7.伊那・高遠攻防

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7.伊那・高遠攻防

7.伊那・高遠攻防  瞬く間に織田島勢は美濃を通り抜けて明智領に入った。高田勢は隆信を旗印に急ぎ軍を立て直し、まずは玄道の末子で隆信の異母弟である高遠城主・仁科克信(にしなかつのぶ)に援軍を送った。克信の母は木曽一帯を収める古豪長野家の出であった。すぐに長野勢と信濃の国境を固め、荷駄が行き来する街道を封鎖した。  奥川将康は、当然のごとく援軍を要請してきた宗近に従い、渥美の田原党と喜井谷の鉄砲隊を吸収し、喜井谷を経由して田峰城に入った。まずは東濃の山方衆を調略にかけた。  田峰(だみね)城の元々の主・菅田廉唯(すだよしただ)は、この先の武節城も含むこの信濃・美濃・三河の国境の山間部を治めていた。常に土岐家や高田家の脅威にさらされ、玉虫色の外交で何とか生き延びてきたものの、織田島の台頭によって土岐が滅び、隣接する明智一族が織田島に与したことで来し方を定められずにいた。高田からの誘いにも乗る素振りをしながら決断までの時を稼いで居る時に交渉役として現れたのが将康の家臣・酒匂清重(さこうきよしげ)であった。  元来山間にあって石高が決して高くはなく、戦のたびに疲弊していた山方衆は、織田島の高田攻めに反意を見せるまでもなく城を開けたのであった。  木曽路の入り口となる岩村城の遠山信方は明智宗兵衛が、この田峰城と武節城の菅田廉唯は酒匂清重が調略し、それぞれ信濃への前線基地として織田島・奥川軍を迎え入れたのであった。  奥川軍本陣に、織田島方の使者として明智宗兵衛が現れた。  帯同していた宗良を伴い、軍装を解かぬままに宗冬が謁見をした。 「明智宗兵衛光繁(あけちそうべえみつしげ)にござりまする」  慇懃に平伏する宗兵衛の所作は、田舎侍のそれではなく、宗冬もよく知る京風の、貴族的な高貴ささえ感じさせるほどに流麗なものであった。 「どうぞ面を。私が織田島宗冬にござる、以後見知りおきを」  短くそう答え、宗冬は少しばかり頭を上げた宗兵衛の風体をしげしげと見つめた。決して美男というわけではないが、武辺で鳴らした三河武者のむくつけき男たちとは一線を画す爽やかさがある。葛が言うには一刀流の免許皆伝の使い手とのことだが、ひょろりと細身で背が高く、怪鳥の如く飛び上がって真っ向唐竹割りに相手の脳天に刀を打ちおろすような、敏捷さも力強さも感じない。 「某に、何か」 「いや、大変に有能な方と聞いておりましたので、もっとこう、四角四面な雰囲気かと」  むしろ、そうにっこりと微笑む宗冬を、宗兵衛は怪訝な顔で見上げていた。 「あのう、明智殿」 「あ、どうぞ宗兵衛とお呼びを……いや、失礼。お噂通りの可憐なお姿で、とても十三の年に一騎打ちで稲川照素を討ち取られたようには見えませず、ちょっと驚いております。もっと昏い陰を背負われて、人を拒絶するような……そんな方を想像しておりました」  まるで遠慮というもののない真っ直ぐな物言いに、むしろ面頬をつけて武将姿で付き従う葛が、さっと気色ばんだ。思わず刀の柄頭に手を置いた葛を、宗冬がにこやかに制した。 「きっと、人質生活が長かった故、人の顔色を伺う事に長けているだけです」 「いや、目の前の貴方様からは、そんな卑屈さは微塵も感じません。出会われた方々に恵まれたのでしょう」 「ええ、確かに私は恵まれております。何しろ私には、姉と、兄と、そう呼べる者がいて、心の父と、そう慕う奥川殿がいて、そして……帰りを待ってくれている妻がおります」  一言一言、相手への思いを込めるようにして大切に答える宗冬に、宗兵衛は既に取り込まれていた。 「あなた様になら、安心して命を預けることができまする。数々のご無礼、ご容赦を」 「それは私とて同感。見ての通りの若輩です、ご指導ください」  滅相も、と屈託なく手を振り、宗兵衛は漸く宗良を見た。 「殿は、確かにお怒りではござるが、無事を知って安堵されてもおられる。織田島の陣に戻り、まずはよく謝罪をすることです」  優しく諭す宗兵衛に、宗良はプイと顔を背けて応じた。 「して、父はどう動きますか」 「はい」  宗兵衛は胴着の下から絵地図を取り出し、盾を裏返して並べただけの軍卓に広げた。 「岩村城に続き、苗木(なえぎ)城も家中にいる我が縁戚が既にこちらに呼応しております故、木曽福島攻めまでは無傷にて軍を進めます。初戦はまず、福島そして飯田になるかと」 「ほう、伊那路を初手から戦って進まねばならぬと思うていた故、有難い。奥川殿は岩村城を補給基地に、飯田経由で天竜川沿いに北上し、駒ヶ根の麓にて陣を張り、伊那と高遠に備えよと申されておられるが」 「上策と存じます。織田島はこのまま木曽山脈を迂回して塩尻経由で辰野を目指します。辰野城、諏訪城の攻略は、こちらにお任せくださりませ」 「承知しました。高遠は何としても落とさねばならぬの」 「ええ。仁科克信を落とせれば、高田の兵力は半分以下となりましょう。木曽路を攻略して抑えてしまわねば、あちらに再起の暇を与えることとなります」  で、と宗兵衛が不意に押し黙った。周りを確かめるように目を配ると、宗冬に顔を近づけた。葛が例の如く全身の毛を逆立てる猫のように警戒の気を発している。 「奥川様をそこまで信頼して宜しいのでしょうか」 「どういう意味か」 「奥川様は、岩村に入られたら後の事を全て貴方にお任せすると申され、軍議一切は宗冬様と咨るようお命じになりました。或いは、捨て駒ではないかと」 「ご冗談を」 「冗談ではございません。木曽路を北上する途次で長野勢との小競り合いはありましょうが、高遠勢との戦いはおそらく雌雄を決する苛烈なものとなりましょう。そこへ御大将が姿を見せぬなど、考えられませぬ」  確かに、束の間動きを止めた宗冬だが、迷いを振り切るようにフッと息を思い切り吐き出した。 「将康様は戦がお嫌いです。あの方が戦うのは、ひたすら戦のない世を作るためなのです。そのお手伝いができるなら、私は捨て駒でも構いません」 「宗冬殿」 「それほどに、将康様には御恩があります。それに……早く戦を終わらせて、妻の元に帰りたいのです」  清々しい表情で臆面もなく妻を恋しがる宗冬に、宗兵衛も笑顔で応じた。 「あなたなら、きっと……そうしましょう。とっとと終わらせて、私も妻と子供の元に帰りとうござる」  およそ武将らしからぬ事を平気で口にする二人に、葛が思わず呆れた声を出した。 「お二人とも、ここ、陣中ですよ」  初めて葛の声を聞いた宗兵衛が驚いた顔で振り向いたが、面頬を外して顔を見せると更に腰を抜かしたようにその場に崩れた。 「宗冬様は、観音様を帯同しておられたか」  手を合わせようとする宗兵衛を笑って押し留め、先ほど申した私の姉です、と宗冬が葛を紹介したが、その武将姿と美貌と甘やかな男声に、何者かを飲み込めず、全てが混同しているようであった。 「わ、我はどうなっておるのだ」  三人が和気藹々と話していると、すっかり存在を忘れ去られていた宗良が叫んだ。 「早う我を父の元に連れて行け」 「あ、そのことは一切お館様から仰せつかってはおりませぬ」 「な、なんじゃと! 」  悲鳴を上げる宗良を一顧だにせず、宗兵衛は宗冬と葛に辞儀をして立ち去った。 「な、何をしに参ったのだ」  宗冬が、哀れな弟の腰刀を挿し直してやった。 「私と共に参れ。軍功を上げたら、父もお怒りを解いてくださるだろう。かく言う私とて、織田島の陣に加われとは、ついぞ言われなかった」  しかし、そう言う宗冬の顔に寂しさや悲しさは微塵もない。むしろ将康の元で戦ができる事を楽しみにしているかのような、期待感に満ち溢れている。 「兄の風下には立たぬ! 」  そう金切り声を上げ、宗良は陣幕の外に駆け出ていった。 「哀れな……それより、紘は無事に着いたか」 「ご安心を。藤森の里で大切に預かっております。飯田城の縄張りを調べ終えたら碤三が戻って参りましょう。様子をお尋ねください」 「亭主をこき使って済まぬな、葛」 「て、亭主とは……」 「今更隠しても遅いよ。だって私には厳しいのに、碤三にはすごく可愛い顔を見せる」  紘と契り、そうした人との繋がり方を知った故か、このところ宗冬はどんどん心が大人びていくように思われた。最早隠すことではないと、葛は口元を綻ばせて頷いた。 「だらしのない事ですね……ええ、碤三は亭主で、私は幸せ者の妻でございます」 「それで良い。葛が幸せなら、私はとても嬉しい。ああ、故に観音様に見えたのだな。とにかく鎧を着ていても婀娜すぎるから、戦陣で面頬は取らない方が良いよ」  頬を赤らめる葛に、宗冬は子供がはしゃぐように抱きつき、そして祝福をした。    岩村城では天守に軍備が全て並べられ、決して叛意はせぬとの強い意思表示で奥川軍に明け渡された。城主の遠山信方(のぶかた)は改めて先触れとして伊那街道の先導役となって奥川軍に参陣することとなった。  将康、宗冬、そして喜井谷の直獅郎の養子となり後継として参陣した喜井政虎(きいまさとら)らが、それぞれ懐刀となる家臣を連れて、本丸の大広間に揃った。 「これより先は大軍では動きが鈍くなり申す。長野勢は木曽義仲の時代以来、馬での山戦に長けておる故、ぞろぞろと歩兵が街道をふさぐようなことでは却って危険です」  地図を指し示しながら、信方が山城の主人らしく見解を述べた。元々は三河と縁のある一族であった。恵那近郊が高田の所領となってからはその家中に従ってはいたが、名門意識の強い高田家中にあっては常に遠山家は外様であり、関係性は冷え切っていた。将康は密かに奥川家中で遠山家と祖を同じくする遠山影方(かげかた)に命じて誼を通じていた。 「影方がのう、その方に会いたがっておったが、何分年でな、岡崎の留守居に置いて参ったのじゃ」 「大叔父上はまだまだご壮健の由、槍を振るって城を守っているお姿が眼に浮かぶようでござります。お館様のご厚情、かたじけのうござる」  清潔感のある若武者だと宗冬が感心しているところへ、信方の妻が腰元たちに膳を持たせて入ってきた。 「これ、軍議の最中ぞ」 「申し訳もございませぬ。しかしながら長野勢は奇襲が得意、いつ何時なりと襲ってくるかは解りませぬ故、今のうちにと思い……」  夫の言うことに一応は謝りつつも、はっきりと理由を述べる妻の立ち姿は何とも凛々しい。皆の視線を一身に集めるだけ集めた妻は、にっこりと微笑んだ。 「山奥でございます故、何もございませぬが」  膳には握り飯と香の物、雉の入った汁物が並んでいた。決して豪華ではないが、激戦の前の食事としては上々であった。  女達が各々武将達の前に膳を並べていく。その最後尾に、いつの間にか変じたか、葛が腰元姿で何食わぬ顔で侍っていた。それもわざと美貌を損なうような酷い化粧をし、肉襦袢でふくよかになっていた。 「申し遅れました。奥川様、某の妻の希江(きえ)にございます。三河の出で、遠山の縁続きの者にございます」 「左様か、どうりでな。三河の女子は覚悟が違う」 「跳ねっ返りでお恥かしゅうござる」  満更でもない様子で希江を紹介した信方が頭をかいた。希江はそんな夫を自慢げに見つめ、将康の椀に白湯を注いだ。  宗冬の元には醜女の葛が膳を運び、周りに知られぬよう宗冬に向けて唇を動かした。 「殿、その白湯、私が改めます」  碗を口に近付けた将康の元に駆け寄り、宗冬がその碗を取り上げた。 「無礼だぞ、控えよ」 「このような時でございます、敵の間者が忍んでいるとも限りませぬ」 「奥川殿、どうぞ織田島殿のお気の済むように。某は一向に構いませぬ」 「御免」  宗冬が、刀の鍔から三条橋家の家紋の入った銀の笄を取り出した。その刃先を碗に浸すと、間も無く刃先が黒く変色をした。 「これはいかなることか、信方」  気色ばむ家臣達を抑え、将康が慄く信方に問い詰めた。首を何度も振りつつ、信方は何も知らないと答えるのみである。 「奥方様、長野と通じておられるか」  宗冬の指摘に、しかしながら希江は平然と微笑んだまま座していた。 「残念ながら、長野の奇襲はござらぬ、希江殿」  醜女姿のまま刀を抜いた葛が音もなく近寄り、希江の首筋に刃先を向けた。 「城の裏手に隠れていた長野の兵は、我が藤森衆と石川殿の兵とで駆逐済みだ」 「希江、いかなることか、答えよ! 」  気も狂わんばかりに叫ぶ夫に、希江は憎悪すら感じさせる目を向けた。 「こんな田舎にやっとの想いで嫁いで見れば、周りは敵ばかり。産んだ子は次々に人質に取られ、今もまた、漸く手元で育てていた姫を攫われ……貴方の目は一度として家の中に向いたことはなかったのじゃ。三河に戻れるとばかりに浮かれ、子等の行く末には目もくれぬ。岩村に奥川殿が入られた時、一郎も三郎も、福島の城で殺されておる。姫も……今頃は、あ、ああ」  葛の切っ先が鈍った。宗冬を他家に取られるあの折の芙由子の姿が、希江と重なった。 「希江殿、姫が長野方に囚われているのか」  宗冬が代わりに希江の肩をしっかりと掴んで問うた。 「将康を殺し、長野の兵を手引きせよと。事がうまく運べば、姫は無事に返すと」  信方が堪らずに希江を蹴り飛ばした。 「愚か者が! あの残酷な長野資清(すけきよ)めがそんな約定を守ったりするものか。子等の命と引き換えにしても、奥川殿に、三河に与しなくては、それこそ領内の子供達を守る事ができんのだ。いつまでも蹂躙され続け、殺され続け、座して滅ぶを待つわけにはいかぬのだ。あれだけ話し合うたではないか」 「一郎と三郎が、あまりにも不憫にございます。きっと我らを呪っておる事でしょう」  葛の背後に、藤森の忍が伝令に近付いた。耳打ちされた言葉に、葛はがくりと項垂れ、次なる瞬間、拳を床に叩きつけた。 「構わぬ、葛よ、申せ」  宗冬に促されるまま、葛が、信方の幼い娘の骸が城の外堀に投げ込まれていることを重々しげに告げた。  大広間に、信方夫妻の咽ぶ声だけがいつまでも響いた。 「酷いことよ」  岩村城の櫓から、宗冬は山並みを見渡しながら呟いた。隣にいる碤三は、雑兵達に忙しく指示を与え続けていた。 「んなこと言ってる場合か。戦は遊びじゃねぇ、勝つために出来る事は何でもやる。何でもやった奴が生き残る。地獄に落ちようがどうなろうが、死んだ後のことなんか知ったこっちゃねえんだ。そんな神仏なんざ屁とも思っちゃいねえ奴らと、おまえは戦うんだぜ」 「そうであったな……紘はどうしていた」 「元気だぜ。あいつはよ、すっかり里の女達と仲良くなって、馬の世話なんざしててめぇのやるべき事をあっという間に見つけちまった。大した奴だ」 「ありがとう、無事に送ってくれて」 「水臭ぇよ。それより、奥方は亭主に斬られたってな」 「ああ。跡目を甥御に託し、遠山殿も腹を切った。なぁ碤三、おまえは妻を斬れるか」  碤三はふと押し黙り、決然とした目で宗冬を見据えた。 「つまりは、葛を、だな」 「ああ。私なら、紘を、だ」 「まず斬れねぇよ、あんな強ぇ奴……いや、俺は斬らない、何があろうとな」 「私もだ。やっと私を一人の男として見てくれた紘を、絶対に死なせたりはしない」  バシッと、碤三が宗冬の背を叩いた。石川一貴や他の三河衆に見られたら大目玉を食らうところである。 「いい男になりやがったぜ、全く。いいか、こんな誰の為だか分からねぇような戦なんかで死ぬんじゃねえぞ」 「わかっている。碤三もな。葛を泣かせたら私が許さないぞ」 「へえへえ、若君様よ。どちらかといえば泣かされるのは俺だがな」 「真面目に言っているのだ。浮気など論外だぞ」  へへっとおどけながら、碤三は階下から呼ばれて駆け下りていった。  橙色に見事に色づいた四方の山々。こんな美しい景色の中でも、平然と人間は血を流す。 「無くならぬのかの、戦は」  一人呟き、宗冬も名を呼ばれて駆け下りていった。  岩村城内は、遠山夫婦の件以来戦支度に追われていた。物々しい警護兵が外堀と内堀の合間を行き来し、長野方の伏兵や忍の炙り出しに躍起になっていた。  碤三もいよいよ宗冬の手下として出陣すべく、馬小屋の蒼風の元で入念に装備を確かめていた。その背中に、足音もなくひらりと屋根から飛び降りた者がいる。あと数歩で間合いに入るというその時、碤三がくるりと振り向いてその人物をしっかり抱きとめた。 「久しぶりだな」 「戻っているなら言えば良いのに、意地悪」  腕の中に収まって気持ち良さそうに鼻を鳴らす葛の髪を、碤三は何度となく撫でた。可憐な小袖姿で髪に香を焚き込めているあたり、忍としては落第であるが、久々に夫に会える妻が心を浮き立たせて支度をしたのかと思えば、これ程愛しい香りはない。 「どこのお姫様かと思ったぜ」 「嘘つけ、年増がめかしこんで、って思ったろ」  腕の中から上目遣いに睨む葛の髪に、碤三は顔を埋めた。 「……俺の好きな香りだ」 「こんな時にと、呆れないでおくれ。自分でも、恥ずかしいくらい……」  葛の髪の香りを、蒼風も心地よさそうに吸い込んでいた。貪るように唇を重ねる二人のそばで、その物音を隠すように蒼風が干し草を足で弄んで音を立てた。  小洒落た小袖を惜しげも無く寛げて、その奥の白く滑らかな肌に碤三が指先を滑らせると、葛が切なげに吐息を漏らした。 「こんな戦働きの中でも、手入れを怠っていないのだな」 「だって、荒れた肌など、夫に見せられるものか」 「可愛い事言いやがって」  とはいえ、その滑らかな肌にも幾筋も傷跡が走っている。稲妻のような刀傷の跡、火傷をして爛れた跡、矢尻が肌を抉ったであろう星型の跡……一つ一つに丁寧に口付けを捧げ、碤三はその凄まじい半生に己の半生を重ねた。 「もう、こんな傷はつけさせねぇから」 「ああ。同じことを、私もお前に誓う」  碤三を迎え入れながら、葛も碤三の逞しく日焼けした傷跡だらけの胸板に歯を立てた。 「おいおい、傷をつけないって言ったんじゃねえのか」 「だって……碤三、えい……」  碤三の肩に爪を食い込ませたまま、葛が白い首を仰け反らせ、大きく喘いだ。  ひとしきり互いを求め合って想いを遂げた後、忍の戦支度に身を替えながらもまだ名残惜しいとばかりに唇を啄ばんでいると、出陣を知らせる太鼓の音が響いてきた。 「んもう、憎らしい」  婀娜な名残の言葉を最後に、葛は勇ましい武将の姿で出ていった。 「嵐のような奥方様だな、全く」  笑いながら、碤三は馬揃えに備えて馬の柵を取り外した。  蒼風は既にどこへ行くべきか分かっている様子で、勝手に馬小屋から出ていってしまった。慌てて追いかけるべく駆け出た碤三の足元に、矢が突き刺さった。 「おいでなすったか」  葛はもう宗冬の側に着いたか……そう逡巡した途端、葛が蒼風の背に乗って抜き身の刀を振りながら碤三の元に駆けてきた。 「何やってんだ、てめぇは! 」  思わずそう怒鳴る碤三の横で、葛が三本、四本と、降り注ぐ矢を叩き落としていく。 「若が先鋒として出陣されることとなった。蒼風(そうふう)を迎えにきてみれば、こんなところまで敵に入り込まれているとは」 「ここは水晶山に抜ける獣道と通じている。大坪兵がやられたな」 「大坪彦十(おおつぼひこじゅう)殿の兵か。それほど柔とは思えんぞ」  山沿いに木曽忍や木曽福島兵が入り込んでくることを警戒し、遠山方の足軽に加え、将康の父の代からの忠臣・猛将で知られる大坪彦十の兵を置いて固めていたはずだった。 「腕に自信があると、兎角油断も生じやすいということか」  葛が碤三に手を差し出して蒼風の背に乗るよう促すと、碤三はその手を払った。 「ここは俺が食い止める、早く行け」 「しかし」 「亭主を信じろよ。蒼風に二人は重すぎる、急いで小僧にそいつを届けろ」  わかった、と返事をした葛が馬首を巡らせようと手綱を引いた時、蒼風の足元に矢が刺さった。勘の良い蒼風が避けた拍子に馬体が棹立ちになり、葛が不意を突かれて地面に振り落とされた。咄嗟に碤三が飛び上がって葛を抱きとめ、宙を回転しながら地面に落下した。まだ体勢を立て直せない葛の元に容赦なく矢が降り注ぐ。刀を抜く間のない碤三が、地面に転がる葛の体の前に己を晒した時、その右目に矢が突き刺さった。 「碤三! 」 「擦り傷だ、行け! 」 「いやだ! 」  ドクドクと右目から血を流す碤三の体を馬小屋に引き摺り込み、葛は素早く血止めをした。漸く、騒ぎを聞きつけた物見の兵が駆けつけ、矢を放つ伏兵と戦闘が始まった。  碤三を横たえ、葛は化膿止めに持ち歩いている薬草を傷口に当てようとした。だが、矢を抜こうにも、痛みを思うと決意が鈍るのか、握りしめる葛の手が震えた。 「かまわねぇよ、やれ、早く」  震える白い手に、碤三が血まみれの手を重ねた。そして葛の手ごと矢を握りしめ、一気に引き抜いた。絶叫と共に血が噴き出すが、葛が嗚咽を漏らしながら直ぐに薬草を傷口に詰めて布をきつく巻いた。 「お、おまえの顔じゃなくて、良かった」 「すまん、私のせいだ、私のせいだ……」  ひとしきり治療を終えた葛が、碤三の胸に顔を突っ伏して詫びた。 「恋女房を守るのは亭主の役目だ、当たり前ぇなんだよ。俺はいい、早く宗冬の元へ行け」 「でも」 「おまえはこういう時、どうも面倒臭ぇ奴になりやがる。嫌いになっていいのかえ」 「嫌だッ」  血まみれの手で、碤三が愛しげに葛の頰を撫でた。葛の涙で、その手が濡れた。 「行け、いつものおまえに戻れ、俺は死なねぇ……第一、まだ抱き足りねぇよ」  碤三が泣きじゃくる葛の手を強く握りしめ、そして振り払った。 「行け! 」  迷いを断ち切るような咆哮を上げ、葛は弾かれたように飛び出していった。  宗冬は宗良を後ろに庇い、雪崩れ込んできた長野兵と刃を交わしていた。易々と城に攻め込まれ、城の縄張りに慣れていない奥川勢は右往左往であった。  将康が石川勢と酒匂勢を騎馬で場外に出し、北に数里の阿木城を抑えさせた。藤森衆の伝令が飯田城の長野勢が伊那街道を南下して岩村に向かっていることを告げた。 「それと、小頭が負傷を……」  粗方の混乱を収め、宗冬が味方の兵を立て直した頃、新たにもたらされた知らせに思わず刀を取り落としそうになった時、漸く血刀をぶら下げた葛が姿を見せた。 「お側を離れて申し訳ございませぬ」 「何の事は無い。碤三は、無事か」 「既に手下に京へ運ぶよう命じてございます。ええ、あのくらいで死ぬような男ではございませぬ故、ご案じめされますな」  返り血で染まる葛の凄絶な美貌に、宗良が固唾を呑むのが分かった。 「馬場近くの北斜面が破られたと聞いたが」 「守備に当たっていた大坪勢が、毒の入った昼食でほぼ全滅したようにございます。何の、敵の伏兵は全て殲滅いたしましたが、城内に敵の内通者がいるのは間違いございませぬ」 「物見の兵は如何した、まさかおまえ一人で……」  あらたに駆け込んできた敵兵を一閃で斬り捨て、刀に血振りをくれながら振り向いた葛が、目に怒りを込めたままに頷いた。 「物見の弓隊は全滅、あんな雑魚は私一人で十分……長野資清と木曽忍、決して許さぬ」 「待て葛。怒りに任せては仕損じる。いつものおまえなら、冷静に敵の動きを分析して動く筈だ。構わぬ、私に命じよ。どう動けば良い」 「では蒼風に。飯田の城兵はほぼこちらに注視しております。奥川殿から二千を借り受け、恵那山の麓を横切り、一気に飯田まで攻め上りましょうぞ」  機動性に優れた二千のみを借り受け、宗冬と葛は混乱する岩村城から駆け出した。    既に苗木城からは木曽氏の居城・福島城攻略に織田島軍が出陣していた。元を正せば長野氏はこの木曽一族から分かれていた。故に絆は固く、高田家とも縁が深いため、調略で織田島に靡く様子は皆無であった。  織田島軍はあっという間に木曽氏の支城を攻め落とし、既に福島城の外堀も制圧していた。地の利のある明智宗兵衛を軍師に、勇猛果敢な武将が東西南北を固め、総攻撃を待つばかりとなっていた。 「将康め、何をぐずぐずしておるのだ」  岩村城が長野勢に翻弄された知らせを受け、その進軍の遅れぶりに宗近が腹立たし紛れに床几を蹴倒した。 「もう秋だ。本当ならとうの昔に諏訪まで辿り着いていた筈だったのだ」  ギリギリと爪を噛む宗近の元に、宗兵衛子飼いの忍が駆け込んできた。 「申し上げます」 「何じゃ」 「織田島宗冬様、喜井政虎様、本戸勝重様ら奥川勢が、飯田城の支城を攻め落としましてございます」 「ほう、してのけたか、あの人質めが」 「長野資清は中々の策士、さんざんに岩村城を翻弄しましたが、松尾城と鈴岡城が取られては裸も同然。流石、目の付け所が良うございまする」  忍の背後からのんびりとした声で宗兵衛が報告をしながら陣幕に入ってきた。 「いや、疾風怒濤とはこの事。素晴らしい若君にござりますな」 「たまさかの事であろう。直に総攻めにかかる、支度せい」 「承知つかまつりました」  褒めそやす宗兵衛をギロリと睨み返し、宗近は陣幕から出ていってしまった。    飯田城の前哨基地とも言える松尾城と鈴岡城は、それぞれ長野家の分流である小笠長野一族が治めていた。二つの城は地下で繋がっており、物資の往来などもよく行われていた。宗冬はまずその地下道を使って両城同時に兵を内部に送り込み、城門を確保させた。本丸から城の本隊が駆けつける頃には、城門を破って奥川勢が雪崩れ込み、喜井衆の鉄砲の威力の前に瞬く間に制圧されたのだった。  無用な流血を避けたいと、城主長野佐忠は自ら腹を切った。後を追おうとする正室や子等を制し、城内に入った兵達には厳しい規律を課した。主だったものは城下へ逃げ出し、佐忠の家臣達の殆どは宗冬の傘下に入った。元々資清の酷いやり方が嫌いであった佐忠が、遺書によって奥川への帰順を命じていたためでもあった。  地下道を斬り開いた藤森衆と本戸勝重の兵を労い、松尾城の本丸を本陣として陣幕に腰を下ろした宗冬に、葛が湯漬けを差し出した。 「このようなものしかございませぬが」  碗を差し出す手甲は血が染み付いている。無論洗ってあるのであろうが、変色して茶色くなったその手甲に、宗冬が指先を這わせた。 「随分と、酷い事をさせたの」 「若」 「このように湯漬けを誂えてくれる優しい手で、葛は人を斬る。私のせいじゃ。私がいつまでもこのような身の上であるから、葛を修羅の中に沈めてしまうのじゃ」  湯漬けを宗冬の手に握らせ、葛は跪いて宗冬の膝に手を重ねた。 「何のことはございませぬ。若がかようにお働きなされ、お手柄を挙げられればそれでようございます。戦の無い世を作るは奥川殿に非ず。貴方様に他なりませぬ」 「葛……ずんと遠い話じゃの。どれほど人を殺めれば良いのじゃ」 「確かに遠うございますね。しかしながら、辞めたら終いです。命を取られ、道端で髑髏を晒し、お父上に恨み言一つ言えぬまま土に還らねばならぬのです。それで良うございますか、紘に会わずに良うございますか」 「紘に……会いたい。だが、こんな血まみれの私を、受け入れてくれようか」  面頬を外し、葛が幾分やつれた顔で微笑んだ。 「碤三は無事に京で治療を受けております。若のお口聞きのお蔭をもちまして、三条橋家お出入りの医者が請け負って下さり、命を取り止めることができました。ですから、私は亭主の意趣返しをたんとして、あの人の腕の中に帰りとうございます」  柔和な顔をして大胆なことを言う葛の真情に、宗冬も心を偽らずに頷き、応えた。 「私もだ……まだ、意趣は晴れてはおらぬようだな」 「晴れるものですか。亭主の片目を奪った奴らを、一人も生かしてはおきませぬ」  おおこわい、と無理に笑う宗冬の手を、葛が優しく包んだ。 「長野資清は、さんざんに遠山信方から人質を取り、卑怯な手を使って幼き命を奪ってきた唾棄すべき男です。変わり果てた姿で両親と対面せねばならなかった幼き姫の無念、晴らして差し上げましょう」  所詮戦であり人殺しである。そんな哀れな話とて、決して人を殺す正当な理由になどなるまい。正当性があると、必死に呑み込ませて自己防衛しているに過ぎぬのだ。  同じ虚しさを共有し、二人は冷めた湯漬けをただ眺めていた。  織田島軍の陣幕には、西道家の遺臣が参加していた。福島城総攻撃も終盤に差し掛かり、本丸に籠る木曽一族の自刃を待つのみとなっていた。  巨大な篝火と化している福島城を見上げる位置に敷かれた織田島軍の本陣、鎧に返り血を浴びた宗兵衛が陣幕に戻ると、のんびりと白湯を喫する学者然とした武将が座していた。 「これは、坂中様」  坂中半右衛門(さかなかはんえもん)、この時は既に四十に差し掛かっていたが、見た目は三十そこそこにしか見えず、戦場にあっても涼しげな出で立ちであった。  義廉が力を失った西道家は、息子の義龍の代になって内紛が絶えぬようになり、股肱の家臣の離反が相次いだところを宗近に付け込まれ、滅ぼされていた。だが、半右衛門のように義廉を慕っていた能臣は多く、文官型の家臣団形成を目論んでいた宗近は、積極的にこれらの能力を求めたのであった。 「日照り続きであった為、よう火が回っておるな」 「間も無く落城いたしましょう。半右衛門殿、織田島家中でのお働き、慣れましたか」 「ええ、まあ。貴方のような八面六臂とはいかぬが、何とかやれている」 「堅牢な山城である木曽福島城がこうもあっけなく落ちたのも、坂中様の火攻めの計略があってこそと存じます」  ふうっ、と大きく息を吐き、宗兵衛が兜を脱いで床几に腰を下ろした。 「塩尻を抜けるまでは残党狩りに終始することとなりましょう。主だった者たちは飯田の長野氏を目指している筈です。奥川殿はおそらく、牛の歩みで進まれましょう」 「宗兵衛は奥川将康を信用できぬか」 「できませんね」  足軽が持ってきた白湯を一気に飲み干し、宗兵衛が卓上の絵図面を指した。 「飯田から長野の分隊約五千が岩村に向かっております。さんざん木曽忍に引っかき回された奥川勢は、二千を外に出すが精一杯。岩村にてまずは長野とぶつかります」 「松尾と鈴岡の軍勢は、宗冬様以下多くて三千か」 「三千では飯田は落とせませぬ」  ううむ、と坂中が唸った。 「奥川方には確か石川一貴という軍師がいるようだが」 「既に阿木城を抑えております」  「では、某が参るか」  まるで物見遊山にでも行くかのように、半右衛門がのんびりと言った。 「お館様のお許しが出ませぬ」 「お許しになるよ。まぁ、自信はないけど」  どっちだよ、と相変わらす掴み所のない人物に、宗兵衛は下手な返答はすまじと口を閉じた。  果たして、坂中半右衛門は西道家旧領の山の民を足軽として引き連れ、一路飯田を目指して織田島軍から離れたのであった。  南下した長野勢が岩村城に攻めかかる頃、宗冬らは飯田城攻めに取り掛かっていた。岩村城に向かったのは城主長野資清の弟•佐武(すけたけ)である。藤森衆らの働きで木曽忍の伝令が途絶え、資清は恵那山南麓を進む宗冬らの動きを捉えることができなかった。夜が明けて、目の前の松尾城と鈴岡城に奥川の旗印が棚引いているのを見た資清は、長野佐忠の自刃を知らせてきた家臣を腹立ち紛れに斬り捨てた。 「おのれ、木曽忍は何をしておるか」 「それが……外堀に、木曽忍の骸が打ち捨てられている由にございます」  斬られた家臣の遺体を盾にするように身を縮めながら、別の家臣が恐る恐る報告した。 「おのれぇ、希江は、信方は如何した、岩村で将康の首を取れと言うたではないか! 」  資清の金切り声に、妻子も皆耳を塞いで身を縮ませていた。並んで座しているのは正室に五人の側室、彼女達が産んだ七男二女。決して目が合わぬようにと顔を伏せていた。  松尾城長野佐忠(ながのすけただ)の遠縁である側室・(みね)の方には、既に宗冬側からの接触があった。彼女は側室の中で最も年若く、半ば人質としてこの城に連れてこられていた。そしてまだ十九でありながら既に七男峯丸(みねまる)と次女天音(あまね)姫を産んでいる。この二人の子の助命と引き換えに、二の丸から城下へ繋がる抜け道の鍵を開けて手引きするよう、因果を含められていた。 「必ず、必ず子らを助けてくれるのじゃな」  昨晩、音もなく寝所に忍び込んできた忍に、峯は取り縋るように懇願した。 「お声が大きゅうござる」  身を屈めて忍が顔を近づけ、覆面を下げた。整った顔立ちで微笑まれ、峯は絆されるように身を預けた。乱暴な資清の閨しか知らぬ峯は、名も知らぬ忍に優しく抱き締められ、唇を吸われた。舌が歯の間から滑り込んでとろりと何か甘い汁を流し込まれた途端、体の芯が震え、初めて女となれたような悦びを覚えた。 「お子らと生き延びて、女としての幸せをもう一度味わいなされ」  もう一度、と何度もせがむ峯の体を離し、忍は女を蕩けさせるに十分な微笑みを見せた。  先夜以来、まだ体の奥が疼くままである峯は、資清に悟られまいと必死に平静を装いつつも、頭の中はあの端正な忍の愛撫で埋め尽くされていた。  昼寝をさせねばと、2歳の娘を抱き上げ4歳の息子の手を引き、怒り狂う資清から逃げるように寝所へ下がった峯は、すぐに手文庫から膳所の炭置き部屋の扉の鍵を取り出した。  台所では女達が炊き出しに大わらわである。松尾城と睨み合うこの飯田城内では、撃って出るか籠城かで連日意見が割れていたが、弟・佐武との伝令の手段を断たれた資清が、今朝になって篭城を決めたのであった。数日持ちこたえれば、高遠から仁科勢の援軍が来るとの目算があった。高遠からは頻繁に諏訪忍が物見にやってきている。木曽忍が使えずとも、伝達は可能な筈であった。  長野佐忠が自刃する直前に明かした抜け道は、小柄な女がやっと通れるかどうかという、漆黒の闇に包まれた細い道であった。この城が築城された当初から、城主の緊急時の逃げ道として限られた者だけに存在が知らされていた。峯は長野氏縁者であり、松尾城との隠密裏な往来の為に鍵を任され、峯から佐忠にその存在が伝わっていたのであった。    城下の古寺・普門院の境内に、町の民を装った男女が、思い思いに荷を担いで集まってきた。谷川を挟んだ南方向を見上げれば、天然の崖岸にそびえ立つ石垣の上に、二の丸、本丸、山伏丸と曲輪が並んで見える。 「頭、揃いました」  頭と呼ばれたのは、農夫の姿をした葛である。昼間ではその美貌は目立ちすぎるため、顔じゅうに泥を塗って人相が解らなくなっているが、その目鼻立ちの造作はやはり隠しようがない。そして、葛に声をかけた町衆姿の男もまた、涼しげな目元をした端正な顔立ちである。その顔は正に、先夜峯の方を籠絡した男のものであった。 「理三郎(りさぶろう)、仕損じはあるまいな」 「嫌ですよ、誰に言ってるんです」  生意気に鼻を鳴らす理三郎をひと睨みし、葛は集まっている一党に告げた。 「峯の方とお子は城外に出す。仕掛けが終われば長居は無用、攻撃が始まる前に撤収しろ」  短く目顔で頷き、境内の端の桜の下にある枯れ井戸の中へと、忍達は次々に滑り込んでいった。手入れのされていない枝垂れた桜の枝から枯れた葉がひらひらと落ち、井戸の縁を埋めている。春なればきっと、と葛は桜色に染まる姿を夢想した。 「頭、小頭といちゃつくようになってから、すっかり女になっちまいましたね」  端正な顔立ちを下品に歪め、理三郎が皮肉を言った。 「俺は男を抱く趣味は無いが、あんたなら味わってみたいと思うね。あんな小便臭い側室なんざどっかで殺して捨ててさぁ、ねぇ頭」  理三郎が葛の華奢な背中に手を伸ばし、無造作に纏められた髪に触った。 「佐忠殿が、命と引き換えに秘密を明かして助命を頼まれた姫御だ。若が侍として承った約束を反故にすれば、この地の恨みは全て若に向けられる」 「へえん、今までの頭なら用のない奴は斬り捨てていた筈なのに」  フンと鳴らしたその鼻先に、葛は振り向き様に音もなくスラリと抜いた短刀の切っ先を貼り付けた。 「私が斬ってきたのは敵、或いは人を利用し騙し、用がないと知るや遠慮無用に斬り捨てるような、そんな酷薄な人非人ばかりであったが」 「わ、わか、わかりましたって! そんなおっかない顔やめてくださいよ」 「本丸館の膳所で落ち合ったら、無事に松尾城へお送りせよ、良いな」 「約束しますよ。ちゃんと女の極楽を味合わせてから送ってやりますって」  尻餅をついたままの理三郎を忌々しげに見下ろし、顎で行くように促すと、その迫力に気圧されたように理三郎が井戸に飛び込んでいった。  彼も市蔵が残した遺産の一つである。薬を使って女を籠絡し内通させ、用済みとなるや淫売宿に叩き売ったり殺したりする。理三郎はことに酷薄であり、決して手元においておきたい男ではない。だが、仕事は確実で今までに仕損じたことはなかった。  クズめ、そう呟いてから、葛は己自身に向かって心の中で繰り返した。  クズを使う己もまたクズだ、と。  本戸勝重(ほんどかつしげ)軍は谷川沿いに歩兵を集め、合図を待っていた。宗冬は宗良を連れて城の正門前まで押し出していた。細く急な坂道の果てに虎口があり、まともに駆け登れば矢弾の犠牲となるばかりである。松尾城からここまでに至る小競り合いで歩兵にも大分犠牲が出ていた。  本戸軍とは逆の南面に流れている松川沿いには、阿木城を制圧した石川一貴が駆けつけ、布陣していた。  日照時間が加速度的に短くなっている。冬の近い事を感じながら、宗冬は焦りそうになる心を抑え、じっと采配を握りしめていた。いつの間にか、自分がこの飯田攻めの大将になっていることも、実感すればするほど足に震えが走る。 「火の手です、物見櫓、二の丸! 」  高々と組まれていた物見櫓が、炎を巻き上げながらどうっと倒れた。城兵たちが敵襲に備えて駆け回る様子を聞きながら、急かす配下をを手で押しとどめていた。 「まだだ」  まだだ……と、二の丸に至る正門が吹き飛んだ。喜井政虎から預かった火薬を仕掛けたのだろう。物の見事に門が吹き飛び、虎口に潜んでいた射手が身の隠れ場所を失った。 「鉄砲隊! 」  宗冬の合図に、政虎が鉄砲隊の前後を歩兵で守りつつ一気に坂道を駆け上り、現れた城兵を斬り捨てながら鉄砲隊を射程に整列させた。城壁の射手が態勢を取り戻すより早く、訓練され尽くした鉄砲隊が発砲した。柵もろとも射手を打ち払った瞬間に宗冬が騎馬で駆け上がり、撃ち終えた鉄砲隊を庇うように突進した。 「かかれ! 」  銃声を合図に、本戸勢が水嵩が減っている谷川を渡り、崖岸を回り込んで二の丸より幾分標高が低くなっている本丸の横腹を目指した。宗冬の指示で装備した、先端を尖らせた杖を地面に差しながら、兵達は確実に土塁を登っていく。山に長けた者達が先に登り、曲輪に近づいたところで柵に向かって鉤縄を投げかけた。数十本の縄が斜面に波を打つと、後から登ってきた者達がそれに取り縋り、瞬く間に本戸軍は土塁を登りきった。  正門からの攻撃に城兵が集中し、僅かな物見兵だけが柵を守っていたが、勇猛で知られる本戸軍の敵ではなく、殆ど死傷者のないままに柵を越えて本丸に雪崩れ込んだ。  その間、藤森衆は峯の方と子供二人を場外へ逃がし、無事に撤収していた。    同じ頃には、岩村攻めに南下していた長野資清の弟・佐武の軍もほぼ殲滅されていた。  岩村城を出て得意の野戦に持ち込んだ将康は、ほんの一刻あまりで勝利を決した。  宗冬と宗良、本戸勝重と、残党を殲滅して城下の乱取りを防ぐべく統制を図っていた石川一貴も駆けつけ、無残に焼け落ちた本丸館の庭先で、長野資清の最期を検分していた。 「惨たらしく子等を殺した罪、あの世で遠山殿と希江殿に詫びよ」  宗冬の言葉に不適な笑みを返し、長野資清は自刃した。  飯田城は、夜を待たずして落城したのであった。      仕置きを一貴に任せ、宗冬ら奥川軍は駒ヶ根を越えて一気に伊那の春日城まで進軍した。  ここから高遠までは一本道。それぞれ支城には伊那部氏、仁科氏の一門が徹底抗戦の構えで待ち構えている。  一方宗冬勢は、将康から援軍として新たに五千の軍勢が加わり、織田島からも坂中半右衛門が山に精通した兵を連れて合流していた。  大軍に膨れ上がった奥川・織田島軍を前に、春日城はあっけなく落ちた。城主伊那部茂義(いなべしげよし)は主だった家臣を連れて高遠へと落ち延びた。打ち捨てられた家族らは、宗冬らが入場する前に殆どが自刃して果てていた。 「幼い子供まで……何故、妻子を置いて逃げたのか」  本丸奥御殿の仏間で冷たく折り重なる親子の骸に、宗冬は長い間手を合わせていた。 「丁重に弔って差し上げよ」  奥川の兵が伊那部茂義の正室と思われる女の遺体を持ち上げた時であった。 「離れよ! 」  飛び込んできた葛が怒号をあげながら宗冬を部屋の外に押し出した。素早く襖を閉めると、その隙間から白い靄が漏れてきた。 「毒です、ここから退避を。別棟の政務殿に陣所をお移しください」  部屋の中から、遺体を持ち上げた兵が悶絶するうめき声が聞こえてきた。救おうと手を伸ばす宗冬の手を引き寄せ、葛は本丸から走り出た。 「信濃忍の術です。若達が検分に入城される頃を見計らい、毒の丸薬を口に含んで自刃致すのです。やがて時間が経つと毒が胃の腑を溶かし、気化して口や鼻から漏れ出るのです」 「では、見聞に訪れるであろう我らを殺すべく、奥方達は毒を含んで自刃したというのか」 「間違いございませぬ。とても苦く舌の上が焼けるようだと申します故、相当の覚悟がなくてはできぬことにございます」 「酷い」  本丸内の別棟に陣所が移され、宗冬は呆然と床几に腰を下ろしていた。場内は至る所に家臣やその家族らの遺体が転がっていた。あれほど、身の安全を約定すると申し渡したが、伊那部茂義は敵の手に落ちることを許さぬまま城を後にしたというのだろうか。  葛に背を撫でられながら項垂れているところに、相変わらずの飄々とした様子で坂中半右衛門が陣所に入ってきた。 「ご気分がお悪いので」  わかっているくせに、と睨む葛に、怯むことなくニッコリ笑いかけ、半右衛門は床几を宗冬の前に置いて向かい合うように座った。 「織田島の殿は、全てを薙ぎ倒すかのように城という城を焼き尽くし城内にいる者達を悉く殺しながら塩尻まで達しております。龍野城を落とすのも時間の問題でしょう。だがあなたは、城という城を活かすことを選びながら、城の中の者を一人でも救おうとなされた。甘いといえば確かに甘いが、僅か十六の大将にしては上々の采配でしょう。ただ、あなたの情けをそのまま受け取る者ばかりではない。例えば、先程の奥方らにしてみれば、あなたは城を脅かし夫を追い出した鬼か蛇である。敗将の妻であるだけにどんな辱めを受けるとも限らない。恐ろしい敵将が入城してきたのなら、毒牙にかかる前にせめてこの身を使って一矢報いて死んでいきたい……それが、戦というものです」   淡々と、何の感情も挟まずに説いていく半右衛門の言葉を、宗冬は黙って聞いていた。 「若は全て分かっておられるのです」 「然様ですね。ああ、あなたの事は明智宗兵衛から聞いております。恐ろしく美しい近習が宗冬様のそばにいると。一目で貴方のことだと分かった。男を骨抜きにして、男の生き血を啜る魔性の男、というところかな。戦さ場には婀娜すぎて、目の遣り場に困る」 「埒も無い。若はお疲れにございます、軍師という触れで参陣なさったのなら、もそっとテキパキと仕置きをなされませ」  葛の遠慮のない言葉に、半右衛門は戯けたように肩をすくめて見せた。 「これは手厳しい観音様じゃ。宗冬殿、ここは兵を一旦休めなくてはなりませぬ。城下から傀儡女(くぐつめ)など呼び寄せ、戦の憂さを晴らしてやりましょう。宜しいか」  すると、意外にしっかりとした面持ちで、宗冬が顔を上げた。 「今は仁科方からの忍に調略を仕掛けられるのが最も怖い。慰労なれば、傀儡女などは外からは入れず、まずは酒と食事で腹を満たしてやって欲しい」 「それだけでは足りませぬぞ。血の昂りを知ったものはとかく女を欲しがります」  困ったような顔で、宗冬は葛に助けを求めた。 「仕方ありませぬ。藤森衆が出入りの女達の素性を確かめることといたしましょう」 「では女達は葛に任せよう。半右衛門殿、後の仕置きを頼みます」 「承りました」  あれ程颯爽と馬を駆りながらも兜を取った姿は可憐ですらある宗冬と、黒装束に黒覆面と全身を黒で覆いながらも妖艶さを隠しきれぬ葛、その不思議な主従が肩を寄せ合いながら寝所に戻っていく後ろ姿を、半右衛門はのんびりと眺めていた。  寝所に入ってすぐ、宗冬は板の間に腰を下ろし、ぐったりと横たわってしまった。  葛はすぐに黒装束を解いて腰元の姿となり、長持ちから真新しい下帯を取り出した。 「さ、お召し替えを」 「解っておったのか」 「生まれる前からお世話申し上げているのですよ。さ、起きられますか」  鉛のように重々しい体をやっとの思いで起こし、鎧を説いて小袖姿となると、宗冬が解き放たれたような大きなため息をついた。さらに袴を取り外し、鮮血に染まる下帯を取り外した。 「お湯を貰ってまいります故、ひとまずこれでお待ちくださりませ」  手早く下帯と袴を取り替え、血で汚れた物は自分が着ていた黒小袖に包んだ。 「湯をもらうまでに焼き捨てておきます故、ご安心を」 「すまぬ、葛。何故こんなときにまで……」 「出物腫れ物所構わずと申します」 「あまり笑えぬな」  といいながら、やっと宗冬が微かな笑みを見せた。姉の顔をして、葛が微笑み返した。 「こんな世話、男姿の葛には頼めぬ。故にわざわざ女の姿に成ってくれたのであろう」 「いいえ、この方が何かと私も動きやすいのです。さ、少しお静かに休まれませ」  大将の寝所とはいえ戦の最中である。部屋の奥に仕舞われていた粗末な寝具を引っ張り出し、二枚重ねにして宗冬を横たえた。おそらく伊那部茂義の宿直か近習か、然程身分の高くない家臣のものであろう。 「情けない限りじゃ。だから父上は、私を厭うたのであろうな」  体を横向きに、葛に背中を向けるようにして宗冬が呟いた。 「仁科克信との合戦には、新しい鎧直垂をお召しになられませ。大将として堂々たるお姿でお出張り為されるが宜しい。御出陣までには、収まりましょう」  宗冬の肩が微かに震えている。戦の酷さと己の体の禍々しさ、どれ程の負の感情が宗冬の心を覆っていることか。慰めるすべもなく、葛は汚れ物を手に寝所を後にした。  汚れ物が燃え尽きた頃、土を被せる葛の腰に背後から手を回してくるものがあった。 「離せ」 「城兵達のご褒美に、選りすぐりの女達を連れてきたんですよ。峯の方も言いつけ通り、ちゃぁんと松尾に届けてきたんですからぁ、ご褒美をくださいよぅ」  理三郎が鼻にかかったような猫撫で声を出し、葛の耳元に息を吹きかけた。 「ほら、兵達はもう夢中ですぜ、女に。俺たちも少し、憂さを晴らしましょうよ」  細い腰を絞るように両手を絡めてくる理三郎は、大胆に前合わせから手を滑り込ませ、滑らかな葛の胸を撫で回した。 「へえ、本当に男なんですね。でも女の肌より木目が細かい。小頭があんなことになって男日照りでしょ、こんな細い柳腰を色っぽくくねらせてさ、ねぇ頭」  そっと耳朶を甘噛みされても、葛は顔色ひとつ変えずにされるがままになっていた。それを葛が応じたのだと調子に乗った理三郎は、とうとう裾を割って太腿にまで手を伸ばしてきた。 「そろそろ湯が沸いた」  と、唐突に振り向いた葛が理三郎に強烈な頭突きを食らわし、その股間に短刀を突きつけていた。 「峯の方がまだ初心だからよかったものの……よくそれで女殺しを名乗っていたものだ」 「何ですって、どんな女も俺の手管に羽化登仙と溺れたんですぜ」 「所詮は薬頼みか。碤三なら、指先一つで私を羽化登仙とやらへ……なぁ理三郎」  ふと凄みのある色気を湛えて顔を近づけた葛が、紅に染まる唇を舐め回しながら妖しく微笑んだ。ぞくりと背中に震えが走った時にはもう、理三郎の逸物が葛の手の中で弾けていた。情けない声を上げ、うっかり果ててしまった理三郎が股間を両手で覆いながら膝を折り曲げた。 「か、頭、俺に一体何を」 「羽化登仙」  ふっと甘い香りの吐息を吹きかけられ、理三郎は白目を剥いて引っ繰り返ってしまった。 「馬鹿め、修行が足りん」  転がる理三郎を足先で蹴飛ばし台所へ向かって大股で歩き出すと、目の前に半右衛門が立ちはだかった。面倒な奴が次々と……思わず葛は舌打ちをした。 「こんな美女から舌打ちとは、聞きたくありませんね」 「急ぎます故、道をお開けくださいまし」 「まぁまぁ、そう怒らずに。貴方にひとつ頼みがあるのですが」  片眉を吊り上げて、葛が半右衛門を睨めつけた。 「ここから三峰川沿いに高遠へ向かうと、叶と黒河内という二つの城がありまして。いや、城というより館ですかね、吹けば飛びます。とはいえ、この二つは伊那部一族の分流の城でして、高遠攻略でまずは天神山、蟻塚、守屋山と、仁科一族の分城を潰していかねばならぬ時に、伊那部に横腹を突かれるのは心外でしてね。できれば伊那部茂義の首を取ってきてほしいのですよ」 「茂義は確かに黒河内の従兄春日盛義の元に逃げ込み、伊那部一族を結集している様子ですが、然程脅威とは思えませぬ」 「高遠攻めの前に小競り合いはしたくない。しかも、冬が近い」 「それは確かに」 「茂義は一族の要、奴一人の首さえ取れれば、あとは私が交渉で抑えることができます。宗冬殿にも数日休養が必要でしょう。その間に、何とか」 「大将に無断で動くわけにはいきませぬ」  では、と半右衛門の横を通り過ぎようとすると、存外に力強くその腕を掴まれた。 「私はお館様肝いりの軍師です、それも、ちょっと我儘を聞いていただける仲でして」 「はぁ」 「こういうことです」  半右衛門が葛の腰を撫で回し、力強く引き寄せた。指先で尾骨を擽られ、思わず葛がきゃっと短い声を上げ、身をよじった。 「あの女殺しよりは、貴方の体を堪能する術を知っていると思いますよ」  胸板を両手で押し戻すようにして、葛が漸く半右衛門から離れた。少し狼狽しながら髪を整え、背を丸めるようにして前合わせを固く閉じた。 「可愛いな。本気で貴方を欲しいと思えてきた」 「馬鹿な、私には……」 「負傷したご夫君でしょう。そんな一途なところも魅力的ですよ」  指先で葛の髪をさらりと靡かせて、半右衛門は笑いながら去って行った。 「何という日だ、全く」  立て続けに男が二人も襲ってくるとは。少し女姿を工夫しなくてはならないかと、葛は腹立たしげに裾を叩き、再び大股で台所へと歩き出したのであった。  僅か二日ばかりで出血は収まり、宗冬は床上げをして城内を巡回した。付き添ったのは政虎と半右衛門である。宗冬より一つ年下の15歳である政虎は、農家で幼少期を過ごしただけあって屈託がなく、筒袖に軽衫と、まるで武将には見えない姿で、いつでも日焼けした顔を綻ばせていた。 「直に喜井谷の叔母から鉄砲と弾薬が届きます。南蛮からの船が入ったようですので、今までより沢山送ってくれるそうです」 「それは有難い。とはいえ高遠攻めまでは温存しておきたい。それより稲川の動きはどうか。まだ頼素殿が家内を収めるまでは時間がかかりそうであるが」 「ええ。とても高田に援軍を出すゆとりはなさそうです。せいぜい国境の守りを厚くするのが関の山。おかげで喜井谷はちょっかい出されることもなく、南蛮交易に精を出せるという寸法で」 「それは良かった。おそらく仁科克信は籠城はすまい。打って出て天神山城からの別働隊と挟撃をする腹だろう。何せこちらには逃げ場がない。故に、鉄砲隊で相手の出鼻を挫いておきたい。後で策を練りたいから陣所に来てくれないか」 「承知いたしました。いやぁ、叔母の言う通り、宗冬様は戦上手じゃ」 「おいおい、軍師殿の前で持ち上げてくれるな」  では、と政虎は屈託のない笑みで手を振り、喜井の仲間達の方へと駆けて行った。 「溌剌とした、良い若者ですな」  後ろ姿にそう呟いた半右衛門が、駒ヶ根を見渡せる物見曲輪の突端に宗冬を誘った。 「兵も休まりました。兵糧も十分に補給できております」 「坂中殿、明日、出陣しましょう」 「すぐに手配をいたします」  出陣には勝利を皆で祈って士気を高める為に、験を担ぐ儀式が欠かせない。 「そういえば、今日はお付きの観音様は」 「所用で出ております」 「そうですか。主人をお一人になさるとは、いけませんね」  近い、と宗冬が一歩離れると、半右衛門はさらに近付いて横に並び、その腰に手を回してきた。何を、と抗議を口にする宗冬の耳に、半右衛門は顔を近づけた。 「お館様は、貴方と会えるのを楽しみにしておられます」 「私は父にとっては無用の息子。宗良の間違いであろう」 「ああ、確かに。心通わぬ親子だと、聞いております」 「父がそう申されたか」 「ええ、お父上が」 「坂中殿の事は信頼なさっているのだな」 「信頼といいますか……」  宗冬の右耳の下に黒子を見つけ、半右衛門が楽しそうに舌先で舐めた。驚いて身を捩る宗冬を存外強い力で抱き寄せ、乱暴に唇を吸った。小さな悲鳴をあげて宗冬がその腕の中から必死で逃げ出し、脇差を抜いた。 「無礼者」 「お父上がいつも、私にしてくださる事なのですけど」 「父まで貶めるか」 「貶める、愛しいと思って契り合うことが貶める事になるのですか。あの葛も同類では」 「黙れ。葛をあなたと一緒にするな」  平静を取り戻した宗冬は、警戒したまま刀を収めた。 「とはいえ最近はすっかり殿とはご無沙汰で、会えばあなた方主従の話ばかり。少し妬けます。飯田か春日か、どちらかで死んでくれたら良かったのに、中々の戦上手で死にそうにはない。だから来てみたんですよ、こちらに。死んでもらえる好機があるかなぁと」  涼しい笑顔のまま、半右衛門が刀を抜いた。だが、宗冬は脇差には手をかけず半右衛門に視線を向けたまま、じりじりと柵に沿って後退りをした。  半右衛門が右足の指先を地面に食い込ませ、一気に間合いに入るべく跳躍の態勢を取った時、黒い布に包まれた物体が飛来して半右衛門の顔に当たった。 「ご所望の伊那部茂義の首だ。ついでに、伊那部一族の支城から街道に出るために架かっている三峰川の橋も山の民を使って全て落としておいてやったぞ」  宗冬を背に庇うように現れたのは、忍装束の葛であった。覆面を下げたその顔は怒りに歪んでいた。 「葛、すまなんだな」 「何のことはございませぬ」  半右衛門を注視したまま優しく答えるも、切っ先はしっかりと半右衛門の首を狙い定めている。 「若に無礼を働いてただで済むと思うてか」 「怒った顔も美しいな。いやいや冗談ですよ、冗談。お二人があんまり仙人のような清い心のままなもので、決戦前にちょっとお覚悟の程を確かめたかっただけです」  笑いながら刀を鞘に収め、半右衛門が黒い布に包まれた物体を持ち上げた。確かに、布を解いてみれば、武将の首が現れた。 「仕事がお早い。これなれば進軍も容易になります」  布ごと首を放り捨て、半右衛門は興味が削がれたとばかりに去っていった。  葛の背後で、宗冬がごしごしと袖で口元を拭った。 「もっと早く戻るべきでした」 「いや、葛には面倒をかけてしまった。敢えて葛が策に乗って城から離れる事で、半右衛門の真意を探れたらと思うたが……危険な真似をさせてしまったな」 「何の。これでも玄人ですから」  そう笑いながらも、葛は丹念に宗冬の体を確かめた。 「他に、お怪我などはございませぬか、無体はされておりませぬか。あの男、斬るときは私が斬りますから遠慮なく」 「そう鼻息を荒くしなくても」 「荒くもなります! 膾に切り刻んで鮒の餌にでもしてやらぬでは収まりませぬ」  黒装束を解いて表返し、あっという間に可憐な小袖姿の腰元に変化した葛が、宗冬の手を掴んで地面を踏みならすように歩き出した。 「ねえ葛」 「お顔を洗いますよ。何ならお体も。あんな男に触れられたらお心が穢れます、不潔です」 「しかし、敵とはいえ首をあのままには」 「懇ろに弔うように、既に手下に命じてあります」 「はいはい、手回しの良いことで」  これはもう一切逆らうべくもないと、葛の手の温もりを体に受けながら引かれるがままに宗冬は付いていった。  小雨の降る肌寒い明け方、まだ日が昇り切らぬうちに宗冬は出陣をした。  織田島・奥川軍は真っ直ぐに高遠を目指し、途中仁科方の支城は数で押し出すように制圧し、二日と経たぬうちに高遠城の目前まで迫っていた。 「天神山城、蟻塚城共に、将兵は全て高遠に逃れました」  陣所で絵図面を覗き込んでいた政虎が、両城を墨で潰した。雨はしとしとと振り続け、宗良などは膝に毛皮を掛けて震えている始末であった。 「こう雨続きでは鉄砲が使えませぬ。士気が落ちる前に一気に動いてしまわぬと」  政虎が献策するが、宗冬はじっと考え込んでいた。 「ここは高田玄道の盟友とも言える軍師、山縣勘助が縄張りをした城だ。今藤森衆に探らせているが、下手に手を出せばこちらの犠牲が大きくなるばかりだ」 「しかし、雪が降り出したら厄介です。引けなくなりますよ」 「そうよな……」  膝に立てた采配に顎を乗せるようにして、宗冬が絵図面を眺めるものの、これといった決め手が思いつかない。すると、あんなことがあっても変わらず涼しい顔で同席していた半右衛門が、扇の先で一点を指した。 「本戸殿は弓隊を率いて三峰川に回り込み、南曲輪を見通せる林の中で待機を」 「無茶な。着くまでに敵に見つかるではないか」 「そこはそれ、観音様のお力で。この雨はあと四日、いえ三日で止むはずです」  半右衛門が葛を見て不敵に微笑んだ。  高遠城内は、仁科克信(にしなかつのぶ)の母方の伯父と従兄弟らが天神山城から逃げ込み、さらに蟻塚城からも仁科一門衆が逃げ込んできたことで、統制が乱れ始めていた。克信直属の配下は厳しい規律の元、奥川軍を必ず退ける一念で城を守っているが、逃げ込んできた連中は柘榴館から本隊が駆けつけてくるまでは城に籠もれば良いと、高遠城の備えを過信していた。  若い克信は、自らの家臣団のみで軍議を開き、織田島宗冬の布陣を具に調べ上げていた。 「殿、宗冬の軍には鉄砲隊がついておりますが、この雨では使い物になりませぬ。今のうちに叩いておくべきかと」 「敵は今や一万ぞ、しかも足場が悪くては騎馬も役に立たん。今は分が悪い」 「しかし籠城するには……」  伯父御が、と老臣が口籠った時、物見の兵が下卑た笑顔を見せながら入ってきた。 「申し上げます、藤沢川と三峰川の合流する河原に、夜な夜な美女が現れるとの噂で、今宵も兵たちが大手門から坂を駆け下りて、外堀の柵に噛り付いておりまする」  数日前から耳にしていた噂に、克信は胸騒ぎを感じて立ち上がった。 「案内せい」  短躯ではあるが全身を鍛え抜かれた筋肉で覆われている克信は、弓矢を手に恐ろしく早足で大手門に向かった。  鈴を手にした長い髪の女が、くるりくるりと踊り狂っている。小雨に揺れる篝火に照らされ、しどけなくまとっている帷子が片方の肩から滑り落ち、滑らかで白い肩から胸元までが露わになる。男たちが夜の空に歓声を上げると、長い髪に覆われた横顔をふと城に向け、紅に染まる唇から切なげな吐息をついてみせる。まるで耳元に息を吹きかけられたかのように男たちは悩殺されていった。 「何じゃあれは」  次第に裾も乱れ、白い太ももが際どいところまで露わになると、娯楽に飢えていた男たちは柵を越えて身を乗り出さんばかりである。 「もう三日になりましょうか。噂が噂を呼び、とうとう城兵の殆どが骨抜きになっていく有様でして」  直臣だけはこの状況を憂うように眉を顰めた。  黎明、雨が止んだ。  季節外れの強さを持って朝日が昇り、ふんだんに水分を吸っていた山の木々から蒸気が立ち上った。霧となって織田島軍の全容は高遠城の物見から隠され、代わりに朝日が照らしたのは惚けた顔で其処彼処に寝転がる兵士たちの姿であった。  城が目覚めるより早く、南曲輪に火矢がかけられた。同時に、霧の中から突如として現れた鉄砲隊が大手門に狙いを定め、一斉に火を噴いた。 「かかれ! 」  宗冬の号令と共に、機能不全となった大手門に巨木が打ち付けられ、破られた城門から騎馬兵が雪崩れ込んだ。  瞬く間に三の丸の兵を蹴散らすと、歩兵が二の丸へ雪崩れ込んだ。援護するかのように、南崖の三峰川から火矢が降り注ぐ。本丸や南曲輪から逃げてきた城兵を、槍衾を手にした歩兵が容赦なく倒していった。  宗冬が蒼風で三の丸を疾走し二の丸に至ったところで、本丸から漸く本隊と思しき騎馬隊が現れた。  筋骨隆々とした若武者が、宗冬に向かって赤柄の槍をしごいている。宗冬は敢えて腰に佩いた大刀を抜き、高々と掲げた。 「其処元が織田島宗冬か」 「然様、仁科克信殿とお見受けいたす。者共、手出し無用」  馬の腹を蹴る克信の一喝を合図に、二組の人馬が本丸と二の丸を繋ぐ桜雲橋の上で激突した。頭上で円を描くように槍を振り回しながら駆けてくる克信の一撃を、馬の背に寝るほどに体を反らせて躱し、素早く馬首を巡らせて宗冬が突進した。方向転換する敏捷さは蒼風が数段上である。やっと馬首を宗冬に向けた所を突撃され、克信の馬が横倒しになった。地面に放り出された克信は身軽に立ち上がり、更に馬上から斬りつける宗冬の切っ先を躱した。三度の打ち合いの後、突進した蒼風の背から宗冬が克信めがけて飛び降りた。  体に密着されては槍は使えない。必死に脇差に手を伸ばす克信に馬乗りになって首に刃先を突きつけるも、宗冬は腹に蹴りを食らって弾き飛ばされた。仰向けに倒れる宗冬に、克信が飛びかかる。間一髪横に転がって下敷きになることを避け、地面に全身を打ち付けた克信の背中に宗冬が跨る。そして刃先を水平に首に当て、両手で渾身の力で引き抜いた。  骨を断つ感触の後、勢い余って刀を握ったまま宗冬が仰向けに転がった。その全身に血が降り注ぎ、やがて宗冬の胸元に克信の首が落ちてきた。  一瞬の静寂の後、織田島軍から勝利を確信した咆哮が上がり、城中を押し包んだ。     高遠が落ちたとの知らせは瞬く間に織田島軍に届き、宗近は速度を上げて諏訪から甲府へと一気に兵を進めた。  克信ら猛将を失ったことで、隆信ら甲府の高田軍は大きく戦意を喪失していた。早々に柘榴館を捨てて落ち延びた隆信は、妻の一族を頼って武蔵へと落ち延びるが、やがて古くからの忠臣に裏切られ、八王子の山中にて自害した。  1579年晩秋。ここに、高田家は滅亡したのであった。               
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