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その違和感に首を傾げかけた時、入江が先に口を開いた。
「……体調気つけるんやで」
「うん、赤ちゃんのために気をつける」
「それもやけど、椎葉も身体気をつけなあかんで。すぐ無理するから」
そう言われると耳がじんと熱く痺れた。
入江は私が落ち込んでいる時、非常階段でよく慰めてくれた。
時には大げさに自分の失態を話したり、ある時は優しい声音で励ましてくれて。
会社を辞めなかったのは、入江がいてくれた部分がかなり大きい。
会社に来なくなると、入江ともなかなか会えなくなるだろう。
寂しさと悲しみで胸が苦しくなる。
私が唇を噛むと入江がはぁとため息をついて前髪を掻き上げてくしゃりと握った。
「あかんわ。なんか、顔見たらやっぱり感傷的になるな」
「入江……苦しかった時支えてくれて、本当に助けられた。ありがとうね」
「こちらこそ。椎葉のおかげで俺も頑張れた。なかなかそういう信頼できる相手はおらんから」
ふたりで笑みを交わす。でも、それもすぐに萎んで自然と俯いてしまう。
次の言葉が出てこない。
親友は雪乃ちゃんで同志と呼べるのは入江だった。
私たちの関係性が変わることはないけれど、今までどおりにはいかないのも事実。私には家族ができて、それを最優先にしていく。今までのようにはいかない。
その時、肩に手を置かれた。
見上げたら、入江が真剣な面持ちで私を見つめている。
「ほんまにしんどい時は連絡してこいよ。俺がなんとかしたる」
その眼差しと声の真摯さにドキッとした。こんな顔した入江は初めてだったから。
彼は私が答える前に一歩下がり、手を挙げた。その顔はキツネのように飄々としたいつもの入江だった。
「ほなな。風邪引くなよ」
「あ、ありがとう!」
私の声に彼は大股で廊下を歩きながら手をひらひらさせた。
そして、非常階段に続く鉄扉を押して出ていく。
しばらく、私はその場で佇んで非常階段の扉を見つめていた。
もうあそこで入江と秘密の愚痴りあい大会をすることがないと思ったら、しんみりしてしまう。
「美波」
「わっ!?」
ぼうっと突っ立っていたらすぐ後ろで声がして驚いて飛び跳ねる。
振り返ったら、ケイが立っていてさらに私は目を丸くした。
「い、いつからそこに?」
「ちょっと前から。今回だけ敵に塩を送ってやった」
「敵?」
「帰るぞ」
彼は私の手から人事部のみんなと入江からもらった紙袋を取り、踵を返す。
私は彼の後にとことこと続いた。
「もう帰ってもいいの?」
「仕事納めだからな。もう急ぎの仕事もないし、俺が残ってたら他の社員が帰りにくい」
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