3.三河の月

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3.三河の月

 3 三河の月    三河は岡崎城下から北東に広がる山中、清流に沿うように続く道を人馬が疾駆していた。  小柄な鹿毛馬は、木の枝や岩場などおよそ人の踏み入れぬ険しき道を物ともせず、慣れた道を散歩でもするかのような軽い足取りで水の流れに沿って駆け上がっていく。  やがて、斜面を駆け下りた 人馬は穏やかな流れの河原に降り立った。  川の流れは山中にしては穏やかであるが、ふと見上げると扇状に立ち塞がる岩壁があり、そこかしこからさらさらと水の糸が垂れ込めていた。まさに地元の者が白糸と呼ぶに相応しき、穏やかで優しい水音を立てる滝であった。  鹿毛馬を木にも繋がずに好きにさせたまま、背から飛び降りた若衆風の人物はもどかしげに着物を脱ぎ捨て、まるで汚れから逃れるようにして腰の高さほど水嵩しかない滝壺に身を屈めた。  元結が切れてほつれた長い髪が水面に広がる。しかし髪の持ち主は顔まで沈めたまま動かなかった。  すると、川の水を美味しそうに飲んでいた筈の馬が嘶いた。滅多に声を上げることのない大人しい馬の声に、滝壺に身を沈めていた人物が立ち上がった。 「蒼風(そうふう)、いかがした」  視線の先には、武将と思しき豪奢な身なりの若者が黒毛馬の手綱を握って立ち尽くしていた。 「何者か」  滝壺から誰何する声が緑に木霊する。 「いや馬に水を飲ませようと下り立った……驚かせるつもりはなかった」  腹からよく響く若々しい声で、黒毛馬の男が応えた。 「まさか、女性がいようとは……失礼した」  女性と言われ、滝壺に立ち尽くしたままの人物はふと自分の姿を見た。  水面に映るのは、白い肌が陽光に反射した柔らかな裸体。濡れた黒髪が胸元を覆うように垂れこめ、下半身は水に沈んでいる。その水の中にひょろりと、股の間から赤い魚が泳いで消えた。 「そのようにじろじろと見据えながら、無礼も何もなかろう。近在の公達か」  水音に溶け込むような澄んだ声ながら、女のものとは言い切れぬ声で問われ、若侍は慌てて滝壺に背を向けた。 「わ、私は公達などと大層な者ではないが……伊那、伊那小四郎と申す。この辺りには時折遠乗りにやって参る」 「ほう、伊那殿、でございますか」 「こちらは名乗った。おことも名乗られよ」  ふふ、と笑いを漏らし、滝壺の人物は再び首まで体を水の中に沈めた。 「白糸、とでも申しておきましょう」  からかうような答えに、小四郎も背中を向けたまま笑った。 「では白糸どの、もう上がられては如何か。小暑の陽気とは申せ、体を冷やすであろう」 「あなた様が去られたら、上がることも叶いましょう」  再び、滝壺の人物の周りに赤い魚がひょろりと現れては消えた。水の中の糸のように、ひょろり、ひょろりと、現れてはすぐに消えていく。 「行ってくださらねば、私は風邪をひきます」 「今一度、神々しいあなたの姿が見たい」 「おやめなされませ、曇りなきあなたの目が穢れましょう。さぁ、白糸の精が機嫌を損ねれば、慣れた道とて怪我をします、お早く」  伊那小四郎と名乗った若侍は、意を決したように振り返り、黒毛馬の手綱を放して一歩踏み出した。 「私と、共に参らぬか。白糸の精はそなた自身であろう。私はもう、そなたの姿が目に焼き付いて離れぬ。心を奪われてしもうた」  もう一歩、滝壺へ進もうとしたその足元に、風を切り裂くように飛んできた苦無が突き刺さった。 「な、なんじゃ」  滝壺の人物は最早何も応えず、小四郎に背を向けた。尚も進もうと試みる小四郎の足元には今一つ、苦無が突き刺さった。  そろりと刀を抜いた小四郎が振り向きざま一閃すると、黒の筒袖と裁着袴にぶっ裂羽織をまとった長身痩躯の人物が、まともに両刃の忍刀で太刀筋を受け止めた。 「忍か」  恐ろしく整った目元だけを出し、全身を黒で覆い隠したその忍は、軽々と小四郎の頭上を飛び越えて滝壺を背に庇うように立ち塞がった。 「害すつもりなどない、刀を引け」  しかし、忍は敵意を剥き出しにしたまま、今にも斬りかかろうと足元の砂利に体重をかけている。 「わかった。ここは私が引く故、とにかく水から上がってくれ。縁があれば、また会いたい。またここで、会いたい」  忍の殺気を超えるように滝壺に向かって叫ぶと、小四郎は刀を仕舞い、黒毛馬に跨って河原から去っていった。  その後ろ姿を見送った忍も刀を収め、覆面を取った。長身痩躯の若者の体つきながら、その顔は並の女より美しい。しかし、その表情は固く、約4年ぶりの再会を喜ぶような感情は見当たらなかった。 「ようここが分かったな、葛」 「危のうございましたぞ」  男声でそう静かに叱り、葛は河原に散らばったままの着物を拾い上げた。 「月のものでございますか、若」  濡れた髪をかきあげた人物は、確かに童女のような頑是なさを残してはいるが、体つきは確かに少年期のそれである。線は細いが、しっかりと鍛えられている上半身は、しかしながら血の気が失せたかのように青白い。13歳になった織田島澪丸改め宗冬である。 「困ったものだ。おまえが私の前から姿を消してしまっていた間に奥川家に人質に入り、気がつけばこんな体になった。誰にも言えず、いつも此処にきて数日を明かしていたが……葛は知っておったのだな」  会うなり叱られ、宗冬は顔を背けたまま、言葉にいくつもの棘を含ませた。そして葛の手元から着物を引っ手繰ると、木々の根が剥き出しになっている斜面を駆け上がった。  やがて、宗冬は滝壺を見下ろすことのできる杣小屋に入った。後に尾いて用心深く小屋に足を踏み入れた葛は、震える宗冬の姿を見て手早く火を起こし、宗冬の体の水滴を自分の羽織を脱いで拭い、大きな岩の上に座らせた。  山の中の岩場に、木でできた屋根を覆い被せただけの粗末な建物には、小石を組んで作られた簡易な炉の跡があった。自然のままの岩が椅子代わりになり、杣人が束の間体を休めて暖をとるには十分であった。 「いつもこうしてお過ごしに」  まるで条件反射のように世話を焼きだした葛に、宗冬は目を合わせぬまでも、少しばかり緊張を解いてぽつりぽつりと答えた。 「ああ、話に聞いている女人のそれとは違うのか、二日もやり過ごせば終わってしまう。故にここの持ち主が、月に二日三日なら構わぬから、自由に使えと」  聞かれたことに無愛想に答えるその声は最早、小さな少年期のものではない。とはいえ、少し低音な女の声とも、華奢な男の声ともつかぬ不安定な細さを含む声である。 「供連れもなく現れた若君のお申し出、さぞ驚かれたことでしょう、その杣人は」 「関心はなさそうじゃ。それがまた、私には都合が良い」 「左様でございますか」 「殺すなどと、物騒なことを考えるなよ。恩人なのだから」  不機嫌そうに呟く宗冬に何も答えず、葛は小枝を焼べた。  火に手を差し出す宗冬に、別れた頃の幼さはもうない。あの眩しいほどの無邪気さも、可愛らしさも、すっかり失われてしまっている。目の奥には昏さがあり、十三という年齢以上に大人びて見せている。老成しているといっても良い。美しく成長したその姿に、華やかな輝きは見出すことができなかった。 「おまえも、私のことなどとうに関心がなかろう」  杣小屋に着いてから一度も葛の顔を見ようとはせぬまま、まるで火に問いかけるように宗冬が呟いた。 「本気でそう思われますか」 「私に構っても日の目を見られそうにない故、適当な下忍に監視を任せていたのであろう」 「……随分と、卑屈になられたものだ」  溜息と共に立ち上がった葛の足元に、宗冬が棒切れを叩きつけた。先端に火がついていたそれは砕け、火の粉が舞い上がり、悲しげに睫毛を伏せる葛の横顔を照らした。 「おまえは私を見捨てたではないか」 「若」 「あれから私は一人で……一人きりで……元服の儀も初陣も一人で……何故私を一人にした! 私の身の上に起こっていることを知りながら、何故、何故」  顔をくしゃくしゃに歪めて泣き喚く宗冬を、葛は抱きしめた。その胸に、何度も何度も拳を受けながら、葛は黙って宗冬の叫びを受け止めていた。 「私は、どう生きたら良いのだ……」  ずるりと、腕の中から崩れ落ちた宗冬に覆いかぶさるように、葛は宗冬の髪を掴んで顔を上げその唇を吸った。驚いたように喉の奥を鳴らした宗冬は、渾身の力で葛を突き飛ばした。 「な、何をする」 「どう生きたら良いのかと仰せでしたから、このような生き方など宜しかろうと」 「どういう意味だ」 「いっそのこと、女となってしまわれたら良い。女ならば、家を背負って人質となることも、跡目争いに巻き込まれることもない。誰ぞに嫁ぎ、子でも産み育てればよい。あなたはどちらも選ぶことができる。めそめそと泣くのであれば、遠慮のう女の道を行けば良い。 但し、楽ではござらぬ。戦さ場を駆けずとも良いというだけで、その実、毎日が命がけでござる……芙由子様の御無念、よもやお忘れではあるまい」  宗冬の頤にかけた葛の指を掴み、宗冬は吠えた。 「おまえなど嫌いだ、大嫌いだ! 」  葛を肩で突き飛ばすようにして、宗冬は出て行った。滝壺に降りて愛馬の蒼風に跨って急き立てる声を聞きながら、葛は力なく岩場に腰を落とした。  あの多治見城戦で一瞬でも手を離してしまった時の事が、胃の腑をえぐるような後悔の念と共に思い起こされた。  この数年、思い出しては身を捩るばかりの、不毛な後悔を繰り返し続けてきたのだった。  遡ること4年前……。  あの多治見城下で、葛が澪丸から離れたのはほんの一瞬であった。本陣に近づく為、町屋の女の着物を奪おうと忍び込んだ民家に、思いもよらぬ人物が待っていたのであった。  咄嗟に刀を抜いて斬りかかる葛の太刀筋を容易に躱し、その胸元に強烈な蹴りを見舞って葛を吹き飛ばした。ボロ布のような体に強烈な一撃をくらい、葛は体を折り曲げながら血反吐を吐いた。 「まるでささらだな、そんな役立たずの刀で戦うつもりだったか」  幼い頃から聞き馴染んだ声に葛は息を飲んだ。束の間差し込んできた乱取りの炎に照らされたのは、藤森衆頭目・藤森市蔵の皮肉めいた顔であった。 「お頭」 「澪丸はどうした」  その問いに不穏な響きを感じ取った葛は、荷駄隊の片隅に澪丸を隠していることを告げてはならぬと本能的に悟った。 「敢え無く、御落命に」  すると、菰包みに腰を下ろしたまま、市蔵が喉を鳴らすようにクックッと含み笑いを見せた。本能的に刀を握るものの、血脂に塗れ飴のように曲がっている刀では着物一つ断つことなどできない。 「追い込まれるとそのように顔に出る。幼い頃のままだな、葛」 「こ、ここで何を」 「三条橋家とは手切れだ。あの貧乏公家め、報酬を渋りおった。それどころか新たに御所の御殿忍を使うと言い出しおったわ。さんざんこき使っておきながら、地縁を持たぬ根無し草は簡単に裏切るなどと言い放ちおった」  そうではあるまいと、葛が呆れたように血なまぐさい唾を吐き捨てた。 「お頭、耄碌するには早かろう」 「なんじゃと」 「お頭は藤森の頭で満足する手合いではない。大方、織田島の殿と三条橋の殿を、天秤にかけたのであろうよ。よりによって天下の策謀家二人をだ。道実様が凡庸な貴族でないことは先刻承知の筈。澪丸様を盾に脅しすかしたとて、乗ってくるほど呑気な方ではない」 「それはどうかな。三条橋家ではここのところ不幸が続いている。道実の幼い息子が立て続けに亡くなり、近衛家にようやく嫁がせていた異腹の妹もあっけなく病死した。あの魑魅魍魎の住処である紫宸殿(ししんでん)でせっかく頭角を現したとて、家を継ぐ者がおらぬ」  市蔵がゆらりと立ち上がった。乱取りで隣の民家が燃え始めたか、二人のいる室内を赤く照らした。市蔵の足元には夥しい血を流したまま絶命している老夫婦の遺体が転がっていた。 「流れる血は、どれも臭気が酷くて叶わぬ、高貴も下賤もないわ。それでも世の中は、血筋などというものを大層有り難がる。織田島が澪丸を見限るなら都合が良い。その血筋とやらを旗印に、我ら一門立ち上がるのだ」 「くだらぬ」  既に二人の周りは殺気に満ちている。粗末な土壁を突き破り、いつでも葛の横腹に刃先が突き刺さるであろう。市蔵配下が息を潜めているのを察しながらも、最早無腰同然の葛には斬り抜ける術がない。  葛が逡巡したほんの一瞬の隙をつき、市蔵が間合いを一気に詰めて葛の体を土壁に押し付けた。そして左手で葛の細首を押さえつけると、乱暴に唇を重ねてきた。歯を食いしばって抵抗する葛だか、下腹部を触れられて膝の力を失った。幼い頃に奪われてからの度重なるおぞましい記憶は、ただでさえ傷だらけの五体に残る微かな抵抗力も殺した。  市蔵はいつものように葛の奥に宿る母・桜子の面影を嬲るような目をしている。 「お前の姿を見るとまともでおられぬ私に、なおもそのような媚態を魅せるとは」  嫌だ、そう口で抗いながらも、関節をしっかりと押さえつけられ微動だにできない。横たわる葛に抵抗する力が無いことを確かめた市蔵は、ゆっくりとその体に纏わり付いていた着物の残骸を剥がしていった。 「私と共に参れ、参ると申せ。おまえはどう転んでも、私のものだ」  自分がその手で鍛えた若い体を蹂躙(じゅうりん)する倒錯に酔い、市蔵は己の配下とは異質の殺気が迫っていることに気づかぬまま夢中で葛に食らいついていた。 「……あなたは所詮、母への痴情を私で満たしているだけだ。拾ってもらった恩で差し出してきたが、もう、返してもらおう」 「返す、だと」 「私自身に、この体も魂も返してもらう。私は決して母ではない」  言葉は抵抗しても、手練れの市蔵に争う力はない。返り血を浴びたままの頰を涙が伝い、赤い水となって首筋を濡らした。その赤い水を執拗に舐め取りながら、市蔵が強引に葛の中へ押し入ろうとした時、どん、と衝撃が伝わった。 「てめぇ、何泣いてやがんだよ」  渾身の力で体を捩り、葛は市蔵の下から這い出した。鋼のように分厚い胴板には、深々と刀が刺さっていた。そしてその悪口を浴びせた人物は、足で背中を押さえつけて刀を抜き取ると、事切れた市蔵の体を乱暴に蹴り飛ばした。 「孤児を拾って飯を食わせるまでは良いが……所詮外道だな、忍なんてものは」 「碤三……」 「嫌だったんだ、この野郎がいつもおまえを玩具にするのが。何でその手で斬らなかったんだよ、何やかんやと言って、惚れてたのか」  嫌味を繰り出す碤三に、葛は駄々を捏ねる子供のように首を何度も振った。 「くそッ、俺がいるのを解ってて、人任せにしやがって。俺だってちったぁ恩義に感じてたんだぞ、おまえを嬲る姿を見るまでは」  無様に泣きじゃくる葛の腕を引っ張って立ち上がらせようとするが、葛は膝に力が入らぬとばかりにぺたりと座り込んでしまった。 「立てぬ」 「囲まれてんの、解ってんだろ」 「もう良い。おまえは逃げてくれ」 「馬鹿野郎、こんな下衆野郎にはまんまと抱かせるくせに、俺には指一本触らせねぇじゃん。俺のものになるまで、死なせてたまるかよ」  碤三は脇差を腰から抜き取り、葛に押しつけた。 「蹂躙された悪夢は終わりだ。泣くな、立て」  はっしと刀を受け取った葛は、乱暴に腕で涙をぬぐい、碤三の肘にしがみつくようにしてよろりと立ち上がった。 「あの小童の元に戻りたいなら、斬り抜けろ。いいか、俺は一生抜け忍なんて真っ平御免だ。しっかり戦っておまえが頭になれ、それしか生き残る法は無ぇ」  土壁を蹴って外に飛び出した碤三は、相手の姿も見ぬままに殺気を向けてくる敵を誰彼構わず斬りつけた。  後を追うように這い出た葛の首元に、背後から忍刀の刃先が貼りついた。 「俺ら孤児にとって頭は恩人だ、どんな外道でもな」  市蔵には、特に目をかけて手元で養育をしている若い一団が常に付き従っていた。だが、市蔵が別格の扱いをする葛と折り合うことはなかった。同様に、小頭格で抜きん出た腕を持ち、既に配下をも持つ碤三もまた彼らとは相容れず、不毛に手柄を争うことも一度や二度ではなかった。 「すまぬが、戻らねばならぬ」   碤三から借りた刀を握りしめ、葛は手から離れぬように切れ端でぐるぐる巻きに縛り付けた。一太刀、二太刀と斬り合わせたところで、息を乱して地に手をついてしまった。 「葛、立て! 」  乱れる息の下から頷きつつ、手近にあった小石をむんずと掴んで滅茶苦茶に投げつけた。 「所詮、貴様はお頭の玩具でしかない木偶の坊。無様なものだ」  額から血を流しながら渾身の斬撃を仕掛けてきた男の懐に転げこみ、葛はその心の臓に深々と刀を突き立てた。  どうと仰向けに倒れて絶命した仲間の姿に、若い一団はたじろいた。 「刀を引けって! 」  尚も食い下がる若い忍を蹴り飛ばし、碤三は大声を張り上げた。その勢いに、ふと殺気が緩んだ。最早命令遂行の意味も見失い狼狽する一団を、碤三は睨め回した。 「もう、自分の意思で生きていいんだよ。拾われたことを恩義になんて感じることは無い。自由に行け。俺と葛と共に行く者はついてこい。但し後ろ盾も報酬も心許ないのは確かだ。それでもよければな」  仰向けに引っ繰り返り、顎を突き出すようにして息を乱している葛を起こし、肩を貸しつつ碤三は歩き出した。不用意に背を向ける二人に、最早切っ先を向ける者はいなかった。    急いで織田島家の荷駄隊の詰所に戻った時、既に澪丸の姿は消えていた。奥の陣屋から、炊き出しを請け負う女達が慌てて走り回る様子が聞こえ、碤三の肩にもたれたまま潜んでいた葛は思わず声を上げそうになった。 「よせ、もう澪丸は俺達の手を離れた」  叫ぼうとした途端に口元を手で塞がれ、葛は忌々しげに払い落とした。 「勝手なことを申すな。離れぬと誓うたのだ」 「そんな体で何の役に立つ。あの様子では、澪丸が織田島の若様だということも知れたのであろう、ならば粗略には扱われ無ぇ」 「しかし」 「何と言ってあの人だかりに姿を見せるつもりだ。男か、女か、勝算もなく飛び出してどうするんだ」 「でも……」 「おまえ、面倒くせぇ奴だったっけ」  舌打ちしながら手刀を葛の細い首筋に叩きつけ、くたりと崩折れた葛を碤三がその太い両腕で抱き上げ、そのまま多治見城下を後にしたのであった。  伊勢は加太峠に近い山間。畑とてまばらな山中に、小さな集落があった。深々と茂る竹林を背に瀟洒な館が建ち、その周りに小さな家が点在している。畑を挟んで南斜面に足を伸ばせば、更に数件、桑畑を守る様に建っている。  かつては藤森市蔵が、拾ってきた孤児を忍として育て上げるための訓練場として使用していた隠れ里であった。市蔵は他にも幾つか大和や山城のあたりに根城を構えていたが、今は地方で忍働きをする者の為に新たに整備されていた。数日は籠城して戦えるだけの武具に馬、食料も備えた小さな要塞と言っても良い。  この里も、かつてはこのように炊きの煙がたなびく様な長閑(のどか)な雰囲気ではなかった。常に子供の悲鳴や絶叫が響き、不衛生な掘立て小屋がいくつか並ぶだけの、凡そ人らしい生活とは無縁の里であった。かつて市蔵以外の者を寄せ付けなかった館も、今は誰もが自由に出入りをしている。  失意の内に里に戻った葛であったが、手をこまねく間も無く、集団の模様替えに力を注いだ。碤三の手を借り、市蔵が貯め込んだ金子を使って方々に売られていた女達を請け出し、好き合う者同士には所帯を持たせ、腕の立つものには三条橋家に推挙して他家へと根回しをした。元々が若い集団であるだけに変化には柔軟で、あっという間に幾つかの所帯が出来上がり、畑が耕され、草鞋や木皮の加工品の販路も確立した。  葛が里に戻ってきてから2年余りも過ぎると、館の庭から見た景色はすっかり鄙びた山里に変わっていた。かつて、市蔵につけられた傷を癒しに裏山の小川へ赴くと、生き抜くことができなかった子供の遺体が転がっていたこともあった。ここは地獄で、自分は地獄の中でしか生きられぬのだと毎日思い知らされていた。あの陰惨で血腥い空気は最早どこにもない。春を迎え、そこかしこに花が咲き、穏やかな表情の里人達が畝道を歩いている。  体慣らしに、杖にもたれる様にしてどうにか庭に立ち、畑に目を向けていれば、生まれたばかりの赤子を抱いた女が、葛に笑みを向けてきた。 「お仙と名付けました」 「それは良い名だ。大切に育てよ」 「はい、有難う存じます。お頭こそ、どうぞお体をお大切に」  女は自信に満ちた笑みを返すと、赤子に何やら声をかけながら立ち去っていった。  自分と母にもあのような穏やかな時があったのだろうかと、葛は桜を見上げた。 「おい、春先とはいえ冷えるぞ。桜はまだ先だろう」  母の面影を記憶の中から必死に探していると、碤三の胴間声が邪魔をした。 「まだ蕾が固いな」  館の桜は、蕾がようやく桜色に染まってきてはいるが、咲き乱れるのはまだ先のことであろう。  ここのところ、こうして桜の木を見上げても母・桜子の顔が思い出せない。思い浮かぶ顔といえば、芙由子と、別れ際の澪丸の寝顔ばかりである。 「返事くらいしろって。倒れているのかと思ったぞ」 「ああ、すまぬ」 「ほら肩を使え。おれがちょっと戦働きしている間に無理しやがって」 「無理などしておらぬ。碤三のお陰で里が平穏だ」 「全てはおまえが書いた絵図だろ。俺はお姫様の仰せの通りにしているだけだ」   心配して庭に出てきた碤三の肩に寄りかかり、葛が微笑んだ。痩せてはいるが、以前の様な血生臭い影はない。それだけに、このまま治らなくてもそれはそれで良いと、碤三は葛の細い腰に手を回して歩みを支えた。  更に一年余りが経ち、竹林の中に立ち尽くして両腕をだらりと垂らした葛の姿があった。元より女のような長い黒髪は更に腰まで伸び、背中で一括りに乱暴に束ねられている。柿色の忍装束に隠された体の線はあくまで細いが、その背中には闘気が漲っている。  閉じられた双眸から伸びる長い睫毛が揺れた。同時に右手が懐から(つぶて)を放ち、放ちながら後方にトンボを切ると、つい一呼間前に立っていた場所に『苦無(くない)』と呼ばれる木の葉型の小刀が突き刺さっている。更に足元を狙って追いかけてくる苦無から逃れるように、葛は竹に向かって地面と平行に両足で飛び、弓なりに竹をしならせるようにして体重を預け、戻る力を利用して中へと飛び上がった。  竹林が風に揺れる音に気配を紛れさせていた敵の位置を把握し、着地する前に礫を四方に放った。それを避ける動作の時間差を巧みに突き、確実に仕留めていった。 「あと一人……」  と、葛の足元がぐらりと揺れ、木の葉の下から大男が飛び上がるなり真っ向唐竹割りに刀を振り下ろしてきた。しかし読み切っていたとばかりに地面を転がって間合いを外した葛が、手裏剣を立て続けに放った。無論、決まるとは思っておらず、避ける隙を突いて一気に間合いを詰め、忍刀を抜いて袈裟懸けに仕掛けた。 「甘いぜ」  大男は笑いながらその斬撃を受け止めたものの、首筋には既に、忍刀より小型の懐刀の刃先がしっかり貼りついていた。  ぐっと息を呑み、大男は手にしていた大ぶりの忍刀を放り捨てた。 「すっかり戻ったな、葛」 「まだまだだ。余裕がなさすぎて、動きが美しくないな」  肩をすくめて戯ける葛の額を、大男・碤三が憎々しげに指で小突いた。 「おうい、みんな、起きろ」  葛に斬られた筈の敵が、よろよろと起き上がった。 「頭ぁ、あばらがいっちまいましたよ」  口々に体の痛さを主張しながら、葛と碤三の周りに黒装束の若い一団が出来上がった。 「刃引きとはいえ、叩き伸せばそりゃ痛いだろう。悪かったな、付き合わせて」 「いいんですよ、頭の愛の為ですから」 「何だ、それは」 「織田島澪丸とかいう若様をお守りに行かれるんでしょ、俺たち放って」  笑いながら皮肉る若者に、葛がすまぬと笑って呟いた。そんな葛の頭を、碤三が思い切り小突いた。 「てめぇ、俺は治ってくれなくても良かったんだぞ、それを勝手に修行していやがって」  葛の華奢な顎を鷲掴みにして揺らしながら喚く碤三の手に自らの手を重ね、そっと指をとって唇を押し当てた。 「全てはおまえの真心のこもった看病のおかげだ。感謝している。里をここまでにしてくれたのも碤三の力だ。頭はやはり、おまえが相応しい」 「いらねぇわ、んなもんっ」  どかどかと派手な足音を立てて、碤三は竹林から出ていってしまった。 「相変わらず、頭一筋ですね、小頭は」 「驎太(りんた)、あいつを頼むよ。世話がやけるとは思うが」 「わかっていますよ。妹に身の回りの世話はさせますし、繋ぎは韋駄天(いだてん)兵衛(ひょうえ)に努めさせます。思う存分、お働きください」  驎太と呼んだ若者の頭を、葛はぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。まだ十代半ばの若者で、兄妹揃って焼け出されたところを市蔵に拾われた孤児であった。 「強盗か人殺しか……ろくでもない人生を送る筈だった俺達に光が見えたと思いきや、市蔵めは妹を淫売宿に売り飛ばして無法者の情報集めに使いやがった。頭が請け出してくれなけりゃ、妹はとっくに襤褸布のようになって死んでました」  京の都、各領地の市、港、人の集まるところに情報も集まる。それを逐一拾い上げるために、市蔵は孤児を拾っては仕込み、各地に放っていたのであった。葛はその中でも消息の知れている者で、境遇がより無残な状態にある者から救い出していた。情報を金に変えて忍の一党を大きくしてきた市蔵のやり方を捨て、戦える集団でありながらも里を構え、畑を耕す者、大名に腕を売り込んで銭を稼いでくる者、所帯を持ち子を産み育てる者、それぞれに合った持ち分を任せていた。 「皆、行って参る」   伊勢の山中深くに拓いた里を離れ、京へ繋がる街道に出たところで 葛は立ち止まった。  振り向いた山の向こう、炊きの煙がいくつも立ち上っているのが見える。人間の穏やかな暮らしがあの山奥にしっかりと根付いていることを確かめ、葛は歩を進めていった。    里の野菜を担ぐ農婦の姿のまま、葛は三条橋家の邸宅の勝手口から中へと滑り込んだ。  既に下女として働いている藤森配下の中年女の手引きで、葛は寝殿造の南側に池が広がる見事な庭園の、水面に張り出した釣殿に赴いた。  師実の頃は荒れ果てていたが、久しぶりに訪れた屋敷は手入れが行き届き、道実の権勢ぶりを容易に伺わせた。娘を地方の大名に嫁がせなくては体面一つ保てぬという昨今の貴族の有様からは、随分とかけ離れていた。  釣殿の障子窓を見上げる場所、池のほとりに膝をつき、葛は頰被りを取って控えていた。今日は一体何刻待たされるか、そう考えたのも束の間、眼前の障子窓が開かれた。 「遅かったの。待ちかねたぞ」  障子の桟に寄りかかる様にして、貴族然とした男が扇で口元を押さえながら座っていた。 「これは道実様」 「水臭い。そもじは従弟ではないか。兄と呼ぶが良い」 「滅相もございませぬ。しかしながら道実様のご厚情を以ちまして、里の者達は穏やかな日々を過ごしております」  ふん、と鼻を鳴らし、道実は扇の影から葛を見下ろした。 「御殿忍はやはり籠の中しか知らぬ故、役には立たなんだ。市蔵は浅ましい男であったが、そもじは我が血筋。血は水より濃いと申す故、もう一度働いてもらおうと思うたのじゃ」 「お陰様で多くの大名家の忍働きを勤め、里も潤いましてございます」  少しだけ微笑む葛の、変装の為に泥で汚した顔をしげしげと道実が見つめた。 「汚い形をしていても、やはり美貌は隠せぬのう。女でもまだ通じるか」 「そのような訓練は致しております」 「ならばのう、奥川へ参れ。添状は用意致した」 「三河の、奥川家でございますか……もしや、澪丸様の」  喜色を浮かべる葛に、道実は然程興味を示す風でもなく続けた。 「そうじゃ、奥川には二年ほど前から澪丸が人質として暮らしておる。奥川の背後には稲川がおるが、稲川頼将の室は四津寺家の出じゃ。駿河に小京都などと申す都を作り、調子付いておる。四津寺家はここのところ懐も潤い、官位を買いそうな勢いじゃ」 「恐れながら、四津寺家では五摂家である御当家と並ぶことは叶いますまい」 「三条橋の我は、右大臣とは申せ若輩。朝堂(ちょうどう)での発言権は未だ低い。が、何が起こるかわからぬのが今の朝廷じゃ。何せ皆金がない、金が欲しい。公家などと金看板ばかりが重うて腹は空いたままじゃ。四津寺は稲川の資金を背景に、猟官に明け暮れておる。このままでは娘婿の頼将の為に駿河守護どころか将軍職まで買いかねぬぞ」 「まさか」 「そして四津寺の後ろには、九条や坊門までついておる。金の匂いには鼻の利く奴らじゃ。 織田島は間も無く美濃も尾張も平定しようが、甲斐の高田と駿河の稲川が立ち塞がる限り小物大名に過ぎぬ」 「それと奥川家がどう……奥川を駿河から切り離し、稲川頼将に織田島宗近をぶつけよとお考えにございますか」  ふふふっと金属的で耳障りな含み笑いを返し、道実は障子窓を閉めた。 「澪丸は手駒としては未知数じゃ。お前なら、この三条橋に富をもたらす打ち出の小槌に、あれを育て上げてくれようのう」 「お待ちくださいませ、私にはそのような……」  食い下がる葛の言葉に返事はなく、衣摺れの音と共に道実の気配は消えた。  相変わらず勝手なことをと、葛は溜息と共に立ち上がった。改めて庭を見渡しても、そこにかつて母がいたであろう温もりはどこにもない。桜の木までもが、手入れが行き届きすぎて作り物のようであり、今にも咲き乱れそうに桜色に膨らむ蕾を見ても、心が踊ることはなかった。  だが、道実は芙由子の兄であり、澪丸の伯父である。情などなくとも、澪丸が一国の主となった時に必ずその血筋が物を言う。その時、澪丸は父・宗近を超えるのだ。  ぎりぎりと、葛は道実に手渡された添状を握りしめた。  奥川家に入った頃から澪丸に張り付かせている下忍からの知らせで、澪丸が岡崎城を抜け出し領内の山中に入ったことはわかっていた。  己の身体の驚愕すべき真実を突き付けられた時、何人たりとも気を許せぬ他家の水の中で、どれほど苦しんだであろうか、もっと早くに戻るべきであった……と、美しい顔を苦悩に歪ませ、杣人も追いつけぬ程の足運びで、葛は隠し砦へと急いでいた。  『澪丸は月を抱く子ゆえ……』  幼い澪丸の身の回り全ての世話を請け負ってきたのだ、芙由子のあの言葉の意味を理解する事に時間はかからなかった。  だが、葛とて、女ではない。それをどう捉え、折り合いをつけたら良いものか……なじられるか、拒絶されるか、はたまた手打ちにでもされるか。答えを持たぬまま澪丸の元に戻ったとて、何ができるのか、かける言葉はあるのか……逡巡するばかりであった。  近江山中の隠し(とりで)で馬を出し、葛は岡崎城下を目指すべく迷いつつも鞭を入れたのが、4年ぶりとなる不機嫌な再会の、三日前の出来事であった。                   
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