、宗冬は徐に篠笛を吹き出した。ろくな稽古もしておらぬが、母から教わった曲だけは、今も最後まで吹くことができる。  嫋嫋と、笛の音だけが広間に響き渡った。駿河の名門であり、大所帯であった家臣団が、駿河より数段小さな城に押し込められ、背中を丸めて暗い顔をして俯いている。鬱々と空気が淀んでいることにすら気付かず、考える気力とて奪われたような、正に人形の集団となり果てていた稲川家中に、笛の音が浄化の風を引き込んだ。  曲が終わった。残響が風に溶け込んだのを確かめてから、宗冬は一礼をして笛を仕舞った。静寂の後、背後から微かに啜り泣きが聞こえてきた。依姫も頼素さえも、その頰に涙を伝わせていた。 「やはり、あなた様の笛の音は美しい。心の澱を洗い流してくださいました。家臣一同に成り代わり、厚く御礼申し上げます」  手をついて、依姫は深々と頭を下げた。  高天神の城は鶴翁山の峰伝いに立ち、本丸近くの備前曲輪からは遥か遠州灘を見通すこともできる。これ程の風光明媚な城にあって、何故あれ程家中が沈むのか。要因が分かっていても取り除くことのできぬ難しさと苦しさとを、海を眺める頼素の背中が語っていた。 「庵原秋斎殿は、いつ」 「南条攻めの前年だ。大叔父上さえ居て下さったら、殿下の呼びかけにも直ぐに応じ、城を提供して全ての領土は安堵されていた筈だ。それ以前に、南条に駿河を荒らされることもなかった。俺の采配が未熟といえばそれまでだが……」 「御母堂様は、頼将様がお亡くなりになられても、ご出家されなかったのですね」 「困ったものだ。すっかり自分がこの屋台骨を支えているようなつもりになってしまったようでな。四津寺家に縋ったことで母の増長は益々酷くなり、俺も頭が上がらなくなってしまった。お笑い草だ」   風が心地よい。白糸の滝に吹く風と違い、少し湿り気があって暖かい。 「ここは過ごしやすいですね。冬でもこんなに暖かいとは」 「元々は分家の所領でな。俺もここが好きでよく父と遠乗りの帰りに立ち寄ったものだ」 「そうでしたか」  頼素の前に立ち、宗冬は身を伸ばすようにして海を見つめ、息を吸い込んだ。  その宗冬を、頼素が背中から抱きしめた。 「おやめください」 「あの滝で出会った精霊がおまえだと分かったあの駿河での日から、一日も忘れたことなどなかった。何度か会いにいったのだ。でも、おまえは清洲から逃げ、戻ったと思えば高田攻め、終わったと思えば京……こちらも見ての通りだったから、会うに会えなかったのだ。おまえの武勇伝は家臣の間でも伝説となっている。縄目にしたのも、その恐怖からだ」  頼素は尚もきつく宗冬を抱きしめた。そして首筋に唇を這わせてきた。  暖かい、ふとそう感じてしまった。一人になってまだ幾日も経っていないというのに、早くもこうした体温を欲している自分の頼りなさを、宗冬は心の中で笑った。 「依姫様に見られたら大変です」 「あれとはもう……初めから上手くいっておらぬのだ」 「親離れできぬ貴方がいけないのです。子離れできぬ親は叱れなくとも、子は親離れしなくてはなりませぬ。私は……してまいりました」 「親離れか。本能寺で壮絶な死を遂げられたと聞いている」 「そちらの親ではありませぬ。私にとっての本当の、心の親、心の姉から、私は独り立ちをしてまいりました」  そういえば、と頼素は辺りを見回した。白糸の滝でもどこでも、不意に現れては宗冬に近付くことを許さないあの、壮絶な美貌の忍。今に足元に苦無の一つでも飛来して突き刺さるのではないかと、頼素は宗冬から離れて辺りを見回した。そんな頼素の、昔を思い出させる隙だらけの仕草が可笑しくて、宗冬は声を上げて笑った。 「だから、いませんて。葛はもう、夫と幸せに暮らしているのです」 「本当か」 「本当です」 「でも、お前も十分に強かろう」 「まぁ、貴方に負ける気はしませんね」  刀を腰から抜き取り、二人は阿吽の呼吸で相撲に興じた。  股立ちを取った頼素の脛には、発達した筋肉が備わっている。修練は怠っていないのだろう下半身をしっかりと沈ませ、頭から宗冬の腹めがけて突進してきた。  衣装では分からなかったが、存外に頼素は筋肉隆々とした四肢をしていた。体重をかけられ、上背こそ変わりないが線の細い宗冬は、あっという間に押し切られそうになった。  その力を利用してひらりと跳びのき、宗冬は背中に回って頼素の腰を掴むなり、咆哮を上げながら横倒しにした。と、倒れた頼素は跳ね起きるなり蹴りを繰り出してきた。 「往生際が悪いですね」  その蹴りを腕で防ぎ、叩き落としながら、宗冬は間合いの外に一旦下がった。一呼吸の後、蜻蛉を切って頼素の間合いに入るなり、両腿で頼素の首を挟み、その勢いのまま上体も頼素の頭上に跳り上がらせ、そのまま後ろに倒そうと体重をかけるが、頼素に背骨を両手で締め上げられ、思わず体勢を崩してしまった。頼素の首を太腿と両手とでしっかり掴んだままの宗冬が倒れる勢いに抗えず、頼素自身も引き倒されてしまった。 「あ痛っ……」  背中を打って悶絶する宗冬の体に重なるように頼素も倒れ込んだ。苦悶に歪む宗冬の整った顔が上気して、可愛らしい歯が綺麗に並ぶその隙間から、切なげな吐息が漏れた。  つい、衝動に逆らえずに、頼素がその唇を塞いでしまった。一度重ねてしまうともう止められず、頼素は拒む宗冬を押さえつけ、何度も何度も唇を奪った。  乱れた小袖の前合わせから、戦場上がりとは到底思えぬ滑らかな肌が露わになっている。  組手の興奮をそのまま、頼素は宗冬の肌にぶつけた。胸元に歯を立てられ、思わず上げた宗冬の悲鳴は、まるで少女の囀りのようで、更に頼素を煽った。 「頼素殿、よりも……」  袴を捲られ、流石に宗冬は頼素を突き飛ばして上体を起こした。息を乱したまま慌てて小袖の前合わせを閉じて、頼素に背中を向けた。 「殿下は、周りの者も呆れる程におまえに執心なのだそうだ……渡したくなどない」 「渡さねば、稲川が滅びるのでは」 「母に蹂躙されたこの家はもう、どの道長くはない。ならばせめておまえと、最後くらい、想い人と過ごしたい」 「私は、男ですよ」  頼素がフッと笑った。宗冬の真実を知っている、そんな含みすら感じさせた。 「あの滝で出会うたのだぞ、気付かぬと思うか。いや、正直あの頃は判らなかったのだ。妻帯し、女というものを知って、漸く悟ったのだ。あの時、おまえの足元で水に踊っていた赤い魚が何だったのかと」  思わず宗冬は逃げようと体を起こした。しかし足が竦んで上手く走り出せずにいると、頼素に腰を掴まれて引き戻された。 「何も言うな。お前がそのことでずっと苦しんできたのだろうことは察しがつく。おまえは確かに男だ。一騎打ちで兄を討ち取った生来の武将だ」 「頼素殿、私をどうなさる」 「解らぬ、いや、解る。いや……おまえと一つになりたい。それでは駄目か」  怒りとも呆れとも取れるような何とも言えぬ表情で、宗冬が頼素の手を振り払った。 「真っ平ですね。母親の言いなりで、自分の妻を守ってやることもしない貴方など、真っ平御免蒙ります。私はこう見えても妻帯者です。ですが……父の愛人が向けてきた憎悪から守ってやることができませんでした。子も、間も無く会えると言うその時に、妻と共に殺されてしまいました。失ってからでは遅すぎます。後悔する前に、依姫様をしっかりと守って差し上げることです」 「依とはもう……」 「縁あって夫婦となられたのでしょう。油井家でも人質のように扱われ、心通わぬ夫に離縁されたのです。今度こそ、お幸せにして差し上げるのが男というものでしょう」  次第に、自分でも何を言っているのか解らなくなり、宗冬は一旦言葉を止めると膝を抱えて蹲ってしまった。 「貴方はずるい。全部人のせいにして……差し出せば良い。殿下と呼ぶあの猿に、私の身柄を差し出してお零れに預かるが良い」  頼素が力ずくで腕を掴み上げると、宗冬は泣き顔を上げてその腕を振り払い、走り去って行ってしまった。  一瞬、心が通じたのかと思ったが、また何某かに阻まれるようにして離れてしまった。  滝で出会った時のままの、可憐な精霊の唇の柔らかさが、まだ頼素の唇に燻っていた。  1585年、秀敏の嫡男が死んだ。春先に母親の莉里姫の風邪がうつり、熱を出してからものの3日で、小さな命は消えてしまった。秀敏の嘆きは尋常ではなかったが、それ以上に、嫡男の胤についての憶測が大坂城を席巻し、秀敏自身の耳にも入る事態となった。  伊勢の地侍、その男の大まかな身元が判明した途端、秀敏は伊勢掃討を命じた。伊勢の忍衆がその対象となり、透波によってあらゆる忍集団が洗い出された。2万の軍勢を送り込み、それまで自治的に暮らしを立てていた伊賀・甲賀・雑賀・根来そして、藤森。特に奥川家や三条橋家と繋がりのある藤森衆については、全員生け捕りにせよとの命が降った。  莉里姫は震え上がり、理一郎の事を母である明野に打ち明けた。実は、理一郎は明野とも関係を持っていた。理一郎はいざという時の盾にするつもりであったのだろう。 「殿下、私はまるで売女のように悪し様に言われ、立つ瀬もございませぬ。殿下のお情けが厚いからこそ授かった尊き和子なのです。和子をなくしたのは、この私です、それなのに皆して私を……死んだほうがマシです」  忍を掃討して男の正体を突き止めると息巻く秀敏に、莉里姫は小狡い媚態で泣き落とし、秀敏を閨に誘った。 「私は確かに殿下のお胤を宿しました。今度こそ、丈夫な和子を産みまする」  秀敏とて、ここまで子が授からぬは己が原因か、宿世かくらいには思っていた。  しかし、莉里姫の、公家の娘にはない起伏に富んだ柔らかな肢体には、十分に溺れ切っていた。明野といい、策を弄することに長けた母娘だけに、必ず何かを企んでいることは間違いないが、それ以上に、この弾むような肢体が手放せなかった。 「殿下、ああ、殿下……」  大名の娘にしては性に奔放な莉里姫は、縦横無尽に体をくねらせて秀敏から全てを搾り取ろうとした。  他の側室の閨では役に立たないことも一度や二度ではなくなってきていた秀敏も、この莉里姫の閨では若い頃を思い出すほどに男としての自信を取り戻し、果てた後は莉里姫の横で満足げな寝息を立てていた。 「ああもう、気色悪い。理一郎(りいちろう)でのうては嫌じゃ……」  寝息を立てながら、秀敏ははっきりと名を聞いていた。理一郎、理一郎か……。  近江八幡の城には、寧子の弟・浅山義長が入封していた。寧子の指示で預かっていた理一郎だが、早速に悪い癖を出して家臣の妻に手を出した。籠絡された妻は夫の殺害を図り、理一郎と手に手を取って駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまった。切り札としての使い時を間違えたと後悔していた寧子は、迷いなく義長に処断するように命じた。 「頼む、助けてくれ、何でも話すから、助けてくれ」  地下牢に転がされ、かつての色男は喚き散らした。鼻水を垂らし、殴られて血の混じった唾を飛ばして悲鳴混じりに叫ぶ姿を、義長は鼻白む思いで見下ろしていた。  さんざんに責め苛んでいた家臣達を全て下がらせ、義長は慎重に話を聞き出していた。 「豊海の殿下の子は、俺の胤だ。この藤森忍一の女殺し、理三郎が胤よ。あの莉里姫とかいう淫売を薬で誑かして、虜にして産ませたのだ、あんな猿に子を孕ませられるものか! 」 「藤森ということは、三条橋様の御命か」 「いや、違うね。俺は高田攻めの後に藤森を抜けている。あの女男の頭に嫌われて放り出されたのよ。食い詰めていたら、誰かが俺に酒を奢って、莉里姫が大坂城から逃げてくる事を教えてくれたんだ。こりゃあ上玉だと、腕によりをかけたのよ」  ぺらぺらと軽薄に話して聞かせる理一郎いや理三郎の腹に、義長は刀を突き立てた。 「あくまでおまえを斬ったは妻を寝取られた亭主。何もかもその腐った腹に仕舞って地獄へ行け」  悶絶する理三郎の胸元から、女を籠絡する時に使ったであろう薬筒が転がり落ちた。 「義兄に持っていけ。この男の素性については最早調べるに及ばず。そう姉上に伝えよ」  そして素早く首を斬り離し、寧子の子飼いの忍に預けたのであった。   「まあまあ、殿下。このような昼下がりに急な御渡りとは、何事にござります」 「理一郎、じゃの」  連日の訪に気を良くして美粧を尽くして出迎える明野と莉里姫の前に、秀敏が男の生首を投げ捨てた。一瞬ひきつった声を上げながらも、流石に戦国の女、明野(あけの)は詰と首を見据え、首を縦に振った。 「間違いございませぬ。行き倒れているところを助けましたら、何やら怪しげな薬で私を眠らせ、無体を強いたのでございます」 「ん、莉里姫が手篭めにされたのでは……」 「私、明野が、でございます。莉里は真実、殿下に操を捧げておりまする」  母の後ろで莉里姫が小さくなって震えている。その前に立ちはだかるように、明野は堂々と理一郎との閨を白状した。 「四十に手が届こうかという私では、有り得ぬとでも」 「あ、いや……この男、義長の家臣の妻を籠絡し駆け落ちしたところを、敢え無く夫に捕まりその場で成敗されたとか。その女には理三郎(りさぶろう)と名乗っていたそうじゃ」 「理三郎とな……口惜しや。やはり、高貴な女を騙すような悪い男であったのですね」  矢庭に、明野は前合わせをぐっとくつろげて胸の谷間を晒し、その白い肌に懐剣を突き立てようとした。 「よさぬか。もう良い」 「ああ、では、お許しくださるのですか」 「お許しも何も、其処もとは大切な織田島の継室、宗孝様の御袋様ではないか」 「殿下ぁぁ」  刀を放り出した明野は、豊かに膨れ上がる自らの乳房に秀敏の手を滑り込ませるようにして、おいおいと大袈裟に泣いた。  いつしかその胸の中に顔を埋め出した秀敏を抱きしめるようにしたまま、明野は背後で震えている娘に行けと目顔で命じた。  母の大仰な婀娜声を聴きながら、莉里姫は逃げるように妙顕寺城から飛び出した。  生まれに相応しき栄華を手に入れていた筈が、どこでどう間違えたのだ、と、裸足で御所の付近をふらふらと歩いていると、目の前に豪華な女駕籠が止まった。  付き従う侍女によって戸が開かれ、中から現れたのは、秀敏正室・寧子(ねいこ)であった。 「莉里姫、そのお姿はどうなされた」 「これは、寧子様……」  豊海の正室はあくまで寧子であり、今や寧子は従三位の官位も持っている。当然ながら莉里姫はその場に跪いた。 「子を亡くされ、さぞお辛かろうと来てみれば、殿下が御渡りのご様子。とは申せ、あなたがお相手ではないのですね。殿下にはもう無用の方、どこぞの寺でご静養なされませ」 「笑止な、私は和子のお腹様ですぞ。無礼を申すとそのままには捨て置かぬ」 「空っぽの腹と頭とで何を申すか、かかれっ」  と言うなり、寧子の背後から武芸の心得のある女達が飛び出し、あっという間に莉里姫の全身を拘束した。寧子はゆったりとした動作で懐剣を抜き、泣きながら顔を背ける莉里姫の髪を、首元からバッサリと切り取った。 「生涯尼寺に居れ! この薄汚い性悪娘が」  足元に落ちる黒髪を見て、莉里姫は悲鳴をあげた。そして泣き喚きながら、侍女達に引きずられていったのであった。  これで秀嗣が後継に返り咲き、伊勢掃討もなくなる。当初の計画とは大分変わってしまったが、とにかく余計な血を流さずに済む……寧子は大きなため息をついた。    寧子の望む通りに、秀敏は秀嗣の蟄居閉門を解き、官位も戻した。伊勢の掃討は取りやめとなり、今年は二人でゆるりと桜を眺められるかと思いきや、秀敏は江戸への出陣を決めてしまった。 「おまえ様! 」  寝所を訪れると、秀敏は明野に鎧の支度をさせていた。すっかり秀敏の側室気取りであり、わざと広がっている前合わせから、これ見よがしに豊満な胸の谷間を見せつけていた。    秀敏が鼻の下を伸ばして覗き込むその後頭部を、寧子は思い切り叩いた。 「何を致すか、おかか」 「色ボケも大概になされませ。折角上手く収まっている武蔵に兵を向けて何となされる。奥川様に刃を向けるおつもりか」 「うるさいっ、あやつは正月の宴に挨拶にも来なんだわ。江戸は遠いだの、まだ城下が治らんのと、何やかやと理由をつけて閉じこもっとるんだわ。あれは戦支度をしとるんじゃ。勝手に奥羽の大名と婚姻も結び、儂の言うことをちょっとも聞かん」 「だからと申して、刺激して何とします。またこの国を焼け野原に致すおつもりですか」 「ほほ、生家が貧相だと考えも貧相なようじゃ。殿下はこの機に乗じて奥川を捻り潰そうとお考えなのじゃ」  これ見よがしに胸を反らせて立ちはだかる明野を、寧子は思い切り蹴り飛ばした。ぎゃっと無様に引っ繰り返った明野は、肌蹴た裾から肉付きの良い太腿を晒した。 「おかか! 」 「お黙りなさい! まんまとこんな大年増の色ボケ女に骨抜きにされて! 37にもなるこんな太ったババァといつまで乳繰り合っているんです! 」 「わらわは30にしか見えぬと皆が申すわ。乳も腹も弛みきっているくせに、自分が夫に見向きもされぬからと言うて、よくも土岐家の血を引くわらわを愚弄しおったな! 」 「これ明野、おかかを愚弄するのは儂が許さんぞ、このおかかはな、立派に奥向きを……」  うるさいっ、とばかりに、間に入った秀敏は明野に突き飛ばされた。 「月のものも干上がったお婆が奥向きの差配など、笑止千万」 「お黙り! 男に亭主を寝取られて死なれたと思ったら、他人の亭主に色目使って娘まで差し出して、色欲まみれで下品に過ぎて、土岐の血筋が聞いて呆れるわ」 「おのれ、悔しかったら娘くらい産んで見せよ、この石女がっ」  秀敏が取り付く島もなく、二人の年増女は掴み合いの大喧嘩を始めた。裾がはだけて尻まで露わになりながら取っ組み合う二人の女を放り捨て、秀敏はさっさと寝所を後にした。  奥御殿にいる女達は殆どが高貴な出であるが、子を産むことこそが出世であり実家の安堵であるだけに、まるで子胤に群がる餓鬼のように見えることがあった。床では木偶の坊のように動かない女もいれば、淫売宿から養女となって上がってきたのかと思えるほどに床慣れした女もいる。そんな浅ましさに辟易して、まだ手垢のついていない莉里姫のような若い娘を欲してみれば、すぐに秀敏との閨に飽きて他に男を作る始末である。  女に幻滅しては子は授からぬ。そう分かってはいるが、60を目前にしてここのところ閨に女を侍らせることが億劫に感じ始めていた。  秀嗣の阿呆しか、おらぬのか……ふと、秀嗣が近江から攫ったと言う美貌の忍の話を思い出した。藤森の頭と聞いたが、あの理三郎と関わりはあるのか……。 「稲川からの使者が参り、高天神の城に織田島宗冬を捕らえているとの事です」  小姓の知らせに、秀敏は己の股間がむくりと起き上がるのを感じた。 「それじゃ、そうじゃ、二条で会うたあの天女、それとあの宗冬……あの美しい若武者を組み敷いて、子を産ませてみたいものよのう」  何を言っているのだと首をかしげる小姓の肩を鞭で軽く突き、秀敏は気持ちが逸るままに手綱を握りしめた。 「まずは高天神を目指す。ついて参れ」  中国攻めの最中から疾風怒濤の進軍で明智宗兵衛を瞬く間に破った秀敏である。進軍の俊敏さは健在であった。  途中、義弟・浅山義長(あさやまよしなが)のいる近江八幡城で休息をとった。 「寧子から聞いたが、理一郎めはここの家臣の妻に懸想したとか」 「はい、夫に打ち果たされました」  せかせかと狛鼠のように動き回り、義長は酒だ、酒肴だと、秀敏の前に並べた。 「まぁ落ち着いて座りゃーも。ちいとも変わらんな、尾張の頃と」  寧子と所帯を持った時から、この義長は細々とよく気の働く弟であった。折り目正しく、人を欺くことのできぬ性分などは寧子によく似ている。実直すぎて融通の利かぬところもあるが、実弟の秀貞とはまた違った支え方で、寧子と秀敏によく尽くしてきた。 「殿下」 「(あに)さんでええわ」 「では、兄さん、理一郎めは食いっぱぐれていたところを莉里姫の道中と出会って拾われたのだそうです。あの怪しげな薬筒を我が家臣も見つけまして、忍かと問いつめたそうにございます」 「ほう、したら」 「数代前は確かに伊勢の忍らしいですが、祖父の代で薬師として幸松家に仕官するも、父の代で主家は滅び、伊勢で強請りたかりで小銭を稼いでいたそうにございます」  じろりと、秀敏が事の真偽を見定めるように義長を睨んだ。秀敏とは子供の頃からの付き合いである。義長もその目が猜疑心の現れであることをよく知っている。故に、平静を装って秀敏の盃を酒で満たした。 「秀嗣殿は読経の日々を過ごし、慎ましく過ごしているようです」 「そのことよ。許してやらねばならぬかのう」 「そうなされませ。間違いなく豊海の血が流れる、可愛い甥御ではありませんか」  曖昧に返事をする秀敏に、義長は酒肴を進めた。  その夜は、伽を言いつけた女にも手をつけずに過ごし、翌朝早々に秀敏の軍は発っていった。  律儀に兵を見送り終えた義長が振り返ると、そこに茶々屋の三造が立っていた。 「お主、いつの間に」 「理三郎の件、お手数をおかけいたしました」 「そのことか。者共、遠慮せい」  大手門から伸びる練塀は、宗良の血の痕を嫌った義長の命によって新しく作り変えられていた。より強固に高さを増した塀の側を、人払いをした義長は、三造と並んで本丸へ向けてゆるりと歩いた。 「理三郎の素性が知られれば、頭目に放逐されて今は無縁だとしても、藤森ひいては三条橋家や奥川家の存在を勘ぐられます。ようしてのけてくださいました」 「興三いや三造、私は真実を述べただけだ」  真顔で、義長はそう言い切った。三造も、黙って頷いた。 「嘘とはの、それこそが真実だと信じて吐かねばならぬ」  ふと立ち止まった義長が、誰にも聞かれぬように三造の耳元で囁き、笑った。 「私と姉は、泥舟で共に沈む気など毛頭ない。江戸の方に、くれぐれもよしなに」 「元より承知してございます」  商人の形でありながら、振り向いて去っていく三造の後ろ姿には一分の隙もなかった。 「斉藤興三、明智宗兵衛無二の忠臣、か。儂もここが嵐の躱しどころじゃの」  豊海の屋台骨はもう既に軋んでいる。近くにいただけに、寧子も義長も、秀敏の狂気めいた変化を敏感に感じていた。かつては、地を這いつくばる農民のために戦の無い世を作ると大志を抱き、宗近に拾われて頭角を現し、宗近のあの全てを薙ぎ倒すかのような力こそが平穏な世の近道だと信じて、戦に明け暮れた。  宗近の力を継承し、更に持ち前の知恵を使って瞬く間に日の本を一つに纏め上げた時、秀敏はその大きな権力が瓦解することを何より恐れるようになった。逆らえば殺し、報復を恐れて一族郎党まで根絶やしにする。身内だろうとお構いなしに透波を放ち、配下の裏の顔を探らせている……周りにいる全ての人間を疑い、生殺与奪の権をその手に握りしめているのだ。果てしない欲に逆らわず周りを破壊して権力の頂に立った秀敏は、かの織田島宗近よりも残忍である。二人の覇王を身近で知る義長には、秀敏の方が恐ろしかった。  第一、姉・寧子のことさえ、最早衷心から信じているわけではあるまい。 「城を持ち、家族を持ち、領民を持ち、これでも上々吉じゃと申すに」  本丸曲輪から城下を見下ろすと、先の領主であった宗良が如何に街を愛して作り上げたかが伝わってくるようである。整然と整えられ、活気に溢れた近江八幡の城下を、義長は何としても守りたかった。  狂い始めている義兄とは、どこかで袂を分かつ必要があるのだ……。 「また数匹、捕らえました」  鉄砲狭間の上から声がした。 「義兄上も懲りぬお人じゃ。いつものように、何を探っておるか吐かせたら、目立たぬよう始末致せ」  この城には、寧子が手配をしてくれた伊賀忍が常に守り、秀敏が放った透波を悉く退けてくれていた。  常に弟の自分を気遣ってくれる姉は、いつまでも素朴さを忘れない優しい姉だけは、滅びの渦から助け出さなくてはならない。           
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