15.盲愛

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15.盲愛

 15.盲愛  寧子は秀嗣の居城である充楽邸を訪れていた。ここは京の御所の西に位置しており、公家の屋敷なども点在していた。しかし三条橋道実が後継探しに汲々としている間に九条派が力をつけ、御所での勢力図が変わりつつあった。街とはそうした力の移ろいを如実に表していた。 「ここに来るまでに、公達が町の子供達を追い回す姿を見ました。貴方は官位も戻されたのです。あの者たちよりは身分が上のはずでしょう。何故放っておくのですか」  秀嗣の私室に通された寧子は、秀嗣が現れるや否や、そんな説教を吐き出した。 「叔母上」 「まぁ、座りなさい」  秀嗣にとって寧子は義理の叔母だが、自分を置いてさっさと田舎に帰ったまま便り一つ寄越さない母より、余程母らしいとさえ感じている。神仏がこの人に子供さえ授けてくれたら、周りの人間がこんなに苦しむことも、豊海の家がこんなに危うくなることもなかったのだ。 「子供たちは元気にしておりますか」  秀嗣には、蟄居の前に男児を、蟄居が解けてから間も無く女児を授かっていた。産んだのはそれぞれ、公家の末娘と、小大名の養女であった。実家はかつての蟄居閉門以来秀嗣からは距離を置いていた。 「明野の腹の子に官位を授けるそうですね。御所もいよいよ、金次第でなんでもござれとなってきたか」 「おやめなさい。殿下のたっての願いをお聞き届けくださったのです」 「うちには既に後継がいる。私が後を継いで何がおかしい。叔父はそんなに私を廃したいのですか」 「そんなことはない。貴方を頼りにしています」  忌々しげに、秀嗣は菓子が供された膳を蹴り飛ばした。 「そういえば聞きましたよ、新しい側室に骨抜きにされて、とうとう評定の場で失禁したそうじゃありませんか。ハハ、ざまァ無ぇや。いよいよボケてきやがった」 「口を慎みなさい」  伝法に口を荒げる秀嗣に、寧子は息子を叱る母の如く一歩も引かなかった。 「自重しなさい。今動けばまた、貴方の命が危うい。唐丸籠なんぞに乗せられて後ろ手に縄目を受ける姿など、私とて二度と見たくはありません」 「もうね、我慢できねぇんだよ。いつ殺されるか、いつ攻められるかと、びくびくしながら毎日眠れない夜を過ごしているんだ。叔父貴のことだ、赤子可愛さに、今度こそ俺らを皆殺しにするつもりに決まっている」 「そんなことはありません。第一、明野は40を過ぎた体、出産に耐えうるかどうかわかりません。それに……夫は高齢。動かずに耐えておれば、否応なしに大坂城は貴方のものになるのです。隠忍自重、良いですね」  寧子は秀嗣の元に駆け寄り、その手をしっかりと握りしめた。 「このおかかが、貴方を守ってあげます。決して自棄を起こさぬ様に」 「叔母上……」 「岐阜から連行された貴方を見て、どれ程私が心を痛めたか。亡き秀貞殿も貴方の身を案じておられましたよ」  寧子の言葉に涙を零し、秀嗣は頷いた。 「でしたら、それ程に私を思って下さるなら、この書状に署名をください」  目顔で秀嗣から合図を受けた小姓が、螺鈿細工の文机を運んできた。上には既に書状が広げられており、その内容を見て寧子はひっと声をあげた。 「お、おまえ、龍成に正敏に清隆、この三人にお前の元に参じろと命令させるつもりですか、この私に」  秀敏の判断能力は著しく低下をしており、このままでは国事が滞るため、秀嗣を後継として大坂城に迎え入れ、秀敏に仕えた以上の誠を以って仕えるべし……書状にはそう書かれ、宛名には三人の子飼いの武将の名がそれぞれ記されていた。  寧子は思わず、その三枚の書状を破り捨てた。 「叔母上、そんなものまた直ぐ書けますよ。これはね、偏に国を守るためです。隙を作ればまたぞろ戦国の世に逆戻りだ。俺ァね、この身を賭して、豊海の屋台骨を引き受けて、何とか持ち直してみせようと言っているんだよ」 「持ち直す、ですと」 「そうだろう。評議で小便漏らす様なジジイ、誰が付いていくさね。むしろ遠国の大名にまで知れ渡らない内に世代交代しちまった方が得策だ。俺の側室共も遠国育ちが多い、実家に文の一つも書きゃ、喜び勇んで兵を上げるだろうぜ」 「何と浅はかな……畿内の主だった領地は豊海子飼いの小大名ばかりじゃ、大坂に危急ある時はすぐさま数万の兵が集まる様になっておる。おまえに何ができようか」  福島正敏、加藤清隆、それに奉行衆の夏荷敏愛(なつかとしなり)らは、一も二もなく寧子の元に参じるであろうが、龍成は頑として秀敏のそばを離れまい。それどころか居城の佐和山城から兵を呼び寄せてこの秀嗣を叩こうとするであろう。 「だから、叔母上がいるんじゃありませんか。バカ息子たちを呼び寄せて、叔父貴を引き摺り下ろすんですよ、大坂城の天守から」 「情けない、おまえという子は! 」  文机から筆を取るなり、寧子は泣きながら秀嗣めがけて投げつけた。 「うるっせぇ、ババア! 」  逆上した秀嗣が寧子の手首を取って捻り上げた時、横から強烈な蹴りを食らって弧を描く様に吹き飛んだ。  寧子の前に、打掛姿の女が立ちはだかった。 「かつ……三条橋(さんじょうばし)殿」  葛、と言いかけて慌てて取り繕ったものの、その壮絶な美貌は誤魔化しようもなく、転がった秀嗣はその美貌を見上げて狂気に満ちた雄叫びを上げた。 「御方様に無礼を働くとは、とうとう全てを諦めた様だな」  打掛姿からは想像だにできぬ甘露な男声である。男だとはわかっていたが、こうして背中に隠れてみると成る程、細身ながら引き締まった体つきで、背が高い。打掛と小袖を脱ぎ捨てると、中は筒袖に軽衫という軽装であり、尚の事しなやかな細身が強調された。 「久しいな、秀嗣殿」  懐に右手を隠したまま、葛は微笑んだ。 「会いたかったぜ、葛。そんな形はしているが、薬の後遺症でろくに戦えまい」 「まぁ、五分、というところだな。お前相手なら十分だ」 「よく言うぜ。なぁ、あの続きをしようよ。おまえがずっと欲しかったんだ」 「私は今、こう見えても殿下の側室、手を出せば後はないぞ」 「構わねぇよ、おまえと引き換えならな、俺の人生なんて安いもんだ」  騒ぎを聞きつけた充楽邸の近習が集まってくるのが足音でわかる。しかし、葛も無策ではない。既に龍成に邸を囲ませ、寧子の迎えを頼んでいた。 「者共よう聞け! このお方は内大臣豊海秀敏様御正室、寧子様であらせられる。擦り傷一つ付こうものなら一族郎党三条河原に首が並ぶと知れい! 」  よく響き渡る大音声に、近習たちは完全に出鼻を挫かれた。戦意を喪失して混乱し始めたのを確かめ、葛は寧子の腰を背中に抱き寄せたまま後退った。 「御方様、走りますぞ。正門にさえ辿り着けば龍成殿がお迎えに参られています」 「龍成が、あの子が貴方の言う事を聞くなんて」 「大事なおかか様の為ならと、二つ返事でお引き受け下されました、さ、お袖を口に」  懐から取り出した煙幕玉を破裂させ、煙が充満して目も開けられぬ中を、葛は寧子の手を引いて真っしぐらに正門へと駆けた。いつしか日没を過ぎ、目指す頼りとなるのは正門に焚かれている篝火だけである。  既に正門を挟んで龍成の兵と秀嗣の兵とが睨み合っていた。流石に正三位の屋敷に秀敏の許可なく兵を突入させるわけにはいかず、龍成はやきもきしながら正門から中を伺っていた。やがて寧子の姿を見つけるなり、龍成(たつなり)はたまらず門兵を押し退けて駆け寄ってきた。 「おかか様! 」  龍成は葛から寧子の体を引き受け、意識が朦朧とし始めている寧子の頰に手を添えた。 「御方様は少し煙を吸われた様だ、後を頼む」 「承知……しかしおぬし、男か! 」 「今か! 相当な朴念仁だな。とにかくここは引き受ける、行け」  龍成ならば、この事を上手く利用するに違いない。血気に逸る福島正敏(ふくしままさとし)でもなく、一徹故に状況判断が鈍る加藤清隆(かとうきよたか)でもなく、この怜悧で聡い龍成を選んだのは、間違いではなかった。  扱いにくい男ではあるが、こう言う時の判断はやはり早い。邸を取り囲む布陣も隙がなく、龍成は寧子を負ぶって正門の外に待たせてある籠に乗せた。  葛は寧子を見送ると正門を閉め、閂をかけた。  振り向けばそこには、近習に守られた秀嗣が、例の狂気に跳ね上がった目尻を朱に染めて笑っていた。 「これはこれは、権大納言様」  わざとらしく膝を折ってしなを作ると、瞬く間に近習が群がってきて葛を縛り上げた。 「長い夜になりそうだ」  縛り上げられた葛の頤に手をかけ、秀嗣はその唇を吸うが、葛に舌先を噛まれて絶叫した。怒りに任せて鳩尾を蹴り上げると、葛はその場に倒れて意識を失った。             将康は密かに、豊海家の大老格で織田島時代からの秀敏の盟友とも言える先田頼家(さきたよりいえ)伊庭長近(いばながちか)の京屋敷を訪ねていた。  頼家は織田島宗近がまだ尾張の小大名だった頃からの付き合いで、将康とも戦を共に戦ったことのある、言わば戦友でもあった。ただ、秀敏とは長屋住まいの頃からの付き合いで妻同士も仲が良いため、宗近の後継として秀敏が笹尾丸を擁立した時も、豊海政権を打ち立てて反対する古参を軒並み滅亡させた時も、ずっと付き従っていたのであった。  将康が居室を訪れると、頼家は病を得て臥せっていた。慌てて起き上がろうとするのを制し、将康は痩せさらばえてしまった頼家の背中を支えながら再び横たえてやった。  しばしすると、正室の竹が茶を供しに部屋に入ってきた。男同士の話があろうとすぐに下がろうとするのを将康が留めた。 「思えば、長い月日が流れましたな、お竹殿」 「ええ、それはもう。私達は既に、5人の孫がおります。天下御免の爺様と婆様です」 「それはそれは重畳、いや、お竹殿は変わらずお美しい、とても婆様などには見えぬ」  竹はまだ40代の筈であるが、子沢山な故か、白髪も目立ち、体つきもふくよかではある。だが、所帯を切り盛りしてきた矜持は、その凜とした容貌にしっかり刻まれていた。 「お上手ですこと。けれどもこうして畳の上で横になっている主人を見ておりますと、あの貧しかった頃が嘘の様。殿下も主人も、泥の上済みをすする様な厳しい戦を繰り返し、足軽頭、侍大将……気の遠くなる様な時間をかけて大名となって、お陰様で食べるには困らなくなりましたが……政というものがこれほど難しいものとは知りませなんだ。主人には荷が重過ぎました。数多の親友、盟友が殿下と考えを異にし、その度に主人が矢面に立って戦い、その手で……槍の松左衛門などと異名を取ったとて、それが何になりましょう。主人の苦しみは、大名になってから始まったと言っても過言ではありません」  誰にも言えなかったであろう真意を、いや、頼家が心にしまって耐えてきたであろう心情を、竹は一気に吐露した。将康はじっと、聞いていた。 「分かっておりますよ。我が一族、そして娘や息子と御縁のある大名方、皆一様に将康様に付いて参ります。娘があの猿めの側室とされそうになった時、主人が耐えきれずに猿と大喧嘩して領地を叩き返そうとした時、いつでも将康様が助けてくださいました。あなた様こそ、次なる平和な世をお作りになる方です」  その言葉に胸を熱くし、将康は竹に頭を下げた。寝床からは、何かを言おうとして頼家が声を発し、腕を差し出してきた。その手をしっかり握ると、頼家が何度も何度も将康に頷いた。 「次代はあなただと言うことは、皆分かっております。ただ、どうか、寧子様や罪なき女達、若い者たちには、未来があります様に……主人はそのことを案じております」 「頼家殿、お忘れかな。私はかの高田の残党も、南条や稲川の旧臣も、望むものには得手とする働き場所を作り、力を尽くしてもらっております。血を流すだけの権力の交代はもう古い。人材は、宝ですからな。勿論、宝に男も女もござらぬ」  頼家の目から涙が流れた。  かつて織田島宗近の側近として、戦場では槍の松左衛門(まつざえもん)の異名を取ったほどの偉丈夫は、将康が邸を辞して間も無く、安堵したかの様な安らかな顔で、逝った。  将康が大老格との面会に動き始めた頃、宗冬は三河三人衆と共に、早朝から京の鞍馬にある山寺の跡に潜んでいた。廃寺ではあるが寺領は広く、山一つが敵の根城となっていた。  先に偵察を終えて宗冬らを待っていた藤森衆が、敵の配置を事細かに説明した。 「碤三は」 「別働隊と共に、大坂へ向かっています。大坂の小さな小物商が言わば盗人宿のような役割をしていることがわかりました。街中にあるのは分かっていたんですが、奴ら巧妙で、中々尻尾を出さなかったんですよ。とはいえ、こっちもこの筋じゃ玄人ですから」  葛のような事を言う、と宗冬が笑って頷いた。 「実は、目星をつけたのはお頭のようですが」 「葛が」 「あの人の脳みそはどうなってなさるんでしょうねぇ。あっしなんざ白味噌しか詰まっていませんがね」  後ろで聞いていた本戸勝重がプッと吹き出した。この男はどうも、ここぞと言う前にひどく緊張する性質であるらしく、鞍馬に分け入ったあたりから一言も口をきかなくなっていたのであった。好い加減に解れた様子に安堵していると、女の鼻歌が聞こえてきた。  慌てて3人が身を屈める頭上、境内と街を結ぶ山道を、白粉を塗りたくった遊び女達がふらふらと下っていくところであった。相当に酔っ払っているのか、気怠げな歩みである。 「帰りましたね」 「今頃奴らは白川夜船だ」  山道を見上げる様にしながら、宗冬らは道無き道を進んだ。初秋とは言え、この辺りの早朝は流石に冷える。袖の中に指先を仕舞って温めながら、一行は進んだ。  やがて本殿跡が立つ広い境内に出た。奉納舞の為に設えてあったであろう舞台の上では、だらしなく着物をはだけた男達が大の字になって眠っていた。  本殿の背後からは、政虎、清重がこちらを伺っている筈である。 「行くぞ」  刀を抜き、宗冬らは一気に境内に躍り出た。まずは寝ている者達を藤森衆が始末し、物音に気付いて本殿から出てきた者達を、勝重が槍で一閃した。宗冬は奥へ奥へと朽ちかけた本殿の中を進み、奥殿にいるであろう頭目の姿を探した。  流石に本丸と見えて、斬りかかってくる連中の剣技が徐々に上がっていく。一撃では躱せなくなり、何合か斬り結んでいると、反対側から清重が踊りかかってきた。 「忝い」  二人は長々と続く回廊を走り抜け、その突き当たりにある奥殿の木戸を同時に蹴り破った。そこには金銀の入った箱が積み上げられ、華美な直垂に身を包んだ男が、裸の女達を両脇に抱えていた。 「何だ、おまえらは」  生きかたを間違えなければ、端正な公達であったであろうその男は、女を突き飛ばして長刀を手繰り寄せ、ゆらりと立ち上がった。 「ほう、織田島宗冬に酒匂清重か、推参なり」 「ほざくな。金次第で雇い主を平気で裏切る様な節操のない忍崩れが」  清重が斬りかかるが、男にひらりと直垂の袂を翻して躱され、たたらを踏んだ。 「無様なことよ。これだから三河の田舎侍は」  赤鞘から放たれた刀は、宗冬の兼定と比べると相当に長い。男は長身で腕も長く、まるで分身の様に体の周りを自在に振り回してみせた。 「俺らは蛆と一緒でな、戦が終わるたびに涌いて出てくるんだよ。食い詰めて、仲間になり、生きる為に訓練に耐え、金を稼いだらとっとと死ぬのさ」 「そんな世は、もう直に終わる」  清重に女達を出す様に指示し、宗冬は男と二人だけになった。 「お前のことは部下から聞いていたが、本当に美しいな。あの葛とか言う忍の妖しさとは違う、眩しいくらいの清々しい美しさだ。何故だ、同じ三条橋の出でありながら」 「何だと」 「先代の師実の娘が俺の母だ。だが、嫁いだ先は宗近に滅ぼされ、三条橋は道実に取って代わった。帰る家を無くした母は、俺を育てる為に別の公家の妾となった。その公家も、道実との政争に敗れて滅んだ。母も死んだ。生きる為に、食い詰めた奴らと盗人を始めた。そしたら金になった、金になるならとあちこちに売り込んで、買ってくれたのが秀敏さ」 「私は盗みもせず、人を欺きもしない」 「だが、人は殺してるだろ」  宗冬は瞑目をした。確かにこの手は、敵とは言え、誰かの家族を殺してきたことには違いない。その罪からは、決して逃れるつもりもない。第一、葛と約束をしているのだ、共に地獄へ行こうと、裁きを受けようと。 「言いたいことはあるだろうが、お前の存在が戦なき世への道を妨げる。これから後、失わずに済む命のためにも、ここで斬る」  銃声が轟いた。政虎が指揮する藤森の鉄砲衆が放ったのであろう。潜伏している多くの敵は、あの精鋭達が余すことなく倒している筈である。 「最後に聞く、貴様が頭目で間違い無いな」 「俺以外に誰がやるか、こんな事。透波頭目二条路隆光(にじょうじたかみつ)、俺ガ事よ」  宗冬は間合いを保持したまま下段に構えた。一方の隆光を名乗る透波の頭目は、長身を生かして振り下ろしの一撃を狙っているのか、上段に構えている。 「死ねい! 」  隆光が踏みこみざま渾身の振り下ろしで宗冬の頭蓋を狙った。宗冬は床すれすれに下半身を沈めて一歩踏み込み、擦り上げの逆袈裟でガラ空きの胸部を狙うが、流石に隆光に躱された。兼定を弾いたのは抜きざまの脇差であり、隆光は二刀を掲げて宗冬に迫った。  転がり出る様にして奥殿から飛び出し、崩れた塔頭が並ぶ墓場に隆光を誘った。境内から、雑魚を一掃した勝重らがこちらを伺っている。  追いかける隆光の一閃が、塔頭を見事に切り飛ばした。切り飛ばされた上半分の向こうに、宗冬の汗にまみれた顔がある。小袖の胸元は、今の剣戟の切っ先が触れたのか、真一文字に断たれていた。はらりと溢れた布地の奥に、微かに赤い線が出来上がり、じわりと鮮血が滴り出した。 「よう鍛えておるな。だが、次はない」  じりじりと横に移動しながら、宗冬は一際大きな塔頭の影に回った。 「無駄だ、石毎真っ二つにしてくれるわ」  隆光が二刀をカマキリの如く掲げ上げ、怪鳥のような奇声を上げて一閃した。  塔頭がまた、中程で真っ平らに断たれ、ごとりと落ちた。しかしその向こうに宗冬の姿はない。宗冬は塔頭を足場にして飛び上がり、身を捻って隆光の背後に降り立った。長刀、脇差、と音を立てて振り切った隆光の背中を、宗冬は袈裟に斬った。更に振り向きざま振り下ろされた隆光の緩い斬撃を躱し、その胸元に深々と刀を刺し貫いた。  どうと、切り残された塔頭にもたれる様にして、隆光が崩れ落ち、絶命した。  血ぶりをくれて兼定を鞘に収めると、背後から政虎が飛びついてきた。 「やっぱり凄いなぁ、宗冬様は」 「よせ政虎、怪我をなさっている」  清重が慌てて袖を千切って宗冬の胸元の血を拭った。 「大事ない、有難う、清重殿」  拭う手に宗冬の手が重なり、思わず清重は顔を赤らめて手を引いてしまった。  同じ頃、大坂の透波の根城である小物商も、碤三らの働きで殲滅することができた。だが、あと幾つこうした根城があるのか分からない。また、別の食い詰め者が新たな透波となって世の中をかき回すことも考えられる。 「戦がない分、俺らの仕事が忙しくなりそうだな」  血振りをくれながら呟いた碤三の言葉に、配下の若者は首を傾げるばかりであった。  昼時に差し掛かり、秋めいた陽光を浴びながら四人がのんびりと鴨川沿いを流していると、御所を過ぎたあたりで人の流れが急速に三条方面へ向かっていることに気付いた。  茶々屋は八坂神社から東山方面に向かったところにあり、馬や荷車を沢山抱える大店としては、広くて街道へも出やすい便利な立地にあった。三条を過ぎてから八坂神社にお参りをして戻るつもりであったが、その人だかりが気になり、宗冬は何となく追いかけた。  やがて人混みは鴨川の河原に至り、三条大橋の上にも人だかりができていた。 「何たって、すこぶる付きの別嬪らしいやないか」 「釜茹でやて。大納言はんもいけずやわ」 「しかし実の叔父の側室を処刑するなんざ、下々にはようわからんわ」 「下々て、あの豊海の叔父甥とて下々の出やろ。うちらと同じやて」  口さがない市井の者達の言葉に、宗冬は胸騒ぎを覚え、蒼雲を清重に任せて人混みの中に飛び込んだ。人をかき分け、怒鳴られながらもかき分け、漸く橋に立ったところで背中を突き飛ばされて欄干に体をぶつけた。すると対岸に設置された処刑場に大釜が火にかけられ、その側の桜の木から一人の女が胴をぐるぐるに縄に巻かれて吊るされていた。  女は打掛姿であるが、葛だと、すぐにわかった。  大釜の側には豊海の家紋の入った陣幕が張られ、秀嗣が床几に腰を下ろしていた。  状況を飲み込めず、言葉も出せず、宗冬はただ泣き出しそうになりながら必死に心の中で葛を呼んだ。  そうこうするうちに、役人が進み出て、吊るされている女の罪状を読み上げた。 「この者、内大臣豊海秀敏が側室・三条橋の君。夜半に大納言家に忍び込み、大納言様のお命をお縮めせんと刀を抜いた由。何某かの密命を帯びての所業であることは明白。今ここで、命じた物の名を吐かせるため、足先から順に浸して自白をさせる。自白せぬ時は、体を浸し、釜茹での刑と処す」  最後の言葉に、人混みから悲鳴が上がった。 「この人殺し! 」 「そんな天女さんみたいな別嬪を殺したら、祟るでぇ! 」  ひっきりなしに薪が放り込まれ、強火に煽られた大釜からはグツグツと沸騰する不気味な音が響いていた。  宗冬は人の影に身を潜めながら、秀嗣の目につかぬ様橋を渡り対岸に近付いていった。  すると、吊るされてぐったりしている葛の口から、不敵な笑みが漏れた。 「いよいよ狂うたか、葛よ」 「……まぁね。さっさとおやりな。おまえの顔を見てると気分が悪くなる」 「是非も無い」  秀嗣が合図をした。  葛の体から伸びる縄は、桜の木の太枝を通して、河原の地面に杭で止められていた。役人がその杭を抜き取ろうと身をかがめた時、いきなり大釜から真っ白な煙が立ち上った。  薪でも爆ぜたかと、秀嗣はじめその場にいた多くの者が袂で顔を隠した。すると数呼間の後、爆音が響き、大釜が割れて熱湯が辺りに飛び散った。  宗冬は走った。飛び散る煮え湯を避ける様に逃げ惑う民衆を退けながら、何とか三条大橋を渡った。まだ煙と熱さとで混乱する処刑場では、秀嗣が金切り声をあげて葛の行方を捜している。まさか、一緒に吹き飛んだのか……戦慄して足が止まりそうになるのを堪え、宗冬は処刑場の桜の下に駆け寄った。  葛が吊るされていた桜の木は、吹き上がったお湯を被ったか、湯気が上がっている。その中途に、濡れた縄の切れ端が引っかかっているのが見えた。刃で切ったものに違いない。  碤三がいるはずだ、あの碤三が放っておく筈がない、碤三なら……葛を抱いたままの碤三が次に何をするかと思考を巡らせながら、宗冬は河原脇の煮売屋の横を駆け抜けた。  この辺りは小さな露店も多く、路地が入り組んでいる。と、濡れた打掛が捨ててあるのを見つけた。宗冬はその濡れた打掛を抱きしめ、生きていてくれと叫んだ。  勘が教えるままに木屋町を抜けたところで馬の嘶きが聞こえた。 「蒼星か」  ならば行き先は知れたも同然であり、かえって接触して葛が生きていることを掴まれたら全てが水泡に帰す。宗冬は袂から手ぬぐいを取り出して顔を覆い、来た道を引き返した。  するとまた、河原の方から民の悲鳴が上がった。  処刑場を見渡せるところまで来た時、慌てて宗冬は土手道の木の陰に身を潜めた。  物々しい甲冑の擦れる音と共に、三条大橋から処刑場へと、数百の兵が駆け下りていった。旗印はやはり豊海の瓢箪。しかし指揮官は岩佐龍成である。 「豊海秀嗣殿、殿下の御側室・三条橋の君を無断で処刑された件、また政所様を監禁し亡きものとせんと画策された件、どちらも許しがたし、蟄居閉門の上、厳しい沙汰を下すとの殿下のご命令である。充楽邸まで同道なされい」  あっという間に取り押さえられ、秀嗣は縄を打たれた。 「無礼な。貴様ごときが俺に縄を打つか! あんな小便垂れの耄碌ジジイに何ができる! 大方おまえらが叔父貴を良い様に操っているだけなんだろうが! 」  無様に騒ぎながら暴れ、龍成に鞭打たれた秀嗣の額からは血が滴り落ちた。流れ落ちる自分の血に驚き、秀嗣は失神した。他人の血が流れても何とも思わぬ外道が、と宗冬が毒づく前に、龍成が同じ言葉を吐き捨てたのであった。    妙顕寺城で休んでいた寧子を見舞うべく、秀敏は自ら兵を五百ほど率いて京に入っていた。そこで葛の処刑の事を聞き、激怒して攻め寄せると聞かぬ秀敏を龍成が必死に宥め、何とかこの城に留まらせたのであった。漸く御所との関係が軟化しつつある中、身内のことで王城を騒がせては今後の折衝に差し障る。故に、止まる代わりに、状況次第で秀嗣を捉えて連行できるだけの権限を与え、龍成に任せたのであった。  やがて龍成が持って帰ってきた葛の打掛の欠片を手にし、秀敏は慟哭した。同時に怒りに全身を震わせた。 「今度という今度は許さぬ。秀嗣及び正室は官位剥奪、側室、子女、年齢問わず全員死罪に致せい! 」 「殿下、それはなりませぬ。秀嗣様が亡くなれば、明野様の赤子が遇えなき仕儀と相成りました時……」 「黙れいっ、もうあやつには愛想が尽きたわい! 養子でもなんでも取ればええんじゃ。もっと早うこうするべきだったのじゃ」  怒鳴りながら立ち上がった時、秀敏の股間から湯気が立ち上った。途端に呆けた様な顔で足元にできた水たまりの上に座り込んでしまった。  怒鳴り声に驚いて床をあげて様子を見に来た寧子は、小便塗れになって呆けている秀敏と、その横で唇を噛み締めて嗚咽を漏らしている龍成の姿に愕然とした。  本当に終わりが来たのだ、そう悟った寧子は、後ろ手に部屋の襖を閉め、静かに夫の側に歩み寄った。 「あやつが、あやつが儂の夢を、あやつが……」  寧子も最早、秀敏の決定には意義を挟まなかった。 「子を産めなかった私にも罪がございます。本日このまま、私は仏門に入ろうと存じます。共に仏に仕えませぬか」 「……嫌じゃ、どうせ地獄に行くに決まっとる」  寧子の手を振り切り、秀敏は体を濡らしたままで部屋を出ていった。 「龍成、おまえは今のうちに奥川殿に」 「いいえ、最後まで親父殿に付き従います。地獄でのお世話も、私が務めます故」  寧子は、膝を付いて声を殺して泣く龍成を抱きしめた。 「おまえは本当に、優しい良い子です。私たちには勿体無い息子ですよ」  この後1588年3月に、秀嗣以下一族の処刑が行われる旨、沙汰が下るのであった。  将康は既に、大坂城を見下ろす茶臼山に陣を引く手配を命じていた。寧子の仲立ちもあり、子飼いの武将たちの多くが、既に将康側に寝返っていた。秀敏が臣従の証にと妻子を滞在させていた大阪の各大名屋敷では、既に戦支度が始まっていた。  年始めの冬季には、遠国の大名は参陣までに時間を要するため、妻子を人質に取られぬ様予め京の縁故を頼って密かに避難を始めていた。その手配を主に請け負ったのが茶々屋四郎兵衛であり、京の高位の公家に避難料と称して大名から大金を付け届けさせ、否応なしに押し付けたのだった。中でも、九条、四津寺などは稲川家の失速によって立場を失っており、日々の生活にも窮していた故、二つ返事で引き受けた。  妻子のいなくなった遠国の大名屋敷は兵の屯所として活用すべく、畿内の商人から高値で買い漁った兵糧や武器を運び入れ、大軍の滞在に備えていた。  龍成は直ちに岐阜の織田島宗孝に兵を率いて大阪入りする様に檄を飛ばしたが、宗孝は決して龍成を満足させる様な機敏な動きは見せなかった。同様に、共に育った仲間たちに招集をかけても、応じる者は殆どいなかった。それどころか、秀嗣の処刑に連座することとなる側室の実家である大名は、口を極めて豊海政権を批判する始末であった。  秀敏の子を宿していた明野は、寧子がいなくなった奥向きを取り仕切り、まるで城の主人の様に振る舞い始めた。側室たちを奥御殿に留め置いて人質とし、実家である大名家や公家からの援助を強要したのである。  龍成と足並みが揃わないことで、益々豊海家は迷走を始めていた。豊海からの離反を表明した実家を持つ側室達は、秀嗣の様に連座の憂き目にあって処刑されることを恐れ、自ら命を絶った。  大名からの寡兵に限界を感じた龍成は、市中及び畿内に溢れている浪人達を雇うため、潤沢な財源を惜しみなく使うことを決めた。  既に戦は避けられないところまで来ている。しかし、秀嗣の処刑が中止になることはなかった。町中に喧伝された三月の早朝、采配を龍成に預けた秀敏は、自ら処刑を見届けるべく三条河原の陣幕に座した。  唐丸籠には秀嗣が、粗末な牛車の荷台には多くの側室とその子供達が乗せられ、河原についたところで無情にも放り出された。  皆一様に後ろ手に縄をかけられている。頑是ない子供まで縄をかけられ、寒さと恐怖に怯えて母親の側で泣きじゃくっていた。  串に刺して炙った猪肉を齧りながら、秀敏は顎をしゃくって合図をした。  間も無く戦と知って、町の衆は備えを始めているのか、見物客はまばらであった。そのまばらな見物客に紛れる様に、托鉢の僧侶が三条大橋の東詰めに二人、西詰に一人、経を唱えていた。丁度橋の真下に座る秀敏には、その托鉢の姿は見えぬ様で、ただ五月蝿げに舌打ちをするばかりであった。 「叔父貴、俺は一体、何しにこの世に来たんだい。教えてくれよ」  辞世を詠むこともなく、秀嗣は斬首された。その瞬間に悲鳴をあげた女達も、順番に、しかしながら決して取り乱すこともなく、震える手をしっかり合わせたまま斬られていった。  無実の子供の首まで晒したところで、役目を終えた非人が首斬り役人に取り縋るなり、自らの命を絶った。人としての最後の矜持であった。  秀敏が、晒された甥の首に満足した様子で去っていった後、托鉢の僧は晒し台に歩み寄り、心を尽くした経を唱えた。その声に民の声が重なり、夕闇迫るまで三条河原には経が木霊し続けた。  翌日には、秀嗣の首だけを残し、他の妻子達の首は持ち去られていった。後に、何者かによって実家に戻され、懇ろに家族に弔われて眠りについたと、将康に知らせが入ることとなる。  名を伏せ、宗冬は托鉢姿で側室の一人の首を彼女の実家である公家の屋敷に届けた。公家といっても、小体の屋敷の手入れ一つ覚束ぬ程の、貧しい家柄であった。 「先の二条路様の没落に伴い、我が家も朝堂を追われ、位階も格下げとなりました。娘は親の私達の苦衷を察し、坊門家の姫君の身代わりに、自ら秀嗣の側室へと名乗り出たのでございます。お陰様で食べ繋ぐことができましたが……娘をこのような姿にするくらいなら、飢え死にしてしまった方が良うございました」  使用人もなく、応対に出た老婆は、変わり果てた娘の首桶を抱き、声を限りに泣いた。  その泣き声が耳に残ったまま、宗冬はつらつらと蒼雲の轡を取って歩いていた。  ふと、蒼雲が足を止めた。気がつけば、もう木幡山まで来ていたのだった。  桃山丘陵の南麓に当たるこの山からは巨椋池を眺めることができ、かつては伏見御所と呼ばれる後白河上皇の離宮があった。指月と呼ばれるこの景勝地は公家たちの別荘地としても栄え、つい最近まで伏見宮殿が建っていた。だが、この戦国期に伏見御所は荒廃し、今宗冬が彷徨っているのは、荒れ果てた屋敷跡であった。 「来てくれると思うか、蒼雲」  蒼雲は鼻を鳴らし、まるで誰かを呼ぶように嘶いた。すると壊れた表門の奥からよく似た嘶きが帰ってきた。応えるかのように、蒼雲はさっさと表門を潜って行ってしまった。 「待て、蒼雲」  宗冬が慌てて表門を潜ると、そこは寝殿造の屋敷があったことを思わせる、広大な屋敷跡であった。今は見る影もないが、庭石と思しき巨岩が転がっている。  手入れのされていない、伸び放題の枝垂桜が数輪、花をつけていた。  その下の岩に、一心に桜を見上げている托鉢姿の夫婦を見て、宗冬は駆け出した。 「葛、碤三! 」  宗冬の声に、二人は立ち上がって両腕を広げ、体ごと飛び込む宗冬をしっかりと抱きとめた。 「若! ようお越しに……お辛うございましたでしょう」 「いや、すっかり手伝わせてしもうた……良かった、会えたのう、良かった」  葛の更に細くなった体を抱きしめ、宗冬はその肩に顔を埋めて涙を拭いた。 「無事で何よりだ、小童。あいにく桜はこれしかないが、三人で愛でようぜ」  くしゃくしゃと宗冬の髪を撫で、碤三も鼻を啜った。  三人は思い思いに岩を見つけて腰を下ろし、暫し枝垂桜に魅入っていた。 「葛、体はどうなのだ」 「何ということはございませぬ。生来丈夫にできておりますから」 「すまなかった……私の為に、無理をしてくれたのであろう」  ふっと目を伏せた葛の代わりに、碤三が歩み寄って宗冬の肩を叩いた。 「それより、これから豊海攻めだな。奥川殿には断ってあるのか」 「ああ。殿は、いつも私のわがままを聞いてくださる」  碤三と葛が顔を見合わせた。おそらく二人の耳にも、戦働きをする側室の話が届いているのであろうことは間違いなかった。 「利用されてはおるまいな」 「碤三、あの方はそのような方ではない。心から大切にして頂いている」 「……おまえも奥川殿に、揺るがぬ情があるのだな」  真っ直ぐに二人を見据え、宗冬は頷いた。その決意に満ちた、しかしながら凪のような落ち着いた表情に、葛も碤三も顔を綻ばせた。 「若がお幸せならば、満たされておられるならば、それで宜しいのです」 「いや、奥川殿に泣かされたら、すぐ帰ってこい。あのクソ狸をとっちめてやる」  慈愛に満ちた二人の暖かい眼差しに、宗冬は感情が込み上げるままに口元を震わせ、声を上げて泣きながら碤三に抱きついた。子供のようにしゃくり上げる宗冬の背中を、葛が飽くことなく優しく摩り続けたのであった。  鈴鹿方面と大坂方面に道が分かれる分岐の茶屋で、三人の托鉢はそれぞれ僧衣を脱いだ。  着替え終えた若武者と武家の妻女らしき小袖姿の女が談笑しているところへ、隻眼の男が二頭の馬を茶屋の裏から引き連れてきた。  三人は無論、宗冬、葛、そして碤三である。 「若、どうぞ御武運を。但し、決して命は粗末にせぬと、約束してください」  宗冬を見つめる葛の瞳は既に潤んでいる。宗冬は、自分より少し背が低くなったかのような葛を抱きしめた。その髪に、あの伏見で見た桜の花弁が一枚絡まっていた。 「葛、何だか小さくなってしまったな」 「違います、若がご立派におなりなのです。私が歳を取るわけです」 「葛は若い、いつだって美しい。でも……本当に、苦労ばかりかけてしまった。私の為に、どれ程の辛苦を味わったことか。何も恩返しも孝行もできず、不肖の弟じゃの」  葛の肩に顔を伏せて、宗冬はその芳香を吸い込んだ。 「何をおっしゃいます、若のお側に置いて頂き、こんなに幸せな事はございませぬ」 「里で、よく休んでおくれ。きっと孝行するから、長生きをしておくれ。碤三といつまでも、元気で幸せに暮らしておくれ、約束だ」  薄くなったその肩は、葛の命の擦り減りぶりを示している様で辛い。 「大好きだ、葛。いつでも貴方を想っている」 「ええ、私も若が大好きでございます。若のお幸せを、いついかなる時も願うております」  涙を堪えながら、葛はそれだけをやっと宗冬に伝えた。 「さぁ、行け。その手で道を拓いてこい」  碤三に手綱を渡され、宗冬は蒼雲に跨った。 「姉上、兄上、行って参ります」  震える声で、しかしながら決意を秘めた強い声で別れを告げ、蒼雲と共に去っていった。  凛々しく頼もしい背中が見えなくなるまで見送り続けた葛は、その場に座り込んだ。 「だからまだ無理だって言ったんだ」  碤三は痩せ衰えた葛の体を抱き上げ、蒼星に乗せた。すぐに自分も葛の後ろに乗り込み、葛の体と自分の体を腰紐で縛り付けた。 「ゆるりと参ろう。急ぐ旅ではない」 「碤三……実は、縫っておいた腹巻を、渡せなかったのだ」 「それでいい。あの狸が側にいるんだ、腹を冷やす間も無ぇさ」 「そうだな……でも良かった、若とおまえと、三人で桜を見ることができて」 「里の桜はまだこれからだ。二人きりで、心ゆくまで一緒に眺めよう」  蒼星は碤三の意思を汲む様に、ゆっくりゆっくりと、進んだ。  あの処刑場で、高温の湯気に晒された葛は、碤三が助ける前に体の水分を失っており、危険な状態であった。まずは大釜の外側に煙幕玉を幾つか破裂させて視界を遮っている間に、桜の木に登って葛を手繰り寄せ縄を断ち、飛び降りざまに大釜の中に破裂玉を放り投げて時間を稼いだのであった。あの時、既に腕の中で葛はもう気を失っていた。  宗冬の読み通り、宗冬邸跡に逃げ込み、葛の状態が回復するまで潜伏していたのであった。宗冬がここを嗅ぎつけて訪ねてきたら全てが水泡に帰すところであったが、流石に葛が仕込んだ宗冬は、そんな愚は犯さなかった。ただ、時折町の女房や近所の子が、頼まれたと言っては卵や鶏肉や、精のつく食べ物を届けにきた。しかし、それらを口にすることは殆どなく、葛はそれらを孤児たちに与える様に年寄り達に命じた。衰弱の著しい葛は、重湯を口にするのが精一杯だったのである。せめて卵一つでも落とし、精をつけてほしいと祈る様な気持ちで差し出しても、それを飲み込むまでの力がなかった。時には碤三が卵酒を口移しに飲ませたり、名も告げずに食べ物や薬を届け続ける宗冬の想いに応えよと、叱ったり宥めたりと根気よく世話を続けたことで、何とか命を繋ぎ止めたのであった。 「離れていても、俺たちは繋がっている、家族だ」  既に碤三の腕に頭を預ける様にして、葛は寝息を立てていた。 「今度こそ、こいつから刀を取り上げるからな、宗冬」  少し蒼星の足を早め、碤三は比較的足場の良い街道を選んで里を目指した。  宗冬が大坂城下に入った時、大坂の北東に位置する飯盛城には主に奥羽の大名達が陣を敷いていた。たまたま見回りに出てきた石川一貴に会い、宗冬は布陣について確かめた。 「殿の六男将輝様がこの陣を指揮されておられます。ただ越前の中杉が信濃の真名田の嫡男と睨み会うておりますので、抑えの要として大館殿には上野でお留まり頂いております。殿の御本陣にはあの三人衆を始め、寧子様のご親戚筋、豊海の子飼いが顔を揃えていることでしょう」 「然様でしたか。しかし石川殿、よう大坂を抜けられましたな。心強い事です」 「主人の元に戻るは当然の事にござる。宗冬様、御武運を」 「石川殿も、決してお命を粗末になされますな」  馬上から一礼し、宗冬は一貴から示された道筋を通り、無事、敵に遭遇することもなく茶臼山に到着したのだった。  登頂の僅かな土地に築かれた将康の寝所に着いた頃には、もう日が暮れていた。
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