5.駿河の徒花

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5.駿河の徒花

 5 駿河の徒花  翌朝、少々寝不足の宗冬は直獅郎に別れを告げ、一路駿河へと向かった。既に先行している石川一貴が安佐を通じて頼将との面会の約束を取り付けていた。  少ない軍勢ながら、奥川家の兵は整然と隊列を組んで街道を進み、規律を乱そうなどと邪な考えを持つものはなく、静かに駿府に入り、城下外れの寺を宿とした。 「ご苦労様でございました」  奥の間で出迎えた石川が、岡崎の将康からの書状を差し出した。 「明日、頼将様との会見にお臨みいただきます。その前に、これより御嫡子・宣将(よりまさ)様とお会い頂かねばなりませぬゆえ、急ぎ湯殿にて汗を流されませ」  短く返事をし、宗冬は書状を開いた。 「宣将殿を殿の名代として伴い、明日城に上がれば良いのだな。今日はその打ち合わせということで宜しいか」 「そうお考えくださいませ。朝比奈(あさひな)家の別邸にて、安佐様と宣将様がお待ちでございます」  朝比奈とは、稲川家の代々家老職を務める名門・朝比奈家のことである。稲川家とも婚姻を重ねる言わば外戚であり、駿府城下を見下ろす賤機山(しずきやま)城の主。当代は朝比奈且将(あさひなかつまさ)、安佐の叔父である。そして安佐の母は頼将の父・頼隆の側室・志津目(しずめ)。朝比奈且将の姉である。 「確か、宣将様も十三と聞いておるが」 「左様にございます」  相も変わらぬ愛想のなさで事務的に言い放ち、石川は辞去していった。  朝比奈家の屋敷は殊の外広大であり、駿府における力の有り様を示していた。  襖に描かれた牡丹の鮮やかさ、欄間(らんま)の細工の見事さ、小大名の城の造作と言っても過言ではない、いやそれ以上に手の込んだ瀟洒(しょうしゃ)な大広間である。織田島の家紋を染め抜いた直垂姿で待つ間、宗冬はそれらの見事な細工を楽しんでいた。背後に付き従う奥川家の家臣団も同様で、一つ一つの細工に感嘆の声を上げていた。 「宗冬様、お行儀が」  背後からチクリと石川が制すが、宗冬は殊に天井画の荘厳さに目を輝かせていた。 「そんなに珍しいかのう」  すると、訪が知らされるでもなく唐突に、肥えた体格の若者が上座に現れた。が、用意された席に座すでもなく、上段から降りてくるなり宗冬の隣に胡座をかいた。 「派手なだけで、何の面白味もない。あれは朱雀だと言われても、ようわからん」 「朱雀なのですか。私はてっきり青龍かと」 「おまえも見る目はなさそうじゃの」  言い返そうと息を吸い込む宗冬の袂を、石川がぐいと引っ張った。 「宣将様にございますぞ」  慌てて手を支えて居住まいを正したところへ、腰巻姿も艶やかな女性が姿を見せた。 「これ宣将殿、はしたのうございますよ」  美しい顔立ちには険があり、仕える者達の緊張感が宗冬にも伝わってきた。この女性こそが稲川頼将の末妹にて奥川将康の正室・安佐である。  優雅な所作で上段に座し、32歳とは思えぬ貫禄で安佐がじっと宗冬を見据えた。 「面を上げよ」  と言われて上げられるものではなく、少し顔を上げはしたものの、目線はしっかりと手元に落としたまま、宗冬は名乗った。 「織田島の小倅か。人質風情に討ち取られるとは、照素も意気地のない事じゃ」  はっしと、安佐が扇子の先で膝下を叩いた。宣将がビクリと肩を震わせるなり、すごすごと背を丸めて上座に上がり、母の隣に座した。 「塩漬けの首を持参したとか。兄・頼将はさぞ嘆くであろう。将康殿も、何も我が兄を怒らせることをせぬでも良いものを」  そんな嫌味を口にする安佐の声は甲高く、言葉以上に耳障りであった。 「もう良いではないか、母上。小倅殿が困っておいでじゃ」 「恐れながら……」  小倅と言われ、宗冬は宣将に、そして安佐にしっかりと顔を向けた。 「私の名は宗冬にございます。小倅ではござりませぬ。それと、照素様は武士らしく戦って果てられました。これも戦国の習いなれば、(おとし)めるお言葉はお控えいただきとうございます」 「な、何じゃと」 「頼将様との対面へのご尽力、誠に忝うございます。しかしながら、私が人質であるように貴女様もまた奥川の御正室。奥川の家臣団への労いこそがまず第一のお言葉であるべきと心得ます」  安佐の顔が見る間に紅潮し、とうとう手にしていた扇子を床に叩きつけた。 「おのれ、人質の分際で! 」  隣では辟易した様子で宣将が鼻をいじっている。  立ち上がって金切り声を上げ続ける安佐に背を向け、宗冬はさっさと辞去した。その所作を、奥川の家臣団は清々しい面持ちで見送ると、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく宗冬の後を追って広間から去っていったのであった。  稲川家に生まれ、重臣・朝比奈家の娘を母に持つ安佐の矜持は、粉々に砕かれた。もとより将康との夫婦仲は良かった試しもなく、こうして離れて暮らすこと数年、嫡男でありながら宣将に従う奥川の家臣は殆どいない。  奥川などに嫁がせた兄・頼将が、こういう時こそ憎くてたまらない。しかしながら生家の保護下にいなければ自分に何の力もないことも、安佐はよく解っていた。  自分は持て余し者でしかないのだ、ということを。  折角産んだ宣将もこの通りだと、安佐はその頭を叩かずにはいられなかった。  葛が碤三と共に駿府城の下見を終え、対面の儀における藤森衆の配置を決めた頃、京からの知らせが届いた。三条橋道実からの文には、稲川頼将の上洛と共に、参内することの許可が朝堂より下されたとのことであった。 「早いな」 「頼将室・多喜(たき)殿ご実家の四津寺家が方々に金をばらまいた故であろう」 「浅ましいことだ。で、どうするね」  二人が居るのは駿府の街中の商家である。店の主人は薬草に通じた藤森の手の者であり、駿府での諜報活動の拠点として根を下ろしていた。  薬草が壁一面に干されてある店裏の蔵の中で、葛は農家の若者のような野良着の胸元をくつろげて寝転がった。 「大丈夫か」 「ああ……なぁ碤三、織田島の殿がこの機を逃すと思うか」 「道実公からの知らせは殿にも届いていようからな。無策ではおるまい」  葛の横に並ぶように、碤三も大の字に手足を広げて転がった。 「織田島の殿の動き、微塵も見逃すなと手下に伝えてくれ」 「おまえはどうする」 「若と共に動く。喜井での見事なお働き、おまえも見ただろう。この機に、武人としての手柄を立てていただき、この後の生きる自信にしていただきたい」 「何を考えているんだよ」 「何も考えてはおらぬ。第一考えの通りになど、あの曲者達が動くと思うか。全ては私の考えの外だ。その時その時、良い判断を瞬時に下すしかない。間違えたら、その時は若を抱いて死ぬまでだ」  自重気味に笑う葛に、碤三が覆いかぶさるようにして抱きしめた。 「それは俺の役目だ。俺がお前を抱いて死ぬ」 「とんだ三竦みだな」 「笑うな」  微笑む葛の唇を、碤三が怒りに任せるようにして塞いだ。抗う様子もなく、葛は喉を鳴らすように碤三を受け入れた。 「笑いはせぬ。私の骨は、お前が拾っておくれ」 「あの小童のは捨てるからな」 「存外器が小さいな」  冗談だ、そう笑い、葛が両手で碤三の頰を包んだ。導かれるようにして再び唇を合わせるが、碤三の手が葛の胸板を撫でた時、その体温は離れてしまった。  起き上がった葛は、取り戻そうと伸ばす碤三の手をそっと退け、そのまま蔵から去っていってしまった。 「何でだよ……」  葛の体温が消えていく床板に、碤三が拳を叩きつけた。    駿府城本丸、大広間。かつて宗冬が人質として暮らしたどんな城よりも荘厳華麗で、贅の限りを尽くしたかのような意匠がそこかしこに施されていた。  まだ無人の上段の間に向かい、直垂に身を包んだ宗冬はじっと瞑目していた。少し上座には宣将が座しているが、宗冬に向けられたままの背は全く鎮まる様子はなく、ずっと小刻みに震えていた。 「おう、参ったか、宣将」  すると、上段から若々しい声がかかった。親し気に名を呼ばれ、宣将は思わず顔を上げて両足を床の上に投げ出した。こんなところに当主・頼将が来たらどうするつもりだと派手な柄の(たもと)を掴もうと手を伸ばした時、頼将の着座が告げられた。  宗冬は背後に付き従う石川に目顔で合図をし、照素の首級(みしるし)が収められた葛桶を膝元に運ばせ、照素の御霊(みたま)に合掌をした。やがて上段の間に太刀持ちの小姓が現れると、再び平伏の姿勢を取った。  「織田島宗冬と申したか。面を上げよ」  忙しく上座についた頼将に促されるまま、宗冬は顔を上げた。  決して美男という面相ではないが、少なくとも父・宗近のように人を寄せ付けぬ酷薄さはない。太くよく響く声にも、宗冬に磊落に見せる表情にも、騙し討ちをしようなどという姑息さもない。いや、そのように見せて油断させるのも手の内かも知れぬが、少なくとも今は、宗冬に敵愾心(てきがいしん)を向けていない。 「よう、息子を連れ帰ってくれた」 「戦国の習いにございます、御寛恕(かんじょ)くださりませ」  頼将は頷くと、近習達を促して照素の首を下げさせた。 「父上、こやつは兄を斬った者、この場にて……」  先ほど宣将に親しげに声をかけた若武者が、立ち上がるなりスラリと刀を抜いた。 「奥川に囚われの人質風情が、ようも武芸で馴らした兄を討てたものよ。大方その女の如き容姿で油断を誘いおったのであろう、卑怯者め」  床を踏み鳴らしながら上段から下りてきた若侍が、切っ先を宗冬の顎下(あごした)に差し込み、ゆっくりと顔を上げさせた。その少女のよう可憐な顔立ちに似合わぬ落ち着き払った漆黒の瞳を見た途端、若侍の切っ先が鈍り、刀がふと下がった。 「おまえは……」  宗冬は咄嗟に横飛びに刃の下をかいくぐり、両手でその刀の刃を挟むようにして巻き取った。ほんの一瞬の出来事に、大広間が時が止まったのように静まり返った。  呆然と突っ立ったままの若侍から数歩下がり、宗冬は巻き取った刀を自分の右側に置いて膝を折った。 「ご無礼を。ただ、照素様との一騎打ちに卑怯未練(ひきょうみれん)な振る舞いなど金輪際(こんりんざい)無かったことを今一度申し上げとうござります。言わば、馬の違い……我が愛馬が優っていただけのことにございます」 「頼素、この父にこれ以上恥をかかせるでない」  頼将に名を呼ばれ、頼素はその場に力なく座した。 「許せ、宗冬殿。こやつは儂が四男、小四郎頼素(こしろうよりもと)じゃ。十八にもなってこのザマでのう。嫡子としての器量がまだ備わっておらぬ」  頼素の視線があらぬ方を向いているのを良い事に、宗冬は大きな目だけを動かして頼素の姿を観察した。  間違いなく、奥川領のあの滝で出会った公達である。  だが、頼素の方はまだ確信を得るに足りぬ様子であった。 「恐れながら、此の期に及んでの喜井家への介入、干渉はご無用に願いたい。横車(よこぐるま)を通されるならば、次は別のお子の首が飛ぶ事になりかねませぬ。と、喜井家当主・直獅郎様から言付かっております」 「虫の良い話だな。全力でかかれば喜井谷など一捻(ひとひね)りじゃと申すに」 「それは如何なものでしょう。今、喜井を手に掛けて三河の奥川や尾張の織田島を敵に回せば、上洛は難しくなりますよ」 「何じゃと、何故それを……そうか、そうであったな」  人の良さそうに垂れた瞼の下から、獲物を捕食する猛禽(もうきん)類のように頼素が見据えた。思わず体が竦むのを必死でこらえ、宗冬は自ずから膝を前へ進める勢いで続けた。 「喜井を侮られてはなりませぬ。堺の町名主も南蛮商人共も、今や喜井谷の鑑札なくばチリ一つ動かそうとはいたしませぬ。故に、奥川殿も織田島の父も、喜井の立場を慮っているのです。直獅郎様は、決して稲川に弓引くような事はなさいませぬ。どうか、ご放念くださいませ」  直獅郎や藤森衆がもたらしてくれた情報はこれが全てではない。だが、頼将はそれも分かった上で損得を考えている……宗冬も頼将の思考を探りつつ決して目を逸らさなかった。 「相わかった」  長い静寂の後に放たれた頼将の野太い返事に、宗冬は思わず息を大きく吐き出した。 「何じゃ、斬られると思うたか」 「ええ、まあ」  宗冬の飾らぬ答えに、頼将は豪快に笑った。 「斬れる筈がない。そなたは三条橋の血筋。右大臣様におかれましては、今度の儂の守護職就任にご尽力下されたと、妻の里である四津寺家から聞き及んでおる」  故にここに葛が従っておらぬのだと得心がいった。今や道実に連なる血筋で次代を担える者は、この宗冬しかいない。三条橋と織田島の血を引く唯一の男子である自分を斬っては、この名誉欲の塊のような頼将の願いは叶わない。 「奥川殿が申しておった、そなたのような息子がおればと。儂も同感じゃ。この頼素では、折角駿河遠江守護の地位を保証されたとて、二束三文で買い叩かれそうじゃて」  返事の仕様に困ることを平然と口にし、固まる頼素をそのままに頼将はさっさと辞去していった。  背後の家臣団に弛緩の溜息が洩れて、居住まいが(いささ)か緩くなったことを見計らうように、宗冬は刀を頼素の目の前に置いた。 「どなたかと、見間違われましたか」  差し出した刀を持つ手に、頼素が恐る恐る触れようとするが、宗冬はそれを許さずにスッと手を引いてしまった。 「そなた、奥川の領内で……いや、白糸の滝に行かれたことはおありか」 「白糸の滝ですか。というより、お一人で他家の領内にお入りになるとは、大胆な」 「いや、その……知り合いから聞いた話だ……覚えがないなら良い」 「然様にございますか。ならばこれにて、御免」  立ち上がって背を向けた宗冬の手を、頼素は今一度しっかりと掴んで引き寄せた。  肩越しに振り向く宗冬の横顔が、あの時の白糸の精と重なった。 「やはり……」  宗冬を囲むように、奥川の家臣団が一斉に腰を落として小刀に手を掛けた。 「御兄上の敵討ちならば、今ここで承っても宜しゅうござる。三河者は例え小刀しか身に帯びずとも、最後まで戦いますぞ」  石川一貴が既に小刀の鯉口(こいくち)を切って腰を沈めて構えていた。 「その要はない。頼素殿にその度胸はなかろう」  宗冬が振り解くと、案外簡単に頼素は手を離した。よく見れば中々の美丈夫だが、いかんせん武士にしては表情が出すぎる。これでもっと胆力があったなら、一廉の武将にもなろうというに……相手にするまでもないという風に、宗冬は頼素に背を向けて去った。  驚く事に、駿府の城門の前にはズラリと鉄砲隊が並んでいた。思わず足を止めた宗冬であったが、指揮官の顔を見るなり走り出した。 「か……市蔵! 」  思わず葛と叫びそうになるのを堪え、宗冬は一目散に葛の元へ走り寄った。膝をついて出迎えた葛は、鎧直垂(よろいひたたれ)に胴と面頬(めんぼお)をつけた姿であり、烏帽子(えぼし)から垂れる黒髪が陽光を浴びて艶やかに揺れている。面頬で顔を隠していても、この姉は誰よりも美しいと呟き、宗冬はその胸に飛び込みたい衝動を必死に抑え、葛の手をとって立ち上がらせた。 「待たせたの」 「何のことはございませぬ。直獅郎様から借り受けた鉄砲隊、無用に終わり何よりと存じます」 「こんな門前で鉄砲隊と共に控えるとは、大胆にも程があろう」 「私供はただの供揃えに過ぎませぬ。故にこのような宮芝居のような装束を」 「そなたは何を着ても映えるのう」  形ばかりの供揃えとして控えながら、いざとなれば弾込めをして撃ち放つつもりであったことは容易に知れる。鉄砲隊の面々はいずれも、喜井谷でも選りすぐりの連中である。 「帰りましょう」 「そうじゃな」  面食らって言葉を失ったままの奥川の家臣団は、跳ねるように歩き出す宗冬主従を慌てて追いかけたのであった。  岡崎に戻った宗冬は、奥川将康からの一層の信頼を得るに至った。葛は藤森衆の中でも鉄砲の扱いに慣れたものを数名喜井谷に残し、直獅郎の身辺警護も兼ね、堺からもたらされるであろう新式の銃について学ばせる事にした。  宗冬の仲立ちで、将康はやがて直獅郎と共に堺の商人達と懇意になっていく。かつて渥美半島を治めていた田原(たはら)氏の居城・田原(たはら)城を改築し、伊良湖付近には海沿いに大型船が入港できる港を整備した。そこで荷分けされて小型の荷駄船にて波瀬(はぜ)の陣屋で仕分けされ、田原に至る。かつて田原氏は「玉虫色」との誹りを受けて織田島、稲川を行き来しては奥川と小競り合いを繰り返していたが将康によって一旦は滅ぼされた。しかし海を知る一族であるが故に、将康は縁者を新たに支配下として陣屋に置き、渥美の代官として港の管理一切を任せていた。  尾張の織田島宗近が美濃攻略に手こずっている間にも、将康は水面下で着々と三河や尾張の水軍を手懐け、海の軍備を整えていたのであった。  
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