16.桜の陣

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16.桜の陣

16. 桜の陣 茶臼山の本陣、その頂上の僅かな空間には将康の寝所のみがあった。ひっきりなしに参陣を告げる各大名の使者を労い、星が輝く頃になって漸く、将康は寝所で具足を解いた。  庇の下では、桶の水で旅塵を拭った宗冬が、帷子だけを羽織ったしどけない姿で、ぼんやりと星空を眺めていた。 「秀嗣の処刑を見届けたのだな」 「はい。藤森衆の手を借り、貴方様のお名前で、御側室やお子様達の御首は、可能な限り御実家の京屋敷か大坂屋敷にお届け致しました」 「手間をかけさせてしもうたな。しかし、ようやってくれた。秀敏は、あらゆる戦において苛烈での、兵糧攻め、水攻め……相手が人だということを完全に忘れているかの様に、酷いやり方を厭わずに勝ちを得る戦いをして参った。因果じゃ。因果応報じゃ」  星空の下、眼下の大坂城は、天守の高欄にも各曲輪の広場にも馬場にも、煌々と火が焚かれ、正に不夜城たる不気味な姿を晒していた。 「今日は冷える、そんな姿では風邪をひくぞ」  将康が背中から抱きしめると、宗冬は小さく頷いた。 「葛は発ったか」 「はい、無事に里へ。途中、まだ三分咲き程でございましたが、桜を見ることができました。私の我儘を聞き届けてくださったこと、心より御礼申し上げます」 「よいよい。機嫌よく帰ってきてくれたのならそれで……というわけでもなさそうだな。葛は、それほど悪いか」 「思わしくはございませぬ。いえ、今まで命を擦り減らして私の為に働き詰めだったのですから、体も壊します。二度と、刀は持たせたくありませぬ」  胸元に回された将康の手を宗冬が握りしめた。ごつごつとした大きな手である。葛の白魚の様な滑らかな手とは違うが、これもまた、優しい手であった。 「とっとと終わらせて、会いに行くがよい」 「はい、必ず」 「明日は早い。喜井谷から大筒が届いたら、まずは弾が切れるまで撃ち込むぞ」  既に大坂城の天守を射程におさめる場所に台場を築き、配置さえすれば良い様になっていた。将康はこの機を待ち続け、何年、何十年と、思い描いては修正しながら、事細かに策を練り、時間をかけて下地を作っていたのだろうことがよく分かる。宗冬が知らぬ間に、策は着々と実を結び続け、その実がまた新たな芽となるのだ。世間が人の血の匂いに辟易するのを待ち侘びた様に、豊海秀敏という生臭すぎて時代に合わなくなった男を、それが歴史の意志であるかのように葬ることができる日を、この男は臥薪嘗胆の思いで待ち続けてきたに違いない。 「大筒を撃ち込んだ後、将康様は野戦に持ち込むおつもりでしょう。しかしこの大軍同士でぶつかり合えば、大坂の街は灰燼に帰すこととなります。民に罪はありませぬ。そしてこれからの大坂は物の流れの中心、滞らせてはこの国全体が干上がってしまいます」 「まぁ、新たに町割をし直すのもよかろう」  将康の手を振りほどき、宗冬はくるりと向き直った。 「野戦の前に、私を一度、大坂城へお遣わしください」 「おい、正気か」  声を裏返すようにして驚き、将康が咳込んだ。 「と、殿、大事ございませぬか」  慌てて背中をさすり、宗冬は寝所の奥から水を入れた椀を持ち出し、将康に飲ませた。 「ら、埒もなき事を申すな」  戦さ場には不似合いな洒脱な漆器を宗冬に戻し、将康は縁台に腰を下ろした。 「何とか、野戦に持ち込む前に降伏していただきたいのです」 「情けは無用ぞ。情けをかけては後に必ず禍根を残す。戦うべき時は戦わねばならぬ」 「分かっております。でもそれは侍の話。これ以上民を泣かせる様なことをしたら、それこそ殿の御治世に障りを生じます」  縁台に座る将康の膝に、宗冬が向き合う様にして跨った。強い意志を秘めながらも、どこか危うく、そしてどこか恥じらう様な何とも言えぬ色めいた瞳に上目遣いに見据えられ、将康は、最早抗えぬと心の中で降参した。 「血染めの天下人の座など、私の将康様には似合いませぬ」  将康は噛みつく様に宗冬の唇を塞ぎ、帷子を剥いだ。  まだ宗近の不遇の嫡子でしかなかった頃は、どう駒として動かすかを考えていた。武将としての能力を見せつけられてからは、どう利用しようかと考えた。どう働かせてどう動かせば、宗冬の力を最大限発揮させて大きな利を得られるか。駒としてこれほど面白い者はいなかった。  しかしいつからか、本当の嵐の真中からは避けておきたい、そう思う様になっていた。  宗近に差し出した嫡子にも、側室腹の息子達にも、これほどの情を持ったことはなかった。娘達とて、手元から離したくないなどと思ったこともない。情は、深ければ深いほど枷となる、そう思っていた筈だった。 「殿……」  女の場所で将康と繋がり、宗冬は愛らしい声を上げた。どうしたら良いか戸惑っていた初めての交わりの時より、その体は大胆に将康を迎える様になっていた。今もこうして、唇を重ねるだけで宗冬の中は蕩けていく。首を仰け反らせながらも、快楽に悶える己を恥じらうかの様に目を伏せて、吐息を漏らす可愛らしい歯で指を噛む。大胆と恥じらいとが絡み合う様に豊かな姿態を見せる宗冬に、将康はどうしようもなく溺れた。  宗冬を側に置いたら、二度と離したくなくなった。常に、この愛らしい声を聞き、真直ぐな心に触れていたい。曇りのない大きな瞳に、狂った様に宗冬を求める自分の情けない姿だけを映していてほしいとさえ思うのだった。 「儂のものじゃ、おまえは儂だけの……」  宗冬がその白い胸板を大きく反らせて哭いた時、将康も宗冬の中で果てた。宗冬も、将康の腹の上に己を弾けさせていた。 「申し訳ございませぬ、殿の、お身体を……すぐに、拭くものを」 「よい、このままで良い。おまえも武将じゃな、これほど熱く昂るとは」  縁台で繋がったまま、将康は宗冬の頭を優しく自分の肩に導いた。その逞しい肩に気持よさそうに顔を埋め、宗冬はやがて可愛らしい寝息を立て始めた。頸に届く安らかな吐息を、将康は宗冬を抱きしめたままいつまでも堪能していた。  大坂城内では早朝から、宗孝を迎えた明野が上座に居座り、そこに居らぬ秀敏の意思と称して勝手な采配を振るっており、指示系統はとうに崩壊していた。 「殿下、明野の方をお退け下さい。主家筋じゃと称して宗孝を祭り上げ、軍議にまで首を挟む始末。これでは豊海の恩顧の武将達すら離れていってしまい申す」  高欄に立ち、秀敏はぼんやりと城下を見下ろしていた。街にあちらこちらに、煙を上げている大筒がこちらに口を向けて装備されているのが見える。 「何故、撃って出ぬ。このままでは奴の思うツボぞ」  正気なのか呆けているのか、判断つきかねるような秀敏の言葉に、龍成は苛立ちを抑えられなかった。 「明野めが籠城などと触れを出すから、野戦に持ち込むべく陣容を決めていたのに、士気が下がって兵が動かぬ様になってしまった! 親父殿、何とか言ってくれ! 」  つい、拾われた頃の様に秀敏を呼び、大声を出してしまった後、龍成は地団駄を踏むだけ踏んで、何とか己の怒りを鎮めた。そんな彼の必死に感情を律しようとする姿を、秀敏は笑いながら見つめていた。 「おまえは昔からそうじゃの。ええんじゃ、怒りたい時は怒れ。ええんじゃ、ええんじゃ、明野のババァにも遠慮のう怒鳴ってやれ」 「良いのですか」 「気位だけの、頭の空っぽな哀れな女じゃ。宗孝とて、既に織田島の血筋など何の役にも立たん。上座から引き摺り下ろせ。総大将は、他ならぬおまえじゃ。お前がええんじゃ」 「でしたら、何であんな女に情けを。おかか様がありながら」 「おかかのようなできた女もいれば、明野の様に、男を体で繋ぎとめる事でしか生きてゆけぬ女もおる。おまえにはちと早いかのう」 「早いとは……私はもう、三十も半ばにございますれば」  すると、少し焦点の合わぬ両目を見開いて、龍成を振り仰いだ。 「いつのまに二吉はそんなに大きゅうなったんじゃ。そうか、そうか、大きゅうなったのう、賢うなったのう。おまえは四書五経もあっという間に諳んじた天才じゃった」  よしよしと、自分より遥かに背が高くなった龍成を、秀敏は慈しむ様に撫でた。この慈愛を向けてくれた思い出があったからこそ、ここまで秀敏に付いてきたのだ。実の親に縁がなく、拾われて育ててもらった他の子飼とて、同じ様に慈愛を注がれた記憶がある筈だ。  龍成は泣いた。人目も憚らず、秀敏の手の温もりを感じながら泣いた。  本丸御殿の軍議の場で、浪人達は口々に様々な策を献じたが、どれも自分がどう手柄を上げるかの視点にしか立っておらず、食指も動かぬ様な駄策ばかりであった。宗孝はただぼんやりとそんな大人達の醜い言い合いを聞いていたが、乱暴な足音を立てて入ってきた龍成の姿を見つけるなり、上座から立ち上がった。 「これ、笹尾丸」  つい明野が宗孝の幼名を口にした。これまで息子を自分が生き延びるための道具程度にしか思っていなかった母の、これ見よがしな母性の顕示が、悲しかった。 「龍成殿、ここへ」  龍成は、喧々囂々の坩堝を突っ切る様に真直ぐに上座を目指して進み出た。 「ここはお主が座るべき場所じゃ」 「待ちゃ! 」  思わず明野が袴の裾に取り縋ろうとして倒れ込んだ。崩れた裾から肉付きの良い脹脛が晒され、その場の男達の視線を釘付けにした。  思わぬ効果で静まり返った軍議の上座に、龍成は戸惑いもせずに腰を下ろした。 「方々、軍議を始める。まずは敵の陣容を承知しておいて頂きたい。その上で献策あれば聞こう。但し、この城は堅固ではあるが籠城するには所帯が大きすぎる。かと言って完全な野戦では、意思の疎通が未熟なこの兵力では難しい。そこで、城の外堀を防衛線として、この起伏を用いて敵を引きつけ、城の防備を利用して敵を叩く。大筒、鉄砲、弓、その他武器に精通する部隊があれば、申し出て頂きたい」  本当は溜息を吐きたいほどであった。鉄砲隊、弓隊も、豊海子飼の兵はせいぜい警備程度にしか残っていないのだ。主力は全て福島正敏らが連れていってしまった。それもその筈で、鉄砲隊を鍛えて育てたのは正敏であるし、剛弓の名手として知られているのは他でもない清隆である。こうなれば金に物を言わせて揃えるしかないと思いきや、堺の武器商は全て奥川方であり、商談に応じる者とてなかった。当然である。秀嗣はかつて鉄砲を買い入れたものの、思う様な効果がないと立腹し、支払いをごねて堺と争った経緯がある。  秀敏自身、金で言うことを聞かせるかの様に茶器を買い漁り、恩賞の代わりにバラ撒いては顰蹙を買っていた。唯一堺と友好関係にあった秀貞はもういない。  まるで裸の城だ。勝手なことばかり言い募る連中の無為な議論をどこか別の世界の事の様に眺めながら、龍成は悟った。仕舞い方を考えねば、と。  それまで黙っていた明野が立ち上がり、何事かを叫ぼうとした時であった。  轟音と共に、大広間の真ん中が横手からの爆風に抉られた。座していた浪人達は大勢吹き飛ばされ、襖や柱に混じって人間の体の一部が飛び散っていた。何があったのか判然とせぬうちに、立ち続けに爆音が轟き、大広間はやがて屋根を失った。  本丸曲輪を狙える場所に配備された二箇所の砲台から、奥川軍が前触れもなく、見事な連携で大筒を撃ち込んできたのであった。  混乱したまま、明野は何とか宗孝の手を引き、龍成に引き摺られるままに逃げ惑うが、爆音はまるで追いかけてくるかのようであり、振り向いた時には本丸御殿の約半分がごっそりと無くなってしまっていた。 「な、何なのじゃ」 「奥川の大筒だ、北からの砲撃ゆえ表御殿には届かぬ筈、早う行けい」  本丸御殿の長局から駆けつけてきた別式女に明野と宗孝を預け、龍成は逃げ延びてきた浪人達に砲台の場所を正確に掴む様指示をした。  しかし、その表御殿にも大筒は撃ちこまれた。ただし、破壊するというより、まるで轟音で脅しをかけるだけの様に、建物から離れた曲輪の外壁だけを破壊したのだった。  奥御殿で寝転がっていた秀敏も流石に起き上がり、しがみつく女達を突き放す様にして龍成の元に駆けてきた。 「どこから撃ってきておる」 「北は寝屋川の中州、備前島付近、東は猫間川沿岸かと」 「何じゃと、惣構(そうがまえ)まで押し出されておるのか、一体何をしとる」 「大筒があっても撃ち手が足りず、守備方の統率が取れておりませぬ」 「今は脅しじゃが、次は天守を落としにくる。特に備前島じゃ。今のうちに叩けるか」 「宇梶家秀(うかじいえひで)に騎馬を任せ、出しました。後詰に秀明(ひであき)殿をつけております」 「よし。真名田(まなだ)の小倅はどうしておる」 「まとまらぬ浪人どもを連れて、出城を築いておる様子」 「一旦止まらせよ。和議となる前に猫間川の砲台を叩かせるが良い」 「しかし、真名田が出陣いたしますと、城詰の守りが弱くなります」  秀敏はここで爪を噛んだ。答えが出るかと思いきや、ここで秀敏の思考は止まってしまったのか、目の焦点が途端にぼやけてしまった。ここのところ、この境目が目まぐるしく、正気でいられる時間が短くなってきている様に感じた。 「親父殿、親父殿」  肩を揺さぶると、秀敏は虫歯だらけの歯を見せてにっこりと笑った。 「で、毛利はどうしておる」  唐突に焦点が戻った。だが、龍成ももうこんな変化には慣れきっていた。 「はい、間も無く分家の吉野軍と合わせて二万程、奥川の背後に布陣の由」 「それはなかろう。おそろく木津川は越えて来んよ」 「しかし、本能寺の折の停戦の約定では、豊海に助力して奥川を討つと……」 「ギリギリのところで見限り、後々奥川に恩を売る線を残しておくだろうて」  しかし分家の小笹川(こざさがわ)家には寧子の兄の子、秀明がいる、と言いかけて龍成は言葉を飲み込んだ。秀明は今城内にいるが、献策するわけでも軍の編成をするわけでもない。大凡役に立たぬであろうことが判る故、小笹川家は諸手を挙げてこの秀明だけを雀の涙ほどの兵を持たせて入城させたのだ。タダ飯ぐらいも良いところだと愚痴をこぼしたところ、それを聞いた宇梶家秀が、砲台叩きくらいはさせてやろうと襲撃に連れ出すことを提案してくれたのだった。  豊海の血筋は、秀敏方も寧子方も、およそまともな人材がいない。秀貞や義長にもっと働ける年齢の息子がいたらまだましであろうが、秀貞には子がなく、義長のところはまだ幼い。こうも人材不足とは、豊海の人間はよほど前世で徳を積まなかったのかと、悪口の一つも叩きたくなる程であった。  そうこうするうちに、明野が悲鳴を上げて駆け込んできた。 「和議じゃ、和議を申し入れよ! 」  そして秀敏を見るなり抱きついて喚き散らすが、その足元に水たまりが出来上がったのを見た途端、顔を顰めて飛び退いた。 「これじゃから、わらわが女だてらに指揮を執らねばならぬのじゃ」  舌打ちしかねない程にうんざりしている龍成に向かい、明野は豊満な胸をこれ見よがしに張り出して大音声で命じた。 「和議を整えよ! 」  すると、秀敏がその横っ面を蹴り飛ばした。 「今ではにゃーだわ、阿呆」  無様に弾き飛ばされた明野が秀敏を睨みつけた瞬間、再び轟音が響き渡り、明野が再び悲鳴をあげた。苛立つ秀敏はとうとう、明野の体をこれでもかと蹴りつけ、失神させてしまった。 「殿下、お鎮まりを」  蹴り殺してしまいそうな程に高ぶる秀敏を羽交い締めにした時、宗孝が母を追って駆け込んできた。瞬時に様子を悟った宗孝は、震える手で刀を抜いていた。 「お、おのれ、母に何をするか秀敏、おまえの子を孕んでおるのだぞ」  十重二十重に面倒事を引き起こす明野親子に、流石の龍成も堪忍袋の緒が切れた。 「堪えよ、龍成」  刀の柄に手をかけた瞬間、龍成は無二の友の制止の声を聞いた。宗孝を軽く突き飛ばす様にして立ちはだかったのは、龍成と同年の古谷敏継であった。病を得て頭巾を被っているこの男も、若い頃に秀敏の薫陶を受けた一人である。 「来てくれたのか。待ちかねたぞ」  病の為に参陣が遅れていることは龍成も承知していた。むしろ、共に戦うことは難しいかもしれぬと諦めかけていたところでもあった。  固く握り締めた敏継の手は熱を帯びていた。やはり、体調は思わしくはないのだろう。 「おまえの苦労は、どうも想像以上だったようだ」  目出し頭巾の下から龍成に笑いかけながら、敏継は背後にぼんやりと立つ宗孝の頰を手の甲で打った。唇の端から血を流して倒れた宗孝は、情けない声で泣いた。 「殿下、豊海は天下の内大臣家、織田島の小倅がいつまで軍議の上座におるのですか」  しかし、秀敏はへらへらと笑うだけで、再び失禁をしていた。 「このところ、お気が反れる時間が多くなられておる」 「そうか。わかった」  短くそれだけ答え、全てを理解したように頷きながら敏継は龍成の肩を叩いた。 「行って参る」  間も無く古谷敏継の軍は、猫間川沿いの奥川軍の砲台を叩くが、奥羽諸侯の伏兵に逃げ道を塞がれ、将康の六男・将輝(まさてる)と一貴が指揮する飯盛城の本隊に正面から叩かれ、敢え無く散っていったのであった。しかしながら僅かばかり、大砲の音が止み、奥御殿の女達は漸く眠ることが許された。  精鋭の古谷軍が猫間川の砲台を襲撃すると知った真名田軍は、呼吸を合わせる様に茶臼山を見上げる地に築いていた防塁を出て攻め込んできた。真名田軍は予め茶臼山に伏兵を仕込んでおり、奥川方は背後も突かれて一時大混乱に陥った。本陣深くに入り込まれて将康の身があわやというところで、政虎が鉄砲隊を立て直し、真名田の主力を挫いた。  信濃の望月忍が伏兵と見た宗冬が藤森衆を指揮して根気よく潰して行く間に、清重と勝重の騎馬隊が、主力を欠いた真名田の防塁を完膚なきまでに叩き潰した。  宇梶軍は、備前島の砲台を見事に破壊したものの、逃げる奥川兵を深追いした秀明を追いかけ、共に奥川の策に嵌り、挟撃を受けてしまった。秀明を逃すべく、家秀は奥川の追捕の兵の前に立ち塞がり、やがて姿を見せた水山軍と真っ向勝負をするものの、軍備の差は歴然であり、敢え無く秀家は討ち死にをし、秀明だけが僅かな手勢と共に城に戻ったのであった。水山軍はそのまま備前島に陣を移し、新たに砲台を築いた。これも将康から授けられた策に則ったものである。  ほんの短時間の戦いで、豊海は貴重な名将を三人、相次いで失ったのであった。  僅かばかり残っていた有力武将を失った大坂城に、将康は仕入れた弾を全て使い果たす程の量の大筒を撃ち込ませた。  とうとう、要領を得ぬ秀敏を差し置き、耐えかねた明野が和議を決めてしまった。  浪人共は、報奨をよこせと喚くばかりで一向に統率は取れなかった。三人の名将を失って、どこか抗う糸が切れてしまったような思いの龍成は、最早献ずべき策とて失っていた。  明野と、宗孝の乳母と取巻き達は、大筒で破壊された本丸御殿の南、まだ体裁が残っている表御殿の御対面所に席を設け、和議の使者を迎えることとした。明野側からは、和議を整える使者として入城するのは女のみ、という条件がついたが、奥川方はそれを快諾した。  同時に、龍成にも投降せよとの石川一貴からの接触もあった。一貴は、気性の似た龍成の状況に同情し、奥川の元で、先の世のためにその類稀な能力を発揮すべきだと、一貴にしては熱く解いた。ほんの僅かばかりの一時を秀敏の元で過ごしただけであったが、一貴は龍成の器量は次の世にこそ役立てるべきだと考えていたのである。  一貴からの使者には、 『御厚情に衷心より感謝申し上げる、しかしこれもまた、男の一分である』  とだけ、返答を伝えた。それだけで、一貴なら龍成がどんな決意を秘めているか解るはずであった。  二日後、大坂城の大手門の前に、尼僧が一人、立っていた。  奥川方から、和議の使者として将康の遠縁にあたる尼僧を遣わすとの返答があり、約定の刻限に織田島宗孝が大手門まで迎えに出ると、果たして、尼僧がたった一人、開門を待っていたのであった。  尼僧にしては背が高く、体つきがしっかりしているように見えるが、頭巾に覆われた顔はとても小振りで、顔立ちも可憐である。将康はこういう女が好みなのかと、宗孝の近習達はじろじろと尼僧を睨め付けた。 「御名を承る」 「冬、と。明野様とご対面が叶いましたら、改めて名乗りましょう程に」 「無礼な、こちらを謀るつもりかと勘ぐられても致し方ないことにござるぞ」  抑揚のない若い声で、宗孝は然程緊張感もなくそう言った。本人も何をやらされているのか、もう分かっていないのかもしれない。実際何の役にも立たず、傀儡にもなれず、このような近習が務めるべき役までやらされているのであろう……尼僧はじっと、この目を伏せたままの若者の所作を見守っていた。  やがて宗孝は、尼僧を後ろ手に拘束しようとした。 「待て待て、使者を縄目にしては交渉事が捗らぬ。こういう時は、礼を尽くして技量を見せ、自軍の余裕の無さを晒してはならぬ」  もたもたと縄を結ぼうとする宗孝に、尼僧が耳元で囁いた。その声ははっきりと男のものであり、宗孝は思わず気色ばんだ。 「兄弟ながら、会うのは初めてじゃの。宗冬じゃ」  その言葉に、宗孝は縄を取り落とした。 「あに……! 」  手が自由になった宗冬が、咄嗟に宗孝の手の甲を抓って言葉を遮った。 「これ以上無辜の血を流さぬためにも、力を貸すのじゃ、良いな。お前のことも、何とか助けてやりたい」  宗孝は涙が込み上げるのを拳を握りしめてぐっと堪え、尼僧の前に歩み出た。 「案内仕りまする」  馬場や櫓の此処其処から、二人の動向をしっかりと監視する目がある。尼僧の正体も、宗孝の一挙手一投足も、全てがどこかに報告されることになっているのであろう。  大手門から本丸への通用門である桜門まで、緩やかな坂道の両脇には見事な桜の木々が並んでおり、可憐な花を咲かせていた。思わず立ち止まった宗冬の体の中から、ふと懐かしい匂いが立ち上った。  葛がいつもつけていた匂い袋である。この時期の桜を思わせるような淡い香りで、宗冬が葛を思い出す時、常にこの香りが記憶の中にあった。  僧衣の中に着込んでいる小袖の帯に、二刀を手挟んでいる。その刀の下げ緒に、宗冬はその匂い袋を結んでいたのであった。あの伏見の花見の後、別れ際に葛が落としたものをそのまま持ち帰ったのであった。  葛がいる、葛と共にある、そう確信し、宗冬は両手を広げて眼前に咲き誇る桜並木の芳香を体いっぱいに吸い込んだ。 「このようなところで、桜を堪能できるとは。嬉しいのう」 「この状況で堪能できる者など、この世に一人もおりませんよ」  こんな緊縛した時によくも花を愛でられるものだと、宗孝は足を止めて魅入っている兄の器量、度量に、改めて感服していた。これこそ、かの織田島宗冬である。 「ゆるりと参ろう、宗孝殿」  この兄と自分とでは、土台からして器量が違う。父が厭い、一方で畏れ、一方で愛したのがこの兄なのだ。  兄弟は、物見遊山のように桜門までをゆるりと進んだ。  桜門手前の土橋を渡ると、宗冬は束の間の幻想の世界から引きずり戻された。門の向こうには、砲撃で破壊された無残な天守の姿が見えた。同時に、強烈な殺気が投げつけられてくるようになり、やはりここは戦場なのだと、手が自然に刀の柄を僧衣の上から握りしめていた。 「おい、あれは織田島宗冬じゃぞ! 奥川め、女を寄越すと約定しながら、やはり謀ったわ、斬れ、首を上げれば城一つの名誉ぞ! 」 「宗冬じゃと」  どこぞの戦場で自分の顔を見知っていた奴がいたのか……刀を抜いて取り囲む近習達の前で、宗冬は観念して僧衣を脱ぎ捨て、手挟んでいた兼定を抜いた。 「まずいぞ、兄上」 「約定は破ってはおらん」  桜門の両脇にある多聞櫓から横矢が射かけられ、脱ぎ捨てた僧衣で飛来する矢を叩き落としながら、宗冬は宗孝を庇うように一緒に桜門に飛び込んだ。 「無礼な、豊海家の主筋である織田島宗孝を射殺す気か! 」  しかし、多聞櫓からは歩兵が刀を持って走り寄るなり、宗冬の制止も聞かずに二人を取り囲んだ。意思伝達が行き渡っていないこと、士気がまるで落ちていること、統率がまともに取れていないこと、これだけを以ってしても、豊海の城兵に最早勝機がないことは明らかであった。  横から突き出された槍を脇でしっかり挟み込み、持ち主を蹴り飛ばして槍を奪うと、兼定を宗孝に握らせた。 「味方だと思うな。自分に刃を向ける奴は敵ぞ」  とはいえ、その構えは腰が引けていて、戦さ場を経験していないことは明白であった。  宗冬はなるべく軽症で済むように手首や足の腱を狙って槍を薙ぎ、血路を拓いた。流石に近習達は宗孝に刃を向けるわけにもいかず、おろおろと囲みながら共に進むしかなかった。宗冬が手にしていた槍が血脂で役に立たなくなる頃、漸く表御殿に辿り着き、中から派手な小袖に身を包んだ秀敏が現れた。  流石に、それまでの矢の雨がぴたりと止み、兵は武器を背中に隠して一様に平伏した。 「一別以来じゃのう」 「これは殿下。奥川からの使者として罷り越しました」 「約定破りの何のと騒いでおったようじゃが」 「何のことはございませぬ。このような姿でございます故、女人ではないと、まぁ、あらぬ誤解を」 「あらぬ誤解……あらぬ誤解よのう。そうじゃそうじゃ、将康は約定を違えてはおらぬわ」  また呆けたことを言っているのかと思いきや、秀敏が鋭い一瞥を家臣団に投げつけるのを見て、一同は震え上がった。  しかし後から出てきた龍成は、目を釣り上げて宗冬を制止した。 「やはり奥川は約定を守る気が無かったと見える。これでは宗冬殿の首を取って送り返してもこちらに非はござらぬ」  刀を抜こうとする龍成の手に、宗冬が素早く間合いを詰め、手を重ねて制止した。 「ですから、約定破りではございませぬ。私はそのう……将康様の側室でもありますし」 「何を……」  少し照れたように目を伏せて明らかにした宗冬の身分に、秀敏も驚いてみせた。 「やはり将康め、ちゃっかり手をつけよったか」  秀敏が宗冬の手を取り、いやらしく手の甲を撫で回した。こうして近付くと、秀敏の全身から不浄の臭いがする。着物には香を焚き込めているものの、排泄物の臭いは隠しようがない。こうして話していると信じられないが、やはり相当、正気を保つのが難しくなっているのだろう事は察しがついた。  宗冬は臭いのことはおくびにも出さず、秀敏に手を握られるままに和議の席へと案内されていった。通されたのは、かろうじて被弾を免れた表御殿の千畳敷と呼ばれる広間であり、敷物も屏風も逸品で揃えられ、美々しく整えられていた。  不機嫌な様子で座している明野の横に宗孝が座り、向かい合う席に座した宗冬の隣には、秀敏がぴたりと寄り添うように座った。咄嗟に、下座に控えていた龍成が引き離そうとするが、宗冬がそのままで良いと承諾をして、秀敏の好きにさせることとした。 「ご無沙汰いたしております、義母上」 「白々しい。さんざんわらわ達を(ないがし)ろにしておきながら」 「父のことは、貴方様にはさぞご不快であったと存じます。宗孝を抱え、ようここまで生き延びて下された」 「おまえに言われる筋合いではないわ。女をよこせと言うたのに、いけしゃあしゃあと」 「ですから、約定破りではございません。その事は殿下がご存知です」  ねぇ、と促すと、秀敏は子供のようにはしゃいで宗冬にしがみつき、これは女じゃ女じゃと歓声を上げた。困ったような顔をしつつも、 「ということです。将康様の名誉の為に申しておきますが、私、男でもありますが、女でもあります。子も、或いは産めるやもしれませぬ。あ、厳密には半分ですね、約定通りなのは。でもこうして単身で乗り込んできたのですから、大目に見てやってください」  と、宗冬は笑顔で言い添えた。 「謀るのも良い加減におし! 」 「我が父がなぜ、嫡子である私を厭うて他家へ人質に出したか、貴女ならご存知の筈」  古い記憶を思い起こすように明野が目を伏せ、やがてハッと顔を上げた。 「月を抱く子……殿の色小姓達が私に媚びる為の噂話かと」 「よろしうござる。では、始めましょう。まずはこちらの条件にござる」  将康が約定を違えておらぬことさえ確認できればそれで良いと、宗冬はまだ知りたげに何かを問おうとする明野を無視し、さっさと和議の条件を提示した。    豪奢な天守の最上階の高欄から、宗冬は飽く事なく桜を眺めていた。 「驚きましたな。半分とはいえ、その、約定通りとは……」  背後から、龍成が酒徳利を手に声をかけてきた。今頃は表御殿で侃々諤々の議論が繰り返されている筈なのだが、この男はその場に顔を出すつもりはないようであった。 「ええ、半分とはいえ、約定通りなのです」 「で、その……奥川殿の側室、というのは」 「それも、真です」 「あの伝説の織田島宗冬ですぞ! 何という……ま、まぁ、立ったままでござるが、一献」  笑いながら宗冬は湯呑みを受け取るが、注がれた酒を口にする前に龍成を上目遣いにじっと見つめた。殺傷力の強いその愛らしい表情に、龍成は不覚にも一瞬目眩を覚えた。 「ど、毒を盛るなど卑怯な真似はせぬ……何という顔をされるのだ、全く」  ムキになって否定する龍成の肩を叩き、宗冬は磊落に笑った。 「お許しを。貴方にしては意外だったものですから。でも良いのですか、酒など飲んで」 「外堀を埋め、浪人共を放逐し、約定の人質として宗孝を茶臼山に差し出す……議論の余地はない。他にあの大筒を止められる方策があるのなら、とうに貴方を斬って捨てている」 「おやおや」  徳利を龍成から受け取り、宗冬も龍成の湯呑みに注ぎ入れた。つい勢い余って零れてしまった酒を、龍成が慌てて口を尖らせて拭った。そんな仕草は、鉄面皮などという異名とは相入れない。本来はこうした男だったのだろうと、宗冬は笑った。 「殿下のご様子、ちょっと驚きました」 「殿下が貴方の代わりに葛殿に懸想して、あっという間に籠絡されてあの有様でござるよ。貴方もだが、あの御仁も美し過ぎて怜悧で人を食ったところもあって底が知れぬ……あ、いや、むしろ良かったのだ。葛殿が殿下の側室となるのがあと一年遅かったら、我らは朝鮮に攻め込まされ、かの地で骸を晒さねばならなかったやも知れぬのだから」 「肥前名護屋か。朝鮮に渡る前哨基地として殿下が築城を推し進めていたと……何とのう、わかりました。子飼の武将達がこうもあっさり殿下を見限った理由が」 「焦っておられたのだ。豊海一族はとにかく後継不足、家臣団の結束を強化するためにも褒美となる土地が要る。だが、最早新しく差し出せる土地がこの国には無い」  風に煽られ、桜の花弁がこの天守の高欄にまで舞い上がってきた。ひらりと湯呑みの中に舞い落ちたその桜色の花弁ごと、宗冬は酒を飲み干した。 「公家の血とは、そういうものなのですな。こんな敵の城で桜を愛でるなど」 「隣にいらっしゃい、あなたも愛でると良い」  くすりと笑い、龍成も高欄に並んで桜を見下ろした。思い起こしてみれば、こんな風に桜を見た記憶など、一度もないような気がする。いつでも気を張り、目を配り……己が息を吐く為の時間を作るなど、考えの外であった。 「そういえば、貴方が岐阜で奪った鞠姫は、無事に最上に戻られたそうですな。一貴殿から聞き申した。ただお一人でも、お救いできてようござった。心から礼を申し上げる」 「あの時貴方が見ぬふりをして下さったお陰ではありませぬか」 「そう秀貞様に命じられておった故……あの方が今少しお元気でいて下されたら」  冷徹だの鉄面皮だのが売りの龍成にしては、たら、れば、が多い。愚痴を言うことも、三十路になる今日まで全くと言って良いほど無かったのであろうことは察しがつく。  しばし無言で酒を注ぎ合っていたが、不意に近習が階段の下方から龍成に声をかけてきた。表御殿で秀敏が粗相をし、明野が途方に暮れていると言うのだ。 「思いがけず、良き時間となり申した。口上がまとまるまで、暫しこちらでお待ちを」  戻ろうとする龍成の腕を掴み、宗冬はその湯呑みに再び酒を注いだ。 「貴方でのうても、世話をする者は幾らでもいる」 「いや、しかし、宗冬殿」 「聞いてくれ、龍成殿。野戦となれば豊海は必ず落ちる。最早一大名として生き残る道も絶たれておる。今のうちに、奥川へ参られぬか。龍成殿の力は、この先の政にこそ生かされるべきなのだ。これからの国の為に、力を尽くす道を考えてはくれまいか! 」  真直ぐに宗冬の漆黒の瞳で射抜かれ、龍成は目を逸らすこともできずに言葉を失うが、やがて口元を歪ませ、その震えを悟られぬように酒を煽った。 「……やはり、できませぬか。それもまた、貴方らしい」  涙を堪え、龍成は苦笑いをして頷いた。 「殿下のお側を離れるつもりがないと申されるのなら、全力で貴方を叩きに参ります。それが、半分だけ男の……武将としての、貴方への餞です」 「それは嬉しや、末代までの誉れとなろう」  湯呑みを懐に収めると、龍成は深々と頭を下げ、駆け下りていった。                                            
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