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13.弟
13. 弟
秀敏の軍が岐阜に差し掛かり、秀貞の配下が城下まで出迎えに出た。
秀嗣が逃げ込んでいたのはこの城である。美貌の忍について聞きたいと、案内する小姓を指し置いて城内を駆け回った。
「苦しゅうない。若い頃によう来た場所じゃ。目を瞑ってでも歩けるわい」
「いえ、殿下、恐れながら」
苦しゅうない、と連呼しつつ、懐かしい回廊を早足で進み、望楼とは別の寝所を探し当てた。来たことを告げもせず、秀敏は襖を両手で思い切り開けた。
「秀貞、おい、秀貞よ」
地味で重厚感のある調度品に囲まれた部屋の中央、小高く数枚の布団が積み上げられた寝台の上に、秀貞は横たわっていた。
「どうした、秀貞よ」
「お鎮まりくださりませ。先ほど吐血なされ、漸くお休みになられたところにございます」
押し留める小姓を退け、秀敏はよろよろと弟の枕元に近寄り、跪いた。震える手で秀貞の解れた髪に触れると、眉根に皺を寄せて秀貞が唸った。
「どうした、苦しいか」
「あ、兄上……殿下」
こんな時でも礼節を通そうとする弟の顔を、秀敏は押し抱いた。
「おまえには苦労ばかりかけてしもうた。秀嗣の事も、おまえが助けてくれたおかげで豊海の命運が繋がっておる」
「怒っては、おられませぬか」
「怒ってなどおるものか! 」
泣き顔で小姓を探し、医師を呼ぶように命じ、秀敏は布団から差し伸べられた秀貞の手をしっかりと握った。
「奥川と喧嘩をなさってはなりませぬ。うまく、うまく利用なされませ」
「わかった、わかった」
「秀嗣は心が弱い。厳しゅうするより、褒めてやりなされ……義姉上が、いつも体に良い薬草を、届けてくださいます。どうか、御礼を、殿下……あ、あんちゃんよ……」
「うむ、うむ」
「兄ちゃん、次々に奇策で敵に打ち勝ち、上様に褒めていただけて……嬉しかった、楽しかったなぁ……兄ちゃん、俺ァよ、兄ちゃんの弟で、でら楽しかったで……」
「おまえがいてこそじゃ、おまえが無うては、兄ちゃんはダメなんじゃ」
声を上げて泣き出した秀敏の体を小姓がそっと離し、医師が脈を取り、首を振った。
「し、しっかり致せ、秀貞! 」
1586年5月。秀敏の末弟であり、豊海家の重鎮として家臣の束に苦心をしてきた豊海秀貞は、兄の腕の中で静かに46年の生涯を閉じたのであった。
急遽、岐阜城で秀貞の葬儀が執り行われることとなった。豊海に従う数多の大名たちが参列する事態となり、城内はその準備でおおわらわであった。寧子も気の利いた女たちを従えて急ぎ駆けつけたが、何分数年前に正室を亡くしたまま側室一人いなかった秀貞の家内には、取り仕切ることのできる女衆が殆どおらず、瞬く間に女手に窮する事態となった。
やがて近隣の大名家から女房衆が集まり、数日後には何とか葬儀の支度が整えられる体制への目処が立った。一応はここの主人である織田島宗孝が仕切るところであるが、明野と共に現れた宗孝は十二歳と余りに若く、上座に座るだけで何の役にも立たなかった。
更に稲川家からは、ここぞとばかりに恩を売ろうと多喜と依姫が加わっていたが、気が強いだけで奥向きの差配などしたことのない多喜は早々に足を引っ張ることとなり、寧子に丁重に手伝いを断られる事態となった。あろうことか、怒った多喜は、依姫を残してさっさと高天神に帰ってしまったのであった。
「依子様もご苦労が絶えませぬね」
「政所様、どうぞ依と。義母は公家風に依子などと私を呼びますが……」
「気に入りませんか」
「ええ。私の出自を否定されているように感じます」
そんな話をしながらも、二人の手元にはあっという間に皮を剥き終えた里芋の山が出来上がっていた。
「私が運びましょう」
するとその里芋一杯の籠を、野良着姿の宗冬が持ち上げた。思わぬ人物の出現に、依姫は声を上げて包丁を取り落としてしまった。
「どうして」
「多喜様が戻ってしまわれて、さぞお立場がなくお困りかと。私自身、秀貞殿にはちょっとした御恩がありますので、頼素殿に内緒で出てきました」
「主人は知らないのですか、見張りはどうなさったのです」
「頼素殿は多喜様を宥めるのに必死ですし、見張りはその、ちょっと気絶して頂いて」
手刀を顔の前で作ってみせて屈託無く笑う宗冬に、依姫が深い溜息をつくと、そのがっくりと落とした肩を寧子が突いた。
「こちらの方は」
一見すると勝手掛の女中頭にしか見えぬ寧子に、宗冬は籠を脇に置いて膝を折った。
「この岐阜城で子供の頃にお会いいたしました。織田島宗冬にござります」
「え……」
数呼間の静寂の後、寧子は包丁を放り出して土間に跪いた。
「あ、御方様、あの……」
「亡き上様には、海よりも深く空よりも高い御恩を頂戴いたしております。この度は我が亭主が貴方様に執着するなどと破廉恥極まりない事態を引き起こし、もう、穴があったら入りたいどころか、申し訳なくて申し訳なくて……」
消え入りそうに小さく身を縮ませる寧子の手を、宗冬が優しく取って顔を上げさせた。
「私という人間は、せいぜいこんなことしか出来ぬのです。あくまで父は父、私は何の力もない一介の武士。官位とてお持ちの政所様が、斯様になさってはなりませぬ」
肩を震わせる寧子の背中を撫でながら、依姫も蹲った。
「こういうお方です。私も一瞬で心を救われ、洗われました」
「あ、私はあくまで秀貞様へのご恩返しにお手伝いに参っただけの事。葬儀にも呼ばれておりませんので、こちらが落ち着いたらすぐ高天神に戻ります。内緒にしてくださいね」
唇に人指し指を立てて、宗冬はにこりと笑った。蕩けるような顔で腰を抜かす女二人をよそに、せっせと里芋を運び、大鍋に放り込んでは楽しそうに料理に興じていた。
一方の秀敏は、岐阜城の贅沢な湯殿の中で、ぼんやりと座っていた。
「ごめんくださりませ」
湯女が、肌が透けるような帷子姿で入ってきた。腰は湯文字を中に着ていてよくは見えないが、しどけなく抜かれた衣紋の下には、白磁のような背中が見えた。
「お背中を流しに参りました」
そしてゆっくりと髪をかきあげて頭頂で纏め上げ、肩越しにそっと横顔を見せた。
完璧な曲線を象るその横顔に、秀敏は漸く焦点を合わせた。ふと口元を綻ばせた女は、片方の肩から帷子が滑り落ちるのも気に留めず、秀敏に背を向けたまま手拭いを湯桶に浸している。神がかったような美しさ、婀娜さであり、襟足から腰への曲線が艶めかしく揺れるのを見て思わず、秀敏はその背中に縋り付いた。簡単に腕が回ってしまうほどの華奢な腰にしがみついたまま、息遣いだけを湯殿に響かせ、ひたすらに顔を女の背中に埋めた。
女の柔らかな手が、秀敏の逸物に触れた。萎えていたそれは、女の手の中で見る間に蘇った。あっと言う間に、女の手の中で弾けたそれを、相変わらず背を向けたままの女が丹念に拭った。しかし秀敏が顔を上げる間も無く、女の指は秀敏の下帯越しに後門にまで滑り込み、否応なく弄び始めた。無礼な、という言葉も、再び哮り始めた己自身に掻き消されて声にならず、夢中で頂きを目指すかのように女に身を任せてしまっていた。
二度、三度と果て、秀敏は思わず湯殿に転がってしまった。背中を向けていた女が、ほんの少し、肩越しのまま顔を見せた。
「一別以来でございますね、殿下」
あの二条御所で会った天女……それすら言葉にならず、口をパクパクさせたままの秀敏に、振り向いた女は覆いかぶさってきた。そして顔を近付け、妖艶に微笑んだ。
「殿下にお会いしとうてお会いしとうて、このようなところまで来てしまいました」
はだけた帷子の奥には、滑らかで白磁のような、しかしながら乳房のない白い肌があった。やはり正体は男か、と逃れようとも、既に快楽の与奪を握られていた。
「秀嗣が、懸想した、あの……宗冬の……しの……忍か」
途切れ途切れに言葉を零しながらも、合間に情けない声を上げて、秀敏は芯まで快楽に支配されていた。
「ええ、あの男には酷い目に合わされて、忍として戦えぬ体になってしまいました。今だに狙われおりまして、恐ろしゅうてなりませぬ。お助けくださいまし、殿下」
「わかった、て……てん……天女は儂が、守るゆえ」
「まぁ、何と心強い。どうかお側においてくださいませ、ねぇ……宗冬様はただの男、閨のことなど朴念仁もよいところ。私なら、こうして……」
「しかし、儂は、あれに……子を」
「嫌ですよ、産めるわけないじゃございませんか……確かに殿下のご賢察通りでございますが、あの方の女の部分は、不完全です」
「不完全、とな」
愉悦から正気にと行ったり来たり揺さぶられて、秀敏の体は完全に葛の支配下にあった。
「月のものも周期がなく、乳房に変化があるわけでもございませぬ。如何でございます、産めぬと分かっていて、まだ執着がおありで」
「儂は、あやつの血筋が欲しいのじゃ」
「あら、私だって一応、三条橋の血です……尤も、祖母は歩き巫女だったそうですから、そっちの血が濃いかしら……だって、こんなことばかりしているのですもの」
「あ……堪忍、堪忍じゃ……もう……」
「たとえ子は産めずとも、お心の疲れは取って差し上げることができますよ……」
息もできぬほどに何度も何度も蘇らせては果てさせ、葛が手を拭いながら見下ろす頃には、一人の年老いた廃人が出来上がっていた。
長風呂を心配した表の見張りが、声をかけてきた。ここが潮時だと両手を突き上げると、折良く天井の羽目板から碤三が顔を出した。
「やりすぎだぞ」
「刀で役に立てぬなら、せめてこっちで若をお助けしなくては」
湯殿の天井から顔を見せた碤三に、葛は指を艶めかしく動かして見せた。
「くノ一の技ねぇ。市蔵のクソ親父もとんでもないものを仕込みやがったな」
「羽化登仙の秘技。まぁ、尻の穴の色欲のツボを押すだけだけど、場所が場所だからねぇ」
「おいっ、俺にはやるなよ。涎垂らした廃人になりたかねぇからな」
持ち上げようと差し出した手に葛が手を重ねようとすると、一瞬、碤三が指を曲げて躊躇って見せた。
「ちゃんと洗ったってば、一応布越しだし」
「何か嫌な感じだなぁ」
「んもう、文句の多い男。寝ている間に押しちゃうぞ、ツボ」
仕方ないとばかりに、重ねられた葛の手をしっかりと握り、碤三は天井に引き上げて葛の体を抱きとめた。
「賽は投げたぜ。後は宗冬次第だ」
「わかってる。私からは手を出さない、ちゃんと見守る」
「どうだかなぁ、結局こんなじゃん」
むくれる葛の頰を小突いて、碤三はさっさと湯殿の外へと天井裏を這い出していった。
遠方の大名は、大坂にいる留守居の重臣を参列させ、近隣の大名は当人が籠か馬で駆けつけていた。それでも、参列者だけではなく、付き添いの家臣を含めると、大変な数である。勝手所はそれこそ戦場であった。
宗冬が煮炊き用の薪を運んでいると、寧子が厨房の外で風に当たっていた。ぼんやりと山々を見つめながら、一筋の涙を流していた。声を掛けようか躊躇っていると、寧子の方が宗冬に気付き、慌てて笑顔で誤魔化そうとしたのだった。
「何かございましたか」
まだ割る前の薪を立てて、座るように促した。並んで座っていると、まるで親子のようだと、寧子が宗冬を見て笑った。
「きっと、私達夫婦に子があれば、丁度貴方様くらいの年廻りなのでしょうね」
「秀敏殿に何かございましたか」
「昨日湯殿で倒れてからというもの、何やら頭がぼんやりしているのか、時々支離滅裂なことを言い出しましてね。年の離れた夫婦でございますから、ある程度は覚悟していたとはいえ……城持ちとなってから、すっかり私達はすれ違い、夫婦ではなくなってしまいました。それなのに今更……気付けば夫は来年60、私とて42、流石に歳を取りました」
「御方様は、これまで御夫君を陰日向無く支えてこられました。それは秀敏殿もよくよくご承知のはずです」
「そういえば、あなた、奥方様は」
本当に母のようなことを聞く、と、宗冬は暖かな気持ちになって笑みを漏らした。
「おりました。父が死んだ日、妻と、その日に生まれるはずだった子を一度に失いました」
「嫌なことを聞きました、ごめんなさいね……それは、うちの人のせいですか」
「いえ、半右衛門の策によって……いえ、私が浮かれていて備えを怠ったのです。私の責めです」
「何と酷い……宗冬様、ご自分を責めてはなりませんよ」
そっと、寧子が宗冬の肩をさすった。そんな仕草も、想像の中の母のようであった。
「知っていますよ、この城に乗り込んで秀嗣の無体から配下を救われたこと、配下の手当てをした秀嗣の名ばかりの側室を逃したこと。本当に情の厚い方ですね」
天下の政所である。下手をすれば秀敏よりも情報通であり、小指の先一つで動かせる子飼いの忍がついているとも聞いている。
宗冬は一切の申し開きもせず、ただ頷いた。
「それと、怪しげな術で莉里姫を籠絡して孕ませた理三郎、こちらで始末を致しました。確か、その配下の者と同じ藤森の出でしたね。抜け忍のようですが」
世継ぎ問題に理三郎が関わっている事は全く与り知らぬことではあったが、確かに女殺しの異名は高田攻めの時に承知していた。
「先日密かに、宗兵衛いえ茶々屋の四郎兵衛様にもお会いいたしました。あの方の策であったと打ち明けられてびっくりいたしました。もう、誰もが、夫の天下が終わることを知っているのですね。私自身、次は奥川様こそがお立ちになるべきと存じております」
「良いのですか、そこまで私にお話をされて」
「何をおっしゃいます、貴方様は上様のお子、そして三条橋様のお血筋。貴方様の存在こそが、豊海が終わる時の荒波から民を守るのですよ」
「御方様、私にはそのような力など」
「貴方様は人を惹きつけます。人を癒し、人を穏やかにさせる。荒波に揉まれたこの国を貴方のお人柄で結びつけ、奥川様に託してください」
そこまで言い切って、寧子は立ち上がった。
「私はあの人の妻です。引導を渡し幕を引くのは、この私の役目です」
真直ぐに山を見つめたまま、寧子は腹の底から響く声でそう言った。何年も何年も、時にはそんな日が来ることに怯えながらも、少しずつ覚悟を固めてきたのであろう。清々しいほどに迷いのない言葉であった。
葬儀の読経が始まって間も無く、奥川将康が到着した。白装束で現れた将康はそのまま祭壇に進み、焼香をした。そして長い間瞑目し、秀貞の冥福を祈ったのだった。
喪主として葬儀を取り仕切る席に座していた秀敏は、生気のない目を将康に向け、深々と礼をした。
「途中崖崩れで街道を迂回しなくてはならず、遅参致しました。秀貞殿はまこと、武士の鏡たるお心映えのお方にござった。心よりお悔やみ申し上げる」
ぼんやりとした夫に成り代わり、寧子が手をついて口上を述べようとするのを、秀敏が制した。
「遠路はるばる、ご足労をおかけ申した。奥羽の大名にもお声掛け下された由、誠に以って有り難く存ずる」
「秀貞殿の遺徳は遠く奥羽にも届いております。皆一様に涙し、遠路ゆえ参列は叶わぬものの弔意だけでも示したいと、某が代わりに供物などを預こうて参りました」
「痛み入る」
しっかりと礼を述べる秀敏の横顔に、寧子は驚いていた。政治家たる眼の光に加え、天敵とも言える奥川将康を相手に胆力においても一歩も引いてはいない。
「おまえ様」
「葬儀の後に奥川殿と話がしたい。茶室にて持て成すゆえ、支度をせよ」
「は、はい」
小姓に案内され席へと下がる将康を、秀敏はずっと目で追っていた。
その、葬儀が行われている大広間の外、本丸御殿の中庭にある築山の陰にひっそりと座し、宗冬は手を合わせて読経をしていた。
「勝手に城を抜け出しおって。こんなところにいて葬儀には参列せぬのか」
背後から声をかけてきたのは、将康同様、母の説得に時間を費やして遅参した頼素であった。読経も中盤を過ぎ、長い焼香の列も終わりが見えていた。
「尤も、こうなってしまった以上お咎めは免れぬ。今更お前を差し出したところで状況は変わるまい。構わぬ、殿下に知られぬ様、早うここを去るが良い」
返事もせずに一心不乱に祈り続ける宗冬にそれ以上の対話を諦め、やがて頼素は大広間へと向かっていった。その背中はまるで、自分の死に場所に向かうかのような昏さに取り憑かれたものであった。
事実、秀貞の四十九日が終わった時、弔意すら示さなかった大名や、遅参もしくは代理の重臣すら参列させなかった大名に対して、秀敏は苛烈な処分を下すこととなる。
後に稲川家は遠江を没収、多喜は四津寺家押し込め、頼素と依姫は寧子の取り成しによって家名の存続は許され、一介の夫婦として京に小体な屋敷を充てがわれることとなる。
岐阜城の洒脱な茶室で、将康は直垂姿に戻り、秀敏の接待を受けていた。
時々呆けた様な顔をしていた秀敏が、この部屋に入ってからというもの、無駄のない所作で茶を点て、将康を持て成している。側に一人、半東役として美貌の小姓が付き従っており、出来上がった茶を将康の席に提供した。ふと顔を上げて微笑んだ顔を見て、将康は思わず器を取り落としそうになった。
「存じておろう、将康殿。二条御所で会うたあの天女様じゃ」
落ち着きを取り戻してゆったりと茶を喫し、所作通りに礼を述べた将康から、小姓が一礼をして茶器を下げた。どこにも滞りのない優雅な所作であり、まるで舞を見ているかの様であった。
「宗冬を側室に、と思うたが」
「あの宗冬殿を。それはまた……あれは男でござろう。いや、その葛も、でござるが」
ふっと小姓いや葛が笑った。婉然とした笑みで秀敏と視線を絡ませると、秀敏が幸せそうに頷いて見せた。
「宗冬が事、お主、本当は気付いておろう。共に死線を潜り抜けて参った者同士じゃ」
宗冬が発していた血の匂いのことを指しているのは明らかである。将康は曖昧に微笑んだ。宗冬に固執して兵まで連れてきた男に、そうだと詳らかにするのが何やら癪に触る様な気がしたのであった。
「いや、もう良いのじゃ。この葛を知ってから、何やらすっかり興味が失せてしもうてな。物珍しさに執着しておっただけの事よ。その方は気に入っておるのじゃろ、宗冬が」
「それはもう。我が愚息どもには備わっていない力を、あの方はお持ちでございます」
あくまで織田島家遺児として、将康は宗冬を立てる物言いをした。それもまた、自分の本心をこんな猿に知られたくない思いからであった。
「ところで、最上はようやってくれたのう。おかげで奥羽も収まり、一貴は直に戻ってくることができよう」
「あれはちゃんとお役に立っておりますか」
「無論じゃ。ただの、秀嗣からは取り上げる。勿体無くてのう。儂の直属に致す所存じゃ」
「それは有難き事。一貴めも粉骨砕身、殿下の御為に働く事でしょう」
一貴は決して将康を裏切ったわけではなく、半ば人質の様に取り上げられ、豊海後継たる秀嗣の世話役に充てがわれていただけであった。
「のう、将康殿。ちと文句を言っても宜しいか」
「長いお付き合いにございますれば、どうぞ御忌憚なく」
何を言われるかは分かっている。これで物別れとなるならば、ここで一戦交えても良いとまで腹を括り、喜井谷に喜井政虎、酒匂清重、本戸勝重の3人に兵をつけて潜ませていた。その数は5千だが、精鋭中の精鋭である。実は田峯や岩村といった、所領を安堵されている美濃の山方衆にも、密かに兵を整えさせていた。
「奥羽の大名と、儂の許しなく婚姻を結ぶのはのう、他への示しがつかにゃーでよ」
言いにくい事を口にするときは、いつもこうして国訛りを交える。だが、この訛りが混じるときは、秀敏が怒りを露わにする一歩手前である事を、将康はよく知っている。
将康は額に手を当てて、辻役者のように大袈裟に驚いてみせた。
「これはしたり。度々書状にてお伺いを立て申しておりましたので、すっかりお許しがいただけたものと」
「儂ゃ知らんぞ」
「使者が途中で山賊にでも襲われたのやもしれませぬ。何分武蔵は田舎の山奥、未開の地も良いところでしてな。何が出来致しても可笑しゅうはないほどでして」
「ほお」
「それに、殿下の御前ですが……儂には側室腹の愚息で縁付かぬものが大勢おりましてな。いや、男は良いのです、問題は娘でして。年増に差し掛かっても嫁の口がないとなりますと、これはもう不憫で不憫で、つい、事を急いてしまうのでござる」
子供のいない秀敏への強烈な当て付けである。
「子など、いたらいたで悩みの種。優秀な子飼いを大勢育て上げられた寧子様の、子育ての知恵を頂きたい程にございます。豊海は誠に御安泰にございますなぁ」
今日の葬儀にも、岩佐龍成、福島正敏、加藤清隆がしっかりと付き従っていた。龍成は葬儀の仕切、差配に徹し、正敏と清隆はそれぞれ軍を率いて岐阜城の内外をしっかりと固めている。
「秀嗣様も、政には欠かせぬ御仁と成られ、御安心な事ですな」
二人の武将から笑みが消えた。
秀敏が柄杓に手を伸ばした。怒りに任せて将康に投げつけるつもりかと、葛が音もなく側に寄ってその手を押し包んだ。これを投げつけたら、瞬時にこの岐阜は戦場になる。宗冬が無腰同然でいる以上、それは何としても避けねばならない。
「殿下、なりませぬ」
唇がつきそうな程に秀敏の耳に顔を寄せ、葛が優しく囁いた。
その声に芯まで蕩けた様に、秀敏は白目を剥いて溜息を吐いた。ここが去り時と、将康は葛の動きを注視しながら立ち上がった。あくまで今は秀敏を蕩けさせることに徹している葛である、ここはその援護に甘えて宗冬を何としても秀敏から引き離すべきである。
そう致す、そう願う、ほんの一瞬交わした目線で、将康と葛はそれだけ確認し合った。
「では殿下、これにて」
承諾は求めないとばかりに言い捨て、将康は茶室を後にした。
「葛よ……儂ゃあの古狸が大嫌いじゃ」
「存じておりまする。ええ、あんな狸より、殿下はご立派です。愛しい私の殿下」
秀敏が葛の腰にしがみ付く様にして顔を埋めた。その手はしっかりと葛の尻を撫で回している。色ボケの猿が、と心の中で毒づきながら、将康が宗冬の無事を請け負ってくれたことに安堵していた。
天井裏で切歯扼腕している碤三に、葛は苦笑しながら肩を竦めてみせた。
壮大な葬儀が無事に終わり、三々五々、大名達はそれぞれ領地に戻っていった。城主である宗孝に新たに城代として福島正敏を配し、明野だけを大坂に連れ帰ることとした。寧子が、宗孝と明野の親子を共に残せばロクなことにならないと進言したためである。
秀敏の後ろには、華奢な作りの女輿が付かず離れず従っていた。中には、打掛姿の美貌の側室『三条橋の君』が乗っていた。突風で簾が舞い上がり、輿に並んで守る伴侍達の目に、中に乗る側室の姿が晒された。目を反らさねばならないところだが、余りの神々しい美しさに、思わず歩みを止めて魅入ってしまうのだった。
勿論、これは葛である。秀敏によって側室にする旨を寧子に紹介された時、寧子がつけた名が『三条橋の君』であった。
「あなたの事は宗冬殿から聞いております。困ったことがあれば何なりと」
出立の時、寧子は輿の側で秀敏に聞こえぬ様に囁いた。敵か、味方か、大坂の伏魔殿に入ってみねば解らぬと、葛はただ婉然と微笑みを返したのであった。
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