9.霞の京

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9.霞の京

9.霞の京  何度か落ち武者狩りを斬り払い、鈴鹿の峰を越えて漸く標高が下がってくると、そこかしこに焼け落ちた山里が無残な姿を晒していた。煤けて転がる丸太の下には、放置されたままの遺骸が転がっており、酸鼻を極めていた。一つ間違えば、藤森の里もこうなっていたのかと足をすくませる若い衆を励まし、葛は道を急いだ。  中腹を下った辺りから、一行は街道筋に戻り、歩きやすくなった道に歩む速度を上げた。  中天を過ぎた頃、一行の前に崩れ落ちた城跡が現れた。  石垣は苔むし、本丸の館跡すら残っていない。城下と思しき街並みもなく、人の気配も随分昔に失せているかのようである。  無人の筈の城の縄張りに立ち入った途端、一行は凄まじい殺気に囲まれた。 「落人狩りか」 「おそらく、犀川か幸松(こうまつ)の残党かと」  虎口に象られている石垣の陰に将康を隠し、葛が答えた。 「犀川か……管領家にも連なる古豪であったな。そうか、ここは新所(しんしょ)城か」 「はい。我が生家にございます」  それを聞いた一行が一斉に押し黙った。 「その方、犀川の遺児であったか」 「はい。五歳の時に峯城の幸松家と戦になり、母諸共父は自害、私は母の里である三条橋に仕える前頭目の市蔵に拾われ、こうして生き延びた次第にございます」 「野盗化したとはいえ残党を、元の家臣を斬れるか」  素直な疑問を口にした本戸を、葛が屹と睨みつけた。 「生憎、良い思い出も家中との関わりも一切ございませんので。本戸様こそ、天下の名槍・蜻蛉切が泣くことのないよう、せいぜいお働きを」 「何っ」  いきり立った勝重の足元に矢が飛来した。鬨の声と共に異様な姿の集団が石垣の上から降るようにして襲撃してきた。 「殿をお守り致せ」  藤森衆の若者が将康の身を囲み、葛が射手の方角めがけて続けざまに矢を放った。一瞬の間を突いて勝重が飛び出し、自慢の長槍を振るって第一陣の襲撃を蹴散らした。  将康を守る輪が崩され、組織だった動きを見せる攻撃に、徐々に一行は追い詰められていった。葛の矢も尽き、若い衆の刀も折れた。しかしまだ敵は数十人はいる。  空堀の中に飛び降り、堀沿いに外曲輪へと逃れた。将康の尻を押し上げるようにして斜面を駆け上がると、目の前にあの桜の古木があった。 「まだ、あったのか」  緑葉に染まる目の前の古木が、一瞬桜吹雪に覆われたかのような錯覚に、葛は思わず立ち尽くした。 『生きよ……』  母の、あの美しき桜子の姿が現れた。久しく会うことの叶わなかった幻影に、葛はそっと手を伸ばした。 「葛! 」  葛は横抱きに抱えられて地面に倒された。今まで彼が立っていた場所には数本の矢が突き刺さっている。己を抱き庇う者を見上げ、葛は悲鳴を上げた。 「碤三っ」  立ち上がった碤三の背にも、矢が刺さっていた。しかし胴丸をつけている故然程の深手ではなく、更に飛来する矢を軽々と刀で弾き飛ばしていた。 「伊勢の五ヶ所浦で修行してたらよ、奥川の連中が逃げてくるっていうから駆けつけてみたら……しっかりしろよ、ボケるにゃ早ぇぞ」  葛は自分の頰を叩いて立ち上がり、碤三に守られながら戦況を見渡した。 「本戸殿、酒匂殿、もう暫し耐えてくだされ、間も無く白子からお味方の兵が参りますぞ」  敵にも聞こえる大音声でそう叫ぶ葛に、一瞬首を傾げながらも二人は瞬時に意を察し、おお、と咆哮を上げて答えた。 「本当か」 「ハッタリも立派な武器だ」  矢が止んだ。草深い地面から立ち上る陽炎の向こうから、山賊のような出で立ちの男達が刀を振り上げて駆けてくる。葛は大刀、小刀の二刀を構え、真っ向からの斬り仕合に備え、呼吸を静かに整えた。  元は侍であろう敵の確かな太刀筋は、かえって動きが読みやすい。ひらりと舞い上がって身を反転し、着地しては二刀を振り乱して敵を殲滅していく姿は、さながら艶やかな蝶の舞姿のようである。 「だめだ、数が多すぎる」  葛と碤三の斬撃を交わした襲撃者は、真っしぐらに将康のいる物見櫓を目指していた。  奥川家の武将がそれぞれの敵に手を取られ、将康が身を隠す櫓ががら空きになったその時、銃声が轟き、物見櫓に殺到する襲撃者達が一瞬にして地面に転がった。  再び銃声。咳き込むほどの硝煙が風に消えた時、見覚えのある人馬が石垣の上に立っていた。  蒼風に跨る宗冬が、藤森の鉄砲衆を連れていた。 「若! 」  漸く、しつこい襲撃が終わり、静寂の中で葛はへたり込んだ。奥川の猛者達も大の字になって転がり、荒れた息を吐いていた。 「良かった、間に合って。この辺りは犀川と幸松の残党が野盗化していると聞いていたから、鉄砲衆を馬に乗せて駆けてきたのだ。おかげで藤森の馬小屋は空っぽだよ」  痩せこけた笑みを見せて蒼風から下りた宗冬を、葛よりも先に碤三が抱きしめた。 「紘がよ、紘が鍛錬してくれた馬達だ。どうだ、よく走るだろう」 「ああ、この蒼風に遅れを取らず、実によく走ったよ」  痩せちまって、と声を詰まらせながら、碤三はぐしゃぐしゃと宗冬の頭を撫でた。  亀山に至る頃には白子の港から迎えに出てきた政虎の兵と合流することができ、無事、一行は白子から喜井家の船に乗ることができた。船は、先に堺から紀伊半島を回って直獅郎が白子に着けていたのであった。  直獅郎との再会を喜ぶ間も無く、一行は夜の闇の中を出港していった。  白子で一晩を明かし、里の者に塩や干し魚などを贖わせて先に帰した後、宗冬と葛は新所城を再び訪れていた。 「桜子様は、ここに眠っておられるのだな」 「首を失った骸は、やがてここで土に還り、桜の花を咲かせたことでしょう」  桜の向こうでは、藤森衆の数人が木組みに大量の遺体を乗せて荼毘に付していた。 「頭、終わりました」  まだ火は燃え盛っているが、間も無く炎は弱まり、遺体は灰となって土に還ることだろう。葛は炎の前に跪き、両手を合わせて回向の経を上げた。 「仲間の遺髪は持ったか」 「はい。里で待つ家族に返します」 「良くやってくれた。先に帰っていてくれ、私は若と蒼風と帰る」  配下を見送ってふと振り返ると、宗冬が桜の古木の根元に跪き、野花を手向けていた。 「紘様の事は私の不手際、お詫びの言葉もございませぬ。この命、御存分になされませ」  宗冬の向かいに跪き、膝の前に懐剣を置いた。 「よしてくれ。私こそ、自分ばかりが苦しいと、葛の苦しみから目を逸らしていた、許して欲しい。この手もまた、誰かの家族の命を奪った手だというのに」 「勿体なきお言葉……戦国の習いとは申せ、待ち受ける地獄の沙汰が恐ろしゅうございます。業火に焼かれ無数の針に貫かれ、爪を剥がされ目玉をくり抜かれ……どんな苦しみをこの身に受けようと、多くの命を奪った罪は消えますまい」 「父と半右衛門は、そんな地獄が恐ろしゅうて、手に手を取って落ちていったのか」  葛がそっと、宗冬の両手を押し包んだ。 「里に帰ってどう生きるべきかゆっくり考えましょう。地獄にはいつでも行けますから」 「一緒に、行ってくれるのか」 「勿論ですとも。天国の紘様にお詫び申し上げてから、一緒に地獄に参りましょう」 「碤三がやきもちを妬くなぁ……良かったのか、今少しゆるりと二人で過ごしてから参れば良かったものを。久しく会うていなかったのであろう」  葛が宗冬に遠慮して、早々に白子で碤三と別れたことは解っていた。二人にとっても久しぶりの逢瀬だというのに、手を重ねることすらなく白子で別れたのである。 「腐れ縁は、会いたくない時でも会えるから腐れ縁と申します。若がお気にされることなどございませんよ」  そんな余裕すら感じさせる軽口を言うが、白子で碤三の背を見送る時の葛の横顔は、それまで見たことのない寂しげな表情であり、切ないほどに美しかった。 「会いに行ってくれ、いつでも。折角お互い生きておるのだから」  古木に再び合掌した後、ええ、と葛は頷いた。 「桜の頃にまた参ろう」      紘の四十九日の回向を終えた頃、長きに渡り宗冬と戦さ場を共にした蒼風が逝った。例年にない暑さが、盛りをとうに越えた体には堪えたと見え、食欲がなくなってから間も無く、眠るように息を引き取ったのであった。  桜の根元に埋まっているのは紘の遺髪だけである。あの混乱の中から葛が連れ帰ることができたのはそれしかなかった。道実が三条橋菩提寺での弔いを請け合ってくれたが、未だ紘と子が眠る墓には参れずにいる。故に、今はここが、宗冬が唯一紘と語り合える場所なのであった。  その場所に、蒼風の遺骨を納めた。紘はこの里で蒼風の子孫を増やすことを試み、双子の牝馬を残してくれた。軍馬には向かぬ性格の牝馬であったが、つい一年ほど前、それぞれ雄馬を一頭ずつ産み落としていた。まだ存命だった紘は大層喜び、細々と世話について記した書付を京都から送ってよこし、里の者が忠実にそれを守りながら育てたと言う。 「蒼星、蒼雲、来てくれたのか」  姉馬から生まれたのが漆黒の蒼星、妹馬から生まれたのが鹿毛の蒼雲である。蒼星は星の輝く夜に、蒼雲は長雨の上がった青空の下に生まれたのだと言う。  まだ轡に慣れぬ仔馬を抱き寄せると、二頭は宗冬に甘えるようにして鼻を鳴らした。 「気性は蒼星の方が爺様に似ているかもしれませぬ。蒼雲は母馬に似て少し思慮深いところがあります。先月あたりから人を乗せて山歩きの訓練に入っています」  厩方の壮年の男が自慢気に言った。 「善造どの、愛情深く育ててくれていること、この子らを見ればよう解る。どうかよしなに頼む」 「勿体無い。紘様が全て教えてくださったことです。しっかり育てれば、戦さ場でも怪我をしたり無為に死んだりせずに済む。良い馬を、これからも育てます」  肩を甘噛みして甘えてくる二頭の頭を、宗冬はしっかりと抱きしめた。  農夫が一人、屑かごを背負って三条橋邸の裏口をうろうろしていた。何かの施しが狙いなのか、そのような浮浪者は周囲を見回すだけでもざっと数十人はいる。誰もが襤褸をまとい、中には腹をすかせて泣きわめく幼子を引き摺るようにして歩く者もいる。  森下藤吉が織田島家を掌握して家中の粛清を行った後、名を豊海秀敏(とよみひでとし)と改め、瞬く間に本州をほぼ平定し大坂に巨城を築き始めていた。同時に大坂の町割りなどの整備に乗り出し、一大経済都市を作るべく各大名から資金を搾り取るように人員と金を拠出させていた。  その一方で京は戦さの爪跡も生々しく、街は荒れ果てていた。織田島家譜代の古老が所司代を務めているが、織田島家は最早有名無実。明野姫を後見に宗孝(むねたか)と名を改めた笹尾丸(ささおまる)にはまだ織田島家中の金銀を動かす力はなく、ただ秀敏の言われるがままに動くしかなかった。 「たった二年余りで、織田島は消えて無くなり、森下の猿めが大坂に巨大な城を建ておった。聞けば黄金に輝く茶室が作られたとかで、まぁなんと言うか、品のないことよ」  たった二年……本能寺からたった二年で、三条橋の庭は再び荒れ放題となっていた。 「誠仁親王はいかがあそばされて」 「ここのところ気鬱のためか、塞ぎがちでのう」  つけ髭に泥だらけの顔をした農夫は、地面に跪いたまま深く頷いた。 「宗冬ならば年も近く、話し相手となろうが……」 「若は漸く奥方の死を乗り越え、近く将康様の元に参られることに」 「ではまだ藤森の里におるのか」  髪の油にも事欠くのか、後れ毛だらけの頭を扇の先で突くように、道実が思案した。 「宗冬を京へ呼べ。東宮様の元へ」 「恐れながら、若は政に関わる気はございませぬ」 「実はな、猿が九条実恒(くじょうさねつね)の猶子になるべく御所に働きかけておる。あんな下賤が嘘でも公家の子となるなど許しがたい。ゆえにの、奥川を引き出すことにした」  農夫が驚いたように顔を上げた。 「破竹の勢いの豊海が警戒しておるのは、他ならぬ奥川じゃ。奥川は分もわきまえておる。千年の都を金だけで壟断できぬ事、あの猿めに骨の髄まで思い知らせてやらねば」  目の前の道実が、策略と陰謀とで分家の部屋住みからここまでのし上がってきたのだと言うことを、農夫は思い出したかのように青ざめた顔で俯いた。 「おまえはこのまま私と参れ、二条御所に手筈をつける。そのむさい形では話にならぬ。奥向きに用意いたさせる故、せいぜい美粧を凝らせ、葛」  農夫に扮していた葛は、溜息とともにつけ髭を剥がした。汚れていても整った顔立ちは隠しようがない。  道実の半ば強引な策によって引き出された形となった宗冬は、立派に成長した蒼雲(そううん)に跨り、晩秋の色彩に染まる山々を走り抜けてかつての自邸を訪れていた。  宗冬の案によって、ここは焼け出された子供達を救い、衣食住を与えて読み書きまで教える、言わば寮付きの学問所のように建て替えられていた。大人しい蒼雲の轡をとって門を潜ると、子育てを終えて戦働きからも身を引いた藤森衆の男女が数人、動き回る子供達を追いかけ回していた。 「これこれ、転ぶぞ」  宗冬の足元にぶつかってきた男の子を抱き止め、宗冬は身を屈めた。 「名は」 「のぶ」 「のぶか。楽しゅうしておるか」 「楽しい。じいちゃん達が餅をたらふく食わせてくれる」 「それは良い。ただし腹は壊すなよ」  迎えにきた老人の方へ子供を向かせて背中を押すと、嬌声を上げて弾かれたように走り出し、老人の腕の中に飛び込んでいった。生きていたら、紘との子もあのくらいだろうかと思いを馳せていると、老女が声をかけてきた。 「若様、お迎えもせずに失礼を」 「良いのだ。皆、ようやってくれているようだな」 「役立たずとなった年寄りに、こうして又とない働き場を与えてくださり、かたじけのう存じます」 「そなた達の知恵は又とない教本じゃ。足りないものがあれば、遠慮なく申してくれ」  そんなやりとりの合間も、蒼雲はじっと人の話を聞いているかのように鼻息ひとつ漏らさずに待っていた。 「おまえは良い子じゃの」  そんな蒼雲に幼い子らが近寄って体を撫でるが、蒼雲は子供らの頭を優しく鼻先で撫で、決して息を荒げるようなことはしなかった。 「さ、葛が痺れを切らしておろう、参るぞ」  景色がまるで変わってしまった都大路に戸惑いながら、宗冬は何とか二条御所に辿り着いた。 「これは織田島様、遠路ご苦労様にございました」  事を分けた小姓に支度部屋に通され、暫く待たされた。  二条御所の表側は半右衛門の兵と宗兵衛の兵とが戦った爪跡も生々しく、修繕に全く手が回らぬ困窮ぶりが見て取れたが、中は戦禍を免れたのか、襖も欄間も、亡き父・宗近が拘り抜いただけの意匠が凝らされ、かろうじて東宮家の格を保持していた。  衣装を持って現れた葛は、御所風のお垂髪に袿姿であった。張袴が擦れる音も艶めかしく、ゆったりとした動きで宗冬の衣装を広げた。 「本日は内々の私的なご面会にござりまする。狩衣にてお臨みなされませ」  慣れた手つきで裁着袴を脱がせた時、葛が手を止めた。 「若、あの……」  口籠る葛の目線の先には、微かな鮮血が滲んだ下帯があった。 「困ったものだな。晒しはあるか」 「用意してございます」  すぐに葛が乱箱から晒しを取り出した。宗冬は、取り替えようと手を伸ばす葛の手をそっと制し、自分で真新しい晒しを巻いた。 「いつまでもこんな世話を葛にさせるのは申し訳ない。里では自分でしていたのだから」 「私は、私は構いませぬのに」  葛が少し寂しそうな顔を見せた。 「今日会うた子供らは、何でもよう自分でやっていた。二十歳にもなった大人が己でできぬでは、笑われるであろう」 「そうでしたか、子供達にお会いになりましたか」  そう話しながらも、瞬く間に葛は宗冬を仕上げていった。 「何故、京にお出ましになられたのですか。無視してしまえばようございましたのに」 「葛がのらりくらりと伯父上の言いつけを躱してくれていたことは存じておる。困リ果てている葛の顔が浮かんだ時、伯父上から直々に京へ上れと命が届いたのじゃ」 「然様にございましたか」 「今までずっと守られてばかりであった。そろそろ、私はそなたを守る側になりたい。力はないが、せめて葛を困らせぬように気をつけたい。姉様離れをせねばの」 「若……嬉しゅうございます。しかしながらこの姉様めは、まだまだお世話して差し上げたくて仕方ありませんので、程々に、お世話されてくださいませ」  白扇を手に持たせ、葛が宗冬の胸元をポンポンと叩いた。 「何と凛々しく美しいことでしょう。都大路を、大声で自慢して歩きたいくらいです」  目元を涙で潤ませながら、葛は晴れやかな笑みを見せた。  誠仁(さねひと)親王は、中庭で蹴鞠に興じていた。宗冬が欄干の側で膝を折ると、待ち侘びたとばかりに手招きをした。 「そもじ、蹴鞠は」 「不調法にございます、何卒御教授賜りますよう」  柔らかな所作で首を垂れる姿に気を良くしたか、誠仁親王は自ら宗冬の手を取って中庭に招いた。  年頃の近い二人は、夢中で鞠を追いかけながら嬌声を上げ、寒いほどの気温にも関わらず小汗をかく頃にはすっかり打ち解けていた。縁側に腰を下ろして呼吸を整えながら、並んで白湯を啜る姿は、溌剌とした生命力に満ちた若者でしかなかった。 「勘が良いのう」 「東宮さまの御教授が素晴らしいからにございます」 「久々に良い汗をかいた」 「私も、胸の憂さが晴れた気がいたします」  口の利き方を、と嗜めようとする女御を下がらせ、誠仁親王は葛に向かって椀を差し出した。優雅な手つきで白湯を注ぐ葛の仕草を、親王は眩しそうに見つめていた。 「その方も三条橋の縁と聞いた。宗冬の姉か。直答を許す」 「恐れながら、私は宗冬様にお仕えする腰元にございます」 「いえ、私の姉です。葛がいなくては、私はまともに育つこともございませんでした」  宗冬にそう言われ、嬉しそうに俯く葛の姿を見つめていた誠仁親王が深く頷いた。 「宗冬を見る目が慈愛に満ちていた。良い姉を持つそもじが羨ましい」 「東宮さまには、御立派なお父君がおあします」 「御所では、そのような人の誠が表立って交わされることはない。腹の中は野心に塗れ、私欲を満たすことに明け暮れておる。ほれ、今一人、腹の中が真っ黒な男が参ったわ」  誠仁親王の視線の先には、道実の姿と、その後をついてくる短小矮躯な中年男がいた。 「猿め、招きもせぬものを」  忌むべき言葉であるかのように吐き出し、誠仁親王は中庭から去って行ってしまった。 「これは織田島の若殿様。今日は皆様がお集まりと聞きつけ、罷り越しました」  癇に障る高音で、猿と呼ばれた男は宗冬の手前に膝をつき、恭しく首を垂れた。 「森下、いえ豊海秀敏殿」 「おお、おお、名を御存知でらっしゃるとは有難いやら面映ゆいやら」  宗冬も居住まいを正し、豊海に対峙した。 「織田島家中の仕置については、手数をかけたと聞いており申す」 「それはもう頭の固い連中ばかりでしたので、些か手こずりました。貴方様とは高田攻めの時はほんの一瞬お見かけしたばかりで、ご挨拶もままならず失礼申した」 「いえ。ところで宗良は、息災でしょうか」  顔を上げた秀敏は、ああ、と惚けるような顔をして膝を打った。 「そうであった。母御の小牧の方とですな、近江にお入り頂いとりゃあで」  わざとらしく国言葉を混ぜ、秀敏はにこにこと笑って見せた。と、その目が宗冬の横にいる葛へと動いた。途端に色を含んで歪むのを、宗冬は見逃さなかった。 「京は流石にござりますな。このような天女様にお目に掛かれるとは。名は何と申される」  見かねた道実が秀敏を促し、広間へと誘って行った。それでも振り向き様に何度も葛に下卑た笑みを向け、仕舞いには道実に手を引かれるようにして奥間へと去って行ったのであった。 「何です、あれ」 「猿殿とはよう言うたものだな……しかし油断ならぬ。葛、広間での立ち居は他の女御に任せよ。そなたは直ぐに近習の支度に戻り、私の側にいるが良い。痘痕(あばた)を30ほど作って参れ」 「30で足りますかしら」 「あと、肉布団で太る」 「んもう、折角このような美しい衣を着ることができましたのに。ああ憎たらしい」  ぷりぷりと怒りながら下がっていく葛の後ろ姿を笑って見送っていると、やがて回廊の奥から小姓に伴われた将康がゆったりと歩いてくる姿に気がついた。 「これは、殿」  すぐに平伏し、宗冬は将康を迎えた。将康も宗冬の姿を見つけるなり、小姓を突き飛ばす勢いで駆け寄ってきた。 「宗冬ではないか。便りばかりで岡崎には中々顔を見せず……息災にしておったか」 「はい、無沙汰をいたし、誠に申し訳もございませぬ」 「猿めと顔を合わせることになるとは、道実公の策に嵌ったかと歯軋りしておったが、お前に会えたのなら全て帳消しじゃ」 「勿体なきお言葉にございます。殿のお健やかなご尊顔を拝し、胸が一杯でございます」 「お健やかではないがな。さ、積もる話もある。今日の儀が終わったら、どこぞで話そう」 「はい、楽しみに致しておりまする」  小姓に促され、将康は軽く手を振るようにして去って行った。その後ろ姿はかつての将康より更に威風を増し、あらゆる重圧にも屈しない王者の風格すら感じられた。  この方こそ、天下人だ。  将康の背中に向かって、宗冬は居住まいを正し、改めて平伏をした。     誠仁親王、三条橋道実、そして武家方の豊海秀敏と奥川将康、四人は宗冬の前でまるで能面を被ったかのような固い作り笑顔で時候の挨拶を交わした。  この席で誠仁親王は、京の治安回復に尽力して御所の警備に金銭を惜しまなかった将康の対応を褒め、新たに従三位の権大納言の位階を授けるよう正親町(おうぎまち)天皇に進言することを約束した。するとすかさず秀敏が、御所や三条橋を始めとする公家方の屋敷の修繕を請け負うことを約束した。誠仁親王は礼を述べるに留めたが、これは虎視眈々と位階を取りに来るだろうことを警戒しているかのような返答であった。下賤に位階など授けたくはないが、背に腹は変えられぬ、せめて朝廷の威信だけは最大限誇示しておきたい……千々に乱れる心の動きが手に取るように伝わってきた。  白々しいほどに緩慢な会話が続いた後、道実の号令を最後に接見の儀は終わった。 「奥川殿、もうすぐ大坂に城が完成いたしますでな、是非とも遊びにおいで下され。武蔵からじゃと、ちと遠いがの」 「ほう、あの、武蔵にございますか」 「先年の戦で南条を滅ぼした後、あの武蔵に誰を送るか悩んでおったが、将康殿なら人品・骨柄、政の手腕、どれをとっても適任にござる。是非とも武蔵の平定をお願い申したい」 「豊海殿たっての頼みとあらば、致し方ございませぬな」 「さすが将康殿、このような事を頼めるのは其処元だけじゃ」  褒めちぎる秀敏に、微笑んで頷く将康。口を挟むこともできずに見守る宗冬には、二人の腹の中に渦巻く真っ黒な濁流が見えるようであった。 「これは忝いお言葉。ところで奥方は息災にござりますかな。若き頃に織田島殿の城でお目にかかりましたが、お美しく聡明な方とお見受けいたしました。実に羨ましい」  将康の社交辞令に、秀敏は宗冬の背後でじっと控えている近習に目をやり、口をへの字の曲げて笑った。 「いやいや、もう40のババアでよ。さっき宗冬様の横においでだった天女様とは大違いじゃ」 「まさかまさか。大坂の奥向きを見事に仕切られておると評判にございます。流石に糟糠の妻、天下御免の御正室にございます」 「子ができなんだのが玉に瑕じゃ」 「しかしながら、御養子とされた甥御様の秀嗣(ひでつぐ)様は僅か十六歳ながら英邁な若武者と聞き及びまする。これで豊海家も安泰でござろう」  既に誠仁親王と道実が退室した後も、二人は鞘当てとばかりに話に興じていた。宗冬も下がるに下がれず、仕方なく二人に従っていた。 「そういえば、先程から血の臭いが漂っておる気がしたが、まさか宗冬様、怪我でもされておるか」  真っ黒な瞳で真実を見透かすように睨まれ、宗冬は言葉を詰まらせた。 「何じゃ、蹴鞠で転びでもしたか」  助け船のような将康の言葉に、宗冬は必死に頷いた。 「それはいかぬ。あなた様は織田島家と公家衆の橋渡しなるお方、この秀敏にとっては、大恩ある織田島の上様の忘れ形見様にございます。大事になされよ」  慇懃な言葉を並べながらも、秀敏は舌舐めずりでもするかのように宗冬の全身を睨め付け、含み笑いを残して退室していった。 「殿、忝うございます」 「夜、ちと付き合え」  無表情にそれだけ言い残し、将康もさっさと辞去して行った。  京の花街といっても今は廃墟と化し、あちらこちらに食い逸れた浮浪者が彷徨っていた。  将康に言われた通りの場所に蒼雲を伴うと、全てを飲み込んだ様子の手代が飛び出してくるなり、慣れた手つきで蒼雲の轡を取った。 「お待ちかねでございます」  まだ新しい木の香りに包まれた店構えは二階建てで、ひたすら堅固な作りでありながら瀟洒で、作事を指示した者の卓抜した感覚を思わせた。大きな入り口いっぱいに広げられている藍染の暖簾には、『茶々屋』と染め抜かれていた。 「ちゃちゃや」 「ささや、どす。京の織物は殆どウチで扱うとります。御所にも献上申し上げてますんや。おおい、こちらの若さんに早う濯ぎ持ってきてんか」  手代よりは幾分役職が上と見える長身の男は、ぼんやりと暖簾を見上げていた宗冬を招き入れ、店の来歴などを軽快に話して聞かせた。その間に、女中が濯ぎで丁寧に足を拭ってくれ、宗冬はさっぱりした気分になった。 「あ、申し遅れました、うちは番頭の三造申します。宜しゅうに」 「宗冬です。手数をかけました」  下女にも丁寧に礼を言う宗冬を、三造は眩しそうに見つめていた。街場に相応しい地味な小袖と袴姿ではあるが、その気品といい美しさといい、正に掃き溜めに鶴、であった。  三造は土間から三和土に上がって膝を折って宗冬を迎え入れ、恐れながらと、腰の刀を受け取った。その仕草にどこか覚えがあるようで、宗冬がふと首を傾げたが、三造は屈託のない笑顔で押し切るようにして宗冬を奥へと案内した。 「御免下さりませ、お連れ様のお着きどす」  どこをどう来たものか全く覚え切れぬほどに角を曲がり回廊を歩き、渡り廊下で別棟に入ってから階段を登って更に角を曲がって、おそらく別棟の中でも一番端の部屋であろう場所に、宗冬は案内された。 「通せ」  中からは確かに将康の声がした。障子を開けた向こうでは、将康が月見窓の側で盃を傾けながら、窓の向こうで夕暮れに染まる京の山々を眺めていた。 「おう、座れ座れ」  将康には小姓一人ついていなかった。筒袖に裁着袴という軽装で寛いでいた。 「失礼いたします」  宗冬が部屋に入って間も無く、女中が酒肴を持ってきた。 「呼ぶまで構うでない」 「へえ」  女はそれだけ返事をしてさっさと下がって行った。 「二条御所ではお助けいただきました」  宗冬は届いたばかりの徳利を傾け、将康に酌をした。 「どうじゃ、少しは癒えたか」 「お蔭様をもちまして。伯父が手配をしてくれた墓にも漸く参ることが叶いました」 「それは良かったのう。ところで、秀敏を何と見た」  ふと押し黙り、宗冬は将康が満たしてくれた盃を煽った。 「猛禽のような方かと」  それだけ答えると、将康は大声で笑った。 「正にそれよ、お前の見立てにに間違いはない」  橙色に染まっていた山が、闇の中に沈んだ。日が暮れ、互いの顔も見えなくなった時、突然宗冬は将康に組み敷かれた。 「殿、何を」  百戦錬磨の壮年の武将に不意を突かれ、宗冬は混乱したまま暴れたが、手足はしっかりと押さえつけられてしまっていた。幾つもの首を取った武将の力は伊達ではない。 「な、何をなさる」  将康はあっという間に袴を捲って下帯の中に手を滑り込ませてきた。宗冬が泣きながら悲鳴を上げた瞬間、その手が宗冬の秘所を捉えた。 「何と……そうであったか」  血に染まる指を引き抜き、将康が懐紙で拭った。  放心したままの宗冬の袴を整えてやり、将康は宗冬を抱き起こした。 「岡崎におった頃、おまえは月に数日、必ず遠乗りをして山中で過ごしていた。織田島の間者と示し合わせておるのかと忍につけさせておったが、其奴はどうも女の体に疎い朴念仁での。要領を得ぬまま過ごすうちに葛が参り、お前を完璧に儂の目から守り始めたで、手が出せなくなってしまった。ただ、あの頃から微かながら、疑問は持っていた」 「……酷いことをなされます」  手をついて俯いたまま、宗冬は涙を零した。 「だが妻帯したと聞き、しかも腹の子諸共失ったと聞き、男であるのは間違いないと確信したものの、今日の接見じゃ。儂も血の中で生きてきた男ゆえ、血の臭いはすぐにわかる」  将康が慣れた手つきで行燈に火を灯した。映し出されたのは、髪を乱して両手をついたままの、宗冬の哀れな姿であった。 「許せ。お前を泣かせるつもりはなかった」 「父とも、父とも慕うておりましたものを」 「それ故じゃ。可愛いお前を、あの猿めの毒牙になどかけてたまるか」  将康が声を荒げ、宗冬を抱きしめた。驚いてもがいても、離れる事は許されなかった。 「あやつはもう気付いておる。あれはとんでもない女好きで、あの明野姫も抱いたばかりか、明野姫が前夫との間にもうけた姫御まで側室にしておる。大坂城の奥向きには、既に数多の大名家や公家から集められた美女が顔を揃えておると言う。分かるか、下賤の生まれを隠すため、高貴な女子に子を産ませて豊海の跡目を継がせようと言うのだ。あやつはお前に目をつけた。織田島と三条橋という最高の血筋を持つお前をだ! 」  宗冬の頰に自らの頰を重ね、将康は慈しむように宗冬の頭を撫でた。 「お前を渡してたまるか。お前は儂の宝じゃ」 「将康様」 「岡崎に参れ。いや、直に武蔵へ下ることとなるが、共に参れ。あやつから離れ、あやつから見えぬところで生きよ、儂と」  将康の肩に、宗冬が指先を食い込ませた。しかしその痛みを甘んじて受け入れた将康は、宗冬の頸に優しく触れる様な口付けをした。 「化け物と、思し召しにはなりませなんだか」 「こんな美しいお前が化け物じゃと申すなら、喜んで食われてやろう」 「気味が悪いとは思われませぬか」 「言うておろう、可愛ゆくて仕方がないのじゃ」  子供のように、宗冬が将康の腕の中で泣いた。 「よくよく、酷い宿命を負って生まれて参ったものだな」  頭を撫でる将康に、宗冬が漸く顔を上げ、涙で瞳を潤ませたまま微笑んだ。 「出会うた人に恵まれました。いや、これはある方の受け売りでございますが」 「それは私ですかね」  突然の声に驚いて宗冬が将康から離れると、障子が開いて商家の主人と思しき人物が三つ指をついていた。 「お久しぶりです。相変わらずお可愛らしい」  声に聞き覚えが、と記憶を探る前に上げられた顔を見て、宗冬が思わず大声を出した。 「宗兵衛様! 」 「ちょっ……今は茶々屋四郎兵衛でございますので」  と最後まで言いきらぬうちに、宗兵衛は宗冬に飛びつかれて後ろ倒しに転がされた。 「嬉しいですねぇ、美男子にこんなにしてもらって」 「お元気だったのですね、良かった、良うございました」  ひとしきり泣いて再会を喜び、宗冬は両手を取って部屋に引き入れた。 「殿はご存知だったのでしょう、お人が悪い」 「ご存知も何も、こうして店を持たせて生かしてくださったのは外でもない奥川殿です。主だった臣下も家族も、助けていただきました。今は茶々屋一族と名を改めましたが、奥川殿のご恩は末代までも忘れるものではございませぬ」  改めて、宗兵衛こと四郎兵衛は、恭しく平伏した。その仕草はやはり、かつて御所と幕府とで活躍した粋人の武将のものであった。 「何とのう、お話は伺いました」  あ、と途端に宗冬が暗い顔を見せるが、四郎兵衛は軽く肩を叩き、その盃を酒で満たした。無論、軽蔑するような色はなく、むしろ既に策を練っている感さえあった。 「私も戦さ場でお会いした時に気付きました。葛さんがあの庇いようでしたからね、怖くてとても、気付いた素振りもできませんでしたが……秀敏めは甘く見ない方が良い」 「そういえば葛は如何した。あやつは一刻とておまえから離れぬものを」 宗冬は、近江八幡を領している宗良が何やら領民と画策している様子があるとの噂を聞きつけ、まずは葛が仔細を確かめに赴いたことを打ち明けた。 「宗良殿にそんなことできますかね」  素直な疑問を口にする四郎兵衛に、将康も同調すべく頷いた。 「或いは、織田島の埋み火を全て消し去る汚い策か」  将康の呟きに、宗冬は盃を取り落として立ち上がった。 「待て。葛の帰りを待ってからでも遅くはなかろう。今更秀敏が宗良を始末したところでさしたる益はない。他に狙いがあるとしか思えぬ」 「葛さん自身、ということは」  まずいことを言ったかと四郎兵衛が口を手で塞ぐより早く、その手を取って宗冬が四郎兵衛に迫った。 「どういうことですか」 「ああ……秀敏という男は、武将には珍しく衆道に全く興味はないんですがね、甥の秀嗣の方はどちらも常軌を逸しているとの噂でして。一見目元涼やかな若者で、公家衆の受けもよいのですが、如何せん、あちら方面に見境がなく、正式に養子にした当の秀敏が扱いかねている程だそうです」  絶句した宗冬は、辞儀もそこそこに部屋から飛び出していった。 「四郎兵衛、余計なことを」 「葛さんには申し訳ないけれど、ここは美しき撒き餌となって頂き、まずは秀嗣を潰してしまいましょう」  月見窓の下、眼下に広がる目抜き通りを宗冬を乗せた鹿毛馬が疾走していった。 「手はあるのか」 「細工は流々。将康様が武蔵国にお入りになる頃には、大変な事になるかと」 「そなたは真に、頭が少々切れすぎる稀代の軍師じゃ」 「それ、褒めてませんよね」  悪戯げに笑って、四郎兵衛は手を叩いた。部屋の入り口で跪く三造に、何事かを事細かに指示を出した。複雑な指示でも聞き返す事は一度もなく、三造は黙って頷くと将康に辞儀をして出ていった。その仕草もまた、かつて武将として生きていた者のそれであった。 「流石に大したものだな。あのように打てば響く家臣が、三河武士団にも欲しいものじゃ」 「直情豪快が売りですからね、三河武士は」 「その者らが、田舎が売りの武蔵に押し込められようというのだ。町割の何の役に立つのか、頭が痛いわい」 「嘘ですね。高田の残党をしっかりお隠しになってらっしゃる。彼らは治水の天才ですから、海に面した江戸城の縄張りも街ごとしっかり作り変えるでしょう」 「ほう、そこまで掴んでおったか。いや、作事は良いのだ、作事は。要は……」 「はいはい、政、ですね」  将康は大きくため息をついた。今、秀敏の元には若手の家臣団が育ちつつある。戦場育ちではなく、文官方であり、既に傘下に収まる大名の領地に飛び、検地や戸籍の作成など、例外なく統一された規格による治政の種を蒔いている。中には若造の言葉に耳を傾けぬ者、意味を解せぬ者もあり、公然と逆らってくることもある。だが、猿のやることと侮ったその者らは、やがて領地を召し上げられ、一族郎党自害の憂き目を見ることとなる。そうした見せしめの改易が二つ、三つと続けば、最早逆らおうなどという大名は消え失せる。  事実、秀嗣の奥御殿にも、各大名や公家から媚び諛うために差し出された数多の姫君や未亡人らが所狭しとひしめき合っているという。 「南条めも、扇谷上杉家と上手くやっておけば、猿に付け入られることもなかったのだ」 「大層なやっつけられぶりでしたね。将康様はじめ関東中の大名に囲まれて。当主の病で参陣が遅れた最上家などは、慌てて末の姫を秀嗣の側室に差し出したくらいですから。あ、駿河の稲川家も、四津寺家のおかげで何とか遠江一国は残してもらえましたね」 「早耳じゃの。とは申せ、儂は豊海家の政の席からは完全に外された。大阪の動きを瞬時に知る術はなくなるが、国替えとされた武蔵で好き勝手やらせてもらうまでよ」  将康の力を畏れる秀敏は、これで手足を捥いだつもりにでもなっているのだろうか。 「間も無く九州も平定される。織田島から猿に、完全に看板が掛け変わるぞ」 「ま、その後には大狸が控えてございますけどね」  遠慮のない皮肉を口にしてペロリと舌を出し、四郎兵衛は盃を煽った。           
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