2.多治見の焔

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2.多治見の焔

 2. 多治見の焔  辟易するような暑さの中、澪丸と葛は木刀を交えていた。片肌脱ぎになって汗をかく澪丸からは、成長著しい9歳の溌剌とした生命力が発散されている。一方の葛は眉ひとつ動かすでもなく、相変わらずの婀娜な小袖姿で澪丸の打ち込みを受けていた。  油井(ゆい)家に人質として入ってから既に二年余りが過ぎようとしていた。獰猛(どうもう)に尾張を狙っていた相勲はすっかり嫡男の定勲(ていくん)に勢いを奪われ、澪丸を人質に預かっている事で織田島との休戦状態に慣れ、今や好々爺として次男と領内の舵取りに精を出していた。その間に澪丸の父・織田島宗近は油井家を支えていた国衆を着実に切り崩し、尾張方へ寝返らせていた。裸同然となりつつある油井家に見えたが、定勲は元より美濃守護職・土岐(とき)家と通じており、澪丸を盾に美濃での足掛かりを固めるべく動いていた。  澪丸の存在を時間稼ぎに、双方の水面下での激しい計略は大詰めを迎え、いつ均衡が崩れてもおかしくないところまで時は迫りつつあった。 「終わりですか」  気の抜けた澪丸の剣先をくるりと巻き落とし、その切っ先を澪丸の細い首筋に突きつけた。半身で腰を沈めた体勢で白い太腿が露わになると、木陰から稽古の模様を見守っていた油井相勲(そうくん)と次男相賢(そうけん)が同時に生唾を呑んだ。思わず相賢がたたらを踏んで相勲を突き飛ばしてしまい、二人してよろよろと姿を晒す羽目になった。 「これはお館様、若君様」  今気付いたといった風に大げさな声を上げて、葛は木刀を背に回して片膝をついて控えた。が、袴とてつけていない小袖姿では、裾の奥が無防備になる。17の娘盛りというふれこみの葛は、既に二人の親子を骨抜きにしていた。 「み、見事じゃ。葛よ」 「女だてらに、恥ずかしゅうござります」 「乱世の女子はそのくらいでのうてはならぬ。先般ねだっていた小袖を贖うが良いぞ」 「まぁ、嬉しい」  相勲と相賢のじっとりとした視線を太腿に引きつけたまま、葛は婉然と微笑んだ。 「ジジイ誑しだのう、葛は」  自室に戻った澪丸は、背中の汗を葛に流させながら楽しそうな声をあげた。 「嫌でございますよ。若も気の無い打ち込みで一役買っておいでなのをお忘れなく」 「愉快だったなぁ。そのうち側室にでもなれそうじゃな」 「お戯れを。先月は織田島の殿が港から油井家の商人を締め出され、城下に塩や火薬が入らなくなっております。ここを出る日も近いものと」 「わかっておる。嫡男の定勲殿が美濃土岐(とき)家から新たに娘御を嫁に貰い受ける話がとうとう纏まったそうな。いよいよ、父上の書かれた絵図の通りになってまいったの」 「御賢察にございます」  人質としての窮屈な暮らしに甘んじているだけではない澪丸の逞しさを、葛は素直に褒めた。まだ華奢で儚げな背中ではあるが、今に大軍勢を率いる一廉(ひとかど)の武将になるであろうと、その姿を夢想した。 「しかしな。その為に今の室・依姫様を甲斐の高田家にお返しになるのだそうな。父上と背後で繋がる高田殿がそれを待っておられるとは申せ、依姫様がお可哀想じゃ」 「女子供を踏み台にするとは、あまり綺麗なやり方ではございませぬな」 「まことに。武門の親とは、かくも酷いものかの」 「然様ではござりましょうが、あなた様とて、敵中に命を晒しておられるも同然のお立場。同情は禁物にございます」  ふうっと、澪丸はため息をついた。 「嫌な世の中じゃの」 「それが、戦国の習いというものでございます」  汗を拭い終えた背中に、葛がそっと帷子を着せた。 「定勲殿に、笛をお聞かせする約束をしておる。夕餉(ゆうげ)はおそらくあちらで馳走(ちそう)になろう。葛は先に休んでおるが良いぞ」 「いいえ、縫い物をしてお待ちいたしております。あまり遅くならぬように」 「はいはい、姉上」  澪丸はそのまま葛の胸に背中を預けるようにして寄りかかってきた。まだ華奢なその胸元に両腕を回し、葛はしっかりと抱きすくめた。 「どうなるのかのう、我らは」 「生きるだけでございます。今は、生きるためだけに精進し、己を磨きなされませ」  葛の傷だらけの手に、澪丸が自分の手を重ねた。 「先夜も、私の寝室に潜んできた忍を成敗したのであろう。こんなに美しい葛の手を、このように傷だらけにしてしまうこと、堪らぬ」 「これが私の役目にござります。お気になさることではございませぬ」  葛は澪丸の頰に唇を寄せた。 「相賢殿を引き出しましょう」 「同席していただくのか」 「ええ。盾になっていただきましょう。根回しはお任せを」 「趣向に呼ばれる度に命の算段をするのも面倒じゃの」 「それが……」 「人質の暮らし」  声を揃えた二人は、しばし頰を寄せ合ったまま笑った。こうした時間が、二人にとっては何とも愛おしく、安らぎになっていた。 「このままこうしていたい」 「私もでございます」 「断りを入れようか」 「それはなりませぬ。・土岐家の姫を迎えるまでは若がこの油井家の命脈を握る担保、手を出す愚は犯さぬとは存じますが……必ず近くに控えておりまする故、お心安く」  次男は凡庸で、人当たりも良く御し易いが、嫡男の定勲だけはどうにも腹の読めぬ男であり、策略好きで酷薄な印象を二人は共有していた。故に、およそ芸事に関心を見せぬ定勲が、何の腹積もりもなく澪丸の笛を所望するとは到底思えないことであった。  澪丸の支度を他の侍女に任せ、葛は先回りをして次男相賢の館を訪っていた。喜色を浮かべて部屋に招き入れた相賢は、今にも押し倒しかねない勢いであった。 「小袖をのう、小袖を(あがの)うてやろうと生地を取り寄せておってのう、見ていくが良いぞ」 「まぁ嬉しゅうございます」  後ろ手に襖を閉めた葛に、相賢は息を荒らして体を押し付けてきた。 「わ、若様」 「澪丸のような子供は放っておいて、俺の側女にならぬか」 「こまります、そのような」  鼻にかかった女声で腰をくねらせれば、相賢はもう裾を破ろうと手を滑り込ませようとしている。その手をピシャリと打ち据えて、葛は相賢の鼻元に唇を寄せた。 「我が君澪丸様が、定勲様のお招きで本丸に行かれたのですけどぉ、お一人では何だか心配でぇ。と申しても私のような侍女が付いていくわけにも参りませぬしぃ」  指先で相賢の腰骨を撫で回すようにしながら甘い声を出すと、悶絶しそうな勢いで相賢が床にへたり込んだ。その力の抜けたような腰の上に大胆に太ももを晒して跨ぎ、葛は痘痕面の相賢の顔に吐息を吹きかけた。 「澪丸様とご一緒していただけると、嬉しいのですけれど」 「お、俺が、か」 「ご褒美を差し上げると申したら、お願いを聞いてくださるかしら」  すっと股間を撫で上げると、相賢は情けない声をあげて了解した。 「では、お急ぎくださいませね」 「も、戻ってきたら、本当に……」 「ご・ほ・う・び」  婉然と微笑んで、葛は相賢の体から離れて部屋を後にした。  館を出て、ため息をつきながら身づくろいをしていると、背後からからかうような笑い声がした。 「趣味が悪い。どこから見ていた」  現れたのは、笑いを堪えきれぬ碤三である。 「こまりますぅ、の、あたりからかな」  碤三は睨みつける葛に刀を二振り投げてよこした。 「無腰では仕方あるまい」  辺りに気配のないことを確かめ、葛は迷いなく帯を解いた。一瞬、紛れもない若い男の鍛え抜かれた体が露わになったかと思いきや、瞬く間に小袖が黒い裏地に返され、忍び装束に覆われてしまった。 「もっとゆっくり着替えろよ、見たかったのに」 「阿呆。行くぞ」  刀を腰に落とし込み、葛はさっさと走り出した。  大広間の下座に、澪丸は瞑目したまま座していた。上座にはまだ誰もおらず、小姓一人とて見当たらない。膝の上に亡き母の形見である篠笛を乗せたまま、ただじっと、待ち続けていた。 「兄上はまだか」  と、そこへ相賢が普段着姿でのんびりと入ってきた。 「これは相賢殿」  片手をつき、澪丸は頭を下げた。相賢はバタバタと大仰に足音を立て、上座の手前にどっかりと腰を据えた。 「篠笛の音色、時折我が屋敷にも届いておったぞ。葛がのう、いたく其の方のことを案じておってな。確かに兄上はちょっと気難しいところがおありだが、とって食いはしない。私もおる故、心おきのう、聞かせるが良いぞ」 「有難きお心遣い、誠にかたじけのう存じまする」  定勲にはこの城に来た時に一度だけ会ったのみで、好まぬ印象を抱いたに過ぎぬが、目の前の相賢の人好きのする大らかな物言いやのんびりとした笑顔は、異母弟とはいえ到底血が繋がっているとは思えぬ対極の姿であった。 「それにしても遅いな、兄上は」 「何か、出来致したのでしょうか」  澪丸が不安を口にした時であった。数人の慌ただしい足音がもつれ合うようにして近づいてきたかと思えば、額や肩口から夥しい血を流す若い家臣が二人、駆け込んできた。 「相賢様、お逃げくだされ!」  のんびりと二人を眺めていた相賢の足元に這うようにして近づき、その袂を掴んで叫んだ。 「定勲様ご謀反、大殿・相勲様が討ち取られました! 」  既に笛を袂に仕舞い込み、澪丸は懐剣の柄頭(つかがしら)に手を置いていた。 「な、なんじゃと」 「美濃の土岐家との婚姻に反対の意を唱えた大殿を……若殿が! 既に土岐家の軍勢二千が城下に布陣の由」  とにかく立たせようとする家臣に促され、相賢はよろよろと立ち上がった。 「相賢様、どうぞ落ちられよ。母君の里でもどこでもよろしい」  まだ子供の澪丸に促され、がくがくと頷きながら相賢が広間から出ようとしたその拍子に、廊下側から長槍が突き出され、相賢の腹部を貫いた。 「相賢殿! 」  獲物は懐剣一振り。上段の間へと後じさりながら、血染めの長槍をしごく直垂姿の男に刃先を向けた。 「弟を手にかけたか、外道」  酷薄な笑みを浮かべて迫るのは、間違いなく油井定勲である。蛇のような三白眼を澪丸に貼り付かせ、真っ赤な唇でニタリと笑った。 「美貌の人質ゆえ可愛がってやろうかと思うたが、織田島め、離縁した依姫の実家・高田家と示し合わせて軍を向けおったわ。非情よのう、倅の命など屁とも思うておらぬのよ」 澪丸は耳を疑った。高田玄道が軍を向けるのは想定内としても、父までがこの多治見城に軍を向けたというのか。それはつまり、自分が死んでも、いや、自分を殺すつもりか……。 「若、讒言に惑わされますな」  切っ先を下ろそうとした澪丸に、若々しい男の声で檄が飛んだ。  その声と共に定勲が従えていた槍隊の兵がばたばたと倒れ、覆面に黒装束の忍が澪丸を背に庇うように立ち塞がった。細身だが背の高いその後ろ姿からは、いつも親しんでいる香りがした。思わず、澪丸は背中に手を添えた。 「葛か」 「潮時でございます。織田島の殿は、決して若の命を粗略にされたのではございませぬ。思いの外早く、土岐家とこの男が動いただけのこと。多治見の城下さえ離れれば、本陣は指呼(しこ)の間、殿がお待ちにございます」  かちゃかちゃと不気味な音を立てて、後続の兵が迫ってくる気配がした。葛は定勲を睨みつつ間を取り、澪丸を片手で抱き上げるなり上段の間の天井へと放り投げた。 「碤三、行け」 「引き受けた」  天井の板目を外して待っていた碤三がはっしと澪丸の体を掴み上げ、直ぐに姿を消した。  既に城下は土岐家の軍勢による乱取(らんど)りによって混乱を極めていた。留守を預かる女子供の悲鳴が業火の中に轟き、正に地獄絵図であった。  碤三は澪丸を背負い、その上から濡れた麻布を覆い被せ、配下に前後を守らせながら炎の中を疾駆した。城を出るときは数十人いた配下も、織田島家の本陣を見下ろせる城下外れの丘に辿り着いたときは、僅か二名になっていた。 「ひとまず、これへ」  織田島軍の縄張り下にあることを確かめ、碤三は背中から澪丸を下ろした。どさりと落とされた拍子に、澪丸は胃の中のものを全てぶちまけてしまった。 「ずっと揺れておったからな、無理もあるまい」  息を切らしたまま、碤三は手巾を差し出した。が、それを受け取る気力もない様子で、澪丸は乾いた土の上に転がった。 「葛は、葛は如何したであろうか」 「死にはせんよ。あいつは殺しても死ぬ奴ではない」  蒼白な顔で案じる澪丸の横に、碤三も手足を大の字に広げて転がった。 「その方は大した力じゃ。私を背負って数里走り抜けても、そのように然程息も上がっておらぬ。私はまだまだ鍛錬が足りぬ。これでは葛を守れまい」 「ほう、あいつを」 「守れぬまでも、足手まといにだけはなりとうない」  へえ、と鼻を鳴らした碤三が、ふと刀を取って体を起こした。問いかけようとした澪丸の口を塞ぎ、雑木林の奥に蠢く気配を探った。かさりと葉音がし、碤三が刀を抜いたと同時に、黒装束の男が飛び出してきた。 「無事だったか」  警戒を解いた碤三の言葉に頷いたその男は、頭を振りながら顔を覆っていた覆面を外して大きく息を吸い込んだ。  確かに男の体型なのだが、忍び装束に包まれたその体の線は何とも細い。しかしながら、戦いの最中で切り刻まれて裂かれた布地の奥では、鍛え抜かれた筋肉が血に染まっている。  碤三と軽口を交わすその顔は、返り血に染まっていてもやはり整っていて、胸板さえ見えなくば男の女装にも女の男装にも見える。澪丸は、今まで見たことのない葛の、いや、おそらく葛であろう男の姿を、首を傾げたまま見つめていた。 「若、お怪我はございませぬか」  体を起こして葛を見つめていた澪丸は、じっとその切れ長の双眸を見据えたまま何も答えない。固まったようにただ見つめてくるだけの澪丸の様子に、恐怖のあまり声も出せなくなってしまったかと、葛は嗚咽を堪えるようにして抱きしめた。 「碤三が何か怖い目に合わせましたか」 「おいっ」 「碤三に何か意地悪をされたのですか」 「葛よ、それはなかろう」  耳元で囁かれる言葉も、中身を全て吐き出してしまった胃の腑を優しく包み込むかのような、優しい男声である。心地よい響きに、澪丸は目を閉じた。 「これが、本当の葛であったのじゃな。ああ、この香り、間違い無い」  うっとりと呟く澪丸の言葉に、思わず葛が碤三と顔を見合わせた。 「おまえ、男だって言ってなかったのか」 「いや、とうにお分かりなのだとばかり……」 「まぁ、実は女なんじゃ無いかって思うくらい完璧だったからなぁ」 「阿呆」  腕の中で、澪丸は猫が甘えるように、鼻をこすりつけて気持ち良さそうな声を出した。 「いけません、私の血がお顔に」 「構わぬ。心地よいのじゃ」 「まぁ、9歳にもおなりですのに、小さなお子様に戻ってしまわれましたか」 「だって葛が好きじゃもの」  無邪気にそう告げる澪丸を、葛はきつく抱きしめた。 「葛も、若の事が大好きでございますよ」  葛の腕の中にすっぽりと収まったまま、澪丸はやがて寝息を立て始めた。 「安心したのだな、おまえの香りを嗅いで」 「不謹慎だが、どうにも可愛らしゅうてならぬ」 「俺にはおまえが血染めの菩薩様に見えるぜ、それもとびきり別嬪のよ。で、どうする」 「さて、な」 「小童には笑って見せたが、あちこちやられてんだろ。そのなりじゃ侍女のフリもできやしねぇ」  右脇腹の矢傷からはまだ血が流れ出ている。痛みを堪える葛に、碤三は自らの袖口を破り投げ渡した。 「縛っておけ」 「そうしたいが、実は左肩を酷く打ち付けていて、手が回せない」 「しょうがねぇなぁ」  痛みに顔を歪める葛から布端を取り上げ、血染めの腰にしっかり巻いた。傷口の上で縛ると存外どこまでも食い込み、見た目以上に胴回りが細いことに絶句した。 「ちゃんと食ってんのか。折れそうだぞ」 「細いとはいえ男の体格で女を演じるのだ、鍛え方を間違えるとすぐに大女になってしまう。食事、稽古、これでも随分と気を使ってきたのだ」 「酷なもんだな。ならばいっそ、侍女じゃなくて小姓として側に仕えることにしたら」 「小姓として上がるには煩雑な手続きがある。何より織田島の殿の厳しい監視下に入ることとなるのだ。侍女ならば、城下への買い物、届け物、出入りは比較的容易であるし、若に最も近いところでお守りできる」 「メシを我慢してもか」  話にならぬとばかりに、葛はため息をついた。すると膝元で澪丸が寝返りを打った。ふっくらとした頰を指先で撫でる葛の表情は、打って変わって優しげな母のそれであった。 「碤三……あの織田島の殿に、澪丸様をお戻しして良いと思うか」  復命を迷う言葉を吐く葛の指先は、愛しげに澪丸を撫で続けている。 「御次男が本陣にいると聞いた、初陣であろう。いよいよ後継として御次男を推し出すおつもりに違いない」 「澪丸を、切るというのか。ま、あの殿ならやりかねんがな。だとしたら葛よ、こいつの存在はどうなる。またぞろ他家に人質として遣られるというのか」  その問いには答えず、葛は手を伸ばして刀を確かめた。鐺は凹み、血振りをしたものの刃にはべっとりと脂が浮かんでいる。刃毀れも酷く、今ここで碤三とふざけて刀を合わせただけでも真っ二つに折れるであろう。 「無腰で澪丸は守れまい」 「ああ」 「織田島の殿はまだ、尾張・美濃とも制圧は完全ではない。まだ若に利用価値はある。人質は気の毒でもあるが、若ならどこでも可愛がってもらえる。むしろ、もう少し若が戦える様になるまで、せいぜい他家の金で逞しく育ててもらえばいいのさ」 「碤三」 「可愛い可愛い若殿を、こんな片田舎で終わらせるのか」  逡巡する葛を鼻で笑いながら碤三が澪丸を抱き上げ、咄嗟に手を伸ばした葛の手を払いのけるとそのまま丘の斜面を歩き出した。 「待て碤三」 「待たない。早く復命せぬと抜け忍として追われることになるぞ。まずは一度お頭の指示を仰げ。こんな小童ではまだ何も仕掛けられないこと、おまえが一番分かっている筈だ。防戦一方でボロボロになって野垂れ死ぬのか、この小童と一緒に」  「待てと言っている」  葛は碤三の鼻先に回り込み、強引に澪丸を取り上げた。 「私がお連れする。お前のぞんざいな歩き方では若が眠れまい」  腕の中ですやすやと眠る澪丸の寝顔に、葛がそっと頬を寄せた。 「いい加減にしろよ、こんな小童のために。そんな義理は無ぇだろうがよ。大体がお前だって三条橋の血筋なんだ、こんな小童に使われることはないんだよ」  地団駄を踏んで思わず叫んでしまった碤三の唇に、葛がそっと口付けた。途端に碤三の口内は血の臭いに満たされた。そして葛が唇を離した途端腹部に衝撃を受け、碤三は吐き気を堪えるかの様に体を折った。 「嫁を探せ、私ではない誰かを。血の臭いのせぬ可愛い嫁をな」  明け方になり、織田島宗近の本陣近くの荷駄の一角に、身を縮めて眠る澪丸の姿が発見された。乱取りに明け暮れる土岐勢を一掃して戻ってきた宗近は、一命を取り留めた嫡男を一顧だにすることはなく、澪丸よりほんの数ヶ月後に生まれた次男・滝王丸(たきおうまる)を連れて多治見城総攻撃の為に陣を払った。 1572年、多治見城はあっけなく落ちた。甲斐・信濃の高田家は十分に遺恨を晴らして土岐家に奪われていた旧領を取り戻し、宗近は油井家の遺臣を手厚く家中に迎え、先鋒として間をおかずに土岐家を攻めた。元々当代の土岐興冬(ときおきふゆ)はまだ30手前と若く、享楽的で凡庸であり、同世代の油井定勲の誘いに何の疑いもなくのってしまうような人物であった。亡父の旧臣たちとも折り合いが悪く、美濃守護職とは名ばかりの家中であった。  油井家遺臣の呼びかけに呼応した土岐家の重臣の離反が相次ぎ、土岐家は徐々に追い込まれ、居城の稲葉山城を残すのみとなった。  多治見城が織田島家の勢力下となり、美濃守護職・土岐家はあっけなく織田島宗近に制圧された。元より家臣の足並みはそろわず、油井定勲と手を結んで乗っ取りを企んだ折の乱取りぶりは酸鼻を極め、守護職としての地位を貶めるには十分であった。  織田島宗近は次男・滝王丸(たきおうまる)と三男・力丸そして二人の生母である小牧の方を、美濃に程近い馬寄(うまよせ)城に置き、美濃制圧の足掛かりとした。  しかし、初陣の時に多治見城下の惨たらしい有様を目にした滝王丸は徐々に体調を崩し、土岐興冬が家臣によって毒殺された1573年、多治見戦の翌年に、あっけなく病死してしまった。享年わずか10歳。  宗近は土岐興冬(おきふゆ)の一族を殲滅し、ただ一人生き残った異母妹の明野(あけの)姫を側室に迎えていた。その年、明野姫は既に25。かつて土岐家家臣・明智満兼に嫁いでいたが、明智一党が離反して美濃東部を収める西道(さいどう)家に与したため、離縁されて実家の土岐家に戻っていたのであった。  翌年、その明野姫が男児を出産した。由緒正しき土岐家の血を引く男児の誕生である。    織田島家に戻って2年後、11歳で漸く初陣を許された澪丸は、同時に元服して宗冬と名乗った。それも、父・宗近は元服の儀に顔を見せることもなく、元より家臣の強い勧めがなくては実現とてしなかったであろう、たった一人での儀式であった。  美濃守護職を手に入れるためには公家・三条橋家との繋がりを断つわけには行かないと言い募る重臣の意見を無下にできぬまま、宗近は清洲城に宗冬を置いてはいるものの、美濃・越前・近江攻略を理由に、宗近自身は馬寄城に篭りきりであった。  そして1574年、美濃と近江を抑えた織田島宗近は西道家とも手を結び、さらに駿河の稲川家を牽制すべく、稲川家傘下の小大名・岡崎の奥川家に宗冬を送ることを決めた。      
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