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18.老桜
18. 老桜
桜の開花が間近な季節にしては底冷えのする早朝、東山の高台寺に、将康は寧子を訪ねていた。
「ようお越しくだされました」
「一別以来、無沙汰をお許しくだされ」
「何の何の。いつも季節の折々に細やかなお気遣いを頂いております。正敏も清隆も、ようして頂いており、感謝申し上げなくてはならぬのはこちらの方でございます」
夫の菩提を弔うため、寧子はここに庵を結び、読経の日々を過ごしていた。
通された書斎から庭を眺めれば、素朴だが変化に富んだ枯山水を楽しむことができた。
「そういえば、将康様」
この書斎の端には囲炉裏が切ってあり、寧子は自然な所作で茶を点て、将康に差し出した。すっかり白いものが増えたお互いの顔をつい見合わせ、二人は同時に笑った。
「嫌ですよ、私も歳をとりました」
「私も、すっかり爺いになりました」
「いえいえ、側室方をお一人とて手放さず、つい先月もお子を授かられたとか。お顔の色艶が違いまする」
「いや、最早何とも……恥ずかしうござるな」
将康は茶を口に含み、そのほろ苦さを堪能した。
「して、何か言いかけられましたな」
「ええと……歳はとりたくありませんね。ええと……あ、このような大事なことを忘れるだなんて」
寧子はさっと立ち上がり、手文庫の中から錆色に染まる端切れを取り出し、将康の前で広げて見せた。
「何だかわかりますか」
「い、いや……これは、血ですかな」
「その通りです。勿論、洗ってありますが、血は、そうは落ちませぬゆえ」
将康は手に取ってみて、それが何かの片袖だと知った。そして、血に染まる片袖と言えば何を意味するか……歴戦の武将だけに瞬時にそれが何を包んでいたかを悟った。
「これをどこで」
「この高台寺の門前にござります。あの大坂落城の数日後、首が、丁寧に塩漬けにされた状態で首桶に収まっておりました。この小袖は元々は首を包んでいたものでしょうが、何某かの手掛かりになるようにと気配りをしてくれたものか、その首桶に収まっておりました。お陰様で、浮腫んで顔が変わってしまっておりましたが、龍成のものと確信できました。何しろ、私が手ずから縫って誂えた直垂にございましたから」
「寧子様の思いを抱いて、逝かれたのか……龍成ですと、まさか、本当に」
寧子は膝の上で合掌し、瞑目した。
「我が子、岩佐龍成の御首に間違いございませぬ」
「何と。いや、宗冬の手にかかり、共にあの望楼の爆破で吹き飛んだものと……」
目を開いた寧子は、一筋の涙をこぼした。
「あの子は、最後まであの主人の側にいてくれました。もしかしたら、最期を看取り、その手で引導を渡してくれたやもしれませぬ。貴方様が届けて下された主人の首を、私は菩提寺とは別にこの境内の供養塔に収めました。その供養塔の隣に、私はあの子の墓を建てました。何せあの折、既にあの子の大坂屋敷でも佐和山城にても、妻子家臣諸共自刃をして果て、あの子を弔ってやれる者とてなかったのでございます」
壮絶な岩佐家の最後については、後に検分をした清重からも聞いていた。奥川軍で荼毘に付し、懇ろに弔って墓碑を建てたのであった。
「でも、将康様はあの子の家族を丁重に……有難う存じます。ただ、私はもう、あの子が愛しくて、主人の隣に眠らせてやりたくて……」
「よう、ようわかります」
将康は寧子の背をさすった。お互い、戦乱の混乱期を命からがら生き延びてきたのである、時に敵となり、味方となろうが、とどのつまりは人同士でしかないのである。
「あらやだ、何年も前のことを私ったら……歳はとりたくありませんね」
懐紙で涙を拭い、寧子は無理に笑って見せた。
「宗冬様のことです」
そこじゃ、そこを知りたいとばかりに身を乗り出す将康に、寧子は頷いた。
「近所の者の話では、龍成を当庵に置いていったのは、旅の尼御前の風体をした者だったようです。頭巾が風に煽られた時、それはそれはもう美しい横顔が垣間見えたとかで」
「宗冬、いや、葛か」
「ええ。宗冬様が龍成の首を抱いて生き延びてくれたとしたら、葛が宗冬様を見つけて手当てをするなり匿っているとしたら……私は何としても、礼を申さねばなりません」
ああ、と将康は嘆息した。
「生きておりましょう、あやつはきっと、生きておりましょう」
今度は寧子が、将康の丸くなって震える背中をさすってやった。
「男の方は仕方ありませんね。まるで少年のように夢中におなり遊ばして」
「儂はあれが、可愛いのです、可愛ゆくて仕方がないのです」
政康が人目も憚らず泣いた。
「爺の盲愛と、お笑いくだされ」
「誰が笑うものですか。私もあれ以来、気に留めておるのです。何か分かりましたら、すぐに、すぐに知らせを出しますゆえ、ね、将康様」
その後、積もる話に花を咲かせ、辞した時には昼時を過ぎていた。
この東山には茶々屋四郎兵衛の店がある。坂を降りて六波羅蜜寺の方角に向かって歩けば指呼の間である。京屋敷に先触れに走っている三人も、そろそろ茶々屋に戻って羽を伸ばしている頃である。屋敷では、流石に要職の三人は昼酒昼寝とはいかぬようで、将康共々、茶々屋での逗留を望んでいた。ならばもう少し羽を伸ばさせてやるかと、将康は二年坂、三年坂と歩き継ぎ、清水寺を参詣することとした。
坂の多い石畳の道を、手を擦り合わせながら背を丸めて歩く姿は、ただの隠居にしか見えない。将康は旅の時はこうして軽装に徹し、自分が何者であるかを自分自身が忘れるかのように過ごすのが好みであった。かえって危ないと、真面目な一貴あたりは目を三角にするのだが、腐っても戦国武将である、その辺りの盗賊に遅れを取るはずもない、との自負もあった。
旅人で賑わう門前の坂には、汁粉を食べさせる出店もあり、将康は冷えた体を温め、また途中で甘酒を堪能し、ゆるゆると歩を進めていた。
あの荒廃した京からは想像もつかぬほどの賑わいである。商いに精を出す市井の人々には活気があり、春の陽光も手伝って、晴れ晴れと手足を寛げるようにして歩けるのだ。戦乱の世では考え付かぬことであった。
しかし、やはりこの平穏な時流に乗れぬ者というのはどこにでもいるようである。
明らかに食い詰め浪人と思しき男たちが、まるで狼のように群れをなし、境内へと歩いていくのが見えた。途中で女子供と肩がぶつかろうが、御構い無しである。そしてその彼らの視線の先には、丁度坂の上の境内に辿り着いた女の後ろ姿があった。
「いかんな」
好奇心も手伝い、将康は浪人たちの後を追った。坂で食べ歩きを楽しむ町の者たちが慌てて左右に避けて道を開ける程に、彼らは薄汚れ、邪気に満ちている。八人、いや九人か、中々の人数であり、全員が暴れ出したら大変なこととなろう。
案の定、将康が境内に辿り着いた時、女は既に浪人たちに囲まれていた。
手拭いで頰被りをし、その端を口で軽く食む様は何とも婀娜っぽい。確かに坂を登る腰つきも柔らかく、しなしなと細い歩幅で歩くたびに背中に下された長い髪が揺れ、男達を煽情していたのは確かである。但し本人に自覚はないのだろう。蓋のついた水桶を抱え、身を震わせていた。
「おい、狼達が女を囲んでいるぜ」
「またかい。ここんとこ、ああいう手合いが多いんだよ。まさか清水さんのこんな罰当たりなところで狼藉しようとはね、どこまで飢えているんだい」
男の一人が女に手を伸ばし、遠巻きに見つめていた見物衆から悲鳴が起こった。女は桶を守るようにして背を向けるが、反対側に回り込んでいた別の浪人に肩を掴まれてしまった。女はその手を振りほどくと、囲みの真ん中に後退った。男達がじりじりと間合いを詰めていく。
将康が思わず脇差の柄に手をかけると、その手をいつの間にか背後に立っていた隻眼の大男に止められた。
「おまえ……」
軽く頭を下げたのは、藤森碤三であった。
「ではあれは……」
風が吹き、女が食んでいた手拭いがひらりと空に舞い上がった。想像以上の、いや神がかった美しさに、浪人達が身震いをさせて興奮の咆哮を上げた。そして一斉に飛びかかろうと手を伸ばした途端、女は対角線上に右、左と蹴りを見舞い、飛び上がりざま別の浪人の後頭部を足蹴にして後方に片手で蜻蛉を切り、刀を抜こうとした男の鐺を手で押し返しがてら喉元に頭突きを食らわせ、その男から奪った刀を峰に返すと、あっという間に残りの5人の肩やら鳩尾やら頚部やら、早業の如く叩きつけて全員を地面に転がした。
これはもう、見物客はやんややんやの大喝采である。我に返った女は、一転して頰を赤らめ、顔を伏せるようにして手桶を抱えたまま本堂へと駆けて行ってしまった。
「すっかり元通りじゃの、葛は」
「いえ、あれでも五分の戻りというところ。玄人相手では通用いたしませぬ」
いや、元は戦さ場に立っておった筈の浪人もある意味玄人だと思うが……との言葉を飲み込み、隻眼の男・藤森碤三の案内に従い、将康は女・葛の後を追った。
葛は真っ直ぐに湧水の滝へと向かい、手桶をかざしてその水を汲んでいた。
「葛」
碤三が声をかけると、葛は少し水がかかって濡れた顔をこちらに向けた。まるで歳を取ることを忘れているかのような瑞々しい美貌である。しかし、碤三の隣にいる人物を見るなり、その濡れて色気を孕んだ顔を強張らせて、葛は膝をついた。
「いや、楽にせよ。久しいの、葛。久々に胸のすく思いがしたわい」
助けを乞うように碤三を上目遣いに見据える葛に、碤三は笑いながら頷いた。
「さっきの大立ち回り、殿は全て御覧になっておられた」
「まぁ、どうしましょう……年甲斐もなく、お恥ずかしい限りでございます」
「よう言うわ。ちらりと見える白い太腿がまた何とも艶かしゅうてのう、今の今まで、男だと忘れておったほどじゃ」
「もう、存じませぬ」
水が満ちた手桶を滝から戻し、葛は大切に両手で抱え持った。
「重いだろう、俺が持つ」
碤三が手を伸ばすと、葛は首を横に振って断った。しかし、碤三は無理やり葛から手桶を奪い取った。頰を膨らませる葛だが、碤三の腕にはしっかりと自分の手を絡ませている。
「大御所様、時がおありでございましたら、拙宅にご同道願えませぬか」
「何やら、邪魔なようだが……」
「貴方様に会いたがっている者がおります」
将康の鼓動が大きく波打った。宗冬……しかし、その言葉を口にすることは躊躇われた。
違うと言われたら、もうそれこそ立ち直ることができぬかもしれない……宗冬の名を口にしたくても、尋ねたくても、どうしても、将康はそれができず、ただ無言で二人の後をついてゆくしかなかったのであった。
五条坂を下りきったところで、碤三は籠を用意し、将康を乗せた。同時に、手下の者を茶々屋に走らせ、将康の行き先を伝えるよう手配をしたのであった。
どこをどう通ったものかと考えあぐねながら、将康はやがて籠から降りた。表門を潜ると子供達の嬌声が押し寄せてきた。
「これ、お客人だ、お通しせよ」
子供にはこれ程優しい声を出すのかと驚くほどに、碤三が優しく言い聞かせると、子供達はきちんと頭を下げて将康を奥へと誘うのであった。
貴族の館のような書院造で、庭を通りながら回廊を進む途中、隣家との境目の土塀の向こうに見事な桜の大木が見えた。もしや、と思い立ち、将康は開花間近いその桜の木の向こうに視線を投げた。
「あれは三条橋邸か。ということは、かつての宗冬の屋敷なのだな」
「ようご存知で。流石に伊賀忍を使いこなされているだけのことはございますな」
「皮肉を申すな」
さらのその桜の大木に近付くように、碤三は子供の喧騒から離れた小さな離れの前で止まった。
「こちらにござる」
将康が呼吸を整える間も無く、碤三の手で障子が開けられた。
「おお、おお……! 」
言葉にならぬ声をあげ、将康は部屋の真ん中に横たわっている人物の枕元に駆け寄った。
そこに横臥していたのは、探し続けていた宗冬であった。頰は痩せ、髪も伸びてしまっているが、間違いない、あの織田島宗冬であった。
「宗冬、わかるか、宗冬」
恐る恐る、将康が肩を揺すった。
すると、奥間から葛が薬湯を手に入ってきた。その姿は、必死に息子の世話をする母そのものである。
「若、お薬湯の時間にございます。お起きになれますか」
宗冬の耳元で優しく声をかけると、長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと瞼が開かれた。
三人が、あの真っ直ぐな光を讃える黒い瞳の出現を待った。
「葛……また行ってくれたのか、そこの井戸水で良いのに」
掠れてはいるものの、その語り口は確かに、宗冬のものに違いない。
将康は宗冬の胸の上に突っ伏した。そのまま抱き起こし、両腕の中にしっかりと収めてその存在を確かめた。
「よう、よう生きていてくれた」
「……まさ……」
宗冬の白い指先が、震えながら将康の頰をなぞった。顔を見下ろす将康が、涙に濡れた顔で笑いながら、宗冬の額に鼻を擦り付けてきた。手柄を立てた時にこうしてよく宗冬は抱きしめられて鼻を擦り付けられた。あの微かな無精髭のざらざらした感覚が、徐々に蘇ってきた。あっ、と声をあげて、宗冬がしっかりとその黒い瞳で将康を捉えた。
「殿! 」
しかし、宗冬の体は不意に力を失い、将康の腕の中から擦り抜けるようにして布団の上に倒れてしまった。葛が慌てて体勢を直し、躊躇うことなく口移しで薬湯を飲ませた。
驚いて将康が身を引いた時、部屋の端の文机に並んで安置されている大小の位牌の他に、今ひとつ、小さな位牌と小さな木彫りの観音像が目に入った。
「大御所様、宜しいか」
質問を口にする前に、将康は碤三に部屋の外へと連れ出されてしまったのであった。
「どうしたことじゃ」
桜の見える築山の東屋で、将康は碤三に詰め寄っていた。
「……落城の数日前まで、私達は透波の残党との戦いで里に足止めされており、大坂に駆けつけた時には既に雌雄は決した後でした。半狂乱になって探し、漸く、山里曲輪の糒蔵の中に倒れている宗冬を見つけたのです。馬用の干し草やら綿布団やら、倉庫になっていたことが幸いでした。見た者の話では、宗冬は望楼の高欄から、千鳥破風の屋根を滑るように四層分は器用に下れたものの、あと一層というところで爆風に飛ばされたのだとか。まだ城内に燻っていた残党から逃れるように北の青屋口から逃げ、奥川軍の目にも触れぬよう、京のこの屋敷まで運びました。足も手も肋も折れ、肺も傷つき、二年近く、意識も戻らず寝たきりでした。葛は清水寺の湧き水が聖水だと聞き、藁にもすがる思いで毎朝汲みに行き、その水を口に含ませ、体を拭い、それこそ命がけで看病してまいりました」
「何故、一言知らせてくれぬのじゃ」
「これ以上、傷身の宗冬を世の混乱事に巻き込みたくなかったからです。あんなボロボロになった奴でも、利用しようと言う輩はまだまだいる。ましてや貴方の政権は船出したばかりで決して何もかもが静まったわけではなかろう」
将康には己の立場が嫌という程分かっている。確かに、碤三の言う通りであった。
「そうじゃのう……しかし、よう命を拾ってくれたものじゃ。そう言えば、あの位牌は」
碤三は、ふと押し黙った。どう切り出すべきか一瞬迷ったようであったが、ふうっと息をつくと、将康に向き直った。
「一組は、妻の紘と腹の子。そして今一つの小さな位牌は……ここに運んで二ヶ月後、流れてしまわれたお子にござる」
「子、子とは」
「てめぇと宗冬の子に決まってんだろう! 」
思わず将康は腰掛から滑り落ちた。まさか、と何度も地面に向かって叫んだ。
「眠ったままの体では持ち堪えられなかったのだ。あいつは己が孕んでいることも知らぬまま、己の体から子が流れていることも知らぬまま、ただ死の淵を彷徨い続けていたんだ。何の、何の罰なんだ、漸く命を拾って目が覚めてみりゃ、目の前に自分の子供の位牌があるんだ、正気でいられるものか! 」
碤三は将康の襟首を掴んで引き寄せ、無様に泣くその顔に凄んだ。
「でも、あいつは狂わなかった。言うことをきかぬ手で必死に観音像を彫り、子供に手向けたんだ。あの子のことを父親であるてめぇに話してやらねば、あの子が浮かばれねぇと、それまでは死ねねぇとよ……せめて、せめて望んだ子だったと言ってやれ。生まれてきていたのなら、心から愛したと。あいつと育ててやりたかったと、そう言ってやってくれ。父親に望まれなかったあいつが、一生懸命おまえの愛情を信じて産んだんだからよ」
最後はもう絶叫であった。碤三も膝を落とし、東屋の土間に蹲って拳を叩きつけたのであった。
「碤三……」
碤三が顔を上げると、綿入れを羽織った宗冬が葛に肩を支えられ、心配そうな顔をして立っていた。
「おまえ、起きたりして」
「薬を飲んだから大丈夫じゃ。何があったのか、碤三。まさか、将康様に」
「話したぞ、全部話した」
涙と鼻水を乱暴に手で拭い、碤三はドタドタと足音を立てて屋敷内に戻って行ってしまった。葛は宗冬を将康の隣に座らせ、その手を取った。
「お二人でお話しなされませ。何かありましたらお声を」
「いつも有難う、葛」
「嫌ですよ、水臭い事を。春の風は殊の外冷えます。あまり長くなりませぬように」
葛が後ろを向くと、心得た下働きの男が火鉢を二人の側に置いてくれた。
「そうそう、本戸様方が間も無くお越しと伺っております。何もございませぬが、今宵は皆様で夕餉など囲みましょう」
では、と微笑みかけ、葛も碤三の後を追って行った。
頭を抱えて座り込む将康の肩に、桜の花弁が舞い降りた。それを拾いながら、宗冬はその肩に頭を預けて寄りかかった。
しばし無言で、宗冬はさらさらと音を立てて揺れる三条橋家の桜を眺めていた。まだ咲き切らぬというのに、花弁が二人の元にひらひらと舞い落ちてくる。
顔を覆ったままの将康の手を取り、宗冬はひとひらの桜の花弁を乗せた。
「誠にそなたは桜の精の如くじゃ。阿茶や大奥の女達は、おまえを桜の公などと呼んでおる。じゃが、儂には何やら儚げに思えて堪らぬ。そんな名で呼んだら、お前が目の前から消えてしまいそうじゃ」
しっかりと、将康が宗冬の手を包み込んだ。
「母も、桜が大好きでした。葛の母も、あの三条橋家の桜を見て育ち、新所城の桜の下で亡くなりました。私も葛も、よくよく桜に縁のある生まれなのです。ですから、私も桜が大好きです。大好きですが、桜を見ると、涙が出るのです」
「……儂は、おまえに酷い事を……」
「桜が咲くと、大切な人が去ってしまうのです。私たちの子も……」
将康は、宗冬を搔き抱いた。頰を寄せると、宗冬の頰が涙で濡れていることがわかった。
「……よう、よう儂の子を宿してくれた」
「そう思うて下さいますか。気味が悪い、恥ずかしいとは」
「たわけた事を申すな。そうなっても良い、そうなりたいと思うて、儂はお前を抱いた。しかし武将として名を馳せるお前に、とてつもない苦難を背負わせてしまうこととなった」
「苦難など……産んでやれずとも、貴方との愛しい子を確かに授かったのですから」
「しかし、女のように扱われ、あまつさえ子を孕むなど、おまえの誇りが許さなかったのではないか。可愛いが故に目が眩み、愛しいが故にお前を穢した。罪深い爺じゃ」
宗冬が、将康の腕の中から首を伸ばすようにして口づけをした。
「私は望んで抱いていただいたのですよ。葛と碤三のように、貴方様と切れぬ絆を結びたかったのです。それは、いけないことでしょうか、はしたないのでしょうか」
「いや、そのような……」
「でしたら、そんな風に仰らずに」
将康の手を、宗冬は自分の胸元に差し入れた。ごつごつした冷たい手が、宗冬の肌を撫でた。
「この上なく、愛しいのですから」
火鉢の中で炭が爆ぜた。夕闇迫る東屋に火の粉が立ち上り、宗冬の白い体を照らした。
政虎も正重も清重も、宗冬を見るなり泣いて抱きついてきた。幕府の要職を占める3人が、その瞬間貫禄という鎧を脱ぎ捨て、昔の無邪気な若武者に戻ったようであった。
葛が腕を振るい、全員が上下の座もなく夕餉を囲んだ。碤三もその中に混じって勝重と酒杯を重ねた。昔話に与太話、艶話に政治の話と、尽きることがなかった。
夜更けになって一行は茶々屋に帰って行った。
酒も食事も殆ど摂らなかった宗冬だが、宴は心行くまで堪能した。別れ際に将康から岡崎で暮らそうと言われたが、宗冬は即答はしなかった。
「何故、行くと仰らなかったのです」
薬湯を支度しながら、全く疲れた風を見せずに葛が言った。どんなに飲んでも食べても寝ていなくても、この姉は朝早くからきちんと身だしなみを整え、化粧を施している。
「本当に美しいな、葛は」
「嫌ですよ、こんなお婆ちゃんをからかったりして。あ、むしろお爺ちゃんか」
少しは酒が残っているのかと、宗冬は笑って薬湯を受け取った。
「将康様と、お話はできましたか」
いつもの苦味にほんの少し口元を歪ませて、宗冬は頷いた。湯呑みを受け取った葛が、手巾の端で宗冬の口元を拭った。
「貴方様は十分に戦い、そして苦しまれました。もう、御自分の幸せだけを考えても良いのですよ。将康様の元に行かれれば宜しいのに」
「いや、私の命はそこまで長くはない」
「若! 」
「自分の体のことだから、良く解る。ならばせめて残りの時間、これまで私が手にかけてしまった人達の菩提を弔い、精一杯の詫びを経に乗せて、日々を過ごしたいのだ」
「そういえば、近江の甥御様以外、織田島の直系は皆、鬼籍に入られましたね」
「私しか、経をあげてやれる者がおらぬ。紘も、この子らも、岩佐殿も……」
葛が、宗冬の両手を優しく包み込んだ。暖かく、柔らかなその手から葛の無償の愛が注がれてくる。体の中を駆け巡るその愛情に温められ、宗冬は込み上げるままに泣いた。
「有難う、有難う、葛。どんなに礼を尽くしても尽くしきれぬ。どんなに詫びても詫びきれぬ。葛のことも碤三のことも、私は心から愛している。いつまでも、ずっと」
「ええ、愛していますとも、私も若を、心から愛しております。よくぞ、よくぞ生まれてきてくださいました。よくぞ、私をお側に置いてくださいました」
葛は宗冬を抱きしめた。痩せた体は、いつの間にか葛の中に収まるくらいに小さくなってしまった。削るだけ削ってしまった命の残り火のような宗冬の五体を、全身全霊を注ぐように、葛は抱きしめた。
「葛よ、桜子様が今際の際に言い遺された言葉、もう一度教えておくれ」
葛は顔を上げた。部屋から見える三条橋邸の桜の下に、あの母の幻影は無い。母のあの言葉が何を言わんとするのか、葛は口にする事を躊躇った。
「私の父も、同じ言葉を言うたのだ。あの本能寺で半右衛門を抱きながら私に、生きよと。多くの人の血を流してきた男が、息子に言い残したのが『生きよ』とは、滑稽であろう」
言葉も出せずに唇を震わせている葛の両頬を優しく手で包み、宗冬はしっかりと目を合わせた。
「生きよ、葛」
美しい葛の顔がくしゃくしゃと歪んでいく。それでも決して頷こうとしない葛に、宗冬はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「生きよ、生きるのだ、葛。決して私の後を追ってはならぬ。碤三にもそれは許さぬ。良いな。地獄への露払いは既に我が父が済ませておる。良いな、良いな」
それでも、葛は首を縦には振らなかった。宗冬は泣きながら、葛の名を呼んだ。
2年後の春、伊勢の新所城跡に、新たに寺が建立された。
石垣も、あの古い桜の木もそのままに、瀟洒で小さな本堂と、岡崎からほど近い山中深くにあるという白糸の滝を模した庭園を持つ寺の名は、浄慶寺。
将康から、宗冬と藤森衆への褒美として下げ渡されたこの領地に、宗冬が堺の屋敷を売った金子で庵を建て、庭を整備したのであった。この地で亡くなった者達、戦で無縁仏となってしまった者達のために供養塔を建て、僧達が日々勤行に励んでいた。
「本戸様がまた、木材を手配して下された。有難い。これで新しく子供らの寮を増やすことができる」
桜の下にある小さな墓で手を合わせているのは、侍姿の葛であった。ようやく前髪に白髪らしきものが見えるようになってきたが、容色は衰えず、行き交う者が皆振り向くほどの美しさは健在である。
「自分がこれほど長生きをしようとはな」
「山育ちは頑丈なんだよ。何度壊れたって、ちゃあんと治りやがって」
碧眼の大男が、背に大荷物を負って葛の後ろに立った。
「悪かったな、ちゃあんと治りやがっちまって」
「褒めてるんだよ。それより、港で贖ってきた菓子を、早く里の子供らにも振舞ってやろう。ここの子供らの分はもう置いてきた」
この寺にも、孤児となった子供達が大勢いた。京の織田島屋敷、藤森の里、そしてこの浄慶寺と、3箇所で孤児や行き場を失った者達を保護して養うのは、決して楽ではない。
幸い、将康からの扶持もあり、宗冬の名を知る者達から寄進もあるため、何とか食べていくことができる。また、将康の命によって藤森一族が永代で寺領を管理することが許され、面倒な領地争いなどとも無縁であった。
風が吹いた。地面から巻き上げるような風に、桜の花弁が渦を巻くようにして天に昇っていった。そして、陽光を浴びてふっと弾け、花吹雪となって二人を包んだ。
「若、お会いしとうございました」
葛は両腕で花弁ごと風を抱きしめた。
宗冬は、この寺の完成を見る事はできなかった。
精力的に寺の準備の為に奔走していたが、冬に入ると再び体調を崩して昏睡状態になった。そして年を越すことは叶わず、先年末、冬にしては暖かな朝、眠るように息を引き取ったのであった。
死を予感したのか、枕元には葛と碤三、そして将康に向けた遺書が置かれていた。
生きる気力を失い、宗冬の遺刀となった兼定を抱いては泣き続け、今にも自刃しそうな程に消沈していた葛の元に、やがて将康の名で浄慶寺の管理を任せる命が下った。後に、それは宗冬が将康への遺言の中で願っていたことだと知れた。自分の死後、葛が殉死をする事を何より危惧していた宗冬は、将康にも、そして碤三にも、よくよく葛の生きる道筋について心を砕いてくれるよう、書き残していたのであった。
宗冬の遺志を継いで建てられた浄慶寺には、永世住持職として宗冬の名が刻まれ、庭園の白糸の滝を見渡せる所に立つ墓の下に、改葬した妻と子供達と共に眠っている。
将康の口利きにより、京の本満寺で修行を積んだ尼僧が二世住持として入り、碤三と葛にとっては忙しく寺の管理や子供達の世話に明け暮れる日々となった。将康肝煎りであり、かの織田島宗冬の建立と知れ渡る浄慶寺には、特に子や夫を失った女達が救いを求めて遠方からも訪れるようになり、宿坊の造営や衣食の世話など、最早死ぬ事を考える間もないほどに多忙を極めることとなった。
「さぁ、寺爺と寺婆はそろそろ里に向かうぞ」
碤三が荷を背負い直すと、葛が笑いながら腕を絡めた。
「どちらかというと、寺爺だけど」
地味な筒袖に裁着袴という姿で化粧気もないが、かといって爺に見える筈はない。
「そういえば、すっかり紅を差さなくなったな」
「今か……若が亡くなられて、紅は捨てた。私の中の女は、あの日、若と共に逝ったのだ」
それでもやはり、横顔は神々しく美しい……時々、今にも宗冬を追いかけて逝ってしまうのではと、碤三にはその姿が朧のように見える時がある。今もだ。桜の中に宗冬の幻影を見つけて抱きしめているかのような後ろ姿を見ると、行くなと叫びそうになる。こんな時、碤三はしっかりと葛を捕まえるかのように抱きしめて、その体温を確かめずにはおれなかった。
「大丈夫、ちゃんとおまえの側にいるから、碤三」
胸元に回された逞しい腕に、葛は頬を摺り寄せた。
「普通の爺と爺になるって、約束したからな、葛」
抱き合う二人から離れたところには、すっかり年老いた蒼雲と蒼星が仲良く待っている。
碤三が指笛を吹くと、待ちかねたように走り寄ってきた。
「若、また参ります」
葛は蒼雲に、碤三は蒼星に跨った。桜の下で手を振る宗冬の存在を感じながら、二人は手綱を引いたのであった。
(了)
ここまでお読み頂き、心から御礼申し上げます‼️
どうもありがとうございました✨
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