8.父

1/1
前へ
/18ページ
次へ

8.父

8. 父  高田家滅亡の後、織田島宗近(おだじまむねちか)奥川将康(おくがわまさやす)は、隆信以下主だった重臣らの首実検を柘榴館で行うと、後の処理を明智宗兵衛(あけちそうべえ)ら側近に任せ、雪深くなる前に信濃から撤収した。  岐阜城で改めて、戦勝祝いの宴が催されることとなった。柘榴館での隆信との最終戦に合流したとて、一顧だにしなかった父に今更会う気は無いと拒んだ宗冬であったが、将康のたっての頼みとあっては断れず、連れ立って登城することとなった。  側を離れぬと言って聞かぬ葛と藤森衆を懇ろに慰労し、一旦藤森の里に返した為、素襖直垂の装束は将康の側室が支度してくれたものであった。 「何と雅な。やはり、三条橋家のお血筋は争えませぬな」  自身も公家の出であるという側室は、見事な美将ぶりの宗冬を見上げて頰を赤らめ、惚れ惚れとした様子で将康に言ったものである。  岐阜城の本丸御殿では、先に帰参を許されていた宗良が客人の応対役を務めていた。宗冬と将康の姿を見ると、思わず式台から草履も履かずに駆け下りてきた。 「これは奥川様、兄上」 「おいおい、裸足ではないか」  宗良(むねなが)が涙を浮かべて宗冬の手を取った。 「息災であったか。父の御勘気は解けたのか」 「はい、兄上のお陰です。何とお礼を、その……お詫びを」 「そのようなことはもう良い、葛とて怒ってはおらぬよ。さ、案内を頼む」  宗良がこうして客人の持て成し役として働いているということは、時期織田島当主としての顔繋ぎをさせる意味もあるのだろうと、宗良の立場が安泰になったことを宗冬は素直に喜んだのであった。 「もう客人が揃い始めているようですが」  改築された天守の望楼にある寝所では、まだ宗近が裸のまま大の字に寝そべっていた。 「明野(あけの)の方が支度を整えて下でお待ちだそうですよ」  と言いながら、その肌の上に同じく一糸まとわぬ姿で重なり、半右衛門が宗近の胸板に頬擦りをした。 「おまえは若いな、半。私とさして変わらぬ年だというのに、小姓の餓鬼共と変わらぬ体をしている」  というより血色が悪いと、宗近は言葉を呑み込んだ。 「戦は嫌ですね。あなたとこうなって一日たりとも離れたくないというのに……宗冬はどうされるのです。うっかり殺しそうになりましたけど」 「やはり手を出したか」 「だって貴方ったら一顧だにせぬ癖に、その実あの者らの動きをとても気になさっておられたのだもの。ああ、藤森葛とかいう近習、あれも面白いですよ。壮絶に美しくて婀娜っぽくて、相当に血にも色にも塗れ切っている癖に、どこか純でして。小耳に挟みましたけど、あの葛も三条橋の血だそうですね」 「ああ。三条橋とかつての伊勢の大名・犀川(さいかわ)の血だ」 「道理で。ギリギリのところで品を損なわぬあたり、やはりね」  のっそりと起き上がり、半右衛門が宗近に顔を寄せた。 「初めて稲葉山の城でお目にかかった日、貴方に惹かれる己を抑えることができなかった。そんな私の心を見透かして、こうなれるよう、私にバカ息子をけしかけさせて西道の家を潰させた。こんな悪い男に何で惚れてしまったのか」  むしゃぶりつくように半右衛門が宗近の唇を奪うが、天井に向けられたままの宗近の目は冷めていた。 「さ、良い加減にお支度を」  裸体にしどけなく小袖を羽織り、半右衛門は宗近から体を離した。布擦れの音を聞きながら宗近はのっそりと起き上がり、枕元の刀を手にした。  半右衛門は微笑んだままその抜き身の切っ先の前に露わな胸を差し出した。 「宗冬をうっかり殺しそうになったから、ですか」 「勝手は許さぬ。たとえお前でも」 「たとえ、って……何か凄く嬉しい」  階下では、明野がじっと宗近の素襖直垂を用意して待っている。梯子のような階段の上から聞こえてくる睦事にも動じず、ただじっと座していた。 「下らぬ悋気は為にならぬと心得よ」 「下らなくて結構。これからも悋気は滅茶苦茶しますよ。だって最後の恋ですから」  宗近の切っ先が、半右衛門の青白い胸板に十文字の傷をつけた。 「はは、これいいな。貴方のものって気がする」  切っ先から血が滴る刀を放り投げ、宗近が半右衛門を乱暴に抱き寄せて唇を吸った。  奥川将康一行は、下座に石川一貴、酒匂清重、喜井政虎ら木曽攻めで功の大きい武将が並んでいた。織田島家中からも、先田頼家(さきたよりいえ)柴賀克岳(しばがかつたけ)伊庭長近(いばながちか)ら重臣が列席していた。改築された天守の大広間である饗応の席からは、美濃の山々を見渡すことができる。宗近を待つ間、将康らもその風景を愛でながら、高田攻めについての意見を交わしていた。  やがて、主人として宗近が現れ、宴が始められた。宗近の両隣には宗良と笹尾丸が座し、まだ十歳になったばかりの笹尾丸には後見として明野姫が付き従っていた。  宗冬の席には、織田島家中の主だった武将が酒徳利を手に近寄ってきては見事な戦ぶりを湛えて盃を満たしていった。礼を述べながら飲み干す宗冬に将康が耳打ちをした。 「無理を致すな」  はい、と返事したつもりで、そのまま宗冬はひっくり返ってしまった。  激しい頭痛に目を覚ましてのっそりと起き上がると、どうやら客間の一室のようであり、素襖直垂の前合わせが解かれ、帯も解かれていた。誰かが介抱してくれたのかと、ちかちかする目で辺りを見渡した時、開け放たれた障子の向こう、着流し姿で山々を見渡す宗近が立っていた。何と呼んでいいか、逡巡するままに言葉を失っていると、気がついた宗近が振り返り、例の冷めた目を向けた。 「愚か者が、父に恥をかかせおって」 「も、申し訳もございません」  消え入るような声で詫び、探るように視線をそっと向けると、宗近がフッと微笑んだ。 「取って食ったりはせぬ。そのような、芙由子(ふゆこ)と同じ目で儂を見るな」  まだクラクラする頭を振り、宗冬は床から這い出して正座をした。その膝元に、宗近が手にしていた打刀を放り投げた。 「千子正重(せんごまさしげ)作じゃ。将康めはお前にろくな刀を持たせておらなんだのう」  そう言いながら、もう一つ、篠笛の入った錦袋を宗冬に投げよこした。 「母の形見を血塗れにしおって」  戦さ場でも肌身離さず持っていた母の形見の篠笛を、宗冬は胸元に押し抱いた。あの公家育ちの母が指先を針で何度も刺しながら端切れで縫った袋は、柄も判らぬ程にくたびれてしまっている。葛が何度も血の汚れを洗ってくれたが、落ち切らずに残った血の染みが幾重にも重なり、雅な柄はただの茶色に変わり果ててしまっていた。 「お、お館様が私を厭うのは致し方ないことでございます、しかし何故母を、母上を死なせたのですか。何故お優しい言葉一つ、掛けて差し上げなかったのですか」  頭の痛みも忘れ、堰を切ったようにこれまで鬱積していた言葉を投げつけ、宗冬は宗近の足元に取り縋った。 「戦さ場に身を浸し、血に塗れていた25の男の継室に、15の姫が嫁いできたのじゃ」 「意味がわかりまませぬ」 「……美し過ぎて、穢してしまうのが、恐ろしかった」 「父、上」  初めて、父に向かって父上と呼んだ。初めてそう呼ばれた宗近も、所在なさげに目を泳がせている。 「欲というものがまるでない芙由子のような女に、儂は出会うたことがなかった。お前のことも……男でも女でも、好きなように生きれば良いと思うた」 「今更何を! 私のこの体が、私が、化け物のようで忌むべきもので、だからこそ、他家に押しやって利用したくせに、死のうが生きようが構わぬとばかりに! 」  泣き叫ぶ宗冬の頭に、宗近が大きくゴツゴツとした手を乗せた。その能面のような整った細面からは想像もできぬ、逞しく節くれ立ったその手に、宗冬が恐る恐る触れた。 「おまえは京へ行け。京に屋敷を構えて暮らせ。儂は向こう二年の内には必ず京に上る故、それまで畿内の大名を抑えて地ならしをし、差配を致せ」 「お待ちください、私は織田島家中に戻る気はありませぬ」 「……で、あるか」  頭に置かれていた宗近の手に力がこもり、思い切り髷を握られた。 「こいつを切り落としておまえを儂から隠した将康め、おまえが武将として化けるのを解っておったのじゃ。おまえが家中におれば、もっと早くに美濃と信濃は制圧できたであろうに。忌々しい」 「将康様は私にとりましては大恩人。此度のお働きに免じ、大高と鳴海を将康様にきちんとお返しください」  一度腹から声を出してしまえば宗近とて恐れるものではないと、宗冬がきっと顔を上げて宗近に迫った。 「私は将康様の元に参りとうございます。但し、褒賞を下さるというのであれば確かに京の屋敷一揃え、喜んで賜りまする」 「で、あるか」 「何ですそれ、全然面白くないんですけど」 「何だと、たわけが」 「たわけって何です、私がたわけなら父上は大たわけでしょう。今更父親ぶって、褒賞もらったって嬉しくも何ともありませんから。でも、私のために働いてくれた者達がいるから、その者達のために頂くだけです。別に貴方を父と思ってのことではありませんから」  自分の意思を無視するかのように父への恨み言が口を吐いて出てくる。止まらないとばかりに、宗冬は鼻を啜り、しゃくりあげながら喚き続けていた。 「私が戦音痴だったら、絶対見向きもしなかったくせに。使えると思ったからって、急に父親面するのはやめてください。私には葛という姉がいます。葛がいたこそ、生きてこられたんです、父上なんか糞食らえです、私の家族は葛と碤三と、紘だけです。孫ができたって、絶対会わせてなんかやらないんですから。孤独な老後とやらをお過ごしになればいいんです、ざまぁ見ろ! 」  ぜぇぜぇと肩で息をしてそこまでまくし立てる宗冬の鼻を、宗近がむんずと摘んだ。 「また文句を思いついたら、いつでも此処に来るが良い」   子供のように涙と鼻水でくしゃくしゃになっている宗冬の顔を覗き込み、宗近はフンと鼻で笑って出ていった。  岡崎へ戻る将康一行とは、岐阜で別れることとなった。 「宗冬よ、大高と鳴海を取り戻す為の口添え、痛み入る」 「何の、将康様から受けた御恩の万分の一にもなりませぬ」 「可愛い事を。良いか、京の普請が終わったら、一度岡崎へ遊びに参れよ」  碁石を打つ真似をして、将康が馬に鞭を入れた。一貴、清重が続き、政虎に至っては子供のように大きく手を振りながら一行の最後に駆けていった。  曲がりくねった街道の先に一行の姿が見えなくなるまで、宗冬は頭を下げて見送った。  藤森の里の館の桜が咲いた。  寝間の障子を開けると、早くも風に吹かれて花びらが舞い降りてきた。  裸体に鮮やかな色の小袖をしどけなく羽織っただけの姿で、葛は障子に寄りかかるように座したまま、じっと飽くことなくその桜を見つめていた。 「畑から見えるぞ」  背中越しに伸びてきた太く逞しい両手が、小袖の前を重ねて葛の滑らかな体を覆い隠し、そのまま抱きしめた。 「こうして碤三と桜を眺めるのは二年ぶりだな」  碤三が白い頸に唇を這わせると、葛が心地良さそうに吐息を漏らした。 「畿内が落ち着いて漸くおまえが戻って、三日だぜ、三日。まだ抱き足りねぇんだけど」 「バカ……おまえだって昨年は治療で京都から動けなかったじゃないか」  顔を碤三に向けた葛の指が、失った左目の傷跡をそっとなぞった。 「どう、痛むか」 「雨が降ったり冷えたりするとな。だが、何てこたぁ無ぇよ」 「そうだ、眼帯を縫ったんだ」  碤三の中からするりと抜け出し、片手で小袖を押さえたまま床の間の小箱を探った。その拍子に右肩からするりと着物が滑った。寝乱れたような婀娜な後ろ姿に、碤三はついむしゃぶりつきたい衝動に駆られたが、振り向いた葛のあどけない表情がそんな劣情を押し留めた。 「端切れだが、真ん中の辺りは通気の良いように麻を使ってみた。付けてやる」  自分は今どんな顔をしているのだろうと、思わず伏せた碤三の顔を、葛が両手でぐいと持ち上げた。前合わせが肌蹴て裸体が晒されるのも構わず、葛は丸く縫われた布地の部分をそっと傷口に当て、膝立ちになって縫い付けられた組紐を頭の後ろで結んだ。  顔にかかる葛の髪の香りを深く吸い込み、碤三が首筋に再び食らいついた。 「ダメだって、ずれてしまうよ。ねぇ、よく見せて」  猛獣を宥めるように、葛が両手で碤三の頬を挟むようにして顔を上下左右に動かした。 「良かった、紐の長さも当て布の大きさも丁度良い」  じっと覗き込んでくる葛は、とても先の戦で血塗れになって敵を殲滅したとは思えない無邪気な笑顔を見せている。このままがいい、この笑顔のままがいい、忍働きなどやめて、ここで穏やかに暮らそう……出来ぬ事と知りながら碤三はそう切望した。 「何だ、泣いているのか」 「うるせぇよ」 「碤三、すまなかった……ありがとう」 「なぁ、もう京には戻るなよ。宗冬は紘と暮らす屋敷の普請の為に京に行ったんだ。お前は此処で俺と、のんびりと暮らさないか」  もう何度目かの告白は、やはり葛の苦渋の首振りで拒まれてしまった。 「そんなにあの小僧がいいのか! だったら行っちまえよ。亭主の俺よりあいつがいいならもう勝手にしろよ! 」 「碤三」  葛が己を抱くように身を小さくして泣いた。そんな脆い姿も、自分の前でだけ晒してくれるというのに、碤三はどうしても感情をぶつけずにはいられなかった。 「俺はこんな目になっちまった。もう昔のようには働けないし、命のやり取りをするような働き場でお前を助けることもできない。お前に何かあったら、俺は生きていられない」  びくりと、葛が肩を震わせた。 「お前一人を死地にやるなんて、嫌だぞ、俺は」 「何だよおまえは、片目を無くしたくらいで! 私はそんな意気地無しに全てを預けたつもりはない。そんな惰弱なヤツは願い下げた。私の半身はもっと強い、もっと強い! 」  散らばっていた帯をかき抱き、葛は駆け出して行ってしまった。    着流し姿で慌てて屋敷から飛び出し、碤三は里の方々を駆け回った。本当に行ってしまったのかと、情けなくて泣き出してしまいそうな猛烈な後悔が胸元を締めつける。通り行く里の者に体裁も無く聞いて回っても、誰も行方を知りそうにない。  ふと思いつき、碤三は訓練の場である竹林に向かった。夕刻とあって若い衆は大概畑仕事に戻っている時分である。薄暗い広場に立ち、碤三はぐるりと取り囲む竹林を見渡した。  ひゅんと音を立て、足元に手裏剣が刺さる。此処のところ鉄が良く手に入るようになり、上忍は大抵こんな十字手裏剣を常備するようになっていた。  相手は分かっている。風に乗って微かにあの匂いがする。もう片方の目も閉じ、完全に視覚を絶って、相手の次なる攻撃をじっと待った。  背後からの飛来物を微かな重心移動で躱し、左、右、と突き出されてきた槍の穂先を手刀で叩き落とし、相手が抜いて上段から振り下ろしてきた刀を、頭の上ではっしと両手で挟み止めた。尚も振り下ろそうと力を失わずにいる切っ先を唸り声と共に膝に叩きつけると、刀は見事に折れた。尚も残りの刀身で突きを繰り出す相手の間合いからトンボを切って逃げたと見せ、地面を滑るように相手の足元めがけて蹴りを出し、跳躍で躱した相手の足首を掴んで思い切り体を地面に叩きつけた。  背中を叩きつけられ悶絶する相手の唸り声に、碤三は目を開けて駆け寄った。 「葛、大丈夫か」  腰をさすりながら上体を起こす葛に、碤三が情けない声を上げた。 「す、すまん、つい力加減が」 「バカ、敵に加減してどうする。おまえ、片目でもこれだけ戦えるんだぞ」  座り込む碤三の膝に顎を乗せて碤三を見上げる葛の目は、蕩けたように潤んでいる。 「私にとっておまえはもう、この身そのもの、私の半身なのだ。いっそお前の中の血肉になってこの世から無くなって仕舞いたい程、ずっとずっと重なっていたい。でも宗冬様は私がこの手で、おまえと共にお育てした、実の弟とも思っているお方。お側でお支えしたい……それは、強欲な私の我儘なのか。誰も失いたくないというのは贅沢か」  はいはい、と苦笑して碤三は葛を抱き起こした。これはもう降参というしかない。 「第一私が働かぬでは、里の暮らしが立ちゆかぬ」 「だよな、何たって頼りになるお頭様、言わばこの里のお館様だもんな……俺はさ、のんびり暮らして普通の爺と婆になりてぇと、そんな弱気な事を思っちまったんだよ」 「私はどちらかと言えば、爺だぞ」 「うるせぇ……ああ、危うくクソみてぇなヒモ亭主に成り下がるところだったぜ……この目の分も強くなれるように、俺は修行する。だから暫くは無茶しねぇって誓え」 「誓えったって……」 「あと、お前が京に戻る日まで、俺から片時も離れるな」  くすりと笑って葛が碤三の首に両腕を巻きつけた。頰を重ね、耳元で答えた。 「はい喜んで。私の旦那様」  だらしなく相好を崩すのを止められずにデレデレとにやける碤三が愛おしく、葛はその眼帯越しの左目に、鼻に、そして口に、丹念に口づけを捧げた。  二日後、葛は京を目指して里を発った。同時に碤三も、誰にも行き先を告げずに旅立ったのであった。    高田家を滅ぼし、新たに稲川、南條と同盟を結んで奥川を傘下におき、織田島宗近はとうとう上洛を果たした。足利将軍と誼を通じ、二年掛りで畿内の大名を調略と力とで抑え込む頃には宗冬の邸宅の普請も終わり、宗近上洛の足掛かりとして役目を果たし始めていた。  宗近は、主だった金山を手にしたことで有り余る金銭を公家衆にバラ撒き、その一方で京都所司代を設置して朝廷の動向に目を光らせることも忘れなかった。着々と京での影響力を強化するため、焼け野原だった京の復興と御所の修理にも金を惜しまず、それまで反抗的であった公家衆も徐々におもねり始めていた。  宗冬以下、主だった家中の者が寝泊まり出来る程に普請が大詰めを迎えた頃に、ふらりと宗近が半右衛門を伴ってやってきた。束帯姿の二人の背後には、仰々しいほどに美々しく鎧甲冑の支度を整えた近習の兵たちが付き従っていた。 「御所に挨拶に上がった帰りじゃ。苦しゅうない」  どうぞ、とも何も言わぬうちに、宗近はまだ内装が整っていない本殿にずかずかと上がり込んだ。 「あなたも、ですか」  さも当然とばかりに上がり込もうとする半右衛門に、宗冬が迷惑そうな声を出した。 「いけませんか」 「私はあなたをあまり歓迎しておりません。第一、あなたは幕府にも御所にも手を伸ばして何やら暗躍しておられるようですが、目的は何なのですか」  奥から顔を出した紘が、心配そうに宗冬の袖を引っ張った。 「そちらの女性は。そんな形で表に顔を出すなど、不躾ですね」 「妻の(ひろ)ですが、何か」 「おや、下女かと思いきや、奥方様ですか。これはこれは、大層自由なお育ちのご様子の可愛らしいお方で。織田島の家風に染まらぬ貴方には似合いだ」  フンと半右衛門が鼻を鳴らして通り過ぎて行くのを、宗冬は刀の柄に手をかけたまま歯を食いしばって見送った。その手に、紘がそっと水仕事で荒れた手を重ねた。 「私は構わないよ、あんな嫌味。しかし見た目は貴公子然としていても、肝のみみっちい男だよ。あなたの相手じゃないさ」 「紘……ありがとう」  紘の手を優しく握りしめ、宗冬は大きく息をついて頷いた。    客間となる奥殿の座敷に、宗近はどっかと腰を下ろしていた。まだ意匠も整っていない殺風景なままであるが、瀟洒な庭を眺めることができる。隣の三条橋邸の大きな桜の古木も塀越しに見ることができ、春になればその桜から舞い落ちる花弁で、目の前の小さな池が桜色に染まることであろう。 「良き庭じゃ」 「そうですかね。田舎臭いことこの上ないじゃありませんか」  半右衛門は嵌められたばかりの欄間を指でなぞって苦笑した。 「宗冬は、位階を得た上で御所との繋ぎ役をせよ。三条橋には話を通してある。半よ、下手な小細工は致すなよ。悪戯が過ぎれば、お前の仕事は全て宗兵衛に任せる」 「早く本能寺に戻りましょう。こんな所で貴方と過ごすのは御免です」 「聞いているのか」  痴話喧嘩のようなやり取りを繰り返していると、仏頂面をした宗冬が入ってきた。 「ご納得いただけたのなら、お引き取りください」 「そうしましょう。こんな所より本能寺の方がマシです」 「でしたら半右衛門殿だけどうぞ。五月蝿くてたまりませんね。貴方は本当に、将軍家を使って畿内の大名を調略で従えさせた軍師と同一人物ですか。大方、汗をかいたのは宗兵衛様あたりでしょう」 「たまたま戦でたまたま功を挙げただけの小僧が」  半右衛門が土気色の肌を紅潮させて腰の懐刀を抜いた。流石に宗冬も懐剣に手を置いた。 「よさぬか。半、先に戻っておれ」 「何でこんな人質の肩を持つんですか」 「儂を本気で怒らせたいか」  宗近の冷たい両眼に、半右衛門は切なげに眉を顰め、天を仰ぎつつ刀を収めた。そしてわざと宗冬の肩にぶつかるようにしながら、足早に出ていった。半右衛門が通り過ぎる時ふと、血の臭いを嗅いだような気がした。 「どうもここのところ、あやつはおかしい」 「あんな土気色した顔で凄まれて、不愉快ですよ」 「土気色……あやつの肌は本来白く薄桃に近い」  何かを達観するかのように、宗近が庭園の向こうを見つめた。 「宗冬、織田島は宗良に任せる。それで良いな」 「初めからそう申しております」 「紘と申したな。あの娘なれば良い子を沢山産むであろう」 「父上……」 「儂が生きておる間は、織田島の命脈のために働け。後はどう生きようと構わん。後悔だけは致すな、下らぬからな」 「下らぬって……」 「あ、堺にお前の知己がいると聞いた」 「喜井谷(きいだに)直獅郎(なおしろう)様のことですか」 「幕府がどうなろうと、御所が傾こうと、堺の人脈は手放してはならぬ。儂の隠し屋敷を町名主の今井曹休に任せてある故、何かあれば自由に使うが良い」 「はぁ……突然、私になぜそうまで」 「嫁取りの餞じゃ。気に入らぬなら売って銭にでも変えよ」  はぐらかすように鼻で笑い、さっと席を立って宗近は去っていった。見送る間も逸し、宗冬は暫し呆然と、今し方まで父が座していた場所を見つめていた。    1582年、18歳を迎えた春、宗冬は自邸と隣接する三条橋邸を訪れ、自邸の完成の報告と、長きに渡る普請中の騒音や織田島軍の出入りにより迷惑をかけた事を詫びていた。  見事に手入れの行き届いた庭園に、あの大きな桜の古木があった。もう花の盛りは過ぎていようが、久しぶりにゆっくりと見上げる桜は、やはり儚く美しい。 「芙由子を思い出すか」  少し癇に障る高めの御所言葉に振り向くと、口元を扇で隠した三条橋道実(みちざね)が立っていた。 「これは伯父上」  膝を折って迎えると、道実は宗冬の側までやってきてその肩に手を置いた。 「よう参ったの、一日千秋の思いでこの日を待っておった」 「有難きこと。今後は親しくご近所付き合いの程を願わしゅう存じます」 「京には四季折々のしきたりがある。いつでも学びに参るが良い」 「はい」  道実に促されるように宗冬が立ち上がった。二人は並んで池の辺りを歩いた。背こそ宗冬が幾分高いが、二人の似通った容姿は、やはり血縁を感じさせるものであった。 「宗近は所司代に軍を持たせたが、朝堂を軽んじての事か」 「いえ、不穏な輩を取り締まり、朝堂を安んじ奉るのが務め。天子様をお守りする事こそが、我ら武家の責務にございます」 「武家か……その方、公家にはならぬか」 「は、それはどういう」 「私にはもう……息子も娘も、全て死に絶えてしまった。娘は嫁ぎ先で、息子は病で。妻もなく、この屋敷に家族と呼べるものはいない。遠縁の男児を引き取ることも考えたが、ここにこうも美しく立派に成人した甥がいるのならば、その甥に向後を託したい」 「お戯れを」 「戯れではない。私の後継として、三条橋を継いでほしい。織田島には男子が他に二人もおるではないか。私には、おまえしか血の絆を感じられるものがおらぬ」  二人の間に風が吹いた。桜の花弁が道実を姿を掻き消してしまいそうなほどに二人の周りを覆い尽くした。  自邸に戻ってから、宗冬は庭の桜を眺めながら考え込んでいた。桜といっても昨年に移植したばかりの若木で、この土が気に入っているかもわからない。ほんの幾つか花が咲いただけの桜は、己の器量と釣り合わぬ境遇に戸惑う己自身のようでもあった。 「何考えてるの」   白湯を手に現れたのは、相変わらず下働きの姿をした紘であった。家中の者たちも今はすっかり慣れてしまい、毎日一緒に和やかに笑いながら家事を務めている。行儀見習いも不要と言い切る紘に無理強いはせず、本人のやりたいように過ごさせていた。 「伯父上に養子にならぬかと言われた」 「ならないの」 「公家など無縁の生活をして参ったのじゃ、務まろうはずがない」  差し出された白湯を飲む仕草など、その辺りの貧乏公家の青年らより余程に公達らしいのにと、紘は首を傾げた。 「そうなれば紘とて今のままというわけにはいかぬ。奥方様として振舞わねばならぬのじゃから。蒼風の世話などできぬぞ」 「そんなのは嫌だよ」  頰を膨らませて抗議する紘のあけすけな表情が、宗冬には堪らなく愛しかった。ここのところの京暮らしですり減っていた心が、暖かさに満ち溢れていくようであった。 「このままでよい」  紘の手を取り、自分に言い聞かせるように、宗冬はそう呟いて頷いた。  織田島と名乗る以上、世間は織田島の血縁とみなして交誼を通じようとしてくる。一方で、三条橋道実の甥という事実もまた京においては重きをなし、朝廷への口利きを頼む連中まで現れる始末であった。  名など無ければ……適当な名前をつけて表札を掛け替えてやろうかなどと思わぬではなかった。 「藤森の里では暮らせないの」  里での暮らしを知る紘は、度々そう言って宗冬を誘った。余程里の者と折り合いが良かったのか、今も密かに京の流行りの布地や食べ物を里へ送っている様子である。 「私が里へ行けば、必ず良からぬものを引きつけてしまう。巻き込むことは断じてできぬ」  不意に、紘が宗冬の手を自分の腹に触れさせた。前掛けで分からなかったが、幾分ふっくらとしていた。 「紘、もしや」  しっかりと紘は頷いた。実は、藤森の里で一度、子が流れてしまっていた。しかし紘はその子が宗冬の子か、盗賊共に乱暴された時の子か確信が持てず、宗冬には何も言わぬままであった。里の者も事情を理解した上で、黙してくれていたのだった。  しかし今腹のなかにいるのは、間違いなく宗冬の子である。 「そうか、私は父になるのか、なれるのか」 「そうだよ、父上様だよ」 「有難い、何と有難い事か! 私にはそんな幸甚は訪れぬものと諦めていた」  宗冬は顔を輝かせ、涙を浮かべて紘を抱きしめた。 「有難う、有難う。どうか体を労って欲しい。ほら、そんな野良着はもうやめて、体を冷やさぬ小袖と袴に着替えるんだ。もう膳所で働いてはいけないよ。誰か、誰か! 」 「そんな大げさな、まだ五ヶ月にもならないのに……」  これは大層子煩悩なお父上様になるに違いないと、慌てふためいて下女らを呼びつける宗冬の様子を、紘は隠しようのない幸せに満ちた笑顔で見つめていた。  そんな幸せな心地で過ごす事数日、やっと葛が京に着き、同時にあの明智宗兵衛が気ままに宗冬の屋敷を訪れるようになっていた。紘はすっかりお腹様として奥の間で大切に世話をされており、実質の家内の仕切りはやはり葛が務めることとなった。  時に腰元、時に近習と、相手によって器用に形を変えながら、富に増えてきた来客を上手にあしらってきた葛であったが、今日は腰元の姿で宗兵衛に茶を差し出していた。 「相変わらずお美しいことです。そうそう、高遠でのあの妖艶な舞が語り草になり、あの辺りに架け替えられた橋は、天女橋と名付けられたそうですよ。流石ですね」  客間に座すのもそこそこに相変わらずのお喋りを始める宗兵衛に、葛が咳払いをした。 「若はお忙しい御身の上でございます。御用件なれば手短に」  ああ、そうでした、とわざとらしく、宗兵衛は袂から書状を取り出した。 「お館様からです。京にて馬揃えを行い、朝廷の皆々様、恐れ多くも天子様に御臨席を賜わりたく、若様に手配をと仰せでございます」 「私にですか」 「何せ時の右大臣三条橋道実公の甥御様ですから。お上に献上する土産の類は、既に所司代を通じて御所にお届け申してございます。あ、勿論三条橋様にも。お館様は義兄である右大臣様を頼りにしておられます。稲川と縁の深い四津寺様や、左大臣九条様など、三条橋家と対立する一派にはまた別に、贈り物をご用意してございます」 「そう申されても、私には御所に上がるだけの位階もない」 「位階など、贖えば宜しゅうございます」  躊躇する宗冬の横で、葛が然もありなんと呟いた。 「お館様を超える官位を、御用意頂けば宜しゅうございましょう。私はこの足で三条橋邸へ参り、若の御後見として官職に御推挙頂けるよう願って参ります」 「待て葛」  初めて聞く宗冬の厳しい声に、葛も宗兵衛も驚いて動きを止めた。 「ならぬ。私は位階など求めぬ」 「そうは参りませぬ。第一生き馬の目を抜く京では、位階が身を助けることもございます。若ならばお血筋も申し分なく、その御功績にて正六位、お覚えめでたくばすぐに五位いえ四位、参議に加われば清涼殿に上がり天子様のお側にお仕えすることも叶いましょう。さすればお父上を遥かに凌ぎ、明智様にああせいこうせいと言われずに済むのです」 「いや、私はただお館様の名代で……」  じろりと凄みのある眦で葛に睨まれ、宗兵衛が肩を竦ませて黙った。 「紘を守れるのか」 「きっと守れましょう。第一、織田島が関東までを傘下に収めたとはいえ、九州はまだ手付かず、戦乱はなおも続きましょう。ならばいっそ武家を捨てるのも良いのでは」  宗兵衛の意見はと顔を見ると、何とも苦々しい顔をしていた。それもその筈で、御所や足利将軍との交誼を取り持つ為に実際に奔走したのは、半右衛門ではなくこの男である。  宗冬の出生はそんな苦労をいとも容易く飛び越えてしまうのだ。だが一方で、その出生に振り回されて苦しんできたことも、宗兵衛は痛いほどよく分かっていた。 「やはり、私はこのままでよい。武家だの公家だのと拘らず、あくまで一人の男として、この世の何某かに役立てればそれで良い」 「若」  血筋に翻弄され、血筋から逃れられず、今もまた憎む父の姓を捨てられずにいる。そうまでしてもやはり父は父なのかと、葛は継ぐべき言葉を呑み込んだ。 「すまぬな。葛の女御姿はさぞかし美しいであろうが」  押し黙る葛を気遣うように冗談を言う宗冬だが、自分の半生を嫌という程知り尽くした上で考え込む葛のその思いが解るだけに、それ以上の作り笑いはできなかった。  しかしそんな想いとは裏腹に、やがて宗冬は御所の推挙によって道実を後見とし、従六位を経て従五位の下尾張守となった。因みに宗近は、京の秩序を取り戻したことや御所修繕の働きによって、従三位権大納言となっていた。  更に天皇の側近くまで参内できるようにと道実が参議となれるよう根回しを始めたが、宗冬はそれを拒み、あくまで中立でいることに拘った。従五位を受けたのはただ、双方の行き過ぎた干渉を嗜められるだけの立場が必要だったというだけである。昨今は宗近が朝廷とりわけ次期天皇と目される誠仁親王に経済的に肩入れし、朝廷方への折衝役に宗兵衛をつけ、大金をつぎ込んで朝廷の掌握に明け暮れていた。そうなると、それまで緊密な関係にあった足利将軍は忘れ去られ、将軍は徐々に宗近への恨みを募らせいくこととなる。  宗兵衛は益々朝廷方との折衝役として存在感を放ち、まるで定宿の如く宗冬邸に度々訪れては長居をするのだった。今日も、三条橋道実との打ち合わせの後、前触れもなくふらりと立ち寄り、葛が美眉を顰めて奥へとしぶしぶ通したほどであった。  京での仕事が長い宗兵衛は、身に着けているものも垢抜けており、そつのないところは公家の女房たちにも受けが良いらしい。成る程、中年に差し掛かる年の割に、爽やかな青年然とした雰囲気は健在で、話し方にも武家特有の武張ったところがない。それどころか礼儀に煩い道実が褒めそやす程に、貴族方の立ち居振る舞いが堂に入っていた。 「本当に、馬揃えにお出にならないのですか。蒼風の勇姿をお館様は楽しみにされておいでですが」 「紘が間も無く出産なのです。いつ産まれても良いように、私は側にいてやりたいのです」 「相変わらずの愛妻ぶりですな」  自分もちゃっかり妻子を京に呼び寄せているくせにと、宗冬が笑った。 「宗兵衛様はお行列ではなく、饗応役でしたね。誠仁(さねひと)親王殿下がご臨席と承りました」 「ええ。三条橋様のお力と、三条橋様へお口添えくださった宗冬様のおかげです。そうでなくてはお館様に斬り殺されてましたって。とにかくそんな訳で、誠仁様のお側を離れることはできません。尤も、自慢になるような馬もありませんがね。連れてきた馬も、紘さんにボロクソ言われましたから」 「お許しください、根が正直な妻なもので」 「何ですと」  声を上げて笑っていると、葛が小袖裁着袴の姿で緊迫した様子で駆けてきた。御免、との声で障子が開けられ、葛が宗冬の許可を待たずに部屋に入ってきた。 「ご無礼を。只今知らせが参りまして、足利将軍家が俄かに挙兵、馬揃えに備えて本能寺に御滞在のお館様へ向けて進軍を始めたとのことです」 「何と」  茶碗を取り落とし、宗兵衛が絶句した。 「葛、すぐに藤森衆を集めて屋敷を固めよ。私は宗兵衛殿と所司代へ向かう」 「お待ちください、若はお出になられてはなりませぬ。親王様、将軍家、織田島家、誰が敵で何が狙いかも混沌としている有様です。無闇に関わってはお立場に障ります」  それ以上に紘が気に掛かる。宗冬は浮かしかけた腰を戻し、逡巡した。 「私はひとまず二条御所へ。東宮家をお守りいたします」  転がった茶碗を蹴飛ばす勢いで、宗兵衛が駆け出していった。誠仁親王は、かつての二条橋邸を宗近が買い取って荘厳に改築した二条御所に住んでいた。 「葛、将康様は。まだ堺におられるか」 「丁度京へと発たれる頃合いかもしれませぬ。急ぎ人をやり、喜井の直獅郎様と繋ぎをとって将康様を堺にお止まりいただくよう伝えましょう」 「直獅郎様も堺におられるのか」 「将康様御一行には政虎様もおられます。堺にてお会いになられている筈です」  事実、馬揃えに招待された将康は、宗近の好意で一月前から堺にて遊興していた。そこでは養子・政虎を取り立てた将康への御礼とばかりに、堺に通じた直獅郎が滞在中の世話を買って出ていた。 「ならば暫しお任せしよう。今は紘を動かせぬ」  昨晩から、紘は大きく膨れた腹の痛みを訴えるようになっていた。近所の産婆の話では、一両日中には出産が始まるだろうということで、既に泊まり込みで待機してもらっていた。 「物見を二条と本能寺と堺に。私は伯父上の元に行き、御所の警備を手配してすぐに戻る」 「承知いたしました」 「紘を頼む」  宗冬は宗近より拝領の千子正重の一振りを刀架から掴み取り、駆け出していった。  葛は藤森衆で邸内を固めると同時に、京の至る所へ向けて物見を放った。  緊迫が奥座敷にも伝わったか、部屋の障子越しに声をかけると、既に紘が起き上がっている気配がした。 「宗冬様は」 「お隣の三条橋邸へ。すぐに戻ると仰せでしたから、奥方様はお心安く」 「……姉さん、いざとなったら、私より宗冬様を守って」 「奥方様、私に全てお任せを」 「うん。だって玄人だもんね」 「然様です……良いか紘、無事に子を産むことだけを考えるのだぞ」  藤森衆の若い女を数人、紘の部屋の周りを固めさせ、葛は表玄関へと走った。  知らせを受けた道実が手を打つ間に宗冬が御所に駆けつけ、衛士による警護は瞬時に強化された。更に道実に恩顧ある大名が京屋敷から兵を出し、御所の守りは固まった。  何とか間に合ったと胸をなで下ろして自邸に戻ると、表門近くで剣戟が繰り広げられていた。葛が一人で兵の侵入を防いでいるものの、多勢に無勢、恐らく勝手口や裏門は破られているだろう。宗冬は葛に群がる兵を蒼風の前足で蹴散らし、馬上のまま門を潜った。 「どこの兵だ」 「旗印は九枚笹! 」 「九枚笹……坂中半右衛門か! 」  数ヶ月前に宗近とふらりと現れた時の、何事にも突っかかる態度が気に入らなかったが、ここまでとは……蒼風の上から刀を突き刺すように繰り出しながら敵を退け、庭を伝って奥殿へ向かった。  しかし既に、奥殿には半右衛門の兵が群がっていた。ゆらりと上がった火の手に戦慄を覚え、宗冬は妻の名を叫びながら奥へ奥へと斬り込んだ。  火の手は紘の産所の辺りから上がっていた。部屋の前では葛の配下と思しき女忍が下女の姿のまま戦っていたが、一人また一人と斬られていった。 「紘! 」  九枚笹の旗を背中に立てた兵を旗ごと背中から斬り捨て、組み敷かれていた女を助け起こした。 「紘は」  すると女は小さく首を振った。まさか、と震える手で障子を開けると、そこには血塗れで事切れている紘と、紘の体に覆いかぶさるようにして死んでいる産婆や下女達の、惨たらしい姿があった。 「敵襲を受けた時には既にご出産が始まっており、どうしてもお移しすることができませんでした。申し訳ございません、申し訳ございません」  女はそう叫ぶと、刀を首筋に当てて自刃しようとした。しかしその刀を宗冬が手で叩き落とした。幽鬼のような顔で、それでも自死を思い留まらせた宗冬に、女は突っ伏して詫びた。だがそんな嘆きも、宗冬の耳には最早届いていない。  坂中兵は、紘を庇った女達の体ごと紘を刺し貫いていた。もう間も無く生まれる筈だった赤子も、紘の腹ごと刺し貫かれていた。これ程に恨みがましく陰惨な殺し方はあるまい。 「紘、紘よ、済まぬ、済まぬ」  まだ膨れたままの腹を血に染めている紘を、宗冬は腕の中に抱いた。その両目は微かに開かれ、宗冬と赤子との三人の未来を想うかのように天を見据えたまま光を失っていた。 「若! 」  尚も追い縋るように挑んでくる坂中兵を後ろ手に振るった一撃で倒し、葛が産所に飛び込んできた。しかしすぐに、体の力を失ったかのようにその場にへたり込んでしまった。 「葛、敵兵は」  宗冬の忿怒に満ちた問いにも、葛は答えられなかった。 「しっかりいたせ、葛! 」  はい、と答えながらも、葛の顔は驚愕と口惜しさとでくしゃくしゃのままである。 「坂中半右衛門はいずこじゃ」 「お、おそらく、襲撃は家臣の指揮によるもの。はん、半右衛門はおそらく本能寺」  一気に吐き出すと、葛は床に爪を立てるようにして咆哮を上げた。 「葛、紘を頼む。綺麗にしてやっておくれ」 「わ、若! 」 「来るには及ばぬ。紘を、子を……」  言葉を継げぬ宗冬の背中から葛がしがみつくようにして抱き止めた。胸元に回された葛の血染めの手をしっかりと握りしめ、宗冬は存念を葛に伝えたのだった。 「頼む」  紘をそっと横たえ、宗冬はゆらりと立ち上がった。  半兵衛が二条城に着く頃には、既に所司代から宗良が率いる一軍が救援に駆けつけていた。半兵衛は自軍の装備を整え、改めて本能寺へ向かった。  宗近がここ数年京都滞在に利用している本能寺は、伽藍こそ然程大きくはないが、宗近好みの意匠が凝らされ、寝所の調度品も宗近好みに整えられていた。  将軍家の兵が本能寺を取り囲んだ時、半右衛門は宗近の腕の中で血を吐いていた。 「おまえだな、半」  将軍家を刺激し、兵を挙げさせたのは半右衛門だろうと、宗近は見抜いていた。 「ずっと顔色が悪かった。もう、長くないのであろう」  宗近の胸に顔を埋め、ぜえぜえと肩で息をしながら半右衛門は頷いた。 「儂が宗冬に気を向けたのが、然程に口惜しかったか、馬鹿め」 「だって……私と生死を共にすると仰ったのに、あの小僧の為に、貴方は生に執着し始めた。長生きして、宗冬めが織田島の名を日の本に轟かせる様を見たいとさえ、思い始めていたでしょう」 「勝手なことを」 「残念ですけど、宗冬めは下賤な妻諸共先に地獄に行ってもらいました。ああ、清々した」 「貴様、気が触れたか」 「貴方のせいだ……一緒に、一緒に地獄に堕ちてください。離れるのは嫌です」  宗近の傷跡だらけの胸板が、半右衛門の血反吐に染まった。 「お館様、宗兵衛様の兵が到着なされました」  小姓が障子越しに告げるが、宗近は半右衛門を抱きしめたまま何も答えなかった。 「お館様、お下知を」  半右衛門の呼吸が細くなるのを感じながら、宗近は枕元に置いてある刀を引き寄せて抜いた。  やがて戦いの咆哮が届いてくるが、まるで遠い世界での出来事のように感じられ、宗近は静かに半右衛門の弱まる鼓動を聞いていた。  明智宗兵衛は本能寺を取り囲む足利勢を完膚なきまでに叩きのめした。這々の体で将軍家本人が出奔して逃げ出しても、宗兵衛は囲みを解くことはなく、その矛先を本能寺に向けたままであった。 「何故中に入られませぬか。見事なお働き、さぞお館様もお褒めになられることでしょう」  開門して駆け寄ってきた宗近の小姓を、宗兵衛は馬上のまま一刀の元に斬り捨てた。 「あの方に、父殺しの汚名まで着せるわけにはいかぬ。もう十分過ぎる程に苦しまれたというのに……坂中殿も、色に迷って晩節を汚すとは」  その時、一糸乱れぬ隊列を整えた軍を引き裂くように、蒼風が蹄を轟かせて主人を乗せて駆けてきた。そのまま山門を潜り抜ける勢いで駆けてきた人馬の前に、半兵衛は両手を広げて馬上のまま立ち塞がった。 「そこを退かれよ。明智殿に遺恨はない」  宗冬の顔は蒼白で、全ての感情を失ってしまったかのように凍りついていた。これが、あの貴公子然としていつでも柔和であった宗冬かと、広げていた両手をつい下げてしまった。その隙をついて、宗冬は山門を潜ってしまった。 「いかん、宗冬殿! 」  蒼風は、建物中から湧いて出てくる近習達を足蹴にして暴れまわった。宗冬の意思そのままに、渡り廊下に駆け上がり、そのまま奥殿へと突進した。  寝所が近いと見え、近習の腕も手強くなってくる。宗冬は蒼風から飛び降り、一心不乱に刀を振るった。矢を番える者達は、蒼風が足で蹴散らした。  宗兵衛が宗冬の後を追って兵と共に雪崩れ込み、寺領、本堂と順当に制圧していった。 「宗冬殿、宗冬殿! 」  人が倒れている場所を進んでいけば、自ずと宗近の寝所が知れる。弓隊を引き連れ、宗兵衛は奥へと駆けていった。  寝所と思しき部屋の前には、まだ年端もいかぬ小姓らが刀を手に待ち構えていた。 「退け。そこに坂中半右衛門がおろう。そなたらに危害は加えぬゆえ立ち去れ」 「慮外者め、ここはお館様ご寝所。何人たりとも通すわけにはいかぬ」 「愚かな。あたら若き命を散らすと申すか、あの気狂いの軍師のために」 「言うな! 」  斬りかかってきた小姓の華奢な肩口に、宗冬は刀の峰を叩きつけた。力の加減をする気はせず、骨の一本くらい折れていても命には別状あるまいと、無情に蹴散らした。 「坂中半右衛門! 」  両手で開け放った障子の向こう、更に奥の寝所では、小袖姿の宗近が、夜具の上で半裸の半右衛門を抱きしめていた。こちらに向けられている顔も宗近の白絹の小袖も血に染まり、半右衛門は既に生気を失っていた。 「今、逝った」 「その者の首を所望いたす」 「渡すことは叶わぬ。またおまえに悪さを致したか」 「その男は妻を殺した。産まれるはずであった我が子を殺した」 「で、あるか……地獄に着いたらよう叱っておかねばな」  ふざけるなと振り上げた千子正重の渾身の斬撃を、宗近が手にしていた刀を一閃して弾き返した。 「今更、何故その男を庇う」 「織田島はおそらく、食い散らかされて終わるであろう。宗兵衛はおまえを親殺しにせぬ代わりに主殺しの汚名を着ることで、お前を生かそうとしている。宗冬よ、武家はまだまだ成熟には程遠い。狭い了見から抜け出せぬ阿呆が多すぎて、新しい世を作りたいと思うても中々前には進まぬ。半右衛門と儂は、もう飽いた」 「飽いた……さんざん野望のために私を利用して、飽きたとは何だ! 妻を返せ、子を返せ! 自分だけ愛しい者を抱いて眠るなど、絶対に許さぬ! 」  宗冬が再び真っ向唐竹割りに千子正重を振り下ろすのが分かりながら、宗近は口元に笑みを浮かべて切っ先を下げた。黙って斬られるつもりかと振り下ろす軌道が僅かにぶれ、その間に宗兵衛の刀が差し込まれた。宗冬の振り下ろしの一刀は、火花とともに宗兵衛に弾き飛ばされた。 「父殺しはなりませぬ! 貴方様ほどのお方が背負うようなものではございません。畜生道に落ちるのはお館様と半右衛門の方です。そうでございましょう、お館様」 「宗兵衛、よう言うた。先に地獄で待っておる」  宗兵衛に冷笑を向け、宗近は迷いもなく刀で己の首を掻き切った。 「父上! 」 「火を放て。儂の首は誰にもやらぬ。宗兵衛、おまえは賊徒となって森下めに討たれてやれ。将康が全て承知しておる」 「この明智宗兵衛、遺言と思い、胸に刻みまする」  全てを呑み込んだ宗兵衛の返事に満足気に瞬きをし、宗近は宗冬を見上げた。 「宗冬よ……生きよ」  口から血を吹き出しながらも、宗近は叫び一つ上げることもなく更に刃を首に食い込ませていった。宗冬に向けてにっと悪戯気に笑うと、首に刀を食い込ませたまま、半右衛門を抱き包むかのように、静かに絶命した。 「宗冬殿、行かれよ」  恨みを向ける矛先を目の前で失い、父とは思っていなかった父を失い、宗冬の思考は完全に停止していた。  刀を持つ手をだらりと下げたまま微動だにせぬ宗冬の頰を、宗兵衛が渾身の力で殴った。 「こんな綺麗な顔を殴って、あの世でお母上に怒られそうですよ。さ、葛さんのところにお戻りなさい。大丈夫、将康様と落ち合う頃には全て終わっていましょう。森下の追っ手がかかる前に早く京を出ることです」  こんな時にも洒脱な話し方で事も無気に笑ってみせる宗兵衛ながら、兵達には火の付け所を細かく指示をした。 「さ、私はこれから一世一代の大芝居を討たねばなりません。申し訳ありませんが、私の妻子を、時々気にかけてやっていただけませんか」  返事もせず立ち尽くす宗冬を、宗兵衛は信頼する忠臣に預け、本能寺からすぐに逃すように指示を出した。  1582年、数刻と経たずに本能寺は焼け落ちた。宗近と半右衛門の首はとうとう見つからぬままである。先に本能寺を囲んだ将軍家は逃げ落ちた越前から、宗兵衛が主殺しの賊徒であると声明を数多の大名に発した。我先にと畿内に溢れかえった織田島家臣の中でも成り上がりの、中国攻めの地ならしをしていた筈の森下藤吉という男が、あっという間に山崎で宗兵衛の軍を破り、織田島家臣の一番手柄として実権を掌握していくこととなる。  宗兵衛は、落ち延びようと逃げ込んだ小栗栖の森の中で、落ち武者狩りに囲まれて絶命した、とされている。  宗兵衛の忠臣が宗冬を蒼風の背に乗せて、主人の指示通りに堺への街道口を目指すと、花の盛りを過ぎた桜の木の下で、武装した葛が藤森衆を従えて既に待っていた。 「我が主人の指示にて、お送り申した」 「かたじけのうございます。宗兵衛様に、くれぐれもよしなにお伝えくださりませ」 「承知」 「御武運を」  葛がふわりと蒼風に跨り、宗冬の背中越しに頭を垂れた。相変わらず魂が抜けたままのような宗冬は、ぼんやりと宙を見つめるだけであった。 「既に森下藤吉の軍が畿内を制圧しつつある。急げ」  女物の腰紐で自分の細い腰と宗冬の腰をしっかりと巻きつけ、葛は蒼風の手綱を握った。  宗近の強引な誘いで断りきれずに堺を見物していた将康であったが、元々馬揃えに間に合わせるつもりはなかったのであった。半右衛門の不穏な動きを察知しており、何やらきな臭さを感じていたのである。  そこへ届いたのが葛からの知らせであった。一行は京ではなく、岡崎へ逃げる為、伊賀峠を越え一路伊勢へ抜けることとなった。多羅尾氏の小川城から御斎峠を越え、柘植の山里を過ぎればもう藤森衆の縄張りである。ただ、このあたりは忍の一族が自治的に里を構えており、干渉を好まない。しかもどの衆がどの大名と繋がっているかも解らない。慎重な上にも慎重を期さねばならなかった。 「半右衛門め、あの色狂いのせいで全てが狂いおったわ」  小川城の客間で漸く足を延ばすことができた酒匂清重(さこうきよしげ)が、忌々し気に脇差の鐺を床に叩きつけた。 「あの半右衛門が、色で全てを穢したと本気で思うておるなら、お前は相当頭の出来が目出度いのう」  茶を喫してやっと一息ついた将康が、言葉を選ぶ余裕もないとばかりに毒づいた。 「森下にのう、面倒を押し付けたのよ」 「あの猿にですか」  成り上がりを隠そうともしない森下藤吉は、小柄で背が丸く、歩く姿はまるで猿のようで、織田島家中でも宗近にも、猿と呼ばれていた。 「儂が出番はずんと先のことじゃ。森下めは成り上がる為のどんな迂遠な手順も面倒とは思わぬ男よ。細々細々と働かせておけば良い」 「はぁ……」 「お館様は、それを見越して宗兵衛を隠したのじゃ」 「いや、小栗栖で死んだと」 「だから目出度いと申すのじゃ、お主は」  判じ物かとばかりに首をかしげる同行者の面々を見渡し、将康は溜息をついた。ここにいるのは全て武で鳴らした男たちで、後世の語り草にもなるであろう猛将ばかりである。  文官がいない。知恵が働き、内政、内務に長け、施政に役立つ能力を持つ者が圧倒的に欠けている。それは織田島家中も同じことであり、宗近が絶望したのもそこであった。彼が描いた治政を実現できる人材が、全くと言って良い程育っていなかったのである。 「あと十年、いや、二十年。宗兵衛、頼むぞ」  一人呟き、将康は体を休めるべく横たわった。    鬱々として眠れず、本戸勝重(ほんどかつしげ)は小川城を抜けて森の中をふらふらと歩いていた。落ち武者狩りの危険もある故、外歩きは厳禁と言われていたのであるが、あの狭い山城の中に男所帯がひしめき合う様は何とも気が滅入ってならなかった。城主の多羅尾正敏は夕餉の席に女を用意してくれたが、近隣の農婦に無理やり白粉を塗りこめたような中年女ばかりで、かえって気持ちが萎えるばかりであった。  月明かりの下、不意にまとわりついてきた蛍に誘われるように水辺に降り立った。これが多羅尾殿が言っていた弁天池か、と独りごち、勝重が森から斜面を下って畔に立った時であった。  水音がするなり、白蛇のような細い裸身が月明かりの下に現れた。驚いて刀に手をかけるが、こちらに向けられたままの背中の余りの美しさに、勝重は息を呑んだ。 「女、か」  女は、長い髪を丹念に梳き、やがて水気をしっかりと絞って頭頂にくるりと巻き上げた。  器用に簪一つで纏めるその仕草は、露わになった頸の美しさも相まって艶めかしく、いつしか勝重は誘われるように池の中へと足を踏み入れていた。  白く滑らかな肌に指先が触れる程に近寄った時、女が両肩を抱くようにして身を固くした。肩口越しに見える横顔がまた、白磁でできているのかと思わせる程に滑らかで、象る曲線がこの世のものとは思えぬ程に美しい。 「これは本戸様」  と、女と思しき人物が発した声に、勝重は思わず足元を滑らせて水の中にひっくり返ってしまった。 「この池は存外深いのですよ。水練がお好みですか」  全身ずぶ濡れになった本戸を抱えるように岸に上げ、そんな嫌味を浴びせたのは他ならぬ葛であった。全裸の葛の姿は、確かに若々しい男のものに違いない。だが、纏め上げられた黒髪といい、後れ毛がまとわりつく白い胸板といい、懸想しても構わないと血迷ってしまいそうな程の艶かしさである。 「何で、藤森殿が」 「主人の命にて皆さまをお迎えに参上したのです。けれど季節外れの暑さで汗ばんでしまいましたので」  しどけなく小袖を纏う様子は、あの高遠城で見た天女の舞の艶姿そのものであった。 「ほ、本戸様」  無意識に、勝重は葛を組み敷いていた。制御の利かない猛獣のような大男に組み敷かれながらも、葛はどこ吹く風といった様子で微笑んでいる。これは靡いてくれるのかと思いきや、己の股間にはしっかりと葛の懐剣の刃先が充てがわれていた。 「女人が所望でしたら、白子の港まで遮二無二お歩きくだされ」  髭に覆われた勝重の顔が、まるでおもちゃを取り上げられた赤子のように歪んだ。 「こんな三十路近い体より、ずっと若くて可愛い子がおりますよ」  勝重の下から這い出て身繕いをする葛の言葉に、勝重が目を見開いて頓狂な声を出した。 「三十路? 三十路のババアには見えんぞ」  連呼された葛の眉がピクリと痙攣するなり、勝重の喉元にまた懐剣の刃先が張り付いた。 「まだ27だ! 良く聞け、里で藤森の女達におイタをしたら即刻この首跳ね飛ばして脳みそ抉ってイノシシの餌にしてやる。誰が三十路のババァだっ、ブッ殺すぞ! 」  恐ろしい殺気に勝重は悲鳴をあげ、その場で何度も手は出さぬと約定をしたのであった。    小川城に戻ってみれば、休んでいるはずの将康が既に起き上がって出発の支度を始めていた。ずぶ濡れの理由を問われて口籠る勝重にそれ以上の追求はなかったが、間も無く姿を見せた葛の、目尻に苛立ちを含んだ様子に、将康は理由を悟ったようであった。  家臣たちもほぼ出立の支度を終え、広間で城主の多羅尾正敏と葛も交え、周辺の地図を囲んでいた。 「森下藤吉様から、将康様をお見かけしたら足止めをせよと伊勢の国衆に通達が参りました。貴方様は明智側と目されておる様子。森下様が織田島家を掌握する前に岡崎へお戻りにならねば」 「多羅尾殿の申される通り、紀伊と伊勢の忍衆は最早、誰が敵か味方か分かりませぬ。野党化した浪人達による落ち武者狩りも熾烈を極めましょう。ここから先は我ら里衆のみが使う忍道を進みます。険しくなりますが、伊勢白子まで我ら藤森衆が案内仕ります」 「葛、宗冬は如何しておる」 「藤森の里にて殿のお着きをお待ち申しております。夜明けを待たずにご出立を」 「うむ。多羅尾殿、危急の折に世話になりし事、生涯忘れぬ」  奥川家中が揃って居住まいを正し、正敏以下主だった多羅尾家の面々に礼を述べた。  小川城から御斎峠、柘植の里を越え、加太から関へ至る直前に山間を少し渓谷へ南下し、一行は藤森の里に入った。明け方を待たぬうちからの山行であった為、健脚揃いの一行も流石に夕刻に至り、倒れこむようにして藤森の館に辿り着いたのであった。  山鳥を焼く香ばしさに目を覚ました将康は、客間の縁側から聳えるような桜の古木を見上げた。その根本には墓碑が建てられ、若者が一人、じっと手を合わせていた。 「宗冬か」  将康の声に、ゆっくりと顔を上げた宗冬が痛々しい笑顔を向けた。 「妻子を亡くしたと聞いた。それが、そうなのか」  宗冬がゆっくりと頷いた。そんな仕草も辛そうに、よろよろと痩せた体で立ち上がり、将康が座している縁側までふらふらと近寄ってきた。 「危ない」  葉桜の根に足を取られ、躓くようにして縁側に手をついた宗冬は、将康に背中を支えられながら、息を乱しつつ縁側に腰を下ろした。 「ご無事で、ようございました」 「お前こそ、よう無事でいてくれた。京からの知らせでは、宗良は既に森下に首根っこを押さえられ、連れていた兵は全て森下の麾下となったそうじゃ。あの猿めは恐らく明野姫と組んで笹尾丸を次なる当主に据え、後見として織田島家中を掌握することであろう。おまえは目の上のたんこぶじゃ」 「いっそ、本当に死んでしまった方が良かったかもしれませぬ」 「ならぬ。お前にはまだ役割があろう。森下が天下を地ならしした後、本当に戦のない世を作るには、おまえのような男が要る。宗兵衛もその為に大芝居を打ったのじゃ」 「私には最早役目など……」 「泣き濡れて生きるには、先が長過ぎるであろう」  と、襖の向こうから声がかかり、葛が酒食の膳を手に部屋に入ってきた。 「皆様には既に、広間で夕餉を召し上がっていただいております」 「造作をかけるな」 「何のことがございましょう。殿はこちらで、静かにお召し上がりになる方がよろしいかと。さ、若もどうぞ」  葛は柔らかな桜色の小袖に身を包み、女房衆のような前掛け姿であった。長い髪を背中で輪にして垂らし、薄く紅まで差している。 「私のような年増が相手では気も詰まりましょうが、お一つ」 「いやいや、命懸けの逃避行の間に弁天様が酌をしてくれようとは。或いはお迎えが近いのかのう」  まぁ、と柔らかく首をしならせて、葛が婉然と微笑んだ。 「殿は確か40と承っております。脂が乗った男盛りではありませぬか」  将康の隣に横座りし、しなだれるように体を寄せながら葛が将康の盃に酒を注いだ。 「政虎様が一足先に白子へ向かわれました。樵に扮し、我が衆もつけておりますので、忍道で鈴鹿を越えたとて然程日にちはかからぬと存じます」 「若いとは、良いの」 「それはもう。殿が白子に着く頃には、喜井の船が待ち受けていることでございましょう」  うむ、と力強く頷く将康の空いた盃に再び酒を満たすと、葛は、向かい合って座したままぼんやりとしている宗冬の隣ににじり寄った。 「若のお好きな山鳥ですよ」 「うむ」 「箸が進みませぬか」  ならばと、葛が一欠片の肉片を箸で摘み上げ、片方の手を宗冬の顎に添えた。 「はい、あーん」  たじろぎながらも、つい条件反射とばかりにほんの微かに開いた宗冬の口の中に、今だとばかりに葛が箸を突っ込んだ。困ったように葛を見つめる宗冬に、葛は優しく頷いた。 「ほら、美味しい」  口の中に、香ばしさが広がる。弾力のある肉片を噛みしめると、少し塩の味がした。 「もう、一人で食べられますね」  痩せて節の目立つ宗冬の手に箸を握らせ、包み込むように両手で挟むと、にっこりと葛が微笑んだ。母上、と思わず呟きそうになるのをグッとこらえ、宗冬は頷いた。 「宗冬よ、儂の元に来い。家中の者もお前には一目置いておるし、織田島の名は早うに捨てるが命のためでもある。三条橋でも何でも良い、森下の執念深いやり口から暫し身を隠す為にも、織田島の名は捨てよ」 「殿、その話はまだ……」 「いや、早い方が良い。あの猿めはあっという間にこの日の本を治めよるぞ。ボヤボヤしていては覇権争いに巻き込まれかねぬ。既に宗良は弾き飛ばされたわ」  宗良の織田島家継承の見込みはもう無くなっていた。それどころか、弟・笹尾丸が当主に就くための邪魔者と目され、身柄は森下派の大名の監視下に置かれていた。  箸を置いた宗冬が、ゆっくりと平伏した。 「御厚情、忝う存じます。しかしながら今は、妻の菩提を心ゆくまで葬いとうございます。今の私はただの抜け殻でお役には立てませぬ。せめて四十九日、妻子が無事に彼岸に着きましたら、必ず殿の元へ参じます」 「必ずだな」 「二言はございませぬ、お父上」 「葛、聞いたな」 「はい、確かに」  涙をこらえ、葛が宗冬の肩を優しく撫でた。 「ならば良い、良い。それで良い」  夜半には、仮眠を取った一行は戦仕度に身を固め、藤森の館を発った。蒼風と共に見送る宗冬に手を振る葛は、墨染の筒袖に軽衫、鹿皮の胴丸を着け、弓矢を背負い刀を二本落とし込んでいる。山歩きに備え、将康一行は最低限の武器以外は軽装に徹しているが、山に慣れている藤森一党は皆襲撃に備えて十分な装備を携えていた。 「ここからはもう、魑魅魍魎の住処と思召しを」 「うむ」 「伊勢はかつて、織田島の伊勢攻めにて相当数の忍衆が殲滅しております。同時に小大名も殆どが灰燼に帰しております。殿の首は格好の森下への手土産、心してくだされ」  先頭の若い衆に指示をしながら行く葛の言葉に、将康が腰の刀の収まり具合を確かめた。  武将達も一様に表情を引き締めている、というより、引き攣っていた。 「本戸様の獲物は蜻蛉切でございますね。ようお似合いです」  無言のまま緊張の面持ちで最後尾を歩く勝重に、葛が少し下がって声をかけた。 「槍の名手のお腕前、しかと学びとうございまする」  葛が優しく腕を絡めると、勝重は顔を赤らめるなり鼻息を荒くした。 「殿は某がこの名槍にて必ず御守り致す。葛殿もな」 「あら頼もしいこと、こんな三十路のババアも守ってくださるなんて」 「勘弁してくれ、あれは言葉のあやで……葛殿ほど美しい人を俺は知らぬ」 「まぁどうしましょう、嬉しい」  渾身の笑顔を勝重に向け、葛は歩調を上げて先を行く将康に並んだ。 「造作をかけるのう」  呆れ顔で詫びる将康に、葛が片目を瞑って明るくおどけてみせた。 「ああ固くなっていては、いざという時使い物になりませぬ」 「さすが玄人じゃの。いろんな意味で」 「んもう、殿はお人が悪い」  ぷんと頰を膨らませてごく自然な仕草で葛が将康の肩を撫でて行く。甘い残り香を吸い込み、列の先頭へと走っていく葛の後ろ姿を見送りながら将康は独り言ちた。 「あれは天性の男誑しじゃの」    一行が順調に鈴鹿の峠道に差し掛かった時、赤々と日が昇った。初夏とは思えぬ強烈な日差しであった。                    
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加