14.月下の桜

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14.月下の桜

 14. 月下の桜             1587年当時、江戸はまだ町割りも途上にあり、品川を過ぎる頃にはもう、壮大な江戸城の天守が微かに見えるほどであった。  しかし、陸路、水路と、大きな街になることを想定した城下作りになっている事は、その作事の規模からも窺い知ることができた。  昨年の岐阜城での葬儀の後、宗冬は将康の意向に従って江戸に来たものの、直ぐに鞠姫を最上まで送ることとなった。夏に差し掛かっていた奥羽街道は緑も心地よく、蒼雲も心地よさそうに歩を進めたのであった。  最上(もがみ)家で歓待を受けている間に、秋田の蘆屋(あしや)家で相続問題が発生し、最上家から嫁いでいた正室が産んだ嫡子と、秀敏に汲みしようと画策する側室腹の次男との間で戦となった。  宗冬が指揮をとり、止む無く側室腹の次男方を打ち破った。秋田城下の河原での、僅かな時間で決着がついた戦闘ながら、宗冬の名を知らしめるには良い機会となった。  平定とは名ばかりで、こうした内紛がきっかけで奥川につくか豊海につくか、意見が分かれる大名家は蘆屋だけではなかった。ほんの少しのきっかけで、将康の作る江戸は奥羽列強の大波に呑まれかねないのだと、宗冬はその治世の難しさを実感した。  文官が少ない、とは将康も嘆いていたことであったが、奥羽においてもそれは顕著であった。冬は雪に覆われる厳しい土地だけに、肥沃な農地を手にすることは死活問題でもあった。開拓ではなく、戦で切り取る……そうした考えがまだ蔓延っているのを、宗冬はまざまざと見せつけられたのであった。  日の本を一つにする、それがどれほど困難で途方もない事か。  将康の力がまだ殆ど及んでいない九州は一体どうなるのだろうか。  これは一人の知恵でどうなるものではない。ならば、多くの知恵者が意見を交わし、より良い方向へ動かしていく仕組みとは、どんなものなのか。多くの大名たちの頂に立ち、権力を持ちつつもあくまで配分を旨とし、長く代を継いでいける体制とは。  将康の側で、そんな新しい仕組みを見てみたい。新しい世を見てみたい。  山形で雪解けを待ち、宗冬は一年ぶりに江戸を目指したのであった。    漸く江戸に着いた頃にはもう、桜が咲き始めていた。  改築著しい江戸城では、家臣団が忙しく働いていた。あの清重や勝重、そして政虎も、今や城持ちの大名であり、重責を担う立場となっていた。ここには間違いなく知恵がある、知恵に溢れた者たちが集まっている。いつでも日の本を統べて治めることができる政の土台の準備を、豊海に従う素ぶりを見せながらも、着々と将康は進めているのであった。  将康に頼み、宗冬は数日をかけて江戸の町を歩いて回った。少しずつだが店も並び始め、往来の人の数も増えている。八門遁甲術を参考に作り上げられた街は、確実に力を蓄え始めていた。  大川の土手を歩いていると、自生の桜が数本並んでいるのを見つけた。今年こそは、葛や碤三と、京でも藤森の里でも良いから、共に桜を見たかった。見られると思っていた。  土手を下りて斜面に腰を下ろそうとした時、土筆が顔を出しているのを見て、宗冬はその場をやめて近くの朽木の上に座ることとした。  ほんのりと、蕾が色づいている。おそらくこのまま、自分はこの江戸で開花を迎えることとなろう。いや、こんな風にゆっくり見られるのならまだ幸せである。 「おぬし、呆けているなら金をよこせ」  矢庭に、如何にも食い詰めた様子の浪人が、刃毀れだらけの刀を抜いて斬りかかってきた。殆ど微動だにせぬまま、宗冬は扇でその刀を跳ね除けた。 「桜を見ているのだ、邪魔をされたくはない」 「阿呆が、まだ桜など咲いておらぬわ」 「風流を解さぬ者は、これだから」  溜息をついて宗冬は立ち上がり、殴りかかってきた相手のガラ空きの胸元に滑り込み、刀の柄をぐいと突き出してその鳩尾に食い込ませた。  腹の物を全てぶちまけ、浪人者は涙を流して悶絶した。 「ああもう、台無しだな」  場所を変えようと土手を登ると、丁度政虎と出くわした。 「殿が心配しておいでです、て言ったって、あの通り、貴方は無双だ」  政虎は肩を竦め、のたうち回る浪人を哀れんだ。 「相変わらず10代のままのように可憐だから、悪い虫を呼び寄せるんですよ」  政虎の遠慮のない言い回しに、宗冬は磊落に笑った。 「嫌だな、もう24ですけど」 「え、うそ、まだ24でしたっけ。流石に宗冬様は分厚い人生だなぁ……」  指を折りながら何やら数えている政虎の方が、余程十代のままに見える。この男が今では、城持ち妻子持ちの、奥川家における大目付職なのである。 「実は、食い詰め者が大分流れ込んでいます。大半が、豊海に逆らって改易になったか、戦で敗れたか、主家を失った者達です。何せ槍働きと言ったって、肝心の戦がここのところありませんからね。戦乱まみれの九州に行ったところで、豊海に手足をもがれた大名の端禄にありつけるかどうか。それどころか九州まで行く路銀がないんですよ」 「京の都も同じようなものでしたが、こちらは更に、浪人が多い様に感じます」 「殿がね、高田や稲川の能臣を見捨てずに密かに引き取っておられるでしょう。それで自分も、となる訳ですが、能のない奴に働きどころなんてありませんよ」  途中、橋の袂に出ていた煮売屋で、箸に刺さった芋の煮ころがしを贖い、むしゃむしゃと食べながら相変わらず政虎の江戸談義は続いた。 「食べないんですか」  歩きながらどう食したものかと考えているうちに、さっさと政虎に取られて食べられてしまった。 「太田道灌は関東武者として立派ですが、殿はそれ以上です。今にこの江戸は、京や大坂を凌ぐ大都市になりますよ」 真新しい橋の欄干から江戸城を見上げながら、政虎が嬉しそうに言った。 「政虎殿は、将康様を尊敬申し上げているのですね」  こくりと子供の様に頷く政虎の、眩しそうに江戸城を見上げる若々しい横顔は、とても妻子を持つ城持ちには見えなかった。 「私は嬉しいのです。宗冬様が将康様の御側室になられて」  宗冬が何のことだと政虎を見た。美しい瞳を大きく開けて見据えられ、政虎は圧倒された様に息を呑んだ。 「あの……すみません、大奥に入られたって聞いて、その……」  確かに、まだ本丸の表御殿は警備上万全ではないところが多く、設備の増強を急いでいるところであった。元々将康の側室達を住まわせるべく新たに作られた奥御殿すなわち大奥は、将康の子供達が住む観点からも、初めから警備がしやすい様に設計されていた。  大阪からの透波に忍びこまれることを最も警戒している将康は、たまたま空いていた大奥の離れを、宗冬にあてがったに過ぎない。 「まさか、表では皆様、そんなお話をされておられるのですか」  最後の芋を喉に詰まらせ、政虎が激しく咳き込んだ。慌ててその背中をさすりながらも、宗冬はふと考え込んでいた。 「でしたら、そういうことにしましょう」 「何ですと」  泣き出しそうになりながら聞き返す政虎に、宗冬は笑って頷いた。 「それが良い。そういう事にしておきましょう」   そうだそうだと独りごちながら、宗冬は城の方角へとさっさと歩いて行ってしまった。  江戸城はまだまだ拡張工事の最中であり、婚姻を結んだ大名や、将康に同意する大名らから提供された切石や木材をふんだんに使い、傷んだ石垣の修理や新たな曲輪の石垣には穴太衆による堅固な石積みが採用されていた。  昼間は作事の音で琴の音も笛の音も全く聞こえなくなるほどであるが、夜は打って変わって静まり返り、吹上の見事な自然が織りなす音は、まるで藤森の里にいるかのようであった。鳥の鳴き声、茂り始めた木々が風に揺れる音、目を閉じ、自然の音楽に身を委ねていると、いつの間にか将康が部屋を訪れていた。それも、宗冬が音楽に興じているのを台無しにせぬよう、足音を殺し、襖をそろりそろりと音を立てぬ様に開け、息も殺しかねないほどに、である。その大真面目で滑稽な姿に、付き従っていた小姓が思わず吹き出してしまった。 「これは殿」  宗冬は慌てて居住まいを正して将康を受け入れた。小姓は将康に思い切り小突かれた後、行燈に油を足して去って行った。 「折角の楽しみを、邪魔してしもうたな」 「気付かぬ事で失礼致しました。さ、奥へ」  茶菓子でも、と手箱を探す素振りを見せる宗冬の手を止め、将康は自分の隣の席を指して座らせた。 「お前はどうも気を回しすぎる。岐阜でも下働きまでしていたと言うではないか。よくもまぁ、大名と公家の間に生まれながら屈託無く働くものじゃ」 「亡き妻の仕込みです。あの滝での暮らしも、亡くした後の里での暮らしも、この手で煮炊きや薪割りをして日々を過ごしました。それまでは葛が全部誂えてくれていましたから、座れば膳が出てくるものだと思うておりました。亡き妻に、人としてそれではいかぬ、生きていく為に最低限の事はできる様に致せと、よう叱られたものでございます」 「面白い女房だの。さぞや姑気取りの葛とは衝突したであろう」 「ええ、それはもう、始めのうちは毎日葛の頭から湯気が立ち上っておりました」  将康は膝を叩いて笑った。ここに宗冬が来てからと言うもの、将康は笑うことが多くなった様に感じていた。他の側室達もよく心を尽くしてくれてはいるが、こんな風に男同士の話をして笑えることなど、いつの日以来であったろうか。駆け引き、策略、作り笑顔で騙し合いはしても、こんな風に屈託無く笑ったことなどついぞなかった筈である。  大口を開けて笑う将康の笑顔に、宗冬も安堵した様な顔を向けていた。 「ようございました。いつも殿は難しい顔をされておられるから」  んん、と将康が自分の顔を手でつるりと撫でた。宗冬の様に美しくもなく、狸と揶揄される丸顔だが、こんな顔でも難しく見えるものなのか、と。 「岐阜に私がおりましたこと、よくお分かりになりましたね」 「政虎らから、秀貞殿との経緯は聞いておった。義理堅いお前が、稲川に囚われの身とは申せ、黙ってやり過ごすはずはないと思うておった。やはり、一人で抜け出して岐阜で働いておったな。ま、勝手所とは流石に思いもよらなんだわ」 「寧子様とは」 「うむ。よくよくお前のことを託された。あのおっか様は大したものじゃ、女傑じゃ。豊海の家で、あの方だけが先々を見通しておられる。曇りなき目、というものだろう」 「あの方が将康様の御味方となれば、おそらく子飼の殆どの武将が将康様側につくことでしょう。私にも何とのう、寧子様の慈愛の深さが分かりました。息子はとかく、母につくものですから」 「しかし、葛とは離れてしもうたの」  月の光が雲間で陰り、梟が啼いた。 「親離れを、致しましたので」  伏し目がちに笑う宗冬の声音には、決然と、とはいかぬ些かの寂しさが含まれていた。 「成る程な。しかし、とかく息子は母につくのだろう」 「あ、葛には弟、と。息子と言うたら斬られますよ」  あっと、将康は口を手で覆った。本戸が本気で斬られそうになった件を思い出したのである。あの小川城での何とも情けない勝重の様子を思い出して、再び将康は腹を抱えて笑いだした。宗冬も、後にそれを打ち明けた勝重の慄き方を思い起こし、同様に笑い転げた。  いつの間にか、宗冬の手は将康の手に包まれていた。がっしりと節くれだった手は、宗冬のここ数日の緊張を解きほぐし、漠然とした不安を消滅させてくれた。これが、本来の男の手なのだと、宗冬は将康の手にごく自然に唇を寄せた。 「宗冬」  将康の手は暖かい。良い子だと、いつも撫でてくれた手であり、危急の折に駆けつけて救い出してくれた手である。無理難題も笑って引き受け、何事にも揺るぎない背中を見せて立ち塞がり、将康はいつでも宗冬を世間の嵐から守ってくれていたのだ。 「私の大好きな手」  その手で、将康は宗冬の小さな顔を優しく包み込み、少し潤んだ目で宗冬を捉えた。 「よう、よう儂の元に帰ってきてくれたのう」 「はい、遅うなりました」  宗冬は将康の胸に顔を埋めた。寄る辺なく、血筋という危うい綱渡りに身を投げる様にして他家を渡り歩き、葛が授けてくれた生き抜くための力だけを頼りに生をつないできた。  葛がいつでも影の様に寄り添って付き従い、身を賭して守ってくれる母の愛ならば、将康は大樹の様な大きく深い懐でいつでも宗冬を包み、荒波の乗り越え方も戦い方も、勝つための生き方もその大きな背中で教えてくれる、言わば父の愛、いや男の愛であった。 「貴方様は、ずっと私を見守ってくださっていたのですね」  暖かい胸に寄りかかったまま、宗冬は吐息交じりにそう言った。 「宗冬よ、儂の想いを、受けてはくれぬか。こんな爺だが、おまえが欲しい」  少年のような一途な表情でそう告げる将康に、宗冬は静かに頷いた。 「おお……」  宗冬の小さな頭を、将康は両腕で掻き抱いた。密やかに抱いていた想いをぶつけるように、将康は宗冬を自らの体の中に包み込んだ。宗冬が心地よさそうに鼻を鳴らして、心までも預けてくれたのを感じた。 「私は所詮、このような優しい体温がなくば生きられぬ、情けない人間です」 「人は誰しもそうじゃ」 「……何やら怖い気もいたします。私の全てをお知りになったら、殿は……」 「嫌いになるとでも申すか。儂がそんな男だと」 「いいえ、でも……」 「何も申すな。儂に委ねよ」  あくまで優しく、将康は宗冬の唇を吸った。宗冬は将康の膝に乗り、喉を反らして応えた。やがて前合わせが開かれ、露わになった宗冬の白い肩に、将康が唇を這わせた。  行灯の油が切れた。闇に包まれた部屋にただ一筋、微かに開けられた月見窓から差してくる三日月の光に、宗冬の白く伸びやかな裸体が反射した。  この月夜、宗冬は将康に、破瓜を捧げたのであった。  遠くから聞こえる女たちの嬌声に目を覚まし、重く気怠い体を起こすと、不意に目が回ってしまった。がくんと頭が垂れた先に将康の鼻があり、衝撃で将康を起こしてしまった。 「申し訳ございませぬ、殿」  顔をしかめて覚醒した将康は、か細い声であやまる宗冬を愛おしそうに抱きしめた。 「痛くはございませぬか」 「おまえこそ、体が辛かろう、もう少し休んでおれ」 「はい。殿ももう暫く、ここに……」  将康の傷に覆われた逞しい胸板に顔を埋め、宗冬は再び眠りに落ちた。  政務のために将康が表御殿へと去って行った後、離れの縁側からぼんやりと、庭先のまだ蕾の固い桜の若木を見つめていると、落ち着いた女の声が入室の許可を求めて声をかけてきた。宗冬は自分の手で敷物を向き合うように並べ、居住まいを正した。 「入られよ」  するりと障子が開き、打掛姿の中年の女が入ってきた。将康の側室の中でも尤も付き合いが長いと言われている阿茶の局と呼ばれる女で、正室を持たぬ将康の奥向きを一手に取り仕切っていた。 「お体は、如何にございますか」  座るなりいきなりそう切り込まれても、宗冬は一瞬何のことだか返答に窮してしまった。  将康の側室には未亡人であったり、出産経験者であったりと、葛よりも年上の女が多かった。それぞれ将康との間に子をもうけているが、嫡子と定められた息子はまだいなかった。これだけの所帯なら女同士で嫡子争いが起きても可笑しくはないが、この阿茶が女達の動向に目を光らせ、また細やかな気配りで女達の不満を癒し、平穏を保っているという。 「昨日、夜伽をなさったと」 「え、あ……」  妻帯者であった事も忘れたかの様に、宗冬は将康との閨の事を言われて顔を赤らめた。  将康を受け入れた時の、あの微かな痛みが蘇る。戦場で数多の怪我をし尽くしてきた筈であるが、心の臓に痺れが走るような、切ない程に愛おしい痛みは記憶になかった。  逡巡する宗冬の、痛みを辿るかのような初々しい表情に、阿茶は暫し魅入っていた。妻子があった割には初であり、純に過ぎる。凡そ、今まで将康が側に置いてきた側室たちにはない愛らしさである。阿茶の出自とは雲泥の血筋、といえばそれまでであるが、こうして対峙してみれば、将康が溺れるほどに愛おしむ理由が何となく分かる気がした。 「申し訳ございません、突然こう聞かれてもお困りでございますよね。しかしながら殿のお子を授かるかもしれぬ奥向きの女達の事、宗冬様の事、知っておかねばなりませぬ」  阿茶が極力柔らかな物言いで宗冬を気遣いながら尋ねてくれている事は、宗冬にもよく伝わった。故に、誤魔化したり取り繕う事は失礼であろうと、宗冬は素直に頷いた。 「宜しゅうございます。武将として戦場を駆け巡られたあなた様には酷なお尋ね、どうぞご寛恕くださいまし」 「お役目ならば是非もなき事」 「有難う存じます。あなた様のお体につきましては、殿より密かに承ってございます。先夜のことも、女として抱かれたと、理解してようございますね」  女として……そう言われて、改めて自分が何者か、何者になってしまったのか、宗冬は混乱した。武将として、妻も持ち、子も授かった男であった筈だ。厄介な体ではあるが、男として生きてきた筈なのだが……。 「私は、女になったのか」 「まぁ、お体の上だけは、とでも申しておきましょうか。要は、殿のお胤を授かる可能性のあるやなしや、なのでございます。あなた様は確かに殿方。今までも、おそらくこれからも。ただし、男として結ばれたのではなく、その……殿のお情けをお身の内にお受けになられたのであれば、お腹様となられる可能性も全くない訳ではございません」 「お腹様、私が」 「酷いことでございましょうが……殿は、そうなっても良い、むしろ貴方様とそのように深い縁を結びたい、そう思し召されたのだと思います」  もしかして、胤がこの中に……宗冬は下腹に手を当てた。紘に子供ができた時、だんだん大きくなっていく腹を毎日欠かさず撫でた様に。 「妻が子を授かった時、天にも昇る心持ちでした。あの様な事が、私の身にも起こるのでしょうか」 「絶対に無いとは、申せませぬ。あの、間違いであったら申し訳ございませぬが……あなた様は、殿からのお情けを、心から幸せに感じておられるのではありませぬか」  将康からの情け……答えははっきりとしていた。 「ええ、幸せにございます」  阿茶の前で柔和に微笑む宗冬からは、将康から全身に愛情を注がれた自信の様なものさえ感じられた。幸せなひと時を過ごしたのであろうことは、その少し恥じらう様に俯く美しい微笑みに十分現れていた。これが、馬に跨がれば天下無双と語り草にもなっている、あの織田島宗冬かと、自分だけがこの可愛らしい一面を見たようで阿茶は嬉しかった。 「お身の回りのことは、この阿茶が一身にお引き受けいたします。給仕以外では下女もここには入れさせませぬ故、他の側室達に漏れることはございませぬ。ご安心なされてくださりませ。この離れの湯殿やお厠も、宗冬様以外に使用を許しておりませぬ。お体に何か差し障りがございましたら、遠慮のう、お申し付けくださりませ」  男であればさぞ能吏であっただろうと思わせる、てきぱきとした阿茶の物言いは、興味本位や覗き見的な些末な雑念を感じさせず、一層さっぱりとして信頼できるものであった。 「私が此処にきた事で、大変な手数をかけてしまうこと、心苦しく思います。どうぞよしなに、お願い致します」  宗冬は虚心坦懐に頭を下げ、阿茶に全てを預けた。 「何のことはございませぬ。あなた様の様に、武将としてもご立派で心映えも美しい方にお仕えできます事は、むしろ誉にございます。あ、そうでした。鞠姫様を無事に最上の御実家へお連れ下された事、私からも御礼申し上げます。こちらにおられた時も、大変利発で可愛らしい姫君様で。私はてっきり、奥羽の旅路の最中、宗冬様が娶られるのかと」 「最上様にも勧められましたが、私の心にはもう殿がおられましたし、何より、鞠姫には心に秘めた役目を果たされるお気持ちがおありですから」 「と、申されますと」 「奥羽の大名同士が争うこともなく、農地が荒れて娘を売らねばならぬようなことにもならず、女も一人の人間として力を発揮できるような世の中を作りたいのだそうです」  ああ、と阿茶の局は得心がいったように頷いた。 「あの姫様ならお考えになりそうなことです」 「阿茶殿のお働きを見て、有能な人材に男女の別はないと、確信なされたそうですよ」  陰のない瞳に真っ直ぐに射竦められ、阿茶は思わず胸元を抑えて頰を赤らめた。 「(さくら)(きみ)にそう言われると、娘時代のように胸が高鳴ります……」 「(さくら)(きみ)、ですか」 「いえ、こちらのことでございます、ご放念を」  阿茶は顔を明るく綻ばせ、鼻歌でも歌いそうな足取りで部屋を辞したのであった。  その年の晩秋、大坂よりの早馬で、秀敏の側室・明野が懐妊したとの知らせが届いた。四十を過ぎての懐妊に、江戸の奥向きは大騒ぎとなったが、将康はすぐさま軍勢の配備を派閥の大名に指示して、大坂へ向かう事を決めた。透波の監視の目を誤魔化すために、奥川家の大坂屋敷にいる側室が急病だとこれみよがしに騒ぎ立て、京の名医を紹介すると宗冬も志願し、三河三人衆を警護に馬で向かう事となった。留守居には将康の成人した四男と、仙台の大館家との縁組が決まっている十代の六男が残されることとなった。  途中、三河の水山家、渥美半島の水軍・田原家に、将康の馬の交換を装って立ち寄り、密かに仕度を始めておくよう示唆した。他にも大阪に近く将康と心を同じくする大名たちに、わざわざ領地を通り抜けるだけで無言の示唆をし、透波の監視の目を潜る様にしてまずは京の茶々屋に入った。  茶々屋はすぐに五人の影武者を放ち、わざわざ大阪の奥川屋敷まで走らせた。 「上手く食いつきました。透波が後を追うのを確かめてございます」  離れの床に体を放り出して横たわっている将康に、四郎兵衛が楽しそうに囁いた。 「早馬もこうはいきませんよ。流石にお歴々はやる事が違う」  将康だけではなく、三河三人衆も宗冬も、流石に疲れ果てて転がっている。四郎兵衛が振り向いて頷くと、女中たちが膳に色取り取りの料理を乗せて、幾つも幾つも運び込んだ。  女達の後には、目一杯の酒徳利を膳に乗せた三造が現れ、勝重を狂喜乱舞させた。 「まだそんなに騒げるんじゃ、余力アリってことですね」  四郎兵衛の言葉はまるで耳に入らぬ様に、勝重、清重、政虎の三人は膳に食らいついた。 「何かありましたか、宗……四郎兵衛様」 「透波をね、ここで完膚なきまでに潰してしまいたいのですよ。奴らは金次第で誰にでもつく。誰がどう放っているかが読みにくい故、こちらも策が立てにくい。幸い、今の透波もそうですが、畿内で暗躍する透波の寝ぐらはこの京にあることを藤森衆が掴んでいます。何箇所かはあるでしょうが、大嵐の前にここは一つずつ、確実に潰していきたい」  三河三人衆は、猛烈な勢いで食べるだけ食べたら、そのまま倒れる様にして大の字になり、瞬時に大いびきを掻き始めていた。 「私たちが乗ってきた馬は如何しておりますか」 「よく餌を食べて休んでいるようです。蒼雲も元気によく食べております」  酒の代わりに水を飲んでいた宗冬は、丁寧に箸を置いて合掌した。 「この上なき馳走にございました。では今から私が行きます。蒼雲のおかげで私は楽に参りましたし、疲れておりませぬ」  宗冬がおっとり刀で立ち上がろうとするのを四郎兵衛が止めた。 「まぁお待ちなさい、影武者が奥川屋敷に入るまで。あくまでも表向きは、大坂のお屋敷におられる側室の病気お見舞いに参られているのですから。急いては事を仕損じます。葛さん夫婦とは連絡が取れる様になっておりますから、逐一こちらに情報が入ります。まずはその時に備えて、しっかり英気を養われる事です」 「葛は、葛と碤三は息災にしていますか」  刀を置いた宗冬が身を乗り出す様にして四郎兵衛に迫った。 「息災も何も、葛さんは秀敏寵愛の御側室として大坂城の奥御殿に君臨しておりますよ。儀式の所作や装束に昏い子飼いの武将達に指示を出して、あっという間に手なずけてしまっている様です。岩佐龍成だけがどうにも靡かぬと、歯ぎしりしていましたが」 「良かった、元気なのだな……」  そう繰り返す宗冬の声は涙に震えていた。 「仕方のない姉上じゃ」  元気どころか葛節全開で、何やら生き生きとさえしているように感じる。 「折角夫婦二人でゆるりと暮らせていたものを」  根っからの忍で根っからの働き者で根っからの策略家な妻と、その妻を陰日向無く守る夫……想像するだけで二人らしいと目元の涙を拭いながら笑みを漏らした宗冬に、将康が不機嫌な顔を向けた。 「葛に、会いたいか」 「それはもう……別れた時は、南蛮の薬にやられて病んでいたのです。元気どころか、生き生きと過ごしている事を知って、嬉しくてなりませぬ」  ふん、と鼻を鳴らし、将康が酒徳利から酒を煽った。そんな様子を楽しげに見つめていた四郎兵衛は、宗冬の側に膝を寄せて小声で囁いた。 「そういう、ことだったんですね」 「え……なんのことでしょう」  詳しい経緯を知らない三河の三人に遠慮する様に、宗冬がはぐらかした。 「今の貴方は美しいだけでなく輝いておられる。血筋に翻弄されていた頃の微かに纏っていた翳がなくなりましたね。長い付き合いの私の目は誤魔化せません。今の幸せそうな貴方を見たら、葛さんも喜ぶはずです」 「叱られるかもしれません」  葛の怒り顔を思い出したか、思わず四郎兵衛がくわばらくわばらと呟いた。 「将康様は、ずっと貴方への想いを心の奥深くに仕舞って、遠くから見守り続けていたんですから、この方の愛情に嘘はない」 「それはもう、承知しております……しかしながらそれは、あの本能寺で父を手にかけずに済んだからに違いありませぬ。貴方様は、一生負いきれぬであろう罪から私を逃してくださいました。そのお陰で、このような大きな愛に身を委ねることができたのです」  将康を見る宗冬の目にも、深い慈愛が灯っている。人を想う時の人というものはとてつもなく美しい、四郎兵衛はつくづくそう思った。 「今の貴方の自信に満ちた美しさに、全てが報われる思いです。葛さんも同じでしょう」 「葛には、碤三と共に幸せでいて欲しい、穏やかに暮らして欲しい、そう願っております」  祈る様に呟く宗冬に、将康が大袈裟な咳払いをして思念を邪魔した。もう、と頬を膨らませて宗冬が将康を軽く睨むと、でれでれと蕩ける様に相好を崩して、手元の酒徳利をだらしなくひっくり返してしまうのだった。 「ほら、お召し物が、仕方のない殿」  取り出した手拭いで宗冬が丹念に袴の酒を拭うと、将康がその手を止めて宗冬の膝の上にごろりと頭を預けてしまった。 「あ、殿、四郎兵衛様の前です」  そういいつつも、まんざらでもない様子で、宗冬は微笑みながら将康の髪を撫でた。将康といえば、その手を宗冬の袴の中に差し入れて、気持ち良さそうに膝を撫で回していた。 「これが豊海を出し抜いて次々と大名たちを傘下に収める大狸様とはねぇ。鼻の下伸ばし過ぎですよ、奥川様」  これはもう手の施しようのない病だと、四郎兵衛は肩を竦ませてさっさと部屋を辞した。                 
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