1.散桜

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1.散桜

     盛りを過ぎた桜の古木が、微かな風にも耐えきれずに花弁を散らす。  5歳の少年・(かつら)はその古木の下に立ち、まだ色褪せぬ花弁を黒髪に受けていた。母に瓜二つと家中でも褒めそやされるその愛らしい顔立ちに、若草色の水干がよく映えている。 「母上」  桜色に染まる風の向こうに、母・桜子(さくらこ)が立っていた。  桜子が三条橋(さんじょうばし)家の息女として伊勢の古豪である犀川時藤(さいかわときふじ)に嫁ぎ、息子葛を産んで早五年。しかしながら犀川の家に馴染む事はなく、この桜の古木と葛だけを愛した。夫時藤は、国衆を黙らせるための僅かな官位欲しさに桜子を手に入れたつもりが、その艶やかな美貌に溺れ、この曲輪から出る事を決して許さなかった。彼女が纏う豪奢な打掛も、葛の童水干も、時藤が金に糸目をつけずに京から取り寄せたものであるが、桜子にはただ桜の花弁を受ける絹地でしかなかった。 「母上」 「葛よ、吾子よ、この母を、お前を一人残す愚かな母を、許してたも」  長い睫毛の上を花弁がひとひら、するりと滑り落ちていくのを、幼い葛は身じろぎもせずに見つめていた。 「生きよ」  息子に微笑みかけ、桜子は、よく通る澄んだ声で確かにそう言った。その言葉を聞いた瞬間、葛の体はふわりと宙に浮いた。 「母上、母上! 」  葛が花弁の風の向こうへと手を伸ばした時、馬蹄が轟き、母の首が宙に舞った。桜の花弁と共に舞い上がる黒髪がひらひらと風になびく様を、葛は馬の背で上下に揺さぶられながら見つめていた。遠ざかる桜色の風の向こう、真っ赤な血潮を吹き出す母の首、そのたなびく黒髪をむんずと掴み上げた巨体の武将は、桜子の夫・犀川時藤であった。 「母上が、母上が父上に……離せ、戻るのじゃ! 」 「お鎮まりを。このまま京へ参る」  疾駆する馬の背で無謀にも上体を起こそうともがく葛の細い頸を、男は軽く打って気絶させた。  男は藤森市蔵(ふじもりいちぞう)。三条橋家子飼の忍である藤森衆の若き頭目である。犀川時藤と隣国大名・幸松(こうまつ)家との戦況の悪化を見て、主家の許しを得ずに桜子を救い出すべく城へ侵入したが、既に桜子は死を予見し、自分ではなく葛の救出を命じたのであった。  1560年、清明を迎えた翌日、犀川時藤は桜子の首を抱いたまま城諸共炎に焼かれて死んでいった。   「これが、桜子の忘れ形見か」  五摂家、大納言とは名ばかりの度重なる戦乱に晒されて荒れ放題の庭先で、三条橋師実(さんじょうばしもろざね)は五歳の甥と対面した。藤森市蔵が連れ帰ってきたのは、あの美しい桜子ではなく、桜子によく面差しの似た息子であった。 「葛と申したか。何じゃ、挨拶もできぬのか」  座して控える市蔵の背中に隠れたまま、少年は(おこり)のように震えていた。 「食事にも事欠く有様ながらも公家は公家。一滴でも良いから血筋をくれろと申すゆえ、亡き父君が白拍子(しらびょうし)に産ませた桜子を嫁がせてやったものを。犀川め、道連れにしおって」 「恐れながら、この葛様は5歳と承っております。桜子様が嫁がれたのも確か5年前」 「それが如何したのじゃ」 「桜子様は、嫁がれし時には既に身籠っておられたのでは……故に、犀川の残党も幸松の追手も、若を探し出す気配を微塵を見せておりませぬ」 「それが如何した。犀川には他にも男子がおった故、これに構う暇がないだけであろうが」 「そうではございますまい。時藤様が若に全く関心をお持ちにならなんだ事、犀川家中でも幸松家でも知らぬ者はないと聞き及んでおりまする」  臆面もなく問う市蔵に、師実は切れ長の目を光らせ、破れ扇で口元を覆った。 「あれはのう、淫売の生母の血を色濃く継いでおっての」 「孕んでおられた姫様を、そうとは知らせずに大金と引き換えに嫁がせられましたか」 「まだ月が浅かったゆえ、問題はあるまい」 「御容姿が似ても似つきませぬ。お疑い故に、時藤様は葛様を嫡子とはお定めにならなかったのでは」 「そうかのう。尤もあの大猪のごとき時藤の胤では、こうは美しゅう生まれまいて」 「まさかとは、存じますが」  市蔵の背に隠れている忘れ形見の存在を忘れたかのように、師実は公家にあるまじき下卑た笑みを扇で隠した。 「幼い頃から﨟たけた娘でのう。私の脳髄も何度痺れたか知れぬ。本人にその気は無うても、周りの男が放ってはおかぬ。公家衆、大名、御門跡(ごもんぜき)、それはもう次々と……嫁ぐ前の15の頃にはすっかり、匂い立つような豊かな肢体であったわ。あの唇とて、一度重ねたらもう、雷に打たれても離しとう無いほどに柔らかでのう」 「恐れながら、犬畜生にも劣る行いかと」 「無礼を申すな」  堪えきれずに吐いた市蔵の言葉にさして怒る風でもなく、師実は怒りに震える市蔵の口先で手をひらひらと泳がせた。 「誰の胤かなど知れたものではない、あれほどの男出入りでは、神のみぞ知る、じゃ。……まぁ、この装束も、あの桜子が堺の商人に身を差し出して得た銭で贖うた。魔性の姫が一人おるだけで、我が家は何とか公家の対面を取り繕うてきたのじゃからのう。兄として、たんと礼をせね訳には参らぬで……唐天竺(からてんじく)を探しても見つからぬ、甘露な果実じゃ」  まるでその時の閨事を思い出したかのように、師実がため息を漏らした。 「外道が」  吐き捨てるように呟いた市蔵の背から突然葛が飛び出すなり、屈んでいた市蔵の腰から短刀を抜き取り一閃した。小さな体から放たれた剣戟は思いがけず師実の脛を傷つけた。 「ぎゃぁぁ」  無様な悲鳴をあげて転げ回る師実をそのままに、市蔵は軽々と葛を抱えて三条橋家から立ち去った。 「ようやったの」  馬に揺られながら、市蔵の胸の中で葛は声も立てずに泣いた。 「若の母上様は、決して大納言様が申されたような女性ではない。若を慈しみ、命がけで守られたのだ。故に、ご自分の命を夫に差し出して、若を救い出すようお命じになられたのだ」  忍びの頭目ともあろうものが、五歳の子供に易々と刀を奪われるような筈はない。予見した故に葛の意のままにさせたのであった。そして市蔵自身も溜飲を下げたのであった。 「三条橋家は間も無く、御分家の道実様が当主に御成になろう。師実公は早晩、野垂れ死ぬこととなろうよ。あのお方に相応しい」 「あの非道者が私の、父なのか」  初めて聞く葛の言葉は、何とも残酷なものであった。 「私は犀川時藤(さいかわときふじ)の子ではないと、薄々知っておった」 「まこと、運命に翻弄された哀れな姫であられた……なまじ美しいが為に、残酷な生き方を強いられてしまわれた。救い出して差し上げたかった」  市蔵は、京の市中を見渡せる山の中腹で馬の歩みを止めた。 「葛よ」  市蔵の節くれだった手が葛の両肩に食い込んだ。力強いが、何とも温かな手である。母以外、このような体温に触れたことのなかった葛は、驚いて逃れようともがくが、市蔵の両手はしっかりと葛の動きを封じていた。徐々に、その温かさに慣れた葛は、市蔵の手に自分の小さな手を重ねたのだった。 「我ら藤森一門は、一門と申しても血の繋がりは殆どない。儂とて山中に捨てられておった捨て子に過ぎぬ。下手に血など繋がっておると、いざという時に切っ先が鈍るでな。どうじゃ葛、儂と共に来るか、藤森の子になるか」  葛は市蔵の膝の上から滑り落ち、そのまま草むらに座り込んだ。そしてその土に、小さな拳を叩きつけた。 「……斬り捨てればよかった、あんな外道」  黒々とした大きな瞳に冷たい光を灯し、葛が泣きながら吠えた。 「いつか、母の仇を取る、皆斬ってやる! 」 「忘れるが良い、三条橋家の血など。母君だけを信じよ。そして、生きよ」  葛は、母の最後の言葉を反芻した。 ( 生きよ……)    尾張の小大名で急速に勢力を伸ばしつつある織田島宗近(おだじまむねちか)の居城・清洲城二の曲輪(にのくるわ)。瀟洒な女屋敷の庭先、あの犀川の城にあった古木とは比ぶべくもない若い桜の木の下で、葛は舞い散る花弁に身を任せていた。 「生きよ、か」  あの時、5歳の自分に言い残した母の面影がふと、桜の向こうに現れた。思わず息を呑んだ葛に、その面影は微笑みかけてきた。 「また、桜の花弁と戯れておるのか」  その面影、いや織田島芙由子(ふゆこ)が、力なく微笑んだ。あの時の桜子と同じ23になった芙由子は、同じく三条橋の血筋だけに確かに似ているようでもあるが、目元には諦念による昏さがある。 1570年。気が付けば、母・桜子との別れから10年と言う月日が流れていた。15になった葛は、女物の小袖をまとい薄く紅粉を掃いて美粧を施していた。どう見ても、公家に仕える美しき少女そのものである。背中に流れる艶やかな黒髪にかかる花びらを、芙由子(ふゆこ)が細い指で払った。 「桜子様のことを想っておったのであろう」  葛の端正な横顔は、そうだと正直に答えている。女にしては怜悧に過ぎる顔容(かんばせ)ではあるが、これが実は男のものだとは織田島家に仕える者誰一人気付かぬことであった。主筋で知るのはこの芙由子と、兄であり今の三条橋家当主である道実(みちざね)のみである。 「まことに、桜の精と見紛うばかりの、お美しい方であった」  先の当主であり葛の母桜子の兄である師実と、道実兄妹とは従兄妹同士にあたる。道実の父は師実の異母弟で分家を起こしていたが、八年前の師実の急死に伴い、道実が新たに三条橋宗家を継いでいた。ともすれば一族もろとも京の魑魅魍魎(ちみもうりょう)に呑まれても仕方のないところであったが、若い道実は方々に顔が利き、また官僚としての能力も師実より遥かに優れていたために、何の差し障りもなく継承が行われたのであった。 「芙由子様は、犀川へ嫁ぐ前の母をご存知でございましたか」 「たった数度しかお目もじは叶わなんだ。わらわはまだ幼く、しかも大原に近い山中の荒れ寺で暮らしておった故のう。いや、ほんの一度お会い致すだけでもあの美貌の虜となろう。それほどにお美しかった。亡き師実様など、花の頃になると屋敷の桜の下に佇まれ、桜子様の名を何度もうわ言のように……」 「悪し様に言われた事でしょう」 「いいえ。あれは囚われ人の姿、桜子様への思慕に」  芙由子はそっと葛の手を取った。 「ほんに美しい。織田島家中の男達が振り向かずにおれぬは、道理じゃ。歩く腰つきなど、どこからどう見ても女子じゃ。悪い虫がつかぬかとハラハラ致すほどにな」 「奥方様、お戯れを」  いかに美しく女に化けようとも、その傷だらけの手だけは隠しようがなかった。忍の修行を積んでだあろうその手を、芙由子はそっと両手で包み込み、胸元に抱き寄せた。 「許されよ。歴とした忍の男であるそもじに、このような形をさせてしまうこと。それどころか、犀川家と我が三条橋の血筋でありながら……」 「奥方様、そのお話はもう。私は藤森市蔵に拾われた孤児、忍の端くれに過ぎませぬ」 「葛」 「師・市蔵こそが、私の父と思うておりまする。故に、長年お仕えして参った三条橋家御姫君の危急のために、我が藤森一門が命をかけるは当然の儀にござります」  そう言いながらも、伏せる葛の目元は、やはりどこか兄道実に似ている。切れ長の目尻にこうも長い睫毛さえなくば、華奢に通った鼻筋の下に桜色に染まるふっくらとした唇がなくば、弟と申しても余人は疑うまい。 「辛くはないか。15といえば、武家なれば嫁御をもろうておる年頃じゃ」 「嫁御どころか、このところ紅を忘れると落ち着きませぬ」 「まぁ」 「芙由子様こそ、可愛い盛りの若君様を人質に出さねばならぬこと、穏やかではございますまい」  黒々とした大きな瞳を曇らせて、芙由子が頷いた。 「殿は澪丸を嫌うておられる。あの蛇のような冷えた目で我が子を見下す様は、父のそれとは到底思われぬ」 「お控えくださりませ、どこに耳目があるかわかりませぬ」  三条橋家の娘たちは皆、亡き師実と道実という二人の当主の命により、その殆どが都にほど近い領地を持つ大名家に嫁していた。しかし度重なる戦乱で、芙由子の腹違いの姉たちも従姉妹たちも、あっけなく命を落としていた。芙由子とて、8年前にこの織田島家に人質同然に嫁がされ、置物のようにこの清洲の二の曲輪の端に追いやられていた。  この時、織田島宗近には、芙由子が産んだ嫡子・澪丸(みおまる)の他に、地侍の娘が産んだ次男と三男があった。宗近の側近くで養育されている次男らと異なり、澪丸はこの屋敷で芙由子と葛の手で育てられ、家中の者からも遠ざけられていた。  芙由子がこの織田島家に輿入れをする際、三条橋家からの一切の奉公人を織田島方が拒んだ。猜疑心の強い宗近が、公家に内情が筒抜けになることを嫌った為である。そこで兄道実が一計を案じ、身の回りの世話をさせる女童という触れ込みで、まだ七歳であった葛を女童に仕立て、輿入れに同行させることを織田島方に呑ませたのであった。代わりにと言い迫った条件は、織田島宗近の官位であった。 「従五位の下(じゅごいのげ)尾張守(おわりのかみ)、この名を手にいたさば、持参金とてない貧乏公家の娘に用はない。ただ一度義務を果たすべく閨を強いられ、人として扱われたことなどない。人形が生んだ息子なのだから、見向きもされなかろうと、むべなるかな……」 「いいえ、若は御正室のお子、三条橋の血を引く歴とした御嫡子にござります」  力強く言葉を継ぐ葛に、芙由子は沈んだ表情で首を振った。 「それだけではない。殿が澪丸を(いと)うはの……月を、月を抱く子である故じゃ」 「月、とは」  桜に向けた芙由子の呟きの意味を葛が問いかけようとした時、まだ前髪姿の少年が芙由子めがけて駆け寄ってきた。 「母上」  少年は芙由子の背中に体当たりし、香を焚き込めたその絹地に顔を埋めた。 「まあ澪丸、お行儀の悪い」  母の顔で微笑み、芙由子は息子に向き直ってその幼い体を抱きしめた。僅か7歳の息子は、明日にでも隣国美濃との県境を脅かす油井家へと人質に出されることとなる。仇敵とも言える油井家に、織田島家の嫡男である澪丸をなぜ出さねばならぬかと、この時ばかりは芙由子も談判したが、宗近は全く意に介すこともなく話を決めてしまったのであった。 「母上、一生懸命努めてまいります故、泣かないでくださりませ」  母の腕の中から、澪丸が健気に笑った。芙由子から憂いを取り払って幼くしただけのような、黒々と輝く大きな瞳が印象的である。 「心配などしてはおりませぬよ。葛が付き従うてくれますもの」  初めて聞く言葉に、葛は思わず声を上げた。澪丸もまた、驚いた様子で葛と母の顔とを見比べている。 「しかしながら、それでは奥方様が」 「案ずる事はない。油井家は尾張の国司でありながら美濃の土岐家と気脈を通じ、この織田島を滅ぼそうと狙っておる。かような鬼の住処へ大切な息子を一人でなどやれるものか」 「然様にはござりますが、私は……」 「後生じゃ、葛。澪丸の側にいてやっておくれ、この私の代わりに。何があろうと必ず守ってたも、可愛がってやってたも」  命ある限り付き従え、そういう命である。葛は全てを呑み込み、静かに跪いた。 「どうかお手を。私のこの命、これよりは澪丸様にお捧げいたしましょう」 「おお、聞き届けてくれるか……兄がそなたを私につけてくれた事、ただ一つの救いであった。情の薄い公家に生まれた私が、初めて家族を得たような心持ちであったのじゃ」 「勿体なきお言葉。奥方様のお優しい真心無くば、私などとうに……」 「人斬り獣に成り果てていたとでも申すか。その美しい己の姿を見てみよ、血筋は争えぬ。京仕込みの自慢の妹じゃ。私の凍った心を温めてくれた優しい妹じゃ」  笑いながらも一瞬、芙由子の瞳に死の影が走ったのを葛は見逃さなかった。その覚悟をしかと受け取りつつも、葛は澪丸に悟られぬよう笑顔のまま、微かに頷いて応えた。 「姉上、嫁に行くのはきっぱりと諦めましょう」  葛にしては軽口を言い、芙由子と澪丸が顔を見合わせて笑った。  数日後、澪丸は葛のみを従い、清洲城を後にした。ただ一人の見送りもない、孤独な旅立ちであった。  その日、二の曲輪では芙由子が自ら命を絶った。息子を蔑ろにしたことへの恨みも、三条橋家の血筋を利用されただけの悲しみも、夫に対して何一つ言い残すことなく、懐剣で頸部を絶ったのであった。  葛がその死を知ったのは、油井(ゆい)家の領地に入る直前の休息の地であった。宿の主人に因果を含め、馬での旅路に疲れた澪丸を暫し部屋にて横たえ、藤森の下忍に見張り命じ、葛は小袖に裁着袴という軽装で山地に分け入った。 「葛よ」  約束通りの場所で、葛は足を止めた。ケヤキの大木の陰には、葛より一回りは裕にあろうかという体つきの大男が待っていた。 「碤三(えいぞう)」  その男は藤森碤三(ふじもりえいぞう)。葛より幾らか年嵩ではあるが、戦乱でただ一人焼け出されたところを藤森市蔵に拾われ、共に修行に明け暮れた仲であった。特に葛が芙由子に付き従ってからというもの、城中での密かな稽古相手は、この男が務めていた。 「芙由子様、身罷ったぞ」  やはり、と葛は頷き、そっと手を合わせて回向をした。 「きっとそうではないかと」  別れ際の芙由子の表情には、確かに死の決意があった。弔いもできぬ事を、手を合わせたまま葛は心の中で詫びた。 「お前達を送り出してすぐ、懐剣で自害なされた。手の者によると、まるで眠っているかのような美しいお顔だったそうだ」  瞑目し、葛は芙由子の残像に改めて澪丸を守ると誓った。 「おいたわしい事だが、これで宗近は三条橋家の血筋でもある澪丸様を粗略には扱えぬ。御一命を捨てて、お子を守られたのだ」  男の声音で断言する葛がまとう女物の小袖の袂を、碤三が摘み上げた。 「良いのか、いつまでもこんな形で。油井家はちょっとした火薬庫だ、戦いにくいだろう。まぁ俺はその姿も好きだけどさ、どんな女より美しいし、愛想がないのが玉に瑕だが」 「ねぇ、紅が剥げちゃったかもぉ」  葛が唇を差し出して薬指でゆっくりとなぞってみせると、碤三がごくりと生唾を呑み込んだ。 「お、おまえ、油井家でその、襲われるぞ、いろんな意味で」 「ちゃんと女に見えるかな」 「ていうか、我慢できねぇ、今すぐ襲いたい」 「阿呆……これも、芙由子様が私に残して下された立派な武器だ」  無意識に、碤三の指先が葛の頰を撫でていた。月明かりの下ではよく見えぬが、微かに一筋濡れた跡があった。 「別れは済んだのか」 「元より予感はあった。お前の顔を見たときにはもう、別れは済ませていたよ」 「因果だな、おまえも」  抱きしめようとした碤三の腕の中からするりと抜け出し、葛は間合いを取った。 「暫くはこの形で通す。何かと便利だし、男共は何でも秘密を話してくれる」 「ああ、その似合わぬ男言葉も痺れるぜ。秘密どころか全て差し出してもいい……」  身じろぎもせぬままに、葛が碤三の頰めがけて礫を飛ばした。 「阿呆」 「まあまあ。しかしそうまでして、あのクソ公家の為に働く価値があるのかね。お頭も、大名同士の泥仕合に首をつっこむなと仰せだ」 「元を正せばお頭の、私の母への思慕から始まったことだ、何を今更……伝えてくれ、私はどこまでも澪丸様についていくと。母と、芙由子様との約定だと」  それだけ言い放つと、尚の反言を許さぬとばかりに葛は歩き出した。 「待てよ」  ひらりと、碤三がその行く手を塞ぎ、葛の(おとがい)に指をかけた。 「本当にいい女だよなぁ」 「その話は終わった」  碤三の腹に懐剣の(こじり)を打ち込もうとする前に、碤三はトンボを切って逃げた。十分に間を取ると、スラリと抜いた両刃刀を頭上に掲げ、碤三は不敵に笑った。 「ここんとこ暇だったからよ」 「勝手なことを」  面倒臭そうに舌打ちをし、葛は構わず踏みこみざまに懐剣を引き抜いて薙いだ。余裕げに交わした碤三の鼻っ柱めがけて小袖の袂から(つぶて)を見舞うと、碤三は楽しそうに笑い声をあげながらそれらを全て弾き飛ばした。 「あ……」  尚もからかおうと口を開いたまま、碤三は動きを止めた。既に背後に回っていた葛の切っ先がその太い首筋に食い込もうとしていたのである。 「遅いな。修行の手を抜いたか」 「わ、わかった、降参だ、降参」 「私は今、こんなおふざけをしている気分ではない」  ぐいと力を込めると、碤三の首の皮が微かに裂けた。 「澪丸様と私を、無事に多治見(たじみ)城まで送れ。確かにこの形で大立ち回りともいくまいからな。お頭にもそう伝えろ」 「入れ込みすぎだろ。お頭に叱られても知らねぇよ」 「抜け忍になっても、私は澪丸様を守る。芙由子様の御遺命に背く訳にはいかぬ」 「一応藤森衆の跡目候補なんだぜ、おまえも」  まだ懐剣を食い込ませたままの葛の手を、碤三が優しく握った。 「……聞かなかったことにしておこう、さっきの言葉は」 「へえ、私が女なら惚れてるよ、碤三」 「女じゃなくても、おまえなら大歓迎だ」 「馬鹿」  ふっと苦笑して懐剣を仕舞った葛は、そっと碤三の首筋に滲み出た鮮血を舐めた。 「お頼み申しましたよ、碤三様」  耳元で吐息交じりに女声で囁かれ、ピクリと体を震わせた碤三が振り向いた時、葛の姿はもはや消えていた。 「おっとぉ……」  葛の舌の感触を思い出しながら、碤三は首筋を撫でた。 「聞こえたな。俺たちはあいつを守るぜ。いや、俺が守る」  一斉に木々がざわめいた。多治見城までの街道を固める為に配下が散っていった気配を確かめ、碤三もゆるりと歩き出したのであった。             
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